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吉野ロボ 5
村上隆の限界、そこから今後ということで前回は終了したが


如何なることか?


単純に『我が国が誇る』という形容詞の後に
村上隆を置いて良いのかどうか?という疑問が
実はこれほど世界を席巻したアーティストには常に
つきまとっていることを感じるのは私だけではない
筈だ・・・・・


ある意味日本の不思議な感覚



所謂自国で認め切れていない、もしくは決められない
優柔な感覚ないしは蒙昧さ。外国=西洋によって認め
られたものは無条件に享受するという主体性の無さが招
いているという解釈も妥当である。もう少し冷静に考えれ
ば、今はまだという部分も当然あるだろう。



死んだ後、過去の業績からという、もうその後の変化の
予測を立てなくてもよいタイミングでゆっくりと検証して
という時期でないから誰も今後との兼ね合いで言いかねて
いるという見方も他方ではあるだろう。



仮説を立てる勇気がない。



なぜなら彼は描いて?(描かせて)喋って、商売して
とオールマイティーでその全てが日本の誰もが体現した
ことがない境地に身を置く逸材であり、面と向かって
何か言える人間がいるか?という部分もある。


仮に何かを言ったとしても、じゃ現実は?という
部分の反問に応える実績を持った人間は誰なのか?


村上を批判する人は多いと思う。しかし実際
その論調の急先鋒は一体誰なのか?と考えれば
誰もいない。ジャーナリズムなどというものがその場合
の機能の一旦を担う筈なのだが、、、、果たし・・・・て、、
わざわざここで明らかにする必要もないほど結論は
見えている・・・・



学術界は?同様だろう??


まぁ、、いるのだろうが、、、何の反響、所謂、先ほど
述べた急先鋒なる存在としては見えてこない・・


本当はアート以外の識見者がこの手の部分に加わって
も良いはずなのだが、、、、それもない。。。。


これは後で話すことになるが、、そこが本来おかしな部分
だとも思う。。


もう一つは、、余談だが


過去のアーティストに比べると、、、、、、、、、、、、、
弁舌・論説が鋭く、広角的にメディアに露出する彼の姿勢
に対しての虚無感や面倒くささや、、、まぁ煩いという
部分も多分にあるだろうし、、メディア露出という観点
から言えば、同様に多数露出しているタレントとの並列
感で見れば、受け入れられないという嫌悪感もあるだろう。


『俺が俺が・・』的な謙虚さ寡黙さのないビジュアルを
大半の日本人は間違いなく嫌うであろう。


そう言えば、彼のビジュアルから


誰それ様のおかげで自分は・・・などというものは
私の独断と偏見かもしれないが見聞きしたことは
ない。


しかし、これほどの世界的な成功を収めた日本人アーテ
ィストが現役世代として過去いたであろうか?量的判断は
当然出来ないが、しかし明らかに彼以上を仮定し
並べてみても天秤がどう動くかは誰の目にも明らかで
あろう。


そして長々と書き連ねたが、所謂西洋を基盤とする
アートの世界においての彼の台頭及びその足跡は
他国の別のアーティストと比べても何らの欺瞞(当然
その位置にいくにはある程度同様の法則が存在しスタン
ダードであるという前提)もなければ遜色もない。



私はそう思う。


少し話がそれたが、、個人的なキャラクターが起因
することも多少はあるにしても、しかし何故か彼の
業績に対して日本国内ではどうもしっくりした評価
というものが無いのが現状のように感じる。


確かに何度も言うが現役で活躍しているアーティスト
であり、今もまだ途上といえばそうなのだろうが、、
しかし過去のアーティストからすると誰もが検証でき
ない位置にまで到達していることから考えれば、
無条件と言うまで行かないにしても、かなり大きな
ボリュームで持続的に称賛があっても良いのだが、、
現実的に他の世界で活躍している人との比較において
見た場合、、少し、、いやかなり違うような気がする。。。



日本人は無知なのか?妬みなのか?納得できないのか?


