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欲求と欲望
欲望と欲求。

似ているようだが、少し違う。

欲求は、人間以外の動物も

もっている。

生存するために必要な本能だ。

これが満たされない場合

欲求不満となる。

だが、何かしらの方法、

例えば、食欲を満たされないので

あれば、食事を食べれば

その欲求は満たされる。

というように、

上限の差はあれ必ず満たされる

ようになっている。

お腹一杯食べたら、

それ以上たべられないように。

一方の欲望も、生きる為に必要な

本能の一部分であることには

変わりは無いが、

欲求とは大きく異なることがある。

それは、欲望には、

際限がないことである。

さっきの例で言えば、

たしかに、食べられる量には

限界がある。

しかし、何を食べるのか、

それをどのように食べるか

いつ食べるかには

いく通りもの方法があり、

食べ物や、食べ方の行為の質を

高めていくことには限りがない。

従って、欲望とは、

満たされることのない望み

なのだ。

欲望が満たされた時点で、

すでに新たな欲望が沸き起こる。

欲望は無限のエネルギーを

人間に与えてくれる。

それが良い結果をもたらす

こともあれば、

悪い結果をもたらす場合もある。

欲望を如何にコントロールするか、

それが人間の質を決定する。

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九龍城砦
九龍城砦というものをご存知だろうか?

九龍城砦(クーロンじょうさい)とは、

現在の香港・九龍の九龍城地区に、

建てられていた高密度に立てられた高層ビル群からなる
巨大なスラム街のことである。

現在では一部を残し解体されてしまっている。
九龍城と呼ばれることも多い。

正式名称は『九龍寨城』と言い、
これは1994年に当時のイギリス・香港政庁が行った
構造物解体時に廃棄物の中から発見された
石製の大きな表札から判明した。

そう、元はその名のとおり、砦だったのだ。

その起源は宋の時代にまで遡り、
その当時付近で産出される塩や香木及び
それらを輸出する際の積出港を海賊や
諸外国の攻撃から守るために作られた砦であったのである。

これを証明するように解体時に
砦時代の大砲の砲身なども見つかっている。
現在では貴重な文化財として
九龍寨城公園内の資料館に保管されている。

九龍城砦は一目見てもわかるとおり特異な建築物である。

日本でもよく見られる集合団地が
隣のビルと隙間を空けずにびっしりと建てられている。
下手をすると隣のビルと壁を共有しているものまでもある。

その外観は美しい建築物とはお世辞にもいえないのだが、
その廃墟のような姿に魅力を感じてしまう人も多いようだ。

かくいう私もその一人である。
また、その特殊な構造物を研究している人も多い。





さて、そんな九龍城砦なのだが、
世間一般ではあまりよく思われていなかったらしい。

いわく、麻薬や賭博、
人身売買がはびこる悪の巣窟であるとか、
無法地帯であるとか。

たしかに、1950年代から60年代にかけて
そのようなことがあったのは事実らしい。

実際、九龍城砦は無法地帯であった。

先ほども書いたが、
かつては本物の城砦があり、
清朝の役人や兵隊が駐屯していた。

1899年にこの一帯が中国から英国へ租借された時、
九龍城砦だけはいわば飛び地の中の飛び地のような存在として、

香港の中にあってここだけが中国領として残されたのである。

だから香港=英国の法律はここには及ばず、
香港警察も内部に立ち入ることができなかった。

一方で、まわりを英国軍に囲まれた清朝の兵隊は
ほどなくここから逃げ出してしまい、

国民党政権も戦後の共産党政権も九龍城砦に役人を派遣せず、
中国の法律も及ばなかったため、

どこの国の法律も適用されない

「無法地帯」

となったのである。

そして、戦後、
大陸からの難民が香港へ殺到すると、
城砦内の建物も次々と高層ビルに建て替えられ、
多くの人によく知られる高密度高層スラムへと変貌をとげたのである。




上記で見たように九龍城砦は無法地帯であった。
このことと建物の構造は非常に関係がある。

なぜなら、建築法がないため、
ここの住民たちは好き勝手にこの建物を改築、
増築、建て増しすることができたからだ。

その結果として、超過密な構造物が出来あがった。

日照権を無視するかのように、
昼間なのにまったく日が差さないところや、

日の差さない部屋、
窓のない部屋というのは当たり前であったし、

電気や上下水道なども整備されていなかったため
住民たちはあちらこちらから水道や電気を引いてきていて、
それらのパイプ類は隠されることもなく
建物内の廊下の天井を伝っている。

