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ゴンベッサの視線



Gombessa proposal ep1
I am japanese.
2011.04.13 (wed) - 2011.04.26 (tue)
gallery close 4/16・17・24
open 11:00~18:00


一昨日よりスタートいたしました。


私は、この展覧のステートメントとして、、
日本の若いアーティスト達の視線=コンセプト
をゴンベッサと位置付け、その能力の可能性を
広く問いたいと書き記しました。


芸術家の成り立ちとは一体如何なる要件に
よるものなのか?なぜ社会の生産性・合理
から外れた行動を取る人間がこの社会で生き
ていけるのか?又どういった芸術家が社会
からその使命を与えられ必要とされるのか?


今、そういう根本的な疑問があって然るべき
だと私は考えます。


芸術がなくても社会は動き、生活に支障は
来さない。


しかし芸術がないという前提で社会を見渡
したとき、その風景はいかなるものとなるの
だろうか?


ちょっとどころか大いに寂しい気がするのと
同時にその寂しさというのはどういう感情な
のだろうか?と深く考えてしまう。


2011年がスタートし先のブログにも書きま
したが2000、10年代のスタートです。


予期しませんでしたが、、、、、
過酷な時代の始まりとなりました。


この過酷な状況の社会において芸術を担
う【視線】とは?【真の芸術の力】もっと言え
ば、この国でそれらを考えた場合にどういう
モノなのか?その探求の表れがこの


Gombessa proposal


の真の意味であり、、、、


軽佻浮薄なものに対しての私の”反抗心”の
現れです!!



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



ここでその考え方・視線の一端を紹介させて
いただきます。


制作に対してのステートメントであったり
絵画についての思いであったり、その内容は
様々ではありますが、言葉の端々から溢れる
彼らの鋭い視線を感じていただければ幸いで
す。


展覧ではこれらの考え方・視線をボードとして
掲示し様々なご意見を承っております。


26日(火)まで開催ですので是非皆様お立ち
寄りくださいませ。心よりお待ち申し上げて
おります。




【佐野 暁】

16世紀以降ヨーロッパでは当時流行したシノワズリ
(東洋趣味)を反映し、日本をはじめ中国、インドな
どの東洋各国から大量の漆器を輸入してきた歴史があ
ります。


その中でイギリスでは漆は一時期ながら英語で「japan」
と呼ばれました。今日「japan」と言ってもまず漆の意味
では通じないのが実際ですが、日本人の中で「漆は海外
でjapanと呼ばれている」と信じている人は少なくありま
せん。


私が試みるのはかつて「japan」と呼ばれた、日本を代表
する伝統文化である漆と、現代の「JAPAN」の象徴ともい
える「カワイイ」、そしてその代表格である「キャラクタ
ー」とを融合させる試みであり、現代的な漆作品の創出で
す。


「カワイイ」は「pretty」や「cute」といった言葉では
表しきれない幅広い領域を持った言葉であり、アニメや
ファッションなどを通じて現代日本文化を表す一つの美
意識として「SUSHI」や「TSUNAMI」と同じように「KAWAII」
という世界語となりつつあります。


また「カワイイ」の代表格として「ハローキティ」や
「ピカチュウ」といったキャラクターたちも世界中へ広
まっています。


アメリカも様々なキャラクターを擁する国ですがが、
サッカーや野球といったスポーツチームにも必ずと言って
いいほどマスコットキャラクターが存在し、挙句の果てに
は自衛隊や警視庁のような国家組織においてまでキャラク
ターが活躍している国は世界中を探しても日本くらいなも
のでしょう。


このようなキャラクターたちの活躍の背景には日本人の
自然観が大きく影響していると私は考えています。


日本人にとって自然は豊かな恵みを与えてくれる存在で
あり、同時に地震や台風などのすさまじい被害をもたら
す恐ろしい存在です。


そのような自然環境の下で生活する私たち日本人はその
自然の中に人間を超越する「何か」を見出してきました。
それは人間をはるかに超えた大きな力であり、目には見え
ない不思議な存在です。