私はいずれも当たっていると思う。


まぁ異論は様々あるだろうが、、、、
世界に認められ、、どちらというと国内で嫌悪されて
いる・・・という風景が私には見えるのである。。。



逆説的には現状国内における村上隆の浮揚は実はこの
カウンターがあるから成り立っている側面もある。


あえて無視できない存在を演出しているのか、自然と
この感情と戦う姿勢によって成り立っているのか?
は分からないが、この日本人と村上という図式が、
もうかれこれ10年近く続いていることは間違いない。


なんであんなマンガみたいなものが?
あんなもの、一時の・・・
大体自分で作りもしないで・・・・


もうキリがないほどあり、一部の理解は得ても
それ以外に浸透するほどの彼の功績紹介とその
内容を説明するものがないというのは何なのだ
ろうか?


何度も言うが、世界を席捲し一世を風靡した
アーティストであり、過去の世界的と呼ばれる
アーティストの誰よりも一般に評価されてもいい
筈なのであるが・・・


いや、まだもっと先だろう?という意見に
しても前時代的な情報流通ならそうだろうが
現代の情報社会である・・・・



当然さきに述べた批判?というより誹謗そのも
のが日本と言う閉鎖的な市場性と概念性を表して
いるのも事実である。


実際その狭間の中にいる人は彼だけではなく数多
存在するだろうが、彼は頭一つも二つも突き抜けた
存在である事を考えれば・・・・


日本ではこの手の存在は延々認められないのか?
という感性も実は存在すると思う。



いや、、大きくあるだろう。。。
しかしどうも解せないのは、世界的な評価に恐ろしく
弱い国民性があまり発露されていない彼の存在に
は疑問が残る・・・


では、、



なぜこのような図式が成り立つのか?



あくまで私見であるが、、



単純に私は、彼及び彼の作品、及びコンテクスト
は日本と日本人を表現しきれていない。


これにつきると思うのである。


確かにこの項にて再々彼が世界へ飛躍する道程
を段階的及びその時々の経済的情勢・気運を絡ませて
説明し、その根本が西洋を基盤とするものへの
カウンターであり、即ちその激突が海外にも国内
にも触媒効果として作用したという事を語った。


合わせて過去のアーティストとの大きな違いとして
彼は、日本を脱出したコスモポリタンではなく、あくまで
日本人、そこからの感性をカウンターとして創出し
堅持しているとも説明した。



それは即ち彼が日本と言うものを駆使した結果という
ことではあるのだが、、




しかし、冷静に考えれば・・・・・・・・・・
これはあくまで日本のある一面を使い効果を発揮
しただけであり、当然事実無根ということではない
が、あくまで、あるポイントからの村上隆の解釈
と論理性でしかなく、それが即ち日本そのものを
端的に表したかと言えば、少し疑問が残る。


ある一部分の普遍性(スーパーフラット)とある
時間軸からくる(戦後)関係性を接合し溶解した
結果をアメリカとの接合点に持ち出し、それが世界
的に流通し始めたアニメーションと言う産物との結
合を根拠に据えたのだったが、、


彼が描き作り出した接合点である現代のサブカルチャー
というフィールドからの日本という具体性の抽出と、
世界、特に中心的アメリカに接合させた手法は、実は
広範な普遍性を持つ日本そのものをバックボーンにし
たわけではない。


それは誰にも理解できるであろう。



又逆にアートがそこまで広範な日本というものを
網羅しその感性を一つに集約できるのか?という
疑問も当然あるだろうが、しかしここで言う彼の日本
とは、日本人が心底感じている日本とは


”ある一点が”



大きな隔たりを持っているという事と同時に、果た
して彼の言う日本とは本当の日本人を直喩している
のか?どうかの大いなる疑問があるのである。。


これがある意味の結論です。



、、、、、、、、、、、、、、、



ある一面の真理、、アメリカ側からの視線であり、
及び20世紀末から21世紀に向かう中での日本を彼なり
に集約したという事でしかない。。日本からすれば
少し客体化されすぎている自国の姿が浮かび上がる。


