August 29,2017
8月も終わりに近づいています・・・・
今年も残すところ、、、9月10月11月12月の
4ヶ月・・・・半分は過ぎていますが、、、、
この暑さ・・・残り4ヶ月で年が変わるという
感覚は全くありませんね??
12月になったら、40度こえるのかぁ?
という古い笑い話も冗談じゃなくなる???
さて、この酷暑の中、BAMI galleryでは現在
4展 Shiten Round8 テーマ『水』を月末まで開催
させていただいております。
テーマ『水』と言うことで、、”涼感”を
イメージされる方もおられるかもしれませんが・・・
画像の通り、、涼はありません・・・
どちらかと言えば軽妙洒脱ではなく
重厚・・・しかし、それぞれの水という
テーマの捉え方は鋭利で”冷たい感覚”
を内包しております。31日(木)までです
ぜひお見逃しのないよう!!!
7月8月と外部の百貨店企画が多かったのですが、
この8月後半から12月までは百貨店においての
個展企画はありません。多少、店外企画やグループ展
参加及び売場展開企画がありますが・・・・
そこで!9月はBAMI galleryで腰をすえて
企画いたします。
9月は少しこれまでと違った趣向で、
COMBINE/BAMI galleryの作家達を紹介しようと
考えています。
基本グループ化した展覧会ではありますが、
これまでとは違う切り口と”掘り下げての”
構成を考えています。
プライマリーギャラリーとしての根幹
を企画に据えて作家の魅力を紹介する
ということを念頭においております。
生まれた年代によるグループ化
COMBINE/BAMI galleryのアーティスト達、
そのほとんどが、1980年代と1990年代の生まれです。
今回の企画は、80年代生まれの作家を前半として、
90年代生まれの作家を後半に分け展観いたします。
80年代と90年代。どの時代も激変してきた要素を
内包していますが、現在20歳代と30歳代の芸術家
は一体何に影響されて今に至っているのか?
それぞれが人生の起点と成す時代から現在までの背景
の考察を基に、それぞれの制作に対しての“文脈”を探り、
そしてなぜ今の制作に至ったのかという部分に焦点を当て
ます。自らの文脈をもっとも如実に現す作品を展示し、
その背景を文章化することにより、各作家及び作品の魅力
を浮き彫りにしたいと考えております。
お盆明けの19日(土)から28日(月)までの約10日間
参加作家一人ずつと面談打ち合わせをし、長い時には
数時間、場合によっては修正やり直しを経て、各人の
文脈をひっぱりだしました。
私が考えているものとの精度における整合は正直
マチマチではありますが、各人真剣に自らを掘り下げ、
ある者は自らが気付いていない自分を、ある者は今後
に繋げる要素を得たと確信しています。今回の展示作品
はいずれもその起点となる作品群です。
80年代90年代
その差はそう明確ではないですが、しかし
やはり多少の差を感じます。
いずれの作家も時代・社会に対して
大体同様の感受性ではありますが、、
その殆どの起点が
生死
というのが実に面白いなと言うのと
同時に、所謂コンテンポラリーアート
の純粋な根幹が見て取れます。
以下は、それぞれが自らの文脈を文章化してくれた
ものです。少し長いですが、記録として掲載いたします。
***************
after80 昭和最後の方の人たち
2017.09.06 (wed) - 2017.09.15 (fri)
OPEN 12:00~18:00
期間中無休
釜匠 1985 年 阿部瑞樹 1987 年 松本央 1983 年
遠藤良太郎 1987 年 佐野暁 1981 年 公庄直樹 1982 年
after90 平成最初の方の人たち
2017.09.19 (tue) - 2017.09.29 (fri)
OPEN 12:00~18:00
期間中無休
八木佑介 1991 年 宮本大地 1991 年 岡部賢亮 1990 年
太田夏紀 1993 年
ナカマハズレ H116.7 x W91cm oil on canvas
釜匠:1985年生まれ
私は1985年に大阪で生まれた。幼稚園の頃まではマンション
に住んでいたが、母の再婚を機に一軒家へ引っ越した。
その家は大阪市西淀川区の工業地帯にあり、家のすぐ裏には
淀川が流れていた。引っ越したばかりで近所に友達も居な
かった幼い私は毎日のように淀川の河川敷で1人遊んでいた。
カエル、バッタ、カマキリにカメ…
高くそびえるコンクリートの堤防を越えるのはとても
恐かったが、一歩河川敷に入ればそこは当時の私にとっては
まさに楽園だった。毎日沢山の動物達を追いかけて遊んだ。
母が再婚するまでは独りが怖くて泣いてばかりだったが、
河川敷で沢山の生き物と遊ぶようになってから泣く事は
少なくなった。
人間ではない彼らと接する事で私は初めて自分も"ヒト"
という"生き物"だと実感出来た。独りで部屋に取り残さ
れるより、沢山の命に溢れた河川敷に居る方が心地よか
ったのだ。
しかし、小学校低学年の頃に一斉に始まった護岸工事の
せいで河川敷の景色は一変した。
かつて西淀川区や対岸の此花区は大正期に住友グループを
中心とした大規模な開発が行われたことで阪神工業地帯の
中心を担っていた。重工業地帯だったことが災いし第二次
世界大戦では集中的な爆撃で壊滅的な被害を受け、また、
高度経済成長期には激しい公害に見舞われるなどした。
昭和の終わりには産業構造の転換により工場の地方・海外
移転が進んだことで空き地や廃工場が多く見られるように
なった。
私が移り住んだのはちょうどこの辺りで、その頃には河川敷
や空き地には沢山の自然環境が点在していた。しかしその後、
1995年の阪神淡路大震災や2001年開業のテーマパーク
『ユニバーサルスタジオジャパン』等のアミューズメント
産業地区開発やそれに伴った居住区開発をきっかけに身の
回りの環境は一変した。
生命豊かな草原は埋め立てられ、大好きだった河川敷は歩行
しやすいようコンクリートが敷き詰められた。そして、みる
みるうちに生き物は姿を消し、ついにはバッタ一匹見つけら
れなくなった。
敷き詰められたコンクリートの上、対岸に巨大な建物が建ち
並んでいく様子を私は睨むようにして見ていた。私はこんな
事を平気で行う大人達が憎かった。それと同時に、そんな事
が出来る大人達が恐ろしくもあった。その出来事以降、
私は"ヒト"という生き物に違和感を感じるようになった。
そして、その時に芽生えた違和感は強い疎外感となって、
今でも消えずに私の中に深く根付いている。
スイゾク ウーディシードラゴン
40×20×5(㎝) 乾漆、螺鈿、銀粉
佐野 曉:1981年生まれ
私自身にとって昭和とは子どもの時の記憶そのものだ。
ファミコンやビックリマンシール、ミニ四駆など様々な
玩具が流行り、バブルは弾け日本は長らく続く不況の時代
へと入ったわけだが、そんな世間とはお構いなく、私自身
といえば絵を描いたり勝手な物語を作ったり、ザリガニを
捕まえたりととにかく一人遊びの得意な子どもであった。
昭和の終わりに生まれたそんな子どもは携帯ゲームを片手
に一人遊びにふける平成の子どもの嚆矢であったのかもし
れない。私自身にとって作品を作るということはひとえに
そのような子ども時代の遊びを辿る追憶の行為である気が
してならない。
遊び場 H45.5 x W53 cm oil on panel
松本央:1983年生まれ
私の生まれた1983年にはインターネットが始まり、
任天堂からファミリーコンピューターが発売された。