日本人は恵みと破壊をもたらす自然そのものを信仰の
対象として、山そのものや大きな樹、岩などには大き
な霊力を感じ、そこに神が降臨し宿る「依代」だと考
えました。


アニミズムというような言葉で例えられるように昔の
日本人は様々な物に神性や霊性を感じ取ってきました。


現代のキャラクターたちの隆盛には、日本人の持つこ
のような精神的土壌が大きく影響しているのではない
かと私は考えています。


本来魂の無いはずのキャラクターを生きている存在
のように捉え、生活を共にしている様は、まさにか
つての日本人が山や樹に向けた眼差しに通じるもの
があります。


今日私たちの生活の中に溢れかえるキャラクターたちは、
日本人の自然観から生れた神や精霊といった存在が姿を
変えて現代に伝わるかたちであり、現代における八百万
の神々と言えるでしょう。


私はこのキャラクターを漆が宿る「依代」として捉え、
日本人の自然観に基づいた、現代的な漆作品に取り組
んでいます。





【釜 匠】

僕にとって単純で明解かつ最も重要なのは、

いかに自分の作品が、見た人の足を止め

その人が予期しなかった世界へと引き込み、

その時間さえも止めてしまえるかにある。



笑い そして ちょっぴり怖くなる



誰でも楽しめるユーモアというのは、

生きていく上でとても重要です。

ユーモアに、いちいち理屈や説明をつけて
なんかいられない。

そんなことをしてしまったらそれこそ笑え
なくなってしまう。

絵を見て、タイトルを見て、それだけでわ
かる人はわかる。



自由に楽しんで 笑ってくれればそれでいい。





【松本 央】

私は、大学入学時から、現在までずっと
自分をモチーフに絵画を制作してきた。
いわゆる自画像だが、個人的感情や内面
を曝け出すための手段として、自画像を
制作しているのではない。また、単なる
自己顕示や自己愛によって制作している
わけでもない。


自分自身の表面に表れる様々な痕跡を見つめ、
それらの痕跡を画面に記録していく作業を通
して、私個人の描かれた絵画というレベルを
超え、人間のありのままの姿や本質、生命体
の持っている根源的な力に触れることができ
るような作品を作ることを試みている。



「何故、自分にこだわるのか。」


それを簡単に説明することは難しい。
ただ、複数の人物やモチーフを短時間見るより
は、一つに絞り、長い時間かけて詳細に見るほ
うが得るものが多いと考えている。





【阿部 瑞樹】

現代社会に於いて工業製品の存在はなくては
ならないものとなっている。


産業革命以降、人類は目覚しい発展をとげてきた。
時代の流れの中で、工業製品は当時の最新技術や
思想などに左右されながらデザインされ、洗練さ
れてくると同時に、人々は物理的価値だけではな
く、情報価値も求めるようになってきた。


それにより工業製品と我々人間との付き合い方に
徐々に変化が生じているのである。


数ある工業製品の中の代表的な物に自動車がある。
これまで自動車を主なモチーフとして作品を制作
してきたが、自動車というものは数ある工業製品
の中でも特に物理的価値と情報価値のバランスが
とれているものであると考えられる。


科学やデザインの発達と共に、自動車が一般の市
民にも手に入れることができるようになるにつれて、
自分の愛車を日々の生活の中で相棒やペットや家族
等のように親密に接する人々が現れてきた。


