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さて



本日いよいよ上海に向けて出発
いたします。



昨年に引き続き2回目の挑戦と
なります。



昨年のフェア終了後から今回渡航
するまでに様々な方のご助力を賜り
そのおかげをもって今回2回目の挑
戦が出来ることを感謝いたしており
ます。



誠にありがとうございました。



お力添えをいただきました、
皆様方のご期待に応えられるよう
スタッフ一同頑張りたいと思い
ます。




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話は変わりますが



もうひとつご連絡させていただ
くことがございます。



本日より当サイトにおいて



FLASHバージョンがプレオープン
いたしました。




このブログでも再々その進捗を
お伝えしてきましたが、予定が
遅れに遅れ本日やっとプレオープン
することができました。



私の初期段階からのホームページ
に対しての思いは、当然情報発信
ということが一番ではありますが


それ以上に思っているのは



せっかく見に来ていただいたので
あるから楽しく見ていただきたい
感じていただきたいというものでした。



ですから




動く



音がする



探す



という最短のユーザビリティーとは


離れる思考かもしれないのですが



とにかく



固定観念的なギャラリーのサイトは否!
ということをデザイナー達には再々伝え
て来ました。



何度も繰り返し繰り返し
試行を重ねての完成です。




デザイナーユニットMIRRORの原地くん
藤本くん月澤くん他関係していただき
ました様々な方々、誠にありがとうご
ざいました。



まだプレ段階ですので多少の修正は
今後加わっていくと思いますが、ほぼ
楽しくご覧いただける段階まできました
ので、是非皆様覗いて見てください。




そして何かお気づきの点がありましたら
ご意見お聞かせください。よろしくお願い
いたします。



※ www.combine-art.comのURLからインターフェイス
  に入っていただき画面下側の


  > FLASH Site (Pre Open)をクリックしてください。


※flashサイトへの直リンクは

↓ ↓ ↓ ↓ ↓

 http://www.combine-art.com/flash/

▲TOP
自分花
されば、時分の花をまことの花と知る心が、
真実の花になお遠ざかる心なり。


ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、
やがて花の失するをも知らず。


初心と申すはこのころの事なり。


『風姿華傳』


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新人であることの珍しさによる人気を本当の
人気と思い込むのは、「真実の花」には程遠い。
そんなものはすぐに消えてしまうのに、それに気付
かず、いい気になっていることほど、おろかなこと
はない。そういう時こそ、「初心」を忘れず、稽古
に励まなければならない。



世阿弥は観客に感動を与える力を「花」として表現。
少年は美しい声と姿をもつが、それは「時分の花」
に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は心の
工夫公案から生まれると説く。




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時分



この言葉私のブログには良く登場する



それは過去の一点を説明する言葉である
のだが、所謂”頃”であったり”当時”という、もう
戻りはしない記憶の時点である。




時分花



この言葉を知ったのは5年くらい前だ




瀬戸内寂聴さんが朝方の教育テレビで
説明してたのを聞いたのが始まりであった。



寂聴さんの解説は上述にあるのとは
ほんの少し違った・・



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花は種から満開そして枯れる直前、すべての
生命を通して主体的には花で居つづける。。



花が美しいのは、満開だけではない・・



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説明として本質的にはそう変わらないのであるが、、




しかし私は、、




時分と真の花の差、、、それ以外に
寂聴さんの言葉には、花は花という
逃れられないものとの闘いの意味を
感じたのである・・




寂聴さんの言葉から連想したのは




時分花ではなく





”自分花!”であった。




自分らしい花でありたいナァ・・と




今、切に思う。。

▲TOP
色々済ましておかなくてはいけない事
さていよいよ9月



昨日までで出稼ぎ仕事無事終了



次は上海



本日無事第二便の通関も通過したとの
連絡が入りこれでほぼ準備完了。。



であるのだが、、



その前にやっておかなくては
いけない事が2,3あり・・




8月最後の日であった昨日は
なかなか凝縮した一日となった。。





先ずは






この春からお付き合いさせていただいている
杉本晋一さんの高松天満屋アートギャラリー
での展開が明日からという事で、本日は搬入
飾り付けであった・・










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杉本晋一さん






1956大阪生れ

主な個展
1977/信濃橋画廊(大阪)
1978.81.82.85.88.90./ギャラリー16(京都)
1983/靫ギャラリー(大阪)
1985/村松画廊(東京)
1988/ギャラリー・ラ・ポーラ(大阪)
1990/ギャラリーKOZUCHI(芦屋)
1999/ESPACE(京都)
2004/ギャラリー16・ギャラリーはねうさぎ・
京都パラダイス(京都)