これらのテクノロジーは現在まで発展を遂げ、今の
自分の生活の中にも深く浸透している。
思い返せば、私の幼少期である、1983年から1989年
ごろまでは、すごく未来への展望が明るかったように思う。
大阪万博の名残なのか、バブルで景気が良かったからなの
かはよく分からないが、科学技術やテクノロジーが高度に
発展した輝かしいユートピアのような未来世界を子供なが
らにイメージしていた記憶がある。分かりやすく言うと
「鉄腕アトム」で描かれているような未来世界である。
なぜ、「鉄腕アトム」を例に出したかというと、私が絵を
描くことを意識しだしたのが、手塚治虫の影響が強いからだ。
1989年に手塚は逝去するが、その時にテレビで大々的に特集
が組まれていた。それを見て影響を受けた私は絵を描くこと
が、とてもかっこよく思えたのだ。それをきっかけに漫画家
になること(絵を描くことを仕事にすること)を意識し始め
る。
手塚が亡くなった1989年は同時に昭和天皇が亡くなった年で
もあり、時代が昭和から平成へと移り変わる転換点でもあっ
た。これ以降は未来への展望というのが、徐々に暗く破滅的な
方向へ変わってきたように思う。バブルの崩壊、ノストラダム
スの大予言、酸性雨などの環境問題、など暗い話題が連日のよ
うに盛んにテレビで報じられていたような記憶がある。
当時小学生であった私はメディアの影響を受け心底恐ろしく
感じ、1999年以降の未来は想像できなかった。しかし、あっ
けなく2000年を迎え、今は2017年である。漫画や映画などで
描かれた未来世界の年代に突入したが、1990年代に私が心配
したようなこと(人類の破滅や世界の終末)は無かった。
また、幼少期に希望を抱くような未来世界でもなかった。
私の幼少期から現在を振り返ってみると、ただひたすらに
どうしようもない世界が広がっているように感じる。これ
は良い意味でも、悪い意味でもある。確かに、テクノロジ
ーは進化し、ケータイ、スマホなど無くてはならないもの
になっている。人間の生活をより豊かに便利にするのに役
立っているのだろう。しかし、一方で新しいテクノロジー
ができると必ず悪用しようとする人間が現れたり、開発者
が意図した本来の目的とは外れた使い方をするものが現れ
たりする。
時にはその誤った使われ方によって爆発的に普及するなど
といったことがよく見られる。例えば、パソコン、インタ
ーネットの普及の背景にあるアダルト産業の影響などがあ
げられる。
このような人間の持つ「どうしようもなさ」に私は強く引
き付けられる。カンボジアの舗装されていない土の道の脇
にペットボトルやプラスチックゴミが散乱していたり、
アンコールワットの遺跡が妙に整備され観光地化されてい
たり、住民が無秩序に増築した九龍城などのスラム街に
造形的な魅力を感じたり、ついこないだまで文明と接した
ことがないアマゾンの原住民がなぜかアディダス製のハー
フパンツだけをはいていたりするのを見ると、私はほほえ
ましく思え、妙に安心するのである。
科学者や学者にとっては、新しいテクノロジーの開発、
発見というのは、人類の発展にとって非常に大事なことで
あることは理解できる。しかし、大多数の人間にとっては
そうではなく、ただ目の前にあるものを使って生きていく
というシンプルな行いだけが、長い間繰り返されてきただ
けのように思うのだ。
それはどの時代、地域であっても変わることは無い普遍的
なものであると思う。その行いが良いか悪いかは置いてお
いて、どうしようもなくそうなってしまうという人間の持
つエネルギーの大きさや、その正体、根源のほうが私には
興味があり、絵を描くうえでも気にかかっているテーマで
ある。
刻 333×242mm 麻布、ボローニャ石膏、アシェット、
銀箔、膠、アクリル
阿部瑞樹:1987年生まれ
1987年2月、日本という平和な国に私は生まれた。
幼少期のかすかに残ってる社会的な事象の記憶でパッと
思い浮かぶのはベルリンの壁の崩壊、バブルの崩壊。
ほとんど記憶はないが大人達のざわついた空気を肌で
感じた事は覚えている。物心ついてからは阪神淡路大
震災、地下鉄サリン事件、9・11テロ、最近では東日本
大震災などが挙げられる。
しかし、私が画家として絵を描くにあたって直接的に
影響されている出来事というのは正直なところ、ほぼ無い
に等しい。ニュースで歴史を揺るがす大事件が起こっても
ニュースの中の出来事で現実感がないし、そのニュースで
すらあまり信用できない時代でもある。
もちろん心は痛むけれど、一方でその自分の心に懐疑的に
なっている自分もいる。ぬくぬくと幸運に恵まれ何不自由
なく平和で幸せに育ってきた私には、どこか人間として抜
け落ちてしまっている部分があるように感じる。何を描い
ても自身でも現実感がなくただの嘘になるので、自然と
身近な事柄を絵の題材・モチーフにすることが主になった。
ここからはとても個人的な話になるが、私には二人の
ちょっと変わった祖父がいる。(いた。)ひとりは父方の、
実家富山の祖父だ。実家の裏庭は祖父の温室や素材置き場
になっていた。悪い表現で言うとゴミ屋敷だ。そこには
パイプやら色んな金属部品やら瓦やらが赤土の地面に積ま
れており、おなじ場所で烏骨鶏や品評会用の植物なども育
てられていた。
幼少の頃は裏庭が秘密基地のようで探索しながら遊んでいた。
錆びた金属と赤土の色、におい、温室のむせ返るような湿度、
烏骨鶏や虫の鳴き声。子ども心にはとても興味が惹かれる要素
がそこには詰まっており、今でも鮮明に思い出せる。
戦後、「物が無い」という中でサバイバルしてきた祖父に
とって、物を集めてストックしておくという事が習慣に
なっていたのかもしれない。また富山は米どころと言われ、
阿部家もご多分に漏れず兼業農家で米をつくっていたので
農業機械のメンテナンスも必要になってくる。年に一度しか
使わない田植え機やコンバインなどはたまにしか使わないせ
いでトラブルが起きやすく、その都度修理しながら使わなく
てはならない。
毎年のように業者による修理を待っていたのでは田植えも
収穫もなかなか進まないので、よく祖父達が(おそらく適当に)
修理して使っていた。祖父の車(旧ビートル)でさえペンキを
塗りながら長い事乗っていた。しかし時代は進んで技術革新
が起こり便利な道具が増えて壊れにくくなってくるにつれて、
祖父が収集していた”いずれ何かに使う”部品などは必要と
される場面が無くなった。あとはもう溜まる一方、錆びる
一方で、私の脳裏に深く刻まれている裏庭が完成したのだ
と考える。
そして三重の母方の祖父だ。残念ながらもうこの世には
いないが、三重の祖父もある意味変わり者だった。とても
頭の良い人で、若い頃は学者でカナリアの研究をしていた
と聞いた事がある。自分にも人にも厳しい人だったらしいが、
私は優しい祖父のイメージしかない。幼い頃から毎年のよう
に三重に遊びにいっていたが、寝る前には孔子の教えを子ど
もの自分に分かりやすいように説いてくれていたのを覚えて
いる。
また、円空をリスペクトしており、祖父自身もよく色んな
山へ登山しにいったり木っ端仏をたくさん彫っていた。
幼い時分にはよく分かっていなかったが、三重の祖父は
信心深い仏教徒というわけではなく、その思想や哲学を学
び日常に活かしたり孫である私に教えてくれようとしてい
たのだろう。と、ここまでは普通に良いおじいちゃんな
祖父だが、私が大学4年生、21歳の時に祖父は山で
行方不明になった。
「この人は山で死ぬんだろうな…」という予感めいたもの