また、自動車の各部はよく人体に例えられ、ライト
は目、エンジンは心臓、タイヤは足など、無機物で
あるはずの自動車を有機物に見立てて言い表す。


これは我々人間がそれぞれに、単なる工業製品という
無機物の中にどこか自然物のような有機的な部分、
もしくは精神的な何かを感じていると言えるのでは
ないだろうか。


これが現在の私の作品創りの一つの大きなテーマで
ある。





【日隈 愛香】

私は人の形を通して自分の自覚していない内面を探
しています。

そして生きていること、生かされていることについて
考えています。

造るその時々で異なる表情のどれか一つにでも
共感できるところがあったら
新たな自分を発見するきっかけになるかもしれません。





【八木 佑介】

午前二時、無人の街に光が溢れる。
夜が明るすぎると僕は思う。
ただただ人間の安全のため、安心
のために膨大な光が生まれ、人間
そうやって築かれた文明を賛美する。


誰もいないにもかかわらず、煌々と
街を照らし続ける光に僕らは麻痺し
ているのだ。


この作品群では、画面をまず真っ黒
に塗りつぶし本来の闇を作り、その
上から光の粒子を点描として描き重
ねる。


画面の中に描かれているのは、闇と
光だけであり、その光の群れによっ
て街が形取られる。


無人の都市を支配する光を実際に
粒子として描き起こす事によって、
人工の光の意味や必要性、さらには、
種の繁栄へと突き進む中で都市とい
うものを創りあげた人間に対し疑問
を投げかけている。





【高松 明日香】

『 絵画についておもうこと 』
絵を描くことが、当然のように自己
表現になったのは、いつからなので
しょうか。


過去に絵画はすべて宗教画でした。
それは日本でも西洋でも同じでした。
日本の中で絵画が主に画家の自己表
現の場として制作され始めたのは明
治時代あたりで、まだ一世紀ほどし
か経っていません。


ですが、今私たちは、絵画を描いた
画家の生い立ち、感情、物語、表現
したいこと、を抜きにしては絵画を
見ることができません。


絵画は画家の物語を抜きにしては、
鑑賞できなくなってきているのです。
今の時代はもしかしたら、絵画の終
末なのかもしれません。


絵画は、その絵画の中で物語を完結
させることは、できないのでしょうか。


鑑賞にまで画家がかかわらなければ、
絵画として成立しないのでしょうか。


私は絵画にする題材に、インターネット
や雑誌などの写真を使っています。
それは、絵画が、画家を抜きにして独立
するための、1つの方法だと考えている
からです。


自分は、紀元前から人間が描き続けてい
る絵の持っている底知れぬ力を、生きて
いる間に自分の目で確かめたい、その思
いで、日々絵画を制作しています。





【川又 仁奈】

生と死の狭間で破壊と再生を繰り返す生命体の
中での、人間の存在意義とは何かを探求し制作
している。





【鈴木 健吾】

人は食べ物を見る時、様々な感覚が働く。
もし食べ物でない物がおいしそうに見え
たら人はそれをどう見てどう感じるのだ
ろうか?


食べ物には私たちが経験知識として持っ
ている食べ物としてのアイコンのような
ものがある。


例えば茶色いものが銀紙で包まれていた
らチョコを連想する人が多いだろう。そ
してチョコみたいだと気付いた瞬間に
「甘そうだなぁ」と感じたり、舌に甘さ
を感じる人やチョコのパリっとした食感
が想像される人もいるかもしれない。


茶色+銀紙は甘さのアイコンとして様々
な感覚を刺激させる。私は今回そのよう
なアイコンを抽出し、身の回りの物をお
いしそうな形に変換するということを実
験的に行った。

この時、視覚から味覚が刺激されるよう
なまさにおいしいかたちを作ることがで
きるのではないか。


私たちの感覚は経験や知識、環境などと
密接に関係している。しかしそれによっ
て物事が自分の経験や先入観により一方
向から見がちである。


いつもと違う視点からみることでいつも
見ていたはずのものも新鮮な気持ちで見
ることができるのではないか。


私からの何かこれといったメッセージが
あるわけではないが、何か新しい発見を
したり、食べられるような食べられない
ような妙な感覚を楽しんでもらえたら幸
いである。








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Mega Death
現代美術
現代アート
コンテンポラリーアート


まずもって現代とは?何時からの事を指すのであろか。
商売人に惑わされていけない。


現代とコンテンポラリーという語の間には
途方もないくらいの開きがあることを知らなければならない。


コンテンポラリーとは“同時代”という意味が正確であり
正確な時系列の配置から考察すると、現代という語と同義で
はない。


もっと切なくも追い込まれた瞬発力であり
十字架に磔にされた直後の苦悶だ・・・・


あくまで同時代。これが大事なのだ。



時間、
時間に見つめられる
時間


個人と集団の見た時間
時間が見た個人と集団
時間とは?

