RECENT POSTS
個展のお知らせ
 
この度、2014年1月22より2月5日まで

高松天満屋5Fアートギャラリーにて

個展をさせていただく運びとなりました。

FaceBookなどではすでに発表させていただいていたのですが、 

こちらでもご報告させていただきます。

また、高松天満屋が三月いっぱいで閉店するということで

高松天満屋での最後の展示となります。

お近くにお越しの際にはぜひお立ち寄りください



今回の個展では上のような静物画が中心となります。

私がなぜ静物を描き始めたのかその理由を少しずつ

当ブログでも発表していければと思います。

以下で紹介させていただきます。







「私の絵画変遷」



「108人の自画像」2007



 ご存知の方も多いかと思うが、

私は大学在学中よりこれまで自分をモチーフにして

絵画作品を発表してきた。

しかしながら一昨年の「Beast attacks!!2」頃より、

画中に私の像が登場しない作品も描き始めた。

そしてその後の高松天満屋アートギャラリーでの展開

「欲望の怪物」では画面上から完全に私は姿を消した。

昨年の個展「極楽」において発表した作品群においても同様である。


このあたり、私にどういう変化があったのか、

またこれまで私が自らの作品において追及していたものと

どのような関係にあるのか疑問に思っておられる方もいると思うので、

この機会に一度きちんと自らの作品について言及しておくべきだろう。



「最初の晩餐」2011 



まず、結論から言ってしまえば、私が過去のすべての作品から、

今回発表させていただく作品まですべて一本の糸で繋がっている。


私が描いたからという単純な意味においてではなく、

その作品を生み出す必然性と意味においてである。
 

つまり、過去の作品がなければ、

現在の作品の表現にはなり得ないということである。

当然のことであると思われるかもしれないが、

ただ何かに媚びて花や野菜、頭骨などの静物を急に描き始めた

と誤解されては困るのでここは念を押しておきたい。




「驚異の部屋」 2012 個展「欲望の怪物」より





以前、自分をモチーフに作品を制作していたころは、

あくまで自分とはモチーフの一つであり、

本当に表現したいテーマあるいはコンセプトを表すための


道具の一つ手段でしかなかった。


もちろん最初からそうだったのでは無い。


私は、2011年の「Beast attack!」において

かなりコンセプト色の強い作品群を制作し発表した。

このあたりから自分の中でよりコンセプトを重視し

作品を制作するようになっていった。

というか意識的にそうしなくてはいけない

というような感情になっていた。



「Encounter」
2011 個展「Beast attack!」より





先に展覧会のコンセプトなりテーマを考え、

それに沿う形で作品を制作していく。

というスタイルに制作方法を変えた。

会社とかの商品開発とかに近い手法をとり、

形だけでもとにかくきっちり最初から最後まで自分の神経を

行きわたらせたと言える個展がしたかったし、

そうすべきだと思っていた。


結果何とか開催までこぎつけ評判を得たものの、

自らが掲げたコンセプトに徐々に作品が

縛られていくような感覚を覚える。


それは今自分が感じ考えているものと、

個展を企画する段階で考えていた作品構想との齟齬であり温度差、

気持ちの揺らぎ。

例えば、鉄は熱いうちに打てというが、

私のそれは冷めてしまった鉄を必死で叩いて

形成しているような気持ち悪い感覚だった。


絵には作家の制作時の気持ちが反映されると私は常々考えている。

作家が楽しく描いた絵は見ている側も楽しい。

ならば、逆もしかり、負の感情も作品に反映されてしまうし、

見ている側にも伝わってしまう。



次第に、当初の意気込みや勢いは薄れ、

ただ絵を描くという作業をさせられているような感じになり

(その作業を強いているのは他の誰でもない自分なのだ。)、

描いても心から納得できない作品しかできず非常に苦しくなった。



「導カレシ者タチ」2012
個展「Beast attacks!!2」より




だが、良かったこともある。

この一連の個展では日頃の私の考えていることと

作品の制作という今まで全く合致してこなかったものが、

遂に合致したという実感を持ったし

自分の社会に対する考え方もまとめられ