はずっとあったにせよ、現実に山で行方が分からなくなる
というのは人生の中で1、2を争うほどの衝撃だった。
約半年後に遺体で見つかり、警察署で一家が集まりデジカメ
の画像にて遺体確認を行う際、どんな恐ろしい画像を見る事
になるんだろうと思っていたが、見た瞬間にすっと心に落ち
て納得できる事があった。それは「人は土に還る」という事
である。
そこには「悲しい」という感情はなく、祖父は土に還ったん
だなという納得しかなかった。また、祖父の遺体の画像の色
は偶然にも上記した富山の祖父の裏庭の景色の色とも重なり
合うのだ。人も、物も、いずれは朽ちゆくという事を本当の
意味で意識し、理解したのはこの時だろう。ニュースであた
かも別世界のように感じていた死というもの。希薄になって
いた死生観がこのときはじめて目を覚ました。
現代では火葬が99%以上を占めるこの日本で、はじめて向き
合った生々しい「死」がこの祖父の死だった事、また、
幼少の頃から見てきた「錆びた」景色と相まって、現在の
私の作品に多いに影響を及ぼしていると言える。いささか
マイクロポップではあるが、私にはこれだけしかない。
陶球体白蛹#1 18x18x18cm 半磁土
遠藤 良太郎:1987年生まれ
新潟県燕市に生まれる。1987年生まれは、いわゆるゆとり
第一世代。要するに旧課程からゆとり教育に移行するため
のお試し世代(実験的な期間)といわれている。また2009年
のリーマンショックにより、就職難を迎えた世代でもある。
中学3年から高校1年の頃、ケータイ電話が急激に普及し
始めた。ケータイ電話の普及により、今までの生活から、
様々なこと(人との接し方、距離感などなど)が一気に変
わりだした。
自分の意思とは関係なく、変化を強要されることが多かった
世代ともいえる。私は、そうした、自分の意志とは関係なく
起こる、様々な変化に抵抗感を覚え、学校教育から距離を
置いた。大きな流れに身を任せること、流れに抗う事、
どちらが正しいのかは分からないけどそういう選択をした。
そうした経験の中から、あらゆる物事は自分の意志とは関係
なく、大なり小なり、色々なスピードで変わっていくことに
気付く。それは自分という存在の小ささを思い知った瞬間で
もある。しかし変化には常に、大きなストレスと、そして
同時に人生の面白さ、喜びが詰まっていた。この星には本当
は善も悪もない。ただただ全てを丸く飲み込みながら、
変わり続け、そして生きていく、それだけなんだと思う。
私は、その単純で完璧な構造に魅了されたのだ。
気配 H48 x W41 x D6 cm イチョウ、真鍮
公庄直樹:1982年生まれ
鳥や猫からカエルやヤモリまで、様々な生き物を木彫で
表現する。素材とする木材の種類も様々で、モチーフと
なる生き物の形や質感に合わせて使用する木材の特徴を
見極め、作品に使用している。
では何故木彫で生き物なのか・・・それは幼少期の経験
が確実に強く影響している。1982年に滋賀県の大津市に
生まれ、物心がついた時に家には4匹の黒猫と毎日家に
立ち寄る一匹の黒い野良犬がいた。
父親の仕事が休みの日にはよく近所の山や畑に連れてい
ってもらい、自然の中で遊ぶことを教わった。川に入ったり、
木に登ったり、変わった鳥や虫がいればじっと眺めたりし
ていた。
当時の家には幼児向けのキャラクターやおもちゃといった
物はほとんど無く、僕の遊びといえば犬や猫と触れ合い、
野山に行き、家の中では絵を描くことであった。今思えば
父親はあえて子供を一般的な遊具から離し、自然や動物と
触れ合わせることで素朴な感性を養いたかったのではない
かと思う。
しかし小学校に入り友人が増えるにつれて、少しずつそう
いった「遊び」からは離れていくことになる。友人の家で
は当時流行っていた漫画を読み、外では学校のグラウンド
でサッカーをしたりと、いわゆるごく普通の小学生であった。
そのまま淡々と進学していき、高校生になる頃には、もはや
頭の中は受験で一色になり、自分の将来は偏差値で決まるも
のだと思い込むようになってしまっていたのだった。
そんなか、高校3年生の夏期講習の帰りにふと立ち寄った
本屋で偶然とある画集(確かモネの池ような綺麗な絵だった)
を手にとった時に、幼少期の記憶が一気にフラッシュバック
したのを覚えている。
自然の色と音と匂い囲まれて、鳥や虫の気配を感じながら
野山を走り回り、家では犬や猫とじゃれあい、一生懸命自由
に絵を描いていた日々が鮮やかに蘇った。そこそこ良い大学
に進学し、無難な会社に入る事が自分のやりたい事なのか。
そうではない、漠然と何かを表現したい、もしもそれで生計
を立てられるのならこんなに素晴らしいことはないと。
そう思った。その直後から進路を芸術大学に変更し、紆余曲
折しながらも京都市立芸術大学の工芸科に入ることが出来た。
大学1回生の授業で布、土、木、漆など一通りの工芸素材を
扱ってみて、木が一番自分と相性がいいと思うようになった。
木材には多種多様な種類があり、色や木目も様々で何より削っ
た時の匂いと感触が心地よかった。木を使い始めた頃は箱物
や家具といった木工芸品を作ったりしたが、やがては木彫に
たどり着いた。
やはり幼少期に抱いていた自然に対する感激というのか畏怖
というのか、そういったものを自然素材の木を使って形にし
たいと思うようになっていたのである。
今現在もこの根っこは変わらない。生き物や植物といった
自然がもつ造形の美しさ。それは厳しい弱肉強食の世界で
必死に存続しようという種の本能がそれぞれの環境に合わ
せて進化してきた、洗練された生命のカタチの美しさなの
だと僕は思う。
その息遣いが聞こえてきそうな気配や存在感を、木材がもつ
魅力を活かして表現したい。思わず立ち止まって、見惚れる
ような、そんな美しいカタチの木彫作品を作りたい。
午前二時三十七分 10 H72.7 x W72.7 cm 麻紙 岩絵具
八木佑介:1991年生まれ
町の景色が変わっていく。私は1991年、京都と大阪に挟
まれた郊外の町に生まれた。小学生の頃、99年に巨大な
イオンモールが、03年には第二京阪道路、久御山ジャン
クションが久御山町に広がる農耕地の上に完成した。
当時、「10年後の久御山町」という小学校の授業では発展
続ける町の将来を想った。同じく、京都議定書についての
授業もよく覚えている。京都盆地の底である私の町は海面
上昇により海に沈むかもしれないと教えられた。
広大な田畑を貫くように伸びる巨大な高速道路とジャンク
ションに沿って私は通学していた。夜が明るくなっていく
ことに気付く。
闇に覆われていたはずの街の風景を、人工の光が明るく
照らし出す。等間隔に並ぶ街灯が遠い町まで続く。人間の
活動が止み、無人となった午前二時に私は街を散策し、
人工の光を物質として点描で描く。人間の文明による営み
を俯瞰して見る。
資源を削り、途方も無い速度で物が生産されているその
恩恵の中で生きている。都市という人類の生きる巣の姿
を描く。
洗面鉄道 H50 x W60.6 cm Acrylic on panel
宮本大地:1991年生まれ
僕は誰でも見たことのある場所やモノの中に小さな世界
を造りあげる作品を描いている。そこには、現代にある
モノ、過去にあったモノ、現実には存在しないモノ、
様々なモノが自由に組み合わさり詰め込まれている。
そこに表れる世界は、自分の人生の蓄積による世の中の
見え方の様に感じる。作品を描けば描くほど、自分がど
ういう人間なのか、何に興味があるのか、自分の人生が
どう作品に影響を与えているのかが見えてくる。?
