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八木佑介 第4回続(しょく) 「京都 日本画新展」 優秀賞受賞
このたび、COMBINE/BAMIgaller artist


八木佑介は,





JR西日本、京都新聞共同で、日本画を志す、創造性あふれた
若い人材の活動を奨励し、京都の文化の発展に寄与することを
めざす、京都における日本画新人賞「京都 日本画新展」に
於いて、このたび優秀賞を受賞いたしました。


JR西日本ホームページ

↓↓↓

https://www.westjr.co.jp/press/article/2016/12/page_9644.html


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詳細

1 賞の名称

第4回 続(しょく)「京都日本画新展」

2 受賞作品(年齢は発表日現在、敬称略)

(1)大賞:1点
 【作者名】
 上坂 秀明(こうさか ひであき) 28歳
 【作品名】
 「ナゾトキヤマ」
 
(2)優秀賞:2点
 【作者名】
 井手本 貴子(いでもと たかこ) 35歳
 【作品名】
 「来迎図」
 【作者名】
 八木 佑介(やぎ ゆうすけ) 25歳
 【作品名】
 「2016/05/13 2:32」

3 作品展示

(1)美術館「えき」KYOTO

【日時】
平成29年2月18日(土曜日)から2月28日(火曜日)まで 計11日間
午前10時から午後8時まで(最終日は午後5時まで)

※注釈 会期中無休、入館は閉館の30分前まで

【会場】

美術館「えき」KYOTO(ジェイアール京都伊勢丹7階隣接)

【入館料】

無料
 
【内容】

○出品作品全38点と推薦委員の4点の作品ならびに、小嶋 悠司氏の遺作を展示

※注釈 小嶋氏はこれまで推薦委員をお務めいただきましたが、平成28年6月7日にご逝去。

〇推薦委員によるギャラリートーク(いずれも午後2時から)
・2月21日(火曜日)大野 俊明氏(京都市立芸術大学特任教授)
・2月22日(水曜日)村田 茂樹氏(日本画家)
・2月23日(木曜日)林 潤一氏(京都嵯峨芸術大学名誉教授)
・2月24日(金曜日)竹内 浩一氏(日本画家)

(2)ホテルグランヴィア京都

【日時】

平成29年3月2日(木曜日)から5月9日(火曜日)まで
※注釈 変更の可能性があります。

【内容】

ホテルフロントロビー2階に受賞作品、M3階通路に出品作品を5期に分けて展示

※注釈 推薦委員の作品は展示いたしません。



▲TOP
小橋順明 生きる土 京都新聞・朝日新聞記事
本日の京都新聞・美術欄 朝日新聞(京都)にて


小橋順明 solo exhibition 【生きる土】


取材記事を掲載していただきました。


どちらも、丁寧な取材と、作家の想いを
記事にしていただけています。


特に私は、


京都新聞さんの見出し



【やきものの昆虫に宿る技術と情熱】



情熱!


この言葉を入れていただいているのが



なによりも凄く嬉しいです!



一人コツコツ


何度も何度も焼成を繰り返し


一年がかりで新しいものへ


取り組んだ小橋君の情熱


これを感じとっていただけたのが


実にありがたいです。


京都新聞社様、朝日新聞・京都総局様


誠にありがとうございました!









▲TOP
小橋と上山
小橋君の備前の昆虫


これを初見したのは



丁度1年前だ。






ギャラリー移転の改装工事をスタートさせたのが
丁度一年前の12月1日その二日後、12月3日に
小橋君は高松の青野女史と“手弁当”で応援に岡山
から駆けつけてくれた。







その時、見て欲しいと携えてきたのが


昆虫の作品だった。



その作品を披露してくれた時、実は私だけではなかった。

ギャラリーの若い作家も数名いる中、改装工事の昼休み?
というのか休憩時間、馬鹿話で盛り上がっていて話が
途切れた瞬間、その作品を皆が目にした。。。。






瞬間、皆の表情が変わったのが如実に解った。



こ、これは・・・・


作品から確かな“アウラ”が出ていた。


これが焼き物??





これが“備前焼?”