私個人的には達成感があったし手ごたえも感じた。

このときの考えた展覧会コンセプトは未だに

私の中で重要な位置を占めているし、

これからも大きく変わることはないだろうと考えている。



試行錯誤の末、一端自分を描くことから離れてみることで

状況の打開を試みることにした。

そして架空の都市の風景である

「Hyper Gaulong 20XX」を描いたことを皮切りに

自画像絵画からはいったん離れることにしたのである。




つづく



「Hyper Gaulong 20XX」 2012 
個展「Beast attacks!!2」より


▲TOP
拡張される身体2


私達が作り出したの身の回りにある道具の数々。

これらは身体機能を延長したものであり、身体機能の拡張といえる。

マーシャル・マクルーハンは、テクノロジーやメディアは人間の身体の「拡張」であり、自動車や自転車は足の拡張、ラジオは耳の拡張であるというように、あるテクノロジーやメディア(媒体)は身体の特定の部分を「拡張」するとの主張した。

前回の記事で私はインターネット(やそれにアクセスする為の端末)を外付けの記憶装置と言ったが、頭脳だけでなく、身体機能に関しても同様に拡張は進んでいる。

というか、むしろこちらのほうが起源が古い。
我々人類は道具を作り出し、それらを使うことで進化してきた。

その代償に他の動物達が持っている強靭な肉体、あるいは身体能力の多くを失った。

それにも関わらず、人類は今日こんなにも繁栄を迎えている。

なぜなら、他の生物が持つ能力よりもはるかに強力な、外付けの身体を手にしたからに他ならないからだ。

刃物や銃などの武器はもちろん、車や飛行機などの乗り物、人の代わりに働く巨大な工業機械やロボット、電気や水道などライフラインに至るまで、

テクノロジーよって得た私達の身体能力を拡張させた外付けの身体は、他の生物の能力を圧倒していると言えるだろう。

ただ、私達がテクノロジーによって新しい身体の拡張能力を手にしそれに依存するたびに、元の生の肉体が司っていた能力というのは退化していく。

やがて生命維持装置のように外付けされた新しい身体がなければ生きていけなくなるような気がしている。

現にライフラインが断たれればまともな生活ができない状況になってきているし、

そういったことも踏まえれば、既に私達の身体というのは、自分で認識しているよりも遥かに巨大なものになってきているように感じる。

▲TOP
拡張される身体1


気が付けばスマートフォンをいじっている今日この頃。

別にメールも電話もしない。
ゲームにはまっているわけでもないのだが、気が付けば手にはスマートフォンがある。

特に昔だったら広辞苑なり、辞書を引いて調べる様なことでも、今ではこの小さい外部記憶装置ひとつでことたりてしまう。

スマートフォンに限らずタブレットでもノートpcでも何でもいい。

正確いえば、インターネット上に情報があるので上述したような機器は、それらにアクセスする為の端末にすぎない。

だが、私達は普段の生活の中でそれらの外部記憶装置にかなりの割合で頼っているようになってきているのではないだろうか。

私なんか、あまり手で文字を書かないので漢字が曖昧にしか思い出せないことがよくある。

何と無く形は思い出せるのだが、細かい部分が思い出せない。

何とも気持ち悪い。

で、結局確かめるためにスマートフォンで調べてしまう。

映画や漫画のあらすじも調べれば、すぐに出てくるし、細かい設定なんかも詳しく載ってたりするので、わざわざもう一度内容を実際に確かめることも無くなった。

さらには有名人などで、顔や名前が思い出せないときも、キーワードを入れればすぐに何をした人なのかわかる。

調べるとパッと答えがでてくる。

それはすごく便利で快適なことだし、現に私もそれにどっぷりと使っているのだが、何かを記憶に留めておくということが、希薄になってきているのではないか。

端末を用いインターネットにアクセスすれば、自分のもっている曖昧記憶では無く確かな情報が得られるのであれば、きっと必死に物事を覚えようとする人はいなくなる。

そうなれば、人間の記憶能力は、どんどん衰えていくだろう。

そして、衰えた能力は、また外付けの記憶装置によって補完されていくに違いない。

しかし、外付けの記憶装置によって補完されたものは、元々我々の身体の中に備わっていたもの、正しくは、日々の生活の中で能力を使っていくなかで身に付けることが可能なものであったはずだ。