1991年生まれ、景気が不安定になる中、両親の共働きも
当たり前となっていた。そのため幼少期は祖母と過ごす
時間が多く、1番初めに絵を描く事を教わったのも祖母
だった記憶がある。
遊び道具はもっぱらミニカーにプラモデルにオモチャの
ロボット。それらを使って自分だけの小さな世界を作り、
没入していた感覚は今の作品と大きく繋がっている。
小中学校の頃には世の技術もどんどんと向上し、身の回り
には小型ゲーム機やノートパソコン、携帯電話、ウォーク
マン。
モノのハイテク化が進む中で、自分も当たり前に順応して
いると思っていたが、どこかで置いていかれてる感覚、
便利になりすぎる事への怖さを持ち続けていた。ネットが
発達し、世の人たちの世界が広がり続ける中、自分の望む
世界は幼少期にオモチャを使って遊んでいた様な、自分の
視界におさまる小さな世界、人と人との温もりを感じる昔
ながらの世界だったのだろう。
そこに感じるズレの中で生まれた過去のモノに対する憧れや
興味が作品のモチーフの選択に表れている。旧車や黒電話や
レコードなど、自分が生まれる前に活躍していたモノたち。
そこには作り手の温もりを感じ、憧れを感じ、知らないから
こそ魅力を感じ、自分の理想を重ねる。その世界にこそリア
ルを感じ、作品に残したい。描き続ける事で自身を掘り下げ、
理解し、また描き続ける。
福子 30×22×24 cm 素材:陶土
太田夏紀:1993年生まれ
1993年、三人姉妹の真ん中っ子として生まれる。小さい頃
から、暇さえあればチラシの裏や自由帳に絵を描いて遊ん
でいた。 紙の上に自分の想像した世界が出来上がってい
く事が楽しくて、絵を描くことが大好きだった。
物心がつく前から、子供向けの漫画やアニメを見て育って
きた私は、常に非現実的な出来事で満たされていた。
そのため、実社会で起こっている問題などを肌で実感する
事は難しく、今でもそれらに対して極めて鈍感になってし
まった。
大人になったら漫画家になりたいと思うほど絵を描く事が
好きだったけれど、もちろんその他の遊びもたくさんして
育った。近所の川に入って魚を探したり、泥団子を作ったり、
家の中だけではなく外で活発に遊んでいたように思う。
その頃は、虫でも魚でも関係なくゲーム感覚で触って遊ん
でいた。きっと生き物は「動くオモチャ」のような物だっ
たのだろう。しかし、そんな遊びをしていたのは小学校
低学年の頃までの話。ある時、畑にいた大きな虫を夢中に
なって捕まえていた私は、捕まえる際に誤って手で潰して
殺してしまった。
さっきまで動いていた虫が、ぐちゃぐちゃになって動かない。
それまでは〝たった一匹の虫〟程度の認識だったものが、
なぜかその時ばかりはとても怖くて、今でもはっきりと思い
出せるほど、その時の私にとっては衝撃的な出来事だった。
もちろん、死んでしまった生き物を初めて見たというわけで
はないし、その頃はペットの犬が老衰して亡くなってしまっ
ても、川で魚が逆さ向きで浮かんでいても、正直あまり理解
出来ていなかった。
そんな私が、悪気なく自らの手で命を奪ってしまった事を
きっかけに、生き物の“存在”をその時初めて理解したよ
うに思う。そしていつしか、二次元の「絵の世界」に興味
を持っていた私は、船越桂とロン・ミュエクの作品に出会い、
三次元の「存在する物達」へと関心が移っていった。
彼らの作品を見た時、私は初めて、生きていないのに生き
ているような存在感を放つ物がある事を知ったのだ。
幼い頃に、生き物の死を目の当たりにしたからといって、
生き物が苦手になったというわけではないし、もちろん
今でも生き物は大好きだ。しかし、人間と密に接する生き
物に対しては、愛おしいと思う反面、違和感のようなもの
を常に少しだけ感じるようになった。
この違和感のようなものはきっと、私達に関わってしまっ
ている生き物に対しての「制御できる可愛らしさと、
制御できてしまう不気味さ」なのだと思う。だがこの違和感
のようなものは、今現在、私達と私達に関わってしまってい
る生き物達が生きている中では〝普通〟の事になっているの
ではないだろうか。
この「違和感のある普通」を「生き物のような生き物」として、
丸みを帯びた身体を持ち、私達をただただじっと見つめるよう
な表情をした焼き物で表現したい。
Vase_girl H55×W50×D45 FRP,真鍮,硝子,箔
岡部賢亮:1990年生まれ
すべての人はその優劣にかかわらず等しくいずれ死が訪
れます。生きることと死ぬことは完全に同数であり、
今現在変えることはできません。私の作品の背景には、
生きることと死ぬことが同数であるということを実感し
たことと、その2つの対極にある概念が拮抗する瞬間に
現れる強烈な印象を目の当たりにしたという2つの体験
から成り立っています。
1つ目は父の死であり、2つ目は祖父の生についてであります
。2000年に私の父は不慮の事故により他界しました。死の瞬間
に立ち会えなかった私は、死んだということを頭では理解しまし
たが、実感の伴った他者の死ではありませんでした。
それはまるで、TVゲームで主人公の仲間が死んでしまったよ
うなものです。ゲームの世界では、ゲームオーバーの後間髪
を入れずにコンティニューの文字が現れ、先ほどの死が形だ
けのものとなり生が繰り返されます。
ゲームの中では生きることと死ぬことは完全な同数ではなく、
他者の死を実感することはできません。しかしながら、私たち
が生きているのはゲームの世界ではなく現実の世界です。
他者の死は遅かれ早かれ必ず実感を伴う瞬間が訪れます。
きっかけは人それぞれだと思いますが、私の場合父が亡く
なった2年後、当時のクラスメイトのご親族が亡くなられた
ときに訪れたお通夜でした。そのとき、泣いているクラス
メイトを見て初めて父や他者の死を理解ではなく実感する
とともに、生きることと死ぬことは完全に同数であるとい
うことを身に染みて感じたのです。
この体験は私が作品を制作するうえで最も重要な基礎の部分
となっています。なぜなら私の作品は立体物であるため、
生きることと死ぬことが同数であるというこの現実の世界の
うえに作品を成立させる必要があるからです。
2つ目の体験は、2007年に私の祖父が急性腎不全により
多臓器不全を起こし、病院の集中治療室で1ヶ月近く死の
淵を漂っていた様子を目の当たりにしたことです。身体中
に点滴や人工呼吸器などの管という管を通し心電図の規則的
な音の中、死に行こうとする身体をかろうじてこの世界に
留めている様がありました。
そこには一切の彩りはなく生と死という対極にある概念が
完全に拮抗した状態を保っていたのです。その祖父の姿は
わたしに強烈な印象を与えました。生きているのか死んで
いるのかそのどちらでもないのかどちらでもあるのか。
医師はそれを「峠」と表現していました。
私はそのとき受けた、えも言われぬ感覚を他者と共有し
たいのです。そのときの強烈な光景が、何度も私の脳裏を
よぎります。
「Vase」という作品は実家の床の間に生けられた花を見て
いたときに、あの時受けた強烈な印象とリンクする部分が
あると感じたことから始まりました。生けられた花は当然
根から切り離され、死んでいるといえます。しかし、土に
生えていたときよりも活き活きとしているようにも感じる
のです。
生けられた花は生きてもいるし死んでもいるのではないで
しょうか。対極にある概念が拮抗したときに見え隠れする、
医師が「峠」と表現したあの感覚を共有できるのではない
かと思い制作にいたりました。
今年も残すところ、、、9月10月11月12月の
4ヶ月・・・・半分は過ぎていますが、、、、
この暑さ・・・残り4ヶ月で年が変わるという
感覚は全くありませんね??
