February 14,2011
今まで自画像をテーマに制作し続けてきたが、
未だに「私」というものが、わからないままでいる。
「在る」のか「無い」のか、それすらも曖昧だ。
だが、最近少し「私」の正体が
つかめてきたような気がするのだ。
「私」の最小単位は
一個体としての肉体の範囲でしかない、
さらに言えば個人の意識のみであるといってもいい。
つまり、誰ともつながっていない状態、孤独である。
特に、肉体的に苦痛を感じているときや、
精神的に悩み「私のことは、誰も理解してくれない」
そう思っているときこそ人は、「私」を強烈に意識する。
「何故、私だけが…」と自分の苦しみを
理解してくれない他者との距離を強く感じてしまう。
たしかに、人はお互いのことを完全に
理解しあうことは不可能であり、
その点では完全に孤独な一人の人間に過ぎない。
しかし、完全に分かり合うことが
できなくても、他者と
気持ちが一つになる瞬間はある。
例えば、集団でするスポーツなど、
みんなで共有の目標があると、
その集団で一つの意志の塊のようになる瞬間がある。
そのときなどは単に一個人である
「私」を超えている、
もしくは「私」が消え去っている
といってもよい。
つまり「私」とは、どこまでも拡張できる概念なのだ。
その瞬間こそ個人の力をはるかに超えた
大きな力が生まれる。
チュニジアやエジプトでの革命も、
このような人々意思のつながりが
もたらした力であろう。
未だに「私」というものが、わからないままでいる。
「在る」のか「無い」のか、それすらも曖昧だ。
だが、最近少し「私」の正体が
つかめてきたような気がするのだ。
「私」の最小単位は
一個体としての肉体の範囲でしかない、
さらに言えば個人の意識のみであるといってもいい。
つまり、誰ともつながっていない状態、孤独である。
特に、肉体的に苦痛を感じているときや、
精神的に悩み「私のことは、誰も理解してくれない」
そう思っているときこそ人は、「私」を強烈に意識する。
「何故、私だけが…」と自分の苦しみを
理解してくれない他者との距離を強く感じてしまう。
たしかに、人はお互いのことを完全に
理解しあうことは不可能であり、
その点では完全に孤独な一人の人間に過ぎない。
しかし、完全に分かり合うことが
できなくても、他者と
気持ちが一つになる瞬間はある。
例えば、集団でするスポーツなど、
みんなで共有の目標があると、
その集団で一つの意志の塊のようになる瞬間がある。
そのときなどは単に一個人である
「私」を超えている、
もしくは「私」が消え去っている
といってもよい。
つまり「私」とは、どこまでも拡張できる概念なのだ。
その瞬間こそ個人の力をはるかに超えた
大きな力が生まれる。
チュニジアやエジプトでの革命も、
このような人々意思のつながりが
もたらした力であろう。