主なグループ展
1975・1979・1980・1981 /京都アンデパンダン展
:(京都市立美術館)
1978・1980/ローズガーデン美術公募展:(神戸)
1981・1982/架空通信テント美術館展:(夙川公園)
1983/主題と方法展 神戸現代美術ギャラリー(神戸)
1986/シティエッセンス シティギャラリー(神戸)
    ART BRIDGE展 さんちかホール(神戸)
    HIMOVITZ/SALOMON GALLERY(USA)
1987/間接性への作業 不二画廊(大阪)
1992/「鉄」展 ギャラリー洗濯船(京都)
1995/We are Here展 シティギャラリー(神戸)
    アートヘルメット展 ギャラリー16(京都)
1998/Resonant Box展
      KAVCギャラリー(神戸アートビレッジセンター)
1999・2000/アートイン西陣 西陣北座(京都)
2004/LINK展 京都市立美術館
2006/あさご芸術の森大賞展 《準大賞》
   京展、北陸中日美術展
2007/FUKUIサムホール美術展 《佳作賞》
   京展、北陸中日美術展
   架空通信 百花繚乱展(兵庫県立美術館ギャラリー棟)
    ’08熊谷守一大賞展    《佳作賞》
2008/池田満寿夫記念芸術賞展
   さかいでArtグランプリ 《佳作賞》
   あさご芸術の森大賞展
   世界絵画大賞展
   京都美術ビエンナーレ 《産経新聞社賞》
2009/創造都市はままつ絵画公募展
2010/あさご芸術の森美術館個展

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『杉本晋一solo exhibition 重力都市』

20010.9.1 (水) - 20010.9.21 (火)
10:00~19:30
高松天満屋5階アートギャラリー
担当 青野

087-812-7549


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杉本さんBlog http://plaza.rakuten.co.jp/espace/


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そして9月29日からはじまるグループ展の
打ち合わせ、、






タイトル : コンテンポラリーアートの扉

会期/2010年9月29日(水)~10月5日(火)
 最終日は午後4時に閉場いたします

会場/高松天満屋 5階 美術画廊
    直通電話087(812)7548


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そして最後は




エトリさんの12月個展のプレゼン&打ち合わせ&
スタッフ顔合わせ&作品お披露目・・・・・




という事で




大変申し訳なかったのですが
日帰りで高松まで来ていただきました。





個展無事決定!




本年
12月22日~12月30日



タイトルは未定ですが
基本的には



新作中心で



これまでとは少し違う
エトリケンジ作品で構成いたします。



当然、エトリさんの持ち味である
空間性を重視しながらも、お買い求め
いただけるピースを会期までに数体仕
上げていただきます。




こうご期待ください。




打ち合わせ終了後、、、
個展に出す新作を見ながら
青野と談笑中のエトリさん



※サービスカットとして少し
だけお見せいたします。







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と言う事で




夜の10時過ぎに京都に帰ってきたのですが




エトリさんは本日中に




新潟オフィスアートストリートへの
最終企画書提出と・・・




まだまだ仕事が続くようでした・・




本日は無理を言ってすみませんでした。




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そして最後に



昨日久方ぶりに



読売テレビのJさんから
連絡があり、エトリさんの
取材・・・



実は5月渋谷であった、、、、
アートリパブリック渋谷にても
ロケ取材していただいたのであるが
その継続取材を当月行いたい・・と




てっきりポシャった企画かと思ったら
なんと継続中ということ・・・




先ほどメールチェックをしていたら
細かい依頼と指示書が入っていた。。




上海終了からエトリさんの新潟までの
間で決行の予定。今新潟の取材も
含めて検討中とのことであった・・



本日、返事を入れなければいけない。。




とにかく





本日から




改めて





突っ走ります!!