12月になったら、40度こえるのかぁ?
という古い笑い話も冗談じゃなくなる???
さて、この酷暑の中、BAMI galleryでは現在
4展 Shiten Round8 テーマ『水』を月末まで開催
させていただいております。
テーマ『水』と言うことで、、”涼感”を
イメージされる方もおられるかもしれませんが・・・
画像の通り、、涼はありません・・・
どちらかと言えば軽妙洒脱ではなく
重厚・・・しかし、それぞれの水という
テーマの捉え方は鋭利で”冷たい感覚”
を内包しております。31日(木)までです
ぜひお見逃しのないよう!!!
7月8月と外部の百貨店企画が多かったのですが、
この8月後半から12月までは百貨店においての
個展企画はありません。多少、店外企画やグループ展
参加及び売場展開企画がありますが・・・・
そこで!9月はBAMI galleryで腰をすえて
企画いたします。
9月は少しこれまでと違った趣向で、
COMBINE/BAMI galleryの作家達を紹介しようと
考えています。
基本グループ化した展覧会ではありますが、
これまでとは違う切り口と”掘り下げての”
構成を考えています。
プライマリーギャラリーとしての根幹
を企画に据えて作家の魅力を紹介する
ということを念頭においております。
生まれた年代によるグループ化
COMBINE/BAMI galleryのアーティスト達、
そのほとんどが、1980年代と1990年代の生まれです。
今回の企画は、80年代生まれの作家を前半として、
90年代生まれの作家を後半に分け展観いたします。
80年代と90年代。どの時代も激変してきた要素を
内包していますが、現在20歳代と30歳代の芸術家
は一体何に影響されて今に至っているのか?
それぞれが人生の起点と成す時代から現在までの背景
の考察を基に、それぞれの制作に対しての“文脈”を探り、
そしてなぜ今の制作に至ったのかという部分に焦点を当て
ます。自らの文脈をもっとも如実に現す作品を展示し、
その背景を文章化することにより、各作家及び作品の魅力
を浮き彫りにしたいと考えております。
お盆明けの19日(土)から28日(月)までの約10日間
参加作家一人ずつと面談打ち合わせをし、長い時には
数時間、場合によっては修正やり直しを経て、各人の
文脈をひっぱりだしました。
私が考えているものとの精度における整合は正直
マチマチではありますが、各人真剣に自らを掘り下げ、
ある者は自らが気付いていない自分を、ある者は今後
に繋げる要素を得たと確信しています。今回の展示作品
はいずれもその起点となる作品群です。
80年代90年代
その差はそう明確ではないですが、しかし
やはり多少の差を感じます。
いずれの作家も時代・社会に対して
大体同様の感受性ではありますが、、
その殆どの起点が
生死
というのが実に面白いなと言うのと
同時に、所謂コンテンポラリーアート
の純粋な根幹が見て取れます。
以下は、それぞれが自らの文脈を文章化してくれた
ものです。少し長いですが、記録として掲載いたします。
***************
after80 昭和最後の方の人たち
2017.09.06 (wed) - 2017.09.15 (fri)
OPEN 12:00~18:00
期間中無休
釜匠 1985 年 阿部瑞樹 1987 年 松本央 1983 年
遠藤良太郎 1987 年 佐野暁 1981 年 公庄直樹 1982 年
after90 平成最初の方の人たち
2017.09.19 (tue) - 2017.09.29 (fri)
OPEN 12:00~18:00
期間中無休
八木佑介 1991 年 宮本大地 1991 年 岡部賢亮 1990 年
太田夏紀 1993 年
ナカマハズレ H116.7 x W91cm oil on canvas
釜匠:1985年生まれ
私は1985年に大阪で生まれた。幼稚園の頃まではマンション
に住んでいたが、母の再婚を機に一軒家へ引っ越した。
その家は大阪市西淀川区の工業地帯にあり、家のすぐ裏には
淀川が流れていた。引っ越したばかりで近所に友達も居な
かった幼い私は毎日のように淀川の河川敷で1人遊んでいた。
カエル、バッタ、カマキリにカメ…
高くそびえるコンクリートの堤防を越えるのはとても
恐かったが、一歩河川敷に入ればそこは当時の私にとっては
まさに楽園だった。毎日沢山の動物達を追いかけて遊んだ。
母が再婚するまでは独りが怖くて泣いてばかりだったが、
河川敷で沢山の生き物と遊ぶようになってから泣く事は
少なくなった。
人間ではない彼らと接する事で私は初めて自分も"ヒト"
という"生き物"だと実感出来た。独りで部屋に取り残さ
れるより、沢山の命に溢れた河川敷に居る方が心地よか
ったのだ。
しかし、小学校低学年の頃に一斉に始まった護岸工事の
せいで河川敷の景色は一変した。
かつて西淀川区や対岸の此花区は大正期に住友グループを
中心とした大規模な開発が行われたことで阪神工業地帯の
中心を担っていた。重工業地帯だったことが災いし第二次
世界大戦では集中的な爆撃で壊滅的な被害を受け、また、
高度経済成長期には激しい公害に見舞われるなどした。
昭和の終わりには産業構造の転換により工場の地方・海外
移転が進んだことで空き地や廃工場が多く見られるように
なった。
私が移り住んだのはちょうどこの辺りで、その頃には河川敷
や空き地には沢山の自然環境が点在していた。しかしその後、
1995年の阪神淡路大震災や2001年開業のテーマパーク
『ユニバーサルスタジオジャパン』等のアミューズメント
産業地区開発やそれに伴った居住区開発をきっかけに身の
回りの環境は一変した。
生命豊かな草原は埋め立てられ、大好きだった河川敷は歩行
しやすいようコンクリートが敷き詰められた。そして、みる
みるうちに生き物は姿を消し、ついにはバッタ一匹見つけら
れなくなった。
敷き詰められたコンクリートの上、対岸に巨大な建物が建ち
並んでいく様子を私は睨むようにして見ていた。私はこんな
事を平気で行う大人達が憎かった。それと同時に、そんな事
が出来る大人達が恐ろしくもあった。その出来事以降、
私は"ヒト"という生き物に違和感を感じるようになった。
そして、その時に芽生えた違和感は強い疎外感となって、
今でも消えずに私の中に深く根付いている。
スイゾク ウーディシードラゴン
40×20×5(㎝) 乾漆、螺鈿、銀粉
佐野 曉:1981年生まれ
私自身にとって昭和とは子どもの時の記憶そのものだ。
ファミコンやビックリマンシール、ミニ四駆など様々な
玩具が流行り、バブルは弾け日本は長らく続く不況の時代
へと入ったわけだが、そんな世間とはお構いなく、私自身
といえば絵を描いたり勝手な物語を作ったり、ザリガニを
捕まえたりととにかく一人遊びの得意な子どもであった。
昭和の終わりに生まれたそんな子どもは携帯ゲームを片手
に一人遊びにふける平成の子どもの嚆矢であったのかもし
れない。私自身にとって作品を作るということはひとえに
そのような子ども時代の遊びを辿る追憶の行為である気が
してならない。
遊び場 H45.5 x W53 cm oil on panel
松本央:1983年生まれ
私の生まれた1983年にはインターネットが始まり、
任天堂からファミリーコンピューターが発売された。
これらのテクノロジーは現在まで発展を遂げ、今の
自分の生活の中にも深く浸透している。
思い返せば、私の幼少期である、1983年から1989年
