欲求と欲望
March 28,2011
欲望と欲求。
似ているようだが、少し違う。
欲求は、人間以外の動物も
もっている。
生存するために必要な本能だ。
これが満たされない場合
欲求不満となる。
だが、何かしらの方法、
例えば、食欲を満たされないので
あれば、食事を食べれば
その欲求は満たされる。
というように、
上限の差はあれ必ず満たされる
ようになっている。
お腹一杯食べたら、
それ以上たべられないように。
一方の欲望も、生きる為に必要な
本能の一部分であることには
変わりは無いが、
欲求とは大きく異なることがある。
それは、欲望には、
際限がないことである。
さっきの例で言えば、
たしかに、食べられる量には
限界がある。
しかし、何を食べるのか、
それをどのように食べるか
いつ食べるかには
いく通りもの方法があり、
食べ物や、食べ方の行為の質を
高めていくことには限りがない。
従って、欲望とは、
満たされることのない望み
なのだ。
欲望が満たされた時点で、
すでに新たな欲望が沸き起こる。
欲望は無限のエネルギーを
人間に与えてくれる。
それが良い結果をもたらす
こともあれば、
悪い結果をもたらす場合もある。
欲望を如何にコントロールするか、
それが人間の質を決定する。
「私」
February 14,2011
今まで自画像をテーマに制作し続けてきたが、
未だに「私」というものが、わからないままでいる。
「在る」のか「無い」のか、それすらも曖昧だ。
だが、最近少し「私」の正体が
つかめてきたような気がするのだ。
「私」の最小単位は
一個体としての肉体の範囲でしかない、
さらに言えば個人の意識のみであるといってもいい。
つまり、誰ともつながっていない状態、孤独である。
特に、肉体的に苦痛を感じているときや、
精神的に悩み「私のことは、誰も理解してくれない」
そう思っているときこそ人は、「私」を強烈に意識する。
「何故、私だけが…」と自分の苦しみを
理解してくれない他者との距離を強く感じてしまう。
たしかに、人はお互いのことを完全に
理解しあうことは不可能であり、
その点では完全に孤独な一人の人間に過ぎない。
しかし、完全に分かり合うことが
できなくても、他者と
気持ちが一つになる瞬間はある。
例えば、集団でするスポーツなど、
みんなで共有の目標があると、
その集団で一つの意志の塊のようになる瞬間がある。
そのときなどは単に一個人である
「私」を超えている、
もしくは「私」が消え去っている
といってもよい。
つまり「私」とは、どこまでも拡張できる概念なのだ。
その瞬間こそ個人の力をはるかに超えた
大きな力が生まれる。
チュニジアやエジプトでの革命も、
このような人々意思のつながりが
もたらした力であろう。
グローバルとローカル
February 12,2011
ここ最近の流れとしてアートに限らず
世界的に地域固有の文化の独自性を
押し出す傾向があります。
たとえば、日本では日本文化の固有性を
押し出すことで世界に日本の存在を
アピールしています。
このような傾向が強まってきた背景には、
もちろん国際化(グローバリズム)があるといえます。
これは極端な言い方をすれば、
地域間の格差や差異を失くし、
均質化することだと考えられます。
わかりやすい例で言えば、
世界中どこにでもあるマクドナルドや、
コカコーラなどがあります。
もしかしたらトヨタなどの
日本車もそうかもしれません。
つまり、どこに行っても同じような機能を持った
都市が広がる風景になるということではないでしょうか。
機能的に見れば、便利、快適であること
この上ないですが、旅する喜びは無くなりそうですね。
そういう流れに対する、
反動として地域固有の文化の重要性を主張する動きが生まれ、
それが最近の愛国心(ナショナリズム)を強調するような
流れにつながっているのではないかと思います。
たしかに、どこへ行っても同じような風景、
文化が広がっていくことに関しては、
私も危機を感じます。
過去にも欧米の文化の侵略によって滅びた文化、
文明が数多くあります。
それらの滅んだ文明も単に文化的に
劣っていたから滅んだのではなく、
優れた考え方、文化体系を持っていた可能性もあります。
しかし、地域の固有の文化をどこに感じるのか、
またその起源をどこにおくのか、
という点においては、
各人各様で異なるのではないでしょうか。
日本の場合だと「マンガ」こそ
日本文化であると主張し、それを押し出す人もいれば、