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亡国
8月15日



これを終戦と呼ぶか



敗戦と呼ぶか



言葉の違いは大きい。
即ち思想信条が内包されている。



ここであえて思想信条を述べる
つもりはない。



しかし、この数年来この国の彷徨
からは色々と考えさせられるものが
多い事も事実である。


この彷徨・・


私は、、、これはあくまで個人的な
考えであるが、やはり歴史の考察・
議論の欠如が積年によって出てきた
結果なのではないのかと常々考えて
いる。


その欠如、正確には分断と論じても
よいのだが、それはおそらく1945年
の8月15日まで遡らねばならないよう
な気がしてならない。



ここ最近



フッと思う事、



いや正確には単語なのであるが



”亡国”という言葉である。



現在、何事においてもメディアが放つ
この国の客観的事情は、その内容に
おいて大半が凋落の風景である。。


そして政治のスローガンの大半が
この国の再生であったりする・・



こういったネガティブな空気が蔓延
する社会の中で極端な、最悪の想定と
は何かと考えれば、行きつく所の突
き当たりはやはり”亡国”という
言葉に直結するような気がするの
である。




しかし、亡国とは




言葉の直訳としては国が滅びる、亡くなる
という事で頭では理解できるが、果たして
その風景とはどういった事なのだろう?
と考える・・・




私はさほど頭が良いわけではないし、そ
ういった事を高い次元で学んだ事もないか
ら安直なイメージしか湧かないが、、、、




それでも足りない頭を振りしぼり考えた
イメージ・想像とは、、、少し寂しい
ものが浮かんできた・・・・




亡国と言えど



この国の地図上の地形が無くなるわけでもない。



この国の全ての人々が死滅するわけでもない。



逆に言えば




この国の地図上の地形はそのままである。



この国の大半の人々の人間としての生活は
継続するのである。。




では亡国とはなにか?



一体なにがなくなるのか??



私は



文化だと思うのである。



それは古から培ってきたものが



無くなる




これが即ち亡国であると考える。



支配された時




支配された側の主体性などは
ほぼ無視されるのは当然であろう・・




言葉として妥当かどうか分からないが
植民地という一つの象徴される形から
想像してもそれは容易に理解できる。




文化がなくなる




単純に直言すれば、これはあくまで
極論を論拠に据えている私論である
ことを改めてここで加筆するが、、、



もう、日本語を喋れない



もうこれまで大事にしてきた
お祭りができない・・・



この国の歴史的遺産・遺構が別の価値
観に支配される、それは即ち保全を含め
支配側の価値観に委ねられてしまう・・



この国で醸成されてきた殆どのものが
今、我々は最上のものとして崇めてい
るが、それがほとんどそうはならなく
なる。。



これは実に寂しい限りである・・



もっと言えばその時、自らの
拠り所をどこに求めるのか??



子孫に誇りをもって伝える
文化がない。



いや正確には



文化は存在しても伝える
事を許されない・・



それを想像した時、今の生活から
いかほどのものが欠損するか、、、



いつも、こんなもの・・などと
深く意味など考えないものでも・・




亡国という最終地点から
今のこの国を眺めると、




案外色々なものが愛おしくなるのは
私だけではない筈である。。。



グローバルやインターナショナルは
大いに結構だと思う。公用語の英語化
もそうだろう、しかし大事な根幹は
大丈夫か?と問いたくもなる・・・・






戦後10年も経たない日本のアートシーン
に突如現れたアーティスト、、、





河原温という当時19歳の青年が、ペン画
ですけども『浴室シリーズ』という、ペ
ン画でタイル張りの浴室から妊婦、足の
ない妊婦、腹の膨れた妊婦や少年などの
顔がこう壁から突き出ているというそう
いう絵にショックを受けて、それがああ、
つまり戦争が終わってもあの極限状況は
そんなに簡単に変わらない、人間の回復
なんて嘘っぱちだ、今我々が置かれてる
のはこんな状態だというふうに、河原温
のあの『浴室シリーズ』で痛感したので
あります」(針生一郎ミニ・レクチャー)