ごろまでは、すごく未来への展望が明るかったように思う。
大阪万博の名残なのか、バブルで景気が良かったからなの
かはよく分からないが、科学技術やテクノロジーが高度に
発展した輝かしいユートピアのような未来世界を子供なが
らにイメージしていた記憶がある。分かりやすく言うと
「鉄腕アトム」で描かれているような未来世界である。
なぜ、「鉄腕アトム」を例に出したかというと、私が絵を
描くことを意識しだしたのが、手塚治虫の影響が強いからだ。
1989年に手塚は逝去するが、その時にテレビで大々的に特集
が組まれていた。それを見て影響を受けた私は絵を描くこと
が、とてもかっこよく思えたのだ。それをきっかけに漫画家
になること(絵を描くことを仕事にすること)を意識し始め
る。
手塚が亡くなった1989年は同時に昭和天皇が亡くなった年で
もあり、時代が昭和から平成へと移り変わる転換点でもあっ
た。これ以降は未来への展望というのが、徐々に暗く破滅的な
方向へ変わってきたように思う。バブルの崩壊、ノストラダム
スの大予言、酸性雨などの環境問題、など暗い話題が連日のよ
うに盛んにテレビで報じられていたような記憶がある。
当時小学生であった私はメディアの影響を受け心底恐ろしく
感じ、1999年以降の未来は想像できなかった。しかし、あっ
けなく2000年を迎え、今は2017年である。漫画や映画などで
描かれた未来世界の年代に突入したが、1990年代に私が心配
したようなこと(人類の破滅や世界の終末)は無かった。
また、幼少期に希望を抱くような未来世界でもなかった。
私の幼少期から現在を振り返ってみると、ただひたすらに
どうしようもない世界が広がっているように感じる。これ
は良い意味でも、悪い意味でもある。確かに、テクノロジ
ーは進化し、ケータイ、スマホなど無くてはならないもの
になっている。人間の生活をより豊かに便利にするのに役
立っているのだろう。しかし、一方で新しいテクノロジー
ができると必ず悪用しようとする人間が現れたり、開発者
が意図した本来の目的とは外れた使い方をするものが現れ
たりする。
時にはその誤った使われ方によって爆発的に普及するなど
といったことがよく見られる。例えば、パソコン、インタ
ーネットの普及の背景にあるアダルト産業の影響などがあ
げられる。
このような人間の持つ「どうしようもなさ」に私は強く引
き付けられる。カンボジアの舗装されていない土の道の脇
にペットボトルやプラスチックゴミが散乱していたり、
アンコールワットの遺跡が妙に整備され観光地化されてい
たり、住民が無秩序に増築した九龍城などのスラム街に
造形的な魅力を感じたり、ついこないだまで文明と接した
ことがないアマゾンの原住民がなぜかアディダス製のハー
フパンツだけをはいていたりするのを見ると、私はほほえ
ましく思え、妙に安心するのである。
科学者や学者にとっては、新しいテクノロジーの開発、
発見というのは、人類の発展にとって非常に大事なことで
あることは理解できる。しかし、大多数の人間にとっては
そうではなく、ただ目の前にあるものを使って生きていく
というシンプルな行いだけが、長い間繰り返されてきただ
けのように思うのだ。
それはどの時代、地域であっても変わることは無い普遍的
なものであると思う。その行いが良いか悪いかは置いてお
いて、どうしようもなくそうなってしまうという人間の持
つエネルギーの大きさや、その正体、根源のほうが私には
興味があり、絵を描くうえでも気にかかっているテーマで
ある。
刻 333×242mm 麻布、ボローニャ石膏、アシェット、
銀箔、膠、アクリル
阿部瑞樹:1987年生まれ
1987年2月、日本という平和な国に私は生まれた。
幼少期のかすかに残ってる社会的な事象の記憶でパッと
思い浮かぶのはベルリンの壁の崩壊、バブルの崩壊。
ほとんど記憶はないが大人達のざわついた空気を肌で
感じた事は覚えている。物心ついてからは阪神淡路大
震災、地下鉄サリン事件、9・11テロ、最近では東日本
大震災などが挙げられる。
しかし、私が画家として絵を描くにあたって直接的に
影響されている出来事というのは正直なところ、ほぼ無い
に等しい。ニュースで歴史を揺るがす大事件が起こっても
ニュースの中の出来事で現実感がないし、そのニュースで
すらあまり信用できない時代でもある。
もちろん心は痛むけれど、一方でその自分の心に懐疑的に
なっている自分もいる。ぬくぬくと幸運に恵まれ何不自由
なく平和で幸せに育ってきた私には、どこか人間として抜
け落ちてしまっている部分があるように感じる。何を描い
ても自身でも現実感がなくただの嘘になるので、自然と
身近な事柄を絵の題材・モチーフにすることが主になった。
ここからはとても個人的な話になるが、私には二人の
ちょっと変わった祖父がいる。(いた。)ひとりは父方の、
実家富山の祖父だ。実家の裏庭は祖父の温室や素材置き場
になっていた。悪い表現で言うとゴミ屋敷だ。そこには
パイプやら色んな金属部品やら瓦やらが赤土の地面に積ま
れており、おなじ場所で烏骨鶏や品評会用の植物なども育
てられていた。
幼少の頃は裏庭が秘密基地のようで探索しながら遊んでいた。
錆びた金属と赤土の色、におい、温室のむせ返るような湿度、
烏骨鶏や虫の鳴き声。子ども心にはとても興味が惹かれる要素
がそこには詰まっており、今でも鮮明に思い出せる。
戦後、「物が無い」という中でサバイバルしてきた祖父に
とって、物を集めてストックしておくという事が習慣に
なっていたのかもしれない。また富山は米どころと言われ、
阿部家もご多分に漏れず兼業農家で米をつくっていたので
農業機械のメンテナンスも必要になってくる。年に一度しか
使わない田植え機やコンバインなどはたまにしか使わないせ
いでトラブルが起きやすく、その都度修理しながら使わなく
てはならない。
毎年のように業者による修理を待っていたのでは田植えも
収穫もなかなか進まないので、よく祖父達が(おそらく適当に)
修理して使っていた。祖父の車(旧ビートル)でさえペンキを
塗りながら長い事乗っていた。しかし時代は進んで技術革新
が起こり便利な道具が増えて壊れにくくなってくるにつれて、
祖父が収集していた”いずれ何かに使う”部品などは必要と
される場面が無くなった。あとはもう溜まる一方、錆びる
一方で、私の脳裏に深く刻まれている裏庭が完成したのだ
と考える。
そして三重の母方の祖父だ。残念ながらもうこの世には
いないが、三重の祖父もある意味変わり者だった。とても
頭の良い人で、若い頃は学者でカナリアの研究をしていた
と聞いた事がある。自分にも人にも厳しい人だったらしいが、
私は優しい祖父のイメージしかない。幼い頃から毎年のよう
に三重に遊びにいっていたが、寝る前には孔子の教えを子ど
もの自分に分かりやすいように説いてくれていたのを覚えて
いる。
また、円空をリスペクトしており、祖父自身もよく色んな
山へ登山しにいったり木っ端仏をたくさん彫っていた。
幼い時分にはよく分かっていなかったが、三重の祖父は
信心深い仏教徒というわけではなく、その思想や哲学を学
び日常に活かしたり孫である私に教えてくれようとしてい
たのだろう。と、ここまでは普通に良いおじいちゃんな
祖父だが、私が大学4年生、21歳の時に祖父は山で
行方不明になった。
「この人は山で死ぬんだろうな…」という予感めいたもの
はずっとあったにせよ、現実に山で行方が分からなくなる
というのは人生の中で1、2を争うほどの衝撃だった。