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By:Mega Death 1999 tatsuomiyajima.com

私の、カウンター・ガジェット(LED)は人間
の生命の輝きを象徴している。


そのカウンター・ガジェットは9~1をカント
ダウンして、"0"は表示せず、暗闇になり、また、
9へ戻ってそれを繰り返す。数字が変化し輝いて
いる様は人間の「生」を象徴し、"0"の暗闇は
「死」を象徴している。


仏教哲学において、人間の生命は「生」と「死」
を繰り返すと説かれている。


つまり、「死」は終 わりではなく、「次の生」
を準備する睡眠のようなものであると言うので
ある。


しかも、その「生」 から「死」、「死」から
「次の生」へのリズム(Life Time)は個々人
の生命にもともと備わって いて、個別性があり、
一人として同じリズムはないとも言われている。


あらゆる人間は、このような「生と死」の荘厳
なドラマを何億年ものあいだ営み続けてきた。


地球 上のいたるところで、このような「生と死」
が生まれては消え、消えては生まれてきた。


それは満天に輝く星の煌きを見るように美しい。
一人一人の「生」が違うように、「死」もまた 
ひとつと して同じではない。それゆえ、一人一人
の「生」も「死」も輝き、お互いの「生」と「死」
に響き 合いながら、まるで壮大な宇宙の交響曲を
奏でるかのようである。 私は、これが「通常の生死」
(Natural Life Time)の美しさであると考える。


しかし、その荘厳な「通常の生死」の営みは時とし
て破壊され分断させられた。


魔性に犯された人為による仕業である。


元カーター大統領の特別補佐官であるブレジンスキー
試算によれば、20世紀で戦争や革命、紛争などにより、
人為的に奪われた人命の数は一億六千七百万人に上ると
言う。この数は1997年時のイタリアとフランス、イギリ
スの人口を合計した数に匹敵する恐るべき数字である。


このように、ある意味で、今世紀は「人為的大量死」
(Artificial Mega Death)がもたらされた時代だった
といえよう。。。。。。


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20世紀、もっとも影響力のあったアート作品
というのが少し前にあった。。


1位 デュシャン「泉」1917
2位 ピカソ「アヴィニョンの娘たち」1907
3位 アンディー・ウォーホル「Marilyn Diptych」1962
4位 ピカソ「ゲルニカ」1937
5位 マティス「赤いアトリエ」1911


描いたものでもなければ、彫ったものでもない。


そこらに売られているもの
しかも“便器”が


1位だった。


それは、選んだものだった・・・


現代という広義の時間軸
の中のアートはある意味,,,,,


デュシャンが示したものがどうあがいても代表であり
蹂躙されたのだ。。


しかも悔しいが、彼はシニカルに
これをアートと定義していない・・・





アートにしたのは彼以外だ。。





しかし・・


デュシャンにはもっとも正確な“同時代”
の時間が存在する。。


今進行する同時代はデュシャンに対しての
ロジックの戦闘であり国境を越えた世界大戦だ!


植民地に知らないうちになっていないか?


えぇ?おい??
金を儲けているのか?儲けさせているのか?

。。。。。。。。。。



デュシャンの墓碑銘に刻まれた



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“死ぬのはいつも他人ばかり”

---------------------------------------------------



ここに、大いなる同時代性と

コンテンポラリーアートの大いなるカギが潜んでいる?


いや、それは、人類誕生からずっと同じ場所に居続ける
課題であり,,,



一人目の人間誕生ではなく
二人目の人間が誕生し、同空間を共有し律動が始まった
瞬間から


生まれ、延々と続いてきたような気がする。


私は、、毎秒・・
アートをもっと理解したいと思っている。。


それは同時代の構成員であるがゆえの興味であり


責務でもある。



そして芸術家の責務は



超然とした客観性から冷徹に見つめる
同時代の風景を、誤解を恐れず、、、
我々に鏡となり提示する事ではないかと、、


考える。。。



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movie エトリケンジ @BAMI gallery solo exhibition プロトタイプ-ジュリエッタ
残すところあと一週間となりました。


ぜひお立ち寄り下さい!!







