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小橋順明作品展示レポ:ロマン美術館企画「内在する触感」その2
山之内町立志賀高原ロマン美術館
2016年夏季企画展
Touch with Skin 内在する触感

会期:2016(平成28)年7月24日(日)- 10月10日(月・祝)   
休館日:木曜日 8月11日(木・祝)、9月22日(木・祝)は開館
開館時間:9:00-17:00 (ただし入館は16:30まで)  
入館料:大人500円、小人300円
出展作家  小橋順明、田淵三菜、疋田義明、西澤伊智朗、
  耳のないマウス(松田朕佳、石射和明、石倉一誠、雨宮澪)

小橋、搬入のための2泊3日の長野出張をレポートしています。。。

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長野搬入、2日目





志賀高原ロマン美術館は、建築はもちろん、内装、展示ケースにいたるまで
設計者である黒川紀章氏の「自然との共生」というコンセプトによって
特徴的にデザインされています。

ホワイトキューブの展示室と違い
黒川氏の作品としての空間とうまく協調しながら、最終的に僕の作品のコンセプトが表現されるようにしようと思いました。。


展示室の中を
ぼそぼそぼそぼそ独り言を言いながら。
ぐるぐるぐるぐるする時間が占めていきます。

練ってきたプランが
実際の現場でどう具体化できるか。





問題になると予想していたことがさして問題にならなかったり
思いもしなかった問題があったり。



なんとか夕方にはライティングまで調整して「これでよし」というところまで持っていくことができました。

その夜
美術館の方に渋温泉の裏路地を案内していただきました。。



増殖に次ぐ増殖で生き物の体内に入ったような感覚
このディテイルのすべてに機能がある



この山間に表れた生き物が
何百年と生き続けている。
ここは、すごいところです。

次回でレポートは終わりです。

こばし









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小橋順明作品展示レポ:ロマン美術館企画「内在する触感」その1
山之内町立志賀高原ロマン美術館
2016年夏季企画展
Touch with Skin 内在する触感

会期:2016(平成28)年7月24日(日)- 10月10日(月・祝)   
休館日:木曜日 8月11日(木・祝)、9月22日(木・祝)は開館
開館時間:9:00-17:00 (ただし入館は16:30まで)  
入館料:大人500円、小人300円
出展作家  小橋順明、田淵三菜、疋田義明、西澤伊智朗、
  耳のないマウス(松田朕佳、石射和明、石倉一誠、雨宮澪)

小橋、搬入のための2泊3日の長野出張をレポートしています。。。

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搬入初日、、、

AM3時に岡山を出発して、長野へ

途中、かねてより行きたかった、ある場所に立ち寄りました。


茅野市尖石縄文考古館
http://www.city.chino.lg.jp/www/toppage/1444796190237/APM03000.html

縄文のビーナス、仮面の女神で有名なところです。
長野は見るべきものが本当にアチコチに。。。



それにしても、本当にドライブ日和、晴天の長野

お昼過ぎ、ロマン美術館に到着。。。。

はっきりいってハードな旅。初日は段取りを打ち合わせする程度で本格的な展示作業は明日。。。。
なんて言っていたのに、、、
展示室を見ているうちにムズムズしてきて
いつの間にか開梱、そのまま搬入作業を開始してしまいました。



今回の2泊は
渋温泉でお世話になりました。

ゆったりした調子の老夫婦が営む歴史ある旅館
なんの予備知識もなく訪れたのですが
なんとなく旅館の部屋の窓を開けてみると。



てんこ盛りの一日は
温泉街の燈火とともにボヤボヤとまどろんで
溶けて行ったのでした。



翌日は搬入二日目、いよいよ本格的な作業に入ります。
(もう初日から本格的でしたが。。。)

こばしでした

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小橋順明作品展示レポ:ロマン美術館企画「内在する触感」序
長野県は山ノ内町志賀高原ロマン美術館での夏季企画展
Touch with skin 内在する触感

2016年7月24日
オープンいたしました。



オープニングでは多くの方にご来場いただき
テープカットなどの大役?も仰せつかり
ギャラリートークも軽妙に?
なんとか役割を果たすことが出来ました。








5組の作家の展示だったのですが
他の作家さんの作品内容も高度な技術とコンセプト、人物も素晴らしく
充実した2泊3日の長野出張(搬入2日→オープニング)となりました。

小橋の作品の反響も思いのほかよく
この企画展のためのインスタレーションなど含めて
少しベクトルを変えた作品についても
学芸員の方も僕自身の作品の通底しているコンセプトの部分について理解してくださっており
良い意味で裏切られたとおっしゃってくださいました。。


それぞれの作品の質量が高く
企画コンセプトと展示の一体感
導線など、キュレーションも効いており
比較的シンプルな構成ながらとても素敵な展覧会だと
一人の鑑賞者として素直に思いました。
黒川紀章設計の建築、展示室と作品との戦いと調和の妙なども見所ではないかと思います。




会期は10月10日まで

ぜひ
多くの方にご覧いただきたいです。


小橋の作品について
搬入、長野出張レポートを次回より3回に分けてお送りしたいと思います。


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山之内町立志賀高原ロマン美術館
2016年夏季企画展
Touch with Skin 内在する触感