建物と建物の間に隙間がないので、
水道管や下水管、電線や電話線、
テレビの共同ケーブルはこうやって配線するしかないようだ。

もちろん正しく機能しているものばかりではなく、
水や汚水が漏れて通行不能になっていたところもあったようである。

また九龍城砦の近くには空港があり、
その一帯の建物は最大五階までという
高さ規制を受けていたのだが、
無法地帯である九龍城砦の住民がその法律を守るわけもなく
最大で十五階層からなる巨大建築郡となってしまった。

その天井にはテレビのアンテナが所狭しと並べられており、
またその構造上きわめて隣接しているため、
構造物から構造物へと移動する通路としても利用されたようだ。

こんなあまり住むのに快適とは思われない九龍城砦だが、
多くの人が住んでいた。

最大時には約3ヘクタールの敷地に
5万人もの人が住んでいたといわれている。

1平方キロメートルあたりの人口密度に直せば
約160万人で、

畳1枚分の土地に
5人が暮らすという超過密エリアだった。

また、ここに住む住人たちの結束は強かった。
警察が介入できないため
自分たちで自警団を作り治安を守っていた。

住民の話によると
黒社会の連中も住民には悪さをしなかったらしい。
世間で思われていたよりは治安は良かったようだ。

これまで見てきたことから考えるに、

九龍城砦はそこに住む住民たちが
自らの手で自分たちの住みよいように
構造物を変化させていった結果できあがった構造物であり、

法が及ばないことによって、
(それによって生じる不自由や不便はあるものの)
独自の形態を持つにいたったのだと考えられる。

それは人間の本来持っている
原始的な欲求や欲望を感じさせる。

使っている素材や方法は違うものの、
自分たちの手で居住君間を作り、
住みよい形に変貌させていこうとするさまは、
そこで生活していこうとする
人間たちの本能的な欲求が建物全体
からにじみ出ているような気さえする。

この無法状態という
現在の世界情勢では考えられない特殊状況下における
人間が作った建造物として非常に価値がある建造物である。

現在、実際にこの目で見ることがかなわないのが残念である。

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「私」
今まで自画像をテーマに制作し続けてきたが、
未だに「私」というものが、わからないままでいる。
「在る」のか「無い」のか、それすらも曖昧だ。

だが、最近少し「私」の正体が
つかめてきたような気がするのだ。

「私」の最小単位は
一個体としての肉体の範囲でしかない、
さらに言えば個人の意識のみであるといってもいい。

つまり、誰ともつながっていない状態、孤独である。

特に、肉体的に苦痛を感じているときや、
精神的に悩み「私のことは、誰も理解してくれない」
そう思っているときこそ人は、「私」を強烈に意識する。
「何故、私だけが…」と自分の苦しみを
理解してくれない他者との距離を強く感じてしまう。

たしかに、人はお互いのことを完全に
理解しあうことは不可能であり、
その点では完全に孤独な一人の人間に過ぎない。

しかし、完全に分かり合うことが
できなくても、他者と
気持ちが一つになる瞬間はある。

例えば、集団でするスポーツなど、
みんなで共有の目標があると、
その集団で一つの意志の塊のようになる瞬間がある。

そのときなどは単に一個人である
「私」を超えている、
もしくは「私」が消え去っている
といってもよい。

つまり「私」とは、どこまでも拡張できる概念なのだ。


その瞬間こそ個人の力をはるかに超えた
大きな力が生まれる。

チュニジアやエジプトでの革命も、
このような人々意思のつながりが
もたらした力であろう。

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グローバルとローカル
ここ最近の流れとしてアートに限らず
世界的に地域固有の文化の独自性を
押し出す傾向があります。

たとえば、日本では日本文化の固有性を
押し出すことで世界に日本の存在を
アピールしています。

このような傾向が強まってきた背景には、
もちろん国際化(グローバリズム)があるといえます。
これは極端な言い方をすれば、
地域間の格差や差異を失くし、
均質化することだと考えられます。

わかりやすい例で言えば、
世界中どこにでもあるマクドナルドや、
コカコーラなどがあります。

もしかしたらトヨタなどの
日本車もそうかもしれません。

つまり、どこに行っても同じような機能を持った
都市が広がる風景になるということではないでしょうか。

機能的に見れば、便利、快適であること
この上ないですが、旅する喜びは無くなりそうですね。

そういう流れに対する、
反動として地域固有の文化の重要性を主張する動きが生まれ、
それが最近の愛国心(ナショナリズム)を強調するような
流れにつながっているのではないかと思います。

たしかに、どこへ行っても同じような風景、
文化が広がっていくことに関しては、
私も危機を感じます。

過去にも欧米の文化の侵略によって滅びた文化、
文明が数多くあります。

それらの滅んだ文明も単に文化的に
劣っていたから滅んだのではなく、
優れた考え方、文化体系を持っていた可能性もあります。
 
しかし、地域の固有の文化をどこに感じるのか、
またその起源をどこにおくのか、
という点においては、
各人各様で異なるのではないでしょうか。

日本の場合だと「マンガ」こそ
日本文化であると主張し、それを押し出す人もいれば、
「もののあはれ」といった自然の感じ方、
自然との接し方こそが日本の独自性なのだと
主張する人もいるということです。