「もののあはれ」といった自然の感じ方、
自然との接し方こそが日本の独自性なのだと
主張する人もいるということです。
どちらも間違いではないでしょう。
ですが、その先には何があるのでしょうか。
昔「日本は単一民族国家だ。」と発言して
アイヌの方などから反感をかった政治家がいました。
日本は平安時代にはすでに国際都市であり、
様々な外国人が訪れています。
この事実から、いろいろな人種の血が混ざって
今の日本人を形作っていると考えるのが妥当なのです。
従いまして、文化も同様さまざまなものが
混じりあいながら形成されたものであると思います。
たしかに、日本には他の地域には見られないものや、
独自の発展を遂げたものは数多くあり、
それは素晴らしいことですが、
純粋に日本だけで出来上がったものなど殆ど無いはずなのです。
固有(地域独自の文化)を突き詰めれば、
誰も理解できないものとなり、
共有(文化の国際化)だけを求めれば
みんな同じに様な格好、思考となり、
それはそれで気持ちの悪い世界が出来上がる。
そのさじ加減をどうするか、
何処で折り合いを付けるのかは、
難しい問題です。
脳と身体
February 5,2011
大雑把に言えば、心身二元論とは、
心(精神)と肉体を別個のものとして考えようとする、
西洋哲学の思想一つです。
心身二元論は
自分を規定するのは精神活動で、
肉体というのは精神に付随しているものに
過ぎないという
ある種の唯脳的な思想です。
例えば、外科的な手術をして、
肉体を切り離した(例えば、腕や足を切断)としても、
自分であること、すなわちアイデンティティーは、
なんら揺るぐことは無いという姿勢です。
つまり、人間の活動の中で最も高尚なのは、
精神活動である、
という考えだともいえます。
そして、昨今話題の脳科学というのは、
この近代以降蔓延している、この唯脳的な姿勢に対する
アンチテーゼのような役割を果たしているといえるでしょう。
なぜなら、人間の精神や、思考こそが、
人間の活動において最も重要なものであるとの幻想を、
脳内で起きる一物質による化学反応に過ぎないと暴露したからです。
このことを人間の精神構造や
心のメカニズムまで解明してしまう危ない動きだ、
と反応する人たちもいますが、
それは少し違います。
そのことも脳科学は解き明かしています。
脳科学の研究者によると、人間の脳というのは
単なる計算機に過ぎないらしいのです。
ただ、入ってくる情報の好き嫌いはあるらしい。
この好き嫌いには個人差があります。
それによって均一に流れてくる大量の情報郡に
バイアス(好き嫌いで情報に優劣を付けることで
情報の処理速度が上がるらしい)をかけ、
最終的に快か不快かを判定する情報処理機、
要はコンピューターです。
つまり、脳から精神や心が発生するメカニズムや、
その所在は、まだはっきりとわかっていないのです。
おそらく、近代都市に生きる多くの人々は、
脳科学などの最新の科学知識もある程度理解していながら、
まだ心身二元論的な思考を持って生きています。
なぜなら、我々は自分の肉体はわずかながらでも
日々変化しているにも関わらず、
昨日の自分も今日の自分も揺ぎ無く
同じ自分である
と思い込んでいるからです。
また、科学技術の発展に伴い
便利さや快適さを追求した結果、
人間は自らの肉体をどんどん使わなくなりました。
例えば、歩行や走ることから、
自転車、そしてバイクや自動車へと移行する
交通手段の変遷を見てもわかります。
同じ距離の目的地に行く場合、
歩いて行くのと、
自動車で行くのとは、
肉体を使う部位や肉体的負担に大きく差があり、
自動車で行く場合では、目的地に行く時間も、
それにかかる肉体的負担はより少なくなります。
つまり、文明が発達し都市化が進む
現代は脳から発生した欲求を
満たすためにかかる時間も、
肉体的負荷も限りなく少なくする方向
に進んでいるといえるでしょう。
私自身は、精神と肉体を分けて考えることには反対です。
なぜなら、肉体の伴わない精神や、
心など存在しないからです。
かといって、脳内の化学反応のみで
人の心や精神が語れるとも思っていません。
精神が肉体に影響を与えるように、
肉体の状態もまた、精神に影響を与えます。
お互い相互依存的な関係にあるのだと思います。
だから単純に、
精神活動と肉体の活動とをわけ、
脳の欲求を満たすことを優先する
現代都市文明というのは、
生物として人間を捉えたときに
やばい方向にむかっている気がしてなりません。