確かにまだプロトタイプぽさはあったが、、、しかし
そんな事は問題にならない精度が見て取れた。



この作品だったら私が扱える!と瞬時に確信した。



私が扱える・・・妙な言い回しだが、そこには意味がある。



先のブログでも紹介したが、彼と出逢ったのは5年ほど
前だった。



コンテンポラリーアーティストを目指す備前焼作家
というスタンスはその時、理解できたのだが、しかし、
私は純然たる備前焼を扱う仕事ではない。



コンテンポラリーアートを扱うので、その部分で彼と
融合できるはずなのだが、しかし当時の彼の
コンセプチャルな作品群は到底その当時?今でもだが、
私の手に負えるシロモノではなかった・・・



程度が低いかと言えば逆でレベルが高すぎ難解、
その上、作品から商品に転化する要素が殆どない、
つまり流通させようのない内容・・・これでは、、、、
と足踏みする事となる。



当面、彼が考えている、それを元にする行動に
対してのアドバイスという程度の助力は行おう
とは考えていた。



彼のレベルの高さは、実際、



BEPPU ART AWARD 2011 Prezentation Planという
別府で開催されたコテンポラリーアートのコンペ
にコンセプトを出品しファイナリストに選出されている。





その後、何度も折を見て色んな話を繰り返してきた。
ある時は百貨店の売場、ある時は喫茶店、ある時は酒場・・
・・京都、高松、岡山、、それぞれの拠点で。。。






そんな事が5年ほど続いてきたのである。



正直、当然その間、私以上に彼がこのテーマ性についての
閉塞感を増していったのは見て取れた。







2度ほど、試験的に私がサラリーマン時代、営業企画を
任されていた高松天満屋のアートギャラリーや画廊企画
に彼の作品を実際に投入した事がある。



反応、結果、確かに悪くはない。しかし如何せん、
難しいという部分が綺麗に払拭されるわけではなかった。



ただ、その僅かな機会に私なりの妙な突破口が感じられた
事も確かであった。



コンセプチャルな精度、概念性、は高いが、それ以上に、、、



彼が作る具象的形態には魅力がある。そこには、
既に、彼が何時もコンテンポラリーという刀を
大上段に振りかざし常に対決を挑むエッセンス
が含まれているのじゃないのか?と何となく
私なりに感じた。



つまり、敢えて、大仰に彼がよく使う言葉としての
“焼成とは?”などという観念性が、彼が意識し
なく日常で作る具象物に内在し、それを見た人が
普通に十分感じるんじゃないの?



この方向から攻める事の方が重要じゃないのか?と感じた。



しかし、問題がある。



それは何を作るべきなのか?と言う事である。



すべての作品、作家に共通する事だが、この何を作るのか
という単純な問いは、本来問いであってはならないのである。



つまり、作家として生きている人間の根源になるから
であり、貴方はなぜそのようなモノを作るのか?と
聞かれても言葉として正確に答えられるものではない。



故に創り続けるという逆説的真理があるはずだからである。
もっと平易にくくると“好きだから”という程度しかない
のではないか?と考えられる。



どの人間でもそうだが、なぜ好きか?と聞かれ、
自身が納得する言葉があるだろうか?それは言葉を
遙か越えたエモーショナルな世界でしかないと私は考える。



そのごくごく当たり前の部分をある意味独自のメソッドに
沿ってアウトプット=具現化する、もしくは出来るのが
芸術家だ!



では、、、小橋くんの場合



テンプレート化された備前の伝統はできる。


しかし、基本となる個性的基礎は?何??


私にとっての小橋マターの蓋然性は、、



それがなければ・・・



ある時、酒場で、話の流れから、
感情的になっていたのを覚えている・・・



【結局、お前の好きなものはなんだ?】



上述の内容と真逆の問いではあるが・・・
この言葉を投げるしかない・・・そんな場面だった。



かなり強く、張り倒すような勢いで聞いた事を覚えている・・



その時、彼は黙った。









その後??というかその酒場での会話が何時だったのか?
覚えていないが、



先述の1年前の



備前の昆虫を初見する場面に戻る。



これならば。



妙な縁



丁度その一年後に彼の個展を開催する




小橋順明 solo exhibition 【 生きる土 】は、




そんな時間経過と会話の中で生まれた
展覧会であり、私と彼のこれからである。



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小橋順明 solo exhibition 【 生きる土 】
2015.12.02 (wed) - 2015.12.14 (mon)
OPEN12:00-18:00
会期中無休
■作家初日(12/2)在廊予定