そのような事を考えながら今日もやっぱり暇があればスマートフォンをいじっている。

▲TOP
Beast Attack!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

生命体の本質は攻撃することである。


こう言い切ったのは、雀鬼こと桜井章一氏である。

我々人間も生命である以上この定義から

外れることは出来ない。



生命とは常に何かを攻撃しながら生きている。

他の生命体の命を奪い、その命によって

自らの命をつないで生きている。



これは、生きている以上絶対に逃れることは出来ない。

どんなに、美辞麗句や綺麗ごとや、大義名分を並べ

自らの行いを美化したところで

この本質は変わらない。



常に我々は自らを繁栄させるために、

誰かの「もの」や権利を奪いあっているのだ。

実際に殺し合う戦争から、

日常のささいな行動や言動にいたるまで、

我々の行動すべてにこれが当てはまる。



極端な言い方かもしれないが、

自分が今生きている、

あるいは繁栄しているということは、

その分誰かを攻撃し、虐げ、奪ってきた

ということになる。


意識的にでも、無意識的にでも

我々は自分以外の他者を攻撃し、

あらゆるものを奪いながら

生活しているのだ。

逆に言えば攻撃して奪わなければ

生きていけないのである。


こればっかりはどうしようもない。



我々はもっとこのことを理解しなければならない。

私がいる足元にはたくさんの犠牲者がいるのだ。


以上のことを踏まえたうえで

私たちは生きてゆかねばならない。




生命体の本質にどうにも抗いようが

ないのなら、それに抵抗しても仕方がない。



ならば、その本質に従い攻撃を仕掛けてやろう!

自分の考えや、表現ですべてぶちまけて

世の中に切り込んでやろう!

やられる前に何かやってやろう!



そんな私の気持ちが個展のタイトルである

「Beast Attack」の

Attack の部分には込められています。



いよいよ明日から攻撃開始です!!

▲TOP
九龍城砦再び…
以前このブログにも書き、

今回の個展PVにて、

少し触れている九龍城砦について

もう少し突っ込んで書いてみたい。

九龍城砦についての詳細は前回書いたので、

そちらを参照していただきたい。


前回私は九龍城砦について、

無法状態という特殊状況下で、

人間がその欲望の赴くままに

作り上げた建造物として非常に価値があると書いた。



普段我々が縛られている、

様々な基準や法律を一切無視し

(飛行場の関係で高さの制限はあったようだ)

作り上げられた九龍城砦の外観は異様としか言いようがない。

近代建築に見られるような効率性、

機能性を重視した構造もなければ、

最終的なヴィジョンがあり、

意図的に計算されて作られた痕跡も見られない。

勿論、構造計算や、耐震計算なんてしていない。

あの姉歯建築士もびっくりである。

しかし、隣り合う建築物との距離をぎりぎりまで短くし、

互いに寄り添い支えあうように建てることで、

強度をますなど工夫はしていたようである。



また、治安が悪くあらゆる犯罪者、

悪の巣窟的なイメージももたれている。

実際そのような時期もあったようだが、

そこの住む住人達が協力し合い自警団を作って

治安を維持しており、

香港の他の地域と比較しても、そんなに治安が

悪いわけではなかったようだ。



九龍城砦に住む住人達が

刹那的な欲望や衝動にまかせ

増改築を繰り返した、

つぎはぎだらけの巨大なコンクリートビル群。


そこに住む住人たちの様子や、

彼らが作り上げた構造物を見ると、

私はそこに原始的、本能的な一生命体としての人間の本来の姿、

普段我々が法律や常識といったもので抑制し、

覆い隠している人間の正体が見られるような気がするのである。

つまり、九龍城砦には、何にも縛られない、

まるで、野生に住む生き物のような

ありのままの人の姿や、ふるまいが存在していた

といえるだろう。

▲TOP