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エトリケンジ YTV ニュースten 
先日の21日


約一年近く取材をしていただいた
内容が無事ニュースtenにて放送
されました。


5月の創造公園渋谷 Art Re Public Shibuya
12月の高松天満屋での個展


その間BAMIgalleryとエトリケンジ・アトリエ
にての取材及び夜間野外撮影等、、、



これまでに何度かテレビの方には
お世話になったのですが、今回ほど
丹念に取材をしていただいたのは
初めてでした。



当然様々に飛び込んでくるニュース取材の
タイトなスケジュールを調整していただいて
の取材、何度も”ボツ”なのかなぁ~と
思うような期間が開いたこともたびたびあった
のですが、、


そのつど



『そんなわけないじゃないですか~』

との担当記者のJさん


本当にお世話になりました。




実は年始早々に放送予定の連絡を
もらっていたのですが、、、



急遽編集段階で変更箇所が出て撮り直し
まで行いました。



夕刻のニュースのわずかな時間での
紹介ではありますが、それをよりよく
、よりわかりやすく視聴者の方々に
お伝えするというYTVスタッフの方々の
使命感には只々圧倒された次第です・・・・



YTVのスタッフの皆さま

長きに渡り本当にありがとうございました。






■こちらは3月8日までの期間限定です

world's end girlfriend音楽
による個展プロモーションビデオ

↓ ↓ ↓ ↓ ↓






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阿部瑞樹くんの活動報告(高松・京都)
すこし遅くなってしまいましたが


現在、高松天満屋で


阿部 瑞樹 solo exhibition
『 from the car 』
2011.01.19 (wed) - 2011.02.15 (tue)
at 高松天満屋5階アートギャラリー


〒760-8516
高松市常盤町1丁目3番地1
5階アートギャラリー 
TEL087-812-7549(担当 青野)
営業時間 10:00〜19:30
http://www.tenmaya.co.jp/takamatsu/



開催しております。


BAMI galleryから彼の地元で開催された
富山大和『夢創展』を経て現在高松にて
展開しております。


是非お立ち寄りください!



















尚、阿部瑞樹くんは現在

第3回京都日本画新展へも出品しております。
明日までですのでお近くの方は是非お立ちより
ください。

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●第3回京都日本画新展

1月26日(水)~1月30日(日)10時~20時
(最終日17時まで。閉場30分前締切)、美術
館「えき」KYOTO(京都市下京区烏丸通塩小路
下ル東塩小路町。ジェイアール京都伊勢丹7F
隣接。有料Pあり)
TEL075・352・1111。

「京都 日本画新展」は、京都を中心に活動し
ている若い日本画家たちの新たな発表の場と
して創設されたものです。京都画壇の将来を
担う人材の育成を目指し、日本画を志す創造
性あふれた若い人材の活動を推奨します。第
3回となる本展では、大賞・優秀賞受賞作をは
じめ、選考委員から推薦を受けた23歳から45
歳までの37作家の清新な作品を一堂に展覧し
ます。あわせて選考委員5人の新作も発表。

入場無料。
問い合わせTEL075・255・9757
(京都新聞COM事業推進部)。

【ギャラリートーク】
各日14時から。
1月28日(金) 
林潤一(京都嵯峨芸術大学名誉教授)
村田茂樹(日本画家)
1月29日(土)大野俊明(成安造形大学教授)
竹内浩一(日本画家)
1月30日(日)小嶋悠司(京都市立芸術大学名誉教授)


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■ そして来週3日(木)からBAMI galleryでは

エトリケンジ solo exhibition
「プロトタイプ-ジュリエッタ」
2011.02.03 (thu) - 2011.03.08 (tue)
gallery close 2/6・11・12・13・20・26・27・3/6
open 11:00~18:00

開催いたしますので
ぜひお誘いあわせの上お越し下さいませ!

心よりお待ち申し上げております!!







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