【 生きる土 】出品作品集


COMBINE 小橋順明 solo exhibition 【生きる土】 作品 by COMBINE





■プレスリリース


COMBINE 小橋順明 solo exhibition 生きる土 プレスリリース by COMBINE





■プロモーションビデオ




▲TOP
小橋順明 【生きる土】 彼との出会い
来週の水曜日(12/2)から


BAMI galleryは


小橋順明 solo exhibition 【 生きる土 】を
開催させていただく。



先ずは展覧会告知をさせていただきますが、
それ以外に、彼との出会いについて
纏めさせてもらいました。


現在、岡山に居る彼と京都に居る私。
出会って約5年になります。備前焼作家
の彼と、コンテンポラリーギャラリーの
ギャラリストの私。本来あまり交差する
ことのない我々が、何故か奇妙な縁で
5年間つながってきたのは、それなりの
理由があります。


少し懐かしさも手伝い
私自身振り返って見たくなりました。



2015.12.02 (wed) - 2015.12.14 (mon)
OPEN12:00-18:00
会期中無休
■作家初日(12/2)在廊予定





COMBINE 小橋順明 solo exhibition 生きる土 プレスリリース by COMBINE











小橋君と出逢ったのは何時だったか?多分5年くらい前の
ような気がする。


ある時、高松の青野女史から逢って欲しい若い作家がいる
と連絡を貰い、次回出張時だったか?とにかく高松に行く
機会に逢う事にした。


事前にどんな作家かと聞くと、、備前焼の・・・・


正直興味が湧かなかった。


西日本の百貨店(岡山広島間)が独自に販売する、、
特に岡山界隈では独壇場ではないか・・・・


いくら良い作品でも私の守備範囲外だし、なにより純然
たる焼き物は仕事としては門外漢だと自覚していた。


しかし、少し違うという返答。違う?何が違うのかよく
分からなかったが、まぁ逢って何か被害を蒙る事もないし、
別段逢うだけなら普段知らない焼き物の世界のことも多少
知れるからいいかと言う程度の気持ちでその時は終わり、
逢わなければならないことすら正直忘れたような気がする。


改まって逢った記憶がない。


先述した出張中に、彼が居て、逢った。。偉そうだが、、
逢うために行った訳ではなく、忘れていた事も手伝い、
あーそうだったという程度だったと記憶している。


立ち話だった。


逢うと、若い?という事もさることながら、、、
焼き物作家??という匂いが正直あまりしない・・・
ごくごく普通の青年。


この青年の何が他と違うのか??


当然聞いた事も見たこともない。
備前は草臥れるほど似たような作品・作家が多い。
そんな悪印象しか私にはなかった。


挨拶もそこそこに、携えていたポートフォリオを
見せてもらったのだが、、、、


あっ!となった


確かに違う。


ステロタイプの備前焼作家と違うのは一目で分かった。





作品画像以外の文章も慌てて目を走らせる!





少ししつこく観念的帰来が強く、、
読む相手をねじ伏せようとする匂いがぷんぷんしていた、、
しかしかなりの論理性と着目点が見て取れ、


間違いなく優れていた。





ただ、、この優れたものを、、、、



どこで具現化していくのだろう??そう簡単に探し出せる
出口がないじゃないか??と瞬間的に頭を過ぎった。


ある意味、、切れすぎていて、とにかく何でも良いからと
適当な出口に行くと、完全な際物扱いにしかならないし、
我々でも相当苦労するのだが、その作家の芸術性を純度高
く紹介できる場面などそうそうはない。





ましてや、、評価など・・・






このレベルを理解するというのは・・・・





その時彼は35歳くらいだったと思うが、、何時からこんな
事を考えていたのか?普通の備前焼を人前で発表できるよ
うになるだけでも10年はかかる、、、その後これを考えた
というのでは辻褄が合わない。。そんな薄っぺらい錬度で
はない。。そうなると、、、土をひねり出した頃、20代
前半から考えていたのか?と、、改めて彼の顔を見た。



普通の青年だが、、、



彼の大志・・・



これはその時の私には十分“響いた!”