約半年後に遺体で見つかり、警察署で一家が集まりデジカメ
の画像にて遺体確認を行う際、どんな恐ろしい画像を見る事
になるんだろうと思っていたが、見た瞬間にすっと心に落ち
て納得できる事があった。それは「人は土に還る」という事
である。
そこには「悲しい」という感情はなく、祖父は土に還ったん
だなという納得しかなかった。また、祖父の遺体の画像の色
は偶然にも上記した富山の祖父の裏庭の景色の色とも重なり
合うのだ。人も、物も、いずれは朽ちゆくという事を本当の
意味で意識し、理解したのはこの時だろう。ニュースであた
かも別世界のように感じていた死というもの。希薄になって
いた死生観がこのときはじめて目を覚ました。
現代では火葬が99%以上を占めるこの日本で、はじめて向き
合った生々しい「死」がこの祖父の死だった事、また、
幼少の頃から見てきた「錆びた」景色と相まって、現在の
私の作品に多いに影響を及ぼしていると言える。いささか
マイクロポップではあるが、私にはこれだけしかない。
陶球体白蛹#1 18x18x18cm 半磁土
遠藤 良太郎:1987年生まれ
新潟県燕市に生まれる。1987年生まれは、いわゆるゆとり
第一世代。要するに旧課程からゆとり教育に移行するため
のお試し世代(実験的な期間)といわれている。また2009年
のリーマンショックにより、就職難を迎えた世代でもある。
中学3年から高校1年の頃、ケータイ電話が急激に普及し
始めた。ケータイ電話の普及により、今までの生活から、
様々なこと(人との接し方、距離感などなど)が一気に変
わりだした。
自分の意思とは関係なく、変化を強要されることが多かった
世代ともいえる。私は、そうした、自分の意志とは関係なく
起こる、様々な変化に抵抗感を覚え、学校教育から距離を
置いた。大きな流れに身を任せること、流れに抗う事、
どちらが正しいのかは分からないけどそういう選択をした。
そうした経験の中から、あらゆる物事は自分の意志とは関係
なく、大なり小なり、色々なスピードで変わっていくことに
気付く。それは自分という存在の小ささを思い知った瞬間で
もある。しかし変化には常に、大きなストレスと、そして
同時に人生の面白さ、喜びが詰まっていた。この星には本当
は善も悪もない。ただただ全てを丸く飲み込みながら、
変わり続け、そして生きていく、それだけなんだと思う。
私は、その単純で完璧な構造に魅了されたのだ。
気配 H48 x W41 x D6 cm イチョウ、真鍮
公庄直樹:1982年生まれ
鳥や猫からカエルやヤモリまで、様々な生き物を木彫で
表現する。素材とする木材の種類も様々で、モチーフと
なる生き物の形や質感に合わせて使用する木材の特徴を
見極め、作品に使用している。
では何故木彫で生き物なのか・・・それは幼少期の経験
が確実に強く影響している。1982年に滋賀県の大津市に
生まれ、物心がついた時に家には4匹の黒猫と毎日家に
立ち寄る一匹の黒い野良犬がいた。
父親の仕事が休みの日にはよく近所の山や畑に連れてい
ってもらい、自然の中で遊ぶことを教わった。川に入ったり、
木に登ったり、変わった鳥や虫がいればじっと眺めたりし
ていた。
当時の家には幼児向けのキャラクターやおもちゃといった
物はほとんど無く、僕の遊びといえば犬や猫と触れ合い、
野山に行き、家の中では絵を描くことであった。今思えば
父親はあえて子供を一般的な遊具から離し、自然や動物と
触れ合わせることで素朴な感性を養いたかったのではない
かと思う。
しかし小学校に入り友人が増えるにつれて、少しずつそう
いった「遊び」からは離れていくことになる。友人の家で
は当時流行っていた漫画を読み、外では学校のグラウンド
でサッカーをしたりと、いわゆるごく普通の小学生であった。
そのまま淡々と進学していき、高校生になる頃には、もはや
頭の中は受験で一色になり、自分の将来は偏差値で決まるも
のだと思い込むようになってしまっていたのだった。
そんなか、高校3年生の夏期講習の帰りにふと立ち寄った
本屋で偶然とある画集(確かモネの池ような綺麗な絵だった)
を手にとった時に、幼少期の記憶が一気にフラッシュバック
したのを覚えている。
自然の色と音と匂い囲まれて、鳥や虫の気配を感じながら
野山を走り回り、家では犬や猫とじゃれあい、一生懸命自由
に絵を描いていた日々が鮮やかに蘇った。そこそこ良い大学
に進学し、無難な会社に入る事が自分のやりたい事なのか。
そうではない、漠然と何かを表現したい、もしもそれで生計
を立てられるのならこんなに素晴らしいことはないと。
そう思った。その直後から進路を芸術大学に変更し、紆余曲
折しながらも京都市立芸術大学の工芸科に入ることが出来た。
大学1回生の授業で布、土、木、漆など一通りの工芸素材を
扱ってみて、木が一番自分と相性がいいと思うようになった。
木材には多種多様な種類があり、色や木目も様々で何より削っ
た時の匂いと感触が心地よかった。木を使い始めた頃は箱物
や家具といった木工芸品を作ったりしたが、やがては木彫に
たどり着いた。
やはり幼少期に抱いていた自然に対する感激というのか畏怖
というのか、そういったものを自然素材の木を使って形にし
たいと思うようになっていたのである。
今現在もこの根っこは変わらない。生き物や植物といった
自然がもつ造形の美しさ。それは厳しい弱肉強食の世界で
必死に存続しようという種の本能がそれぞれの環境に合わ
せて進化してきた、洗練された生命のカタチの美しさなの
だと僕は思う。
その息遣いが聞こえてきそうな気配や存在感を、木材がもつ
魅力を活かして表現したい。思わず立ち止まって、見惚れる
ような、そんな美しいカタチの木彫作品を作りたい。
午前二時三十七分 10 H72.7 x W72.7 cm 麻紙 岩絵具
八木佑介:1991年生まれ
町の景色が変わっていく。私は1991年、京都と大阪に挟
まれた郊外の町に生まれた。小学生の頃、99年に巨大な
イオンモールが、03年には第二京阪道路、久御山ジャン
クションが久御山町に広がる農耕地の上に完成した。
当時、「10年後の久御山町」という小学校の授業では発展
続ける町の将来を想った。同じく、京都議定書についての
授業もよく覚えている。京都盆地の底である私の町は海面
上昇により海に沈むかもしれないと教えられた。
広大な田畑を貫くように伸びる巨大な高速道路とジャンク
ションに沿って私は通学していた。夜が明るくなっていく
ことに気付く。
闇に覆われていたはずの街の風景を、人工の光が明るく
照らし出す。等間隔に並ぶ街灯が遠い町まで続く。人間の
活動が止み、無人となった午前二時に私は街を散策し、
人工の光を物質として点描で描く。人間の文明による営み
を俯瞰して見る。
資源を削り、途方も無い速度で物が生産されているその
恩恵の中で生きている。都市という人類の生きる巣の姿
を描く。
洗面鉄道 H50 x W60.6 cm Acrylic on panel
宮本大地:1991年生まれ
僕は誰でも見たことのある場所やモノの中に小さな世界
を造りあげる作品を描いている。そこには、現代にある
モノ、過去にあったモノ、現実には存在しないモノ、
様々なモノが自由に組み合わさり詰め込まれている。
そこに表れる世界は、自分の人生の蓄積による世の中の
見え方の様に感じる。作品を描けば描くほど、自分がど
ういう人間なのか、何に興味があるのか、自分の人生が
どう作品に影響を与えているのかが見えてくる。?