本展では、皮膚の体験を敏感に作品におとしこむ5組のアーティストをご紹介します。皮膚感覚にゆだねる森の姿、昆虫の皮膚をめぐる陶素材の作為、手と記号化された触感、触感を土に託す無作為、指先から生まれるマチエール(絵画面の質感)。触感をめぐる豊かなアートの世界を、ぜひご体感ください。
会期:2016(平成28)年7月24日(日)- 10月10日(月・祝)   
休館日:木曜日 8月11日(木・祝)、9月22日(木・祝)は開館
開館時間:9:00-17:00 (ただし入館は16:30まで)  
入館料:大人500円、小人300円
出展作家  小橋順明、田淵三菜、疋田義明、西澤伊智朗、
  耳のないマウス(松田朕佳、石射和明、石倉一誠、雨宮澪)

http://www.s-roman.sakura.ne.jp/


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クモ→カブトムシと私の雑文
今、ジョロウグモを作っています
素材と生き物の生命感、情緒的生命とでもいうものが
上手く合わさっていいものが出来るといいのですが

ちなみにジョロウグモのジョロウは
もともと
女郎ではなく上臈であったという説があるそうです。

上臈(ジョウロウ)蜘蛛

コッチの方がジョロウグモから感じる気高さのようなものが感じられて好きです。

むしろジョロウグモから感じる気品と

もともと上臈だったのではという説によって

「女郎」そのものの印象が変わりそうです。



別の話

僕の制作と虫のことを思い出していました。

気が付くと好きなものは
なんでも描かずにいられない性質でしたが、

幼稚園の時です。

親か姉か、誰かに教えてもらった
カブトムシとカモメ
こんな簡単な線でモノが描ける
単純な喜びで
何回も何回も広告の裏に描いて遊んでいたのでした。

小学校3年の時

普通の虫好きの小学生、
セミの羽化を見るためによるの林へいったり
虫が好きで
カブトムシの展翅標本を
白と黒の紙を使って
ペーパークラフトで作っていました。

そんなこんなでやっぱり
虫といえばカブトムシ

それも日本のカブトムシです。

成人して
備前焼を始めた15年前、最初に自由に何でも作りなさいと言われて作ったのも
羽根を広げたカブトムシ。

39歳になって
ものづくりの原点を私的な歴史の中に求めた時

最初に作ったのもやっぱりカブトムシでした。
↓↓↓
カブトムシ―飛翔―

そんななか
朝、横断歩道でわが子の通学を見守ってくれている方が
カブトムシの幼虫をくださいました。

6齢幼虫、でかい。
そして
ついにサナギに。


土マユを作るのがうまくいかなかったのか
半分出てしまっています。

でも、きちんと縦に収まっているし、

サナギになったばかり、触らずに少し様子見といきます。

とっ散らかった雑文でした。

失礼します。









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昆虫と焼物と私


どうして昆虫なんですか?
と聞かれます。

なぜ焼き物で?
とも聞かれます。

うーん、いつも言葉に詰まります。

経緯もあるし、文脈もある。はっきりいって必然です。
でも
それがはたして、納得できる正しい「答え」になるだろうか

「話せば長くなりますよ」と
終わりのないあまりに私的な長話を始めることもできますし、
「好きだからです」と
ぷっつり話を終わらせることもできます。
「素材感が。。。」と
小理屈をこねることだってできます。


全部本当のことなのですが、その答えに「僕自身が」納得できないのです。


だから答えに詰まるのです。
「なんでですかね~」
と。

実は、正直、結局、僕には作品のことなんてわからないのです。

もちろん
僕は作ります。それはもう、考えて考えて考えて考えて、考えて考えて考えて考えて、


焼物でしかできないけれど、焼物かどうかなんてどうでもいいようなもの。
焼物に埋もれて埋もれて埋もれて埋もれて作品を作っってきたその彼岸で
僕が作る、焼物でつくる、昆虫、だからこそ表現できることがあったとして
僕が作ったことも、焼き物だということも、昆虫だということも関係なくなってしまうようなもの。

感情的な、文脈としての、物理的な、
私と、焼き物と、モチーフが
作品の中から消えて、そうして始めてそこに新しい命が生まれる。そんなもの。


実は、うまれる、も、いのち、も本当にはどういうことか何もわかっていないのです。
わからないから作るのですけど。


わからないもので、わからないことして、わからないものつくって、わからないものを
わかってもらおうとして、

自分でもわかってないようなものを
わかってもらえたとしたら、それは、もう既にわかっていたということで
同じ人間なのです。
本当はもうみんな初めから全部わかっているのではないかとさえ思えてくるのです。


じゃあ、わざわざ作る必要はあるのか、分かってもらうことの意味はあるのか
などとぐるぐるぐるぐるぐるぐるしているうちに

作品が目の前にできている。
あなたがわからないものはこれですよと。


さまざまな、思いと、流れと、素材が一つの点で結ばれたところに目に見える何かができて
その何かが、見る人を巻き込みながら、思いも、流れも、素材も無視して独り歩きを始める。

作品はそういうものであってほしいと思います。

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