この青年は、、、、決して器や伝統的な備前だけを
やりたいのではない・・・・



出身・備前焼という名のコンテンポラリーアーティスト
を目指している。。。というのがその瞬間わかったが、、



このままでは無理かな??と・・・


不遜だが、その時の私は強く感じた・・・


その日から


彼との付き合いが始まった。






▲TOP
力さん
先日久しぶりに京都駅から歩いた。


そして少し遠回りをした。


実は一箇所以前から立ち寄ろうと思っていた
場所があったのだが、、、


なかなか行けず・・


と言っても、、ギャラリーから僅か4,5分なの
だが、、、



場所は画像の路地だ。





何かの石碑や案内板があるわけではない。


七条大宮通り一本西側の路地、花屋町通りをホンの僅か
下がった場所。


本当に狭い路地で、おそらく幕末からこの道幅は
そのままだと思う。


この画像の場所に、


新選組隊士(二番組伍長)、守衛新選組隊長
島田魁が新政府軍との函館戦争に敗れ京都に
戻ってから棲んでいたらしい・・・





島田魁は


新撰組ファンなら誰もが知る快男児。


副長の土方歳三の徹底した隊規の取締りによる
隊士の粛清等所謂、裏の土方の「汚れ役」も
担っている。


ある小説の情景描写、、おそらく新政府軍
との戦いの最中だが、二人の関係を上手く
現している・・・


「何をしやあがる。離せ」


「離しません」


島田魁は、歳三の手をとって自分の肩にかけ、
うむを言わさずに背負った。


「よせ、みっともねえ」


「みっともなくても、副長に死なれては困るんです。
東照大権現の旗の下に集まった者が皆、困るんです」


島田魁は最後の最後まで土方歳三に付き従った
戊辰戦争を函館五稜郭、五稜郭戦争まで戦い抜き、
明治二年(西暦1869年)5月、土方歳三が戦死し
新撰組が降伏するまで抗戦した剛の人である。

その咎で同年11月まで謹慎処分に処された。
函館で戦死した土方歳三に最後まで随伴した新撰組の幹部
でもある。

そして箱館で戦死した土方歳三の戒名を書いた布を常に懐に
携えていたという。





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歳進院 誠山 義豊 大居士
「誠の山は義(ただしく)豊かに歳とともに進む」

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新政府から釈放された後は京都に戻り、レモネード屋や
雑貨屋、剣術道場などを開いたが、あまり流行らず困窮し、
新政府への出仕の話や榎本武揚が、、、


「旧交を温めたいので宿舎まで来て欲しい」と面会し
たいと伝えたのに対し、


「会いたいという奴の方から出向くのが筋だろう」
と断ったという。


榎本は知っての通り函館で共に戦った同志だが、、
その後その能力を高く評価され新政府の人材として
活躍するが、、、



島田魁は別の感情を持っていたのだろう。。。


おそらく新政府への出仕という話も一度や二度では
無かったと思う。



「おれがさような途を選んだならば、若くして賊徒の
汚名のもとに死に、地下に眠っている友人たちはどう
するのだ。死すべきところを生きながらえただけでも
相済まぬことなのに、おれが、この島田魁がかつての
敵になど仕えられるか!」



明治19年を境に道場はすっかりさびれ、昼は竹刀をとり、
夜は西本願寺の夜警をして家計を支えた。。。



明治十九年(西暦1886年)にはかつて新撰組の駐屯所が
あった西本願寺の夜間警備員に雇用され、


薄給(月給九円。当時の巡査の初任給であったという)
の中に赤貧を貫いて明治三十三年(西暦1900年)、

持病の喘息が悪化したのを伴って退職
(西本願寺の好意で実際には休職扱いに)。


その一ヶ月後の3月20日、自発的な巡回中に喘息の
発作を起こし、実直な性格を物語るかのように
そのまま倒れその場で逝去する。



”赤貧を貫いて”



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土方への追悼歌

鉾とりて月みるごとにおもふかな 
あすはかばね(屍)の上に照かと


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私のギャラリーの傍に


今から約130年前


こんな男が棲んでいた


先日


なんとなく


島田魁に会いたくて


ほんの少し遠回りをした。。。。

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