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after80 昭和最後の方の人たち


スタートしています。


スタート前日の飾りつけの日には
毎日新聞さんが取材に来てくれました。














この企画、私がイメージするものと
実際には少し差がありました。


少し我慢して、決して誘導することなく
出来る限り素直な部分を引き出そうと
心がけました。


その中で、


10名とかなりの時間話すことに
よって想定していた事との差、
改めて分かった事が多かったのも、
イメージしていたこととの大きな差で
もありました。



昭和の終わりと平成の初め



そこに大きな差はさほどありません。


又、今回全員に以下記載する所感が
当てはまるものでもないのですが、
ほんのりと受けた私の印象・・・・



ただ、その世代間をぶち抜くものが厳然と
一本の軸としてあります。特に、テクノロジー
と醸成されていくサブカルチャー(ゲーム含む)
、そして不景気、天災(人災)・・・・


本来、私としては、そこに政治体制、社会体制
というものの”グローニカル”な感覚があるのか?
と期待していましたが・・・・正直それは皆無と
までは言わないまでも・・・ありませんでした。


つまり歴史感覚と言うものに依拠する部分です。


彼らにとっては、それら流動する社会を
伝えるテクノロジーが自らが強烈に刺激された
事象・・・・つまりインターネットという
仮想グローバル空間・・・・仮想空間の出現が
社会変動であり、生活が二分化された、もしくは
二分化された社会に出現したという感覚です。
現実的社会の動きはスクリーン中の出来事・・・・・・


我々にとっても仮想空間の出現は衝撃ではあり
ますが、しかし我々の感覚から言えば、あくまで
地続き・・・・しかし私の受けた彼らの印象からは
隔絶乖離した二分化された社会構造が感じられまし
た。



グローニカルは造語だったと思います。今調べても
おそらく出てこないと思いますが、いつだったか
何かで知った言葉で、ずっと気になってきました。


よく言うグローバルとローカルを合体させた言葉で
言葉とおり、自らのローカライズされた感覚は、実は
グローバルの末端なんだということです。


東西冷戦が終結したことが、日々の生活に追われている
一市民になんの具体的かつ現実的な事象として現れるの
か?などと考えれば、その殆どは感知できないと思います。


しかし、実際には、そこかしこにその影響から
社会が胎動し変化していっているという変化を
捉えるのか否かという事は重要な感覚なんだと
言うことです。


その繋がりを無視し、今という状態だけでの
視線、判断、思考では・・・・


もう少し先に書きますが・・・
その点がどうしても知りたかった、、、、


話は戻りますが、、、


様々な社会的事象、これらから考える彼らは


その衝撃を最初に受けた?世代と暫くしてから受
けた?世代の差。


これは、無かった時の経験値と、すでにあった
事の差ですね。


ただし、これはそうだったと誰もが言い感じる
ある意味、、ウィッキペディア的感覚と言っても
相違ない・・・・


先に述べた二分化された社会



それを感覚的により濃く内包してるのは、
境界感覚なんだな・・・・と改めて感じました。




リアリティーの感受性が、よりリアリティー
を求めれば求めるほど、、内省的なマイクロな感覚
に沈殿していく・・・つまり共感値とは別のメーター
が其々の中に存在する。共感は、、、、ブラウザー
の中で自動的に精製されて、オートマティックに知覚に
組み込まれていく。。。。あえて感受しないのか?
できないのか?その必要がないのか?


率直に言えば・・・・必要がないとしか
感じられませんでした・・・


つまり、著しい情報を垂直構造に組み立てられない
水平構造で感受するため、強烈なリアリティーが
喪失し、その反動として、リアルな自らの生活の中の
まだその奥まったリアリティーに自分を重ね合わせる
という事の特性が見受けられました。ある意味の
イメージ力の源泉の問題????


一体どこに我々の感覚とする社会が存在するのか?



一体我々の感覚とする社会のどの箇所と積極的主体性
を持ってコミットするのか?



ということが、大凡私が受けた印象ではありますが、
、、、、、、、、、、、、、



しかし、これは私の感覚との差でしかなく、、私の
感覚が正しいという軸に立てばそうですが、しかし、
今の現実的な世代の感覚であるならば、それが、この
社会の人的指向の波動かもしれません。



つまり、私と彼らでは背景が違う。
もっと言えば、江戸期の人と私では
隔絶するほどの感覚の差があるでしょう・・・


しかし、敢えて言えば、


この部分だけは譲れない事があります、


成り立ち。


成り立ちに対しての思考だけは
絶対必要じゃないか?と考えます。



つまり、今回の企画の要諦は、自らが
成り立っている、もしくは成り立たせる
という事を起点に、逆算していくという
事の中の考察であると言う事です。



自らの作品を成り立たせている事も
そうですが、もっと言えば、芸術家の
成り立ちとは如何なるものなのか?


なぜ自分は今そこに居るのか?


結論を求めているわけではないのです


カッコウつけることなく


360度さらけ出して欲しいのです。


そして、この企画を


始まりにしたいと考えています。















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