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"皮膚-抜け殻は生きている-"



"皮膚-抜け殻は生きている-"
2020
陶(備前土・焼締焼成)、パネルに陶土、顔料

H18.3×W14.3×D5.5cm(F0)
H3.2×W2.9×D2.3cm(昆虫のサイズ)
H40.6×W23.3×D7.8cm(アクリル額装サイズ)




生きた証がそこにある。
が、それはあくまで証であって「生」そのものではない。
死せる皮膚的なものに「生」を乗せたら、それはミイラのようなものだ。
人工的に作られるミイラは、再生の願いだから
これはこれで不死と再生の願いということでいいのだろうか。



子供のころの純粋な感動
セミの羽化
残った抜け殻をたくさん集めた思い出。

なぜあんなにも「抜け殻」に魅せられるのだろうか

あまりに生きていた形を残すがために、なのか妙に命を感じてしまう。
「いのち」を入れることが出来たら、再び動き出すかもしれないと思ってしまう。





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作品に関しては「なにでできているの?」と聞かれることが多いので
作品を構成する物質的な部分について説明を書いておこうと思います。


F0号のパネルにセミの抜け殻がくっついています。これが作品です。
そのバックの縦長のパネルが額装です。これにアクリルケースカバーが付きます。

F0パネル部分については
木製のパネルに定着材を混ぜた陶土を塗り、同様に定着材を混ぜた酸化ジルコニウムを塗っています。
これらはひたすら「素材」なので、絵画的絵の具の質感に慣れている人は、どのような印象を受けられるでしょうか。
土の塊、陶板と感じられるのでしょうか。空間的なものを感じられるでしょうか。
僕にとっては「満たされた無」というイメージです。

セミの抜け殻部分は爪先から触覚まで陶製です。
備前焼という焼き物の産地の土で作っています。
関節ごとに分けて造形、焼成までした後、接着剤で組み立てています。
いわゆる釉薬による色付けは使っていません。作品を炭と一緒に電気窯に入れて1200度で焼く「炭化焼成」という焼き方を何度も繰り返すことで素材の深いところまで厚みのある化学変化を起こさせます。
小さな部品に薪窯のような「コントロールできる/できない」のせめぎあいが現れた多様な窯変を表現します。
変化する、というのは生きている、ということなのでそうしたかったのです。
目の部分には金属皮膜を生成する「ラスター彩上絵」という上絵の具のようなものを800度くらいで焼き付けています。
「目の黒い内」というように目の輝きが欲しかったからです。

陶製のセミの抜け殻は、パネルにはお腹の部分からステンレス棒で支持しています。
ステンレス部分は鑑賞の邪魔をしないように白く塗っています。

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5月25日発売の月刊アートコレクターズ6月号
“アートを買って家に飾ろう!”大誌上頒布に
作品"皮膚-抜け殻は生きている-"を掲載していただいております。。

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【初めての誌上頒布②】作品のこと
5月25日発売の月刊アートコレクターズ6月号
“アートを買って家に飾ろう!”大誌上頒布に
作品"皮膚-抜け殻は生きている-"を掲載していただきます。
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僕の昆虫の作品は関節ごとにパーツを焼き物で制作し、
焼成後にシリコン系の接着剤で組み立てる構造です。

このような作品を制作し始めたのは6年前。
だいたいこんなことからです。
↓↓
当ブログ過去ログ「どうして昆虫を作るのですか?」

どんな小さなパーツでも限界まで凹凸で自然に組み合わせられるように造形するよう努力します。
昆虫は基本リアルサイズですので
触覚などの部品は細いもので0.3㎜の細さになり、ちょっとした衝撃でも陶なので折れてしまいます。
関節ごとに弾力性のあるシリコンが仲介することで
シリコン部分が衝撃を吸収し、移動に耐え、一般的にコレクション可能な作品強度を得ることができました。
加えて
UVカットのアクリルケースでのケーシングをデフォルトにすることで
接着剤の劣化する要素を取り除き、現代美術としての持久性も得たとしています。

ここまできたのが5年前
やっと作品のコンテンツに集中することができるようになりました。



焼物との出会いを通じて「変化」「現象」というイメージと得て以来
これまで
私たち、私たちが存在している、命がある、とはどういうことなのか。
制作を通して本質と向かい合いたいと考えて、
焼物を使い普遍的なコンセプトを共有できるような作品を作りたいという気持ちで制作してきました。

自分の作品がどうカテゴライズされるかということにはこだわらないようになってきているのですが
お話しする機会のある時は、技巧ではなく、コンセプトに触ってほしい気持ちがあるので
アートとしてコンセプトを大事にして制作している。と言っています。
それでも
なにしろ素材があまりに強い作品なので工芸との違いは何か、と問われることがあります。
いつもいつも口頭ではうまくお話しできないのですが

僕の作品と素材の関係でいえば
焼物であることが作品のコンセプトの中でどう機能しているかということが、工芸としての陶芸と違う点だと思っています。

そもそも作品をどうカテゴライズするかということに関しては
芸術にはすべて、テクニカルな部分、物理的な部分、コンセプチュアルな部分、文脈的な部分などの要素があって、きちんと分けて考えられるべきだと思っています。
もちろん工芸にも絵画にもそういう見方は当てはめることができるはずなのですが
芸術とか絵画、アートなどは、輸入した経緯があるからそういう考え方になじみもありますが、
工芸はもはや日本にとって、血肉となっている文化と歴史そのもののようなものなので
当然知っていて完全に共有できているつもりでも、本当に人それぞれの多様な「工芸とは」観を持っていて、
通じているようで通じていないのに、わかりあっているような気になっている議論をよく見受けます。
だから
この話も、それを乗り越えてコンセンサスを取ることも、見た目以上に難しく、作品の鑑賞を邪魔してしまうことだと思いました。

そういう矛盾というか、議論は自分の中でも常にあって
出てくる作品、見られ方、自分の文脈とかいろいろと考えてしまうことはありますが
制作者としては、黙って受け止めて、誠実に正直にあがくことだと今は思えます。


結局、目の前の作品は独り歩きしていくし、それこそが作品があることの意味だし
その時、やっと作品は作品になれるのだと思うようになりました。

作品という出来事の前には、僕個人の自覚できるような意識がどう考えているかなんてことは本当は関係ないのです。

鑑賞される方それぞれのバックボーンを持って、観察しながら想像しながら真剣に、自由に作品と向き合っていただけることが
僕と僕の作品の幸せです。
その出来事の中には、自ずから僕のアイデンティティも溶け込んでいるはずです。
それが作品の意味になるのです。

散文失礼しました。
脱線と言うか、あっちこっちして、掲載作品のことまでたどり着けませんでした。
すみません。。




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