どちらも間違いではないでしょう。


ですが、その先には何があるのでしょうか。

 
昔「日本は単一民族国家だ。」と発言して
アイヌの方などから反感をかった政治家がいました。

日本は平安時代にはすでに国際都市であり、
様々な外国人が訪れています。

この事実から、いろいろな人種の血が混ざって
今の日本人を形作っていると考えるのが妥当なのです。

従いまして、文化も同様さまざまなものが
混じりあいながら形成されたものであると思います。

たしかに、日本には他の地域には見られないものや、
独自の発展を遂げたものは数多くあり、
それは素晴らしいことですが、
純粋に日本だけで出来上がったものなど殆ど無いはずなのです。

固有(地域独自の文化)を突き詰めれば、
誰も理解できないものとなり、

共有(文化の国際化)だけを求めれば
みんな同じに様な格好、思考となり、
それはそれで気持ちの悪い世界が出来上がる。

そのさじ加減をどうするか、
何処で折り合いを付けるのかは、
難しい問題です。

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脳と身体
大雑把に言えば、心身二元論とは、
心(精神)と肉体を別個のものとして考えようとする、
西洋哲学の思想一つです。

心身二元論は
自分を規定するのは精神活動で、
肉体というのは精神に付随しているものに
過ぎないという
ある種の唯脳的な思想です。

例えば、外科的な手術をして、
肉体を切り離した(例えば、腕や足を切断)としても、
自分であること、すなわちアイデンティティーは、
なんら揺るぐことは無いという姿勢です。

つまり、人間の活動の中で最も高尚なのは、
精神活動である、
という考えだともいえます。





そして、昨今話題の脳科学というのは、
この近代以降蔓延している、この唯脳的な姿勢に対する
アンチテーゼのような役割を果たしているといえるでしょう。

なぜなら、人間の精神や、思考こそが、
人間の活動において最も重要なものであるとの幻想を、
脳内で起きる一物質による化学反応に過ぎないと暴露したからです。

このことを人間の精神構造や
心のメカニズムまで解明してしまう危ない動きだ、
と反応する人たちもいますが、
それは少し違います。

そのことも脳科学は解き明かしています。
脳科学の研究者によると、人間の脳というのは
単なる計算機に過ぎないらしいのです。
ただ、入ってくる情報の好き嫌いはあるらしい。

この好き嫌いには個人差があります。
それによって均一に流れてくる大量の情報郡に
バイアス(好き嫌いで情報に優劣を付けることで
情報の処理速度が上がるらしい)をかけ、
最終的に快か不快かを判定する情報処理機、
要はコンピューターです。

つまり、脳から精神や心が発生するメカニズムや、
その所在は、まだはっきりとわかっていないのです。





おそらく、近代都市に生きる多くの人々は、
脳科学などの最新の科学知識もある程度理解していながら、
まだ心身二元論的な思考を持って生きています。

なぜなら、我々は自分の肉体はわずかながらでも
日々変化しているにも関わらず、
昨日の自分も今日の自分も揺ぎ無く
同じ自分である
と思い込んでいるからです。

また、科学技術の発展に伴い
便利さや快適さを追求した結果、
人間は自らの肉体をどんどん使わなくなりました。

例えば、歩行や走ることから、
自転車、そしてバイクや自動車へと移行する
交通手段の変遷を見てもわかります。

同じ距離の目的地に行く場合、
歩いて行くのと、
自動車で行くのとは、
肉体を使う部位や肉体的負担に大きく差があり、
自動車で行く場合では、目的地に行く時間も、
それにかかる肉体的負担はより少なくなります。

つまり、文明が発達し都市化が進む
現代は脳から発生した欲求を
満たすためにかかる時間も、
肉体的負荷も限りなく少なくする方向
に進んでいるといえるでしょう。





私自身は、精神と肉体を分けて考えることには反対です。
なぜなら、肉体の伴わない精神や、
心など存在しないからです。

かといって、脳内の化学反応のみで
人の心や精神が語れるとも思っていません。

精神が肉体に影響を与えるように、
肉体の状態もまた、精神に影響を与えます。

お互い相互依存的な関係にあるのだと思います。

だから単純に、
精神活動と肉体の活動とをわけ、
脳の欲求を満たすことを優先する

現代都市文明というのは、
生物として人間を捉えたときに
やばい方向にむかっている気がしてなりません。



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