色々な方が論じているので




あえて私ごときが云々するというのは
おこがましいのであるが・・




私はこの絵から当時の衝撃を考えれば



日本人は復興に向け様々な上昇志向を
発揚しているが、本質は死骸の中を
遊泳している、、それは決して忘れる
ことのできない風景であり、、極論
として、、、




私は今もこの国は死骸の海の中を
彷徨っていると思うのである・・





この禍根は消えざるものであり
これを積年に亘り無視し続けた
この国の風景は今改めて見直す
べき時点に差し掛かっていると
思うのである。。






亡国




1945年8月15日以降この国が
欠損したものが




確実にある筈である。。




新たな世紀の




この国の新たな





大戦がはじまっているように
感じる・・・

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今日は午後から



来春出版予定の書籍にエトリさんの
作品が掲載されることになり、その
取材があった・・


私も同席して取材の様子を見ていた
のだが、、、


へぇ~と我ながら感心する事があった。


私は昨年からエトリさんとは知り合い
個展を通じ様々な話もし、自分なりの
作品観というのか考え方をある程度
持つにいたっている。



これはエトリさんの考え方と即ち合致し
ているかといえばそうでない所もある。


当然、プロモーションを行う側の解釈も
加わっている訳で、そういう意味では、
作家の想いから一人歩きさせている
部分を持つに至っているわけである。


良いか悪いかは分からないが、一つ言
えるのは複眼的な要素を加えていかな
ければ作品は大衆の中には薄まらない
という事が言える。原液のままでは
中々飲み込むのがシンドイという事
が言える。しかしあまり薄まりすぎる
とこれも問題であり、もともとの味
とは?となりかねない。最後は唯の
水になってしまう。どこまで薄めるか
これは大変重要な仕事である。



カルピスを想像してただければ分かり
易いかもしれない。



そんな事を思いながら



今日の取材を聞いていて感じたのは、、、
初めて接した人が、その作品の核心に迫る、
所謂前述の原液を薄めて飲めるようにする
というのはこういう事か!と客観的に自分
の仕事を見るがごとく、取材の道筋を聞いて
いたのが凄く面白かったのである。



実に不遜で偉そうなのだが!


もう少しもう少し・・・
もうちょっとで”美味しい味に!”と


心の中で叫んでいた。。。



編集意図というものとの合致があるので
余程逸脱しない限りは黙っていたのである
が、、、



こんな時、私はいつも感じる事がある



後、300年とか500年後に



土中から今の時代の作品が出てきた時



後の世の人はどんな感想をもつのだろう?



実は、仮想として



一旦、作品を土に埋めて後の世からその作品
の感想を想像するというのは案外有効な思索
行為である。



そういった作業を頭の中で繰り返すと



現代性という今生きている作品の持つ
意味というのが結構浮かび上がる側面が
あるのだ。



例えばエトリさんの作品などが300年後
の後の世の人が見た時、素材やテクニック
よりも、、、、



なぜこの時代の人は”こんなものを”作った
のか?という



ある種の形而上的な反問が生まれるような気が
するのと同時に、そういった想像を想起させる
という事が実は一番大事な要素じゃないか?と
感じるのである。



現代美術というが



実は本質は現代から未来への想像が大事な
訳であり、その起点となる時間軸が現代
という事だと私は感じるのである。


この時間軸の考察が欠如したものを
現代美術とは本来は呼べないと私は
思うのである。



未来との交信ができる作品



そういう意味では



少し抽象的ではあるが




未来と言う土中に潜り込み



生きながらえる事ができるものが最良のような
気がするのである。



これを今世の中全般に流布している様々な作品群
に当てはめて考えた場合、簡単に標本上の類例に
属するものが多い・・・と感じないだろうか?



当然300年後の土中から出てくる作品には
キャプションなどは付いていないから、言葉に
よる補足は論外ということである。



話は変わるが



この土中に潜るという感覚で



私がいつもこの時期感じるのは




蝉である。




小さい時分大人から




蝉は何年も土中にいて



成虫になるために地上に出ても
一週間程度で死んでしまう・・・



と教えられた時




えぇぇぇぇぇぇぇと




子供心に何とも言えない身の置き所の無い
虚無感を覚えた。。





たった一週間・・・




なんの為に生きているのか??





しかし大人になって冷静に考えれば





成虫こそが生きているという考え方
がそもそもオカシイ・・・・と気づく。




土中にいる時から生命があり



実は蝉という生き物の本質的姿とは
土中にあるのでは??と感じた。。。





目に見える実態である成虫こそが
と考えがちだが、それはこの生き物
の繁殖時の変化でしかないのだ・・




実は



藝術作品とは




この蝉の一生の流れを逆流させた
ようなものだと私は思うのである。




成虫という部分が現代という時間の
軸だが、本質は長い土中を生き抜く
所謂未来を生き抜き繁殖するという
部分が作品が持たされた生命力の
ような気がしてならないのである。。






ファイル:Cicada molting animated-2.gif

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