1991年生まれ、景気が不安定になる中、両親の共働きも
当たり前となっていた。そのため幼少期は祖母と過ごす
時間が多く、1番初めに絵を描く事を教わったのも祖母
だった記憶がある。
遊び道具はもっぱらミニカーにプラモデルにオモチャの
ロボット。それらを使って自分だけの小さな世界を作り、
没入していた感覚は今の作品と大きく繋がっている。
小中学校の頃には世の技術もどんどんと向上し、身の回り
には小型ゲーム機やノートパソコン、携帯電話、ウォーク
マン。
モノのハイテク化が進む中で、自分も当たり前に順応して
いると思っていたが、どこかで置いていかれてる感覚、
便利になりすぎる事への怖さを持ち続けていた。ネットが
発達し、世の人たちの世界が広がり続ける中、自分の望む
世界は幼少期にオモチャを使って遊んでいた様な、自分の
視界におさまる小さな世界、人と人との温もりを感じる昔
ながらの世界だったのだろう。
そこに感じるズレの中で生まれた過去のモノに対する憧れや
興味が作品のモチーフの選択に表れている。旧車や黒電話や
レコードなど、自分が生まれる前に活躍していたモノたち。
そこには作り手の温もりを感じ、憧れを感じ、知らないから
こそ魅力を感じ、自分の理想を重ねる。その世界にこそリア
ルを感じ、作品に残したい。描き続ける事で自身を掘り下げ、
理解し、また描き続ける。
福子 30×22×24 cm 素材:陶土
太田夏紀:1993年生まれ
1993年、三人姉妹の真ん中っ子として生まれる。小さい頃
から、暇さえあればチラシの裏や自由帳に絵を描いて遊ん
でいた。 紙の上に自分の想像した世界が出来上がってい
く事が楽しくて、絵を描くことが大好きだった。
物心がつく前から、子供向けの漫画やアニメを見て育って
きた私は、常に非現実的な出来事で満たされていた。
そのため、実社会で起こっている問題などを肌で実感する
事は難しく、今でもそれらに対して極めて鈍感になってし
まった。
大人になったら漫画家になりたいと思うほど絵を描く事が
好きだったけれど、もちろんその他の遊びもたくさんして
育った。近所の川に入って魚を探したり、泥団子を作ったり、
家の中だけではなく外で活発に遊んでいたように思う。
その頃は、虫でも魚でも関係なくゲーム感覚で触って遊ん
でいた。きっと生き物は「動くオモチャ」のような物だっ
たのだろう。しかし、そんな遊びをしていたのは小学校
低学年の頃までの話。ある時、畑にいた大きな虫を夢中に
なって捕まえていた私は、捕まえる際に誤って手で潰して
殺してしまった。
さっきまで動いていた虫が、ぐちゃぐちゃになって動かない。
それまでは〝たった一匹の虫〟程度の認識だったものが、
なぜかその時ばかりはとても怖くて、今でもはっきりと思い
出せるほど、その時の私にとっては衝撃的な出来事だった。
もちろん、死んでしまった生き物を初めて見たというわけで
はないし、その頃はペットの犬が老衰して亡くなってしまっ
ても、川で魚が逆さ向きで浮かんでいても、正直あまり理解
出来ていなかった。
そんな私が、悪気なく自らの手で命を奪ってしまった事を
きっかけに、生き物の“存在”をその時初めて理解したよ
うに思う。そしていつしか、二次元の「絵の世界」に興味
を持っていた私は、船越桂とロン・ミュエクの作品に出会い、
三次元の「存在する物達」へと関心が移っていった。
彼らの作品を見た時、私は初めて、生きていないのに生き
ているような存在感を放つ物がある事を知ったのだ。
幼い頃に、生き物の死を目の当たりにしたからといって、
生き物が苦手になったというわけではないし、もちろん
今でも生き物は大好きだ。しかし、人間と密に接する生き
物に対しては、愛おしいと思う反面、違和感のようなもの
を常に少しだけ感じるようになった。
この違和感のようなものはきっと、私達に関わってしまっ
ている生き物に対しての「制御できる可愛らしさと、
制御できてしまう不気味さ」なのだと思う。だがこの違和感
のようなものは、今現在、私達と私達に関わってしまってい
る生き物達が生きている中では〝普通〟の事になっているの
ではないだろうか。
この「違和感のある普通」を「生き物のような生き物」として、
丸みを帯びた身体を持ち、私達をただただじっと見つめるよう
な表情をした焼き物で表現したい。
Vase_girl H55×W50×D45 FRP,真鍮,硝子,箔
岡部賢亮:1990年生まれ
すべての人はその優劣にかかわらず等しくいずれ死が訪
れます。生きることと死ぬことは完全に同数であり、
今現在変えることはできません。私の作品の背景には、
生きることと死ぬことが同数であるということを実感し
たことと、その2つの対極にある概念が拮抗する瞬間に
現れる強烈な印象を目の当たりにしたという2つの体験
から成り立っています。
1つ目は父の死であり、2つ目は祖父の生についてであります
。2000年に私の父は不慮の事故により他界しました。死の瞬間
に立ち会えなかった私は、死んだということを頭では理解しまし
たが、実感の伴った他者の死ではありませんでした。
それはまるで、TVゲームで主人公の仲間が死んでしまったよ
うなものです。ゲームの世界では、ゲームオーバーの後間髪
を入れずにコンティニューの文字が現れ、先ほどの死が形だ
けのものとなり生が繰り返されます。
ゲームの中では生きることと死ぬことは完全な同数ではなく、
他者の死を実感することはできません。しかしながら、私たち
が生きているのはゲームの世界ではなく現実の世界です。
他者の死は遅かれ早かれ必ず実感を伴う瞬間が訪れます。
きっかけは人それぞれだと思いますが、私の場合父が亡く
なった2年後、当時のクラスメイトのご親族が亡くなられた
ときに訪れたお通夜でした。そのとき、泣いているクラス
メイトを見て初めて父や他者の死を理解ではなく実感する
とともに、生きることと死ぬことは完全に同数であるとい
うことを身に染みて感じたのです。
この体験は私が作品を制作するうえで最も重要な基礎の部分
となっています。なぜなら私の作品は立体物であるため、
生きることと死ぬことが同数であるというこの現実の世界の
うえに作品を成立させる必要があるからです。
2つ目の体験は、2007年に私の祖父が急性腎不全により
多臓器不全を起こし、病院の集中治療室で1ヶ月近く死の
淵を漂っていた様子を目の当たりにしたことです。身体中
に点滴や人工呼吸器などの管という管を通し心電図の規則的
な音の中、死に行こうとする身体をかろうじてこの世界に
留めている様がありました。
そこには一切の彩りはなく生と死という対極にある概念が
完全に拮抗した状態を保っていたのです。その祖父の姿は
わたしに強烈な印象を与えました。生きているのか死んで
いるのかそのどちらでもないのかどちらでもあるのか。
医師はそれを「峠」と表現していました。
私はそのとき受けた、えも言われぬ感覚を他者と共有し
たいのです。そのときの強烈な光景が、何度も私の脳裏を
よぎります。
「Vase」という作品は実家の床の間に生けられた花を見て
いたときに、あの時受けた強烈な印象とリンクする部分が
あると感じたことから始まりました。生けられた花は当然
根から切り離され、死んでいるといえます。しかし、土に
生えていたときよりも活き活きとしているようにも感じる
のです。
生けられた花は生きてもいるし死んでもいるのではないで
しょうか。対極にある概念が拮抗したときに見え隠れする、
医師が「峠」と表現したあの感覚を共有できるのではない
かと思い制作にいたりました。