これはもっと言えば日本人の普遍性を描きだした
訳ではなく、歴史の中にある、ある一時点、戦争という
日本が世界との関係で初めて挫折した時点のマインド
からくるネガティブな面を切り抜いたに過ぎず、
そういう意味でこのネガティブな時点でも息づく日本
の普遍性、それをサブカルチャーという辺境にて認め
その純度の高い醸成具合の栄養素・・すなわち
成長させ続けたの主体を、日本でなくアメリカであると
いう論法に帰着させた事は、あまりにも日本及び日本人
という歴史的堆積全体からする割合が少なすぎる、
もしくは妥当性を欠いているように感じて止まないのでは
ないか?と思うのである。。


確かに戦後の世界の枠組みの中における日本を客体化
したときアメリカという存在との関係は切り離して考えら
れない。その最大は安全保障上の問題に集約されるのも間
違いない事実であろう。その安全保障を基盤とする現実的
国家観、その感覚を失った日本の陰影として広がりを見せ
るサブカルチャーも事実だろう。しかし果たしてその光景
の最大公約数が即ち日本か?と言えばそれは否と言わざる
を得ない。。。
現代美術の持つ特性的表現の一旦として及び世界=アメリ
カと極を一にするポイントとしては理解は出来るが、、、
、、、、、、



それはこの10年前までだったのではないか?と考えるの
である。



2000年と現在の2011年ではその現実的国家観に著しい
違いが生まれていることに気づく方は多いはずだ。。。


明らかに日本人は覚醒し始めている。これは内部的な
覚醒と言うよりも外部要因がそれを許さない所まで来た
のである。当然、安全保障の概念も変質というよりも
新たな概念が加わっており、資源、経済、食料、科学的
インフラ、等々、10年前とは比較にならない程の国家観
を一般が求め始めている。


是こそが所謂潮流というものであり、実際私の見る限り
昨年末からの緊張度合いは一気に高まったと感じる。
この状況下においても未だ村上隆の表現する日本観
というものに固執していられるのか?という疑問が起きる
のは不思議ではない筈だ・・


何度も言うが、2000年時点でのコンテクストとして接合
した状況と今は大きく違う。そして彼が使用した日本と
いうモノが、現状と著しく合致しなくなって来ているのと
同時に、覚醒が促されているのである。このある意味
自虐的史観から離れ、本来的な部分というものへの
回帰が実はこの時期に望まれているモノとであると同時に
即ちそれが村上隆がカバーし切れていない大きな面積を
持つ日本というモノのような気がしてならないのである。


村上が言う戦後日本とアメリカの関係は影の部分で
ある。反面に戦後日本とアメリカという、やむにやまれぬ
関係を先ず認識し、それでも国家繁栄を考え、主体的
国家観から憂い、その現実的な制約の中から歩んだ
日本という姿があることも事実である。



松下、ソニー、ホンダという世界に冠たる企業を築き上
げたのもこの時代を背景にした日本である。
そのスピリットの中からでもアートを触発してきたものが
あるわけであり、何もサブカルチャーに戦後が凝縮され
ている訳ではない。アニメと呼ばれるものが制作され、
それを誰もが享受できる環境を誰が整え支えたのか?
それらがスタート仕始めたとき、そこにサブカルチャーとい
うような空気があったのであろうか?



悪いが”おたく”なる言葉が流布されだしたのは、この20年
前くらいのことであり、私が中学時分の30年前は、、、、
二次元コンプレックという呼ばれ方をしていた筈だ。。。。



こういう世界を作りだしたのも日本人であることは間違いな
い。ある意味奇態な存在を受容し肥大化させた感性も
日本人の中にはあるだろうが、それはこの20年という時間
軸の中で生まれた訳であり、、実際にはこの20年という時
間軸を考察するべきである。


私が中学時分のアニメは間違いなくエンターテイメントで
あり、今のような偏狭な存在ではなかった。


私は本質は今もそうだと思う。


客観的に見た場合の錯綜感覚が強すぎるように思うのである。
宮崎駿をサブカルチャーの代表として我々は考えているか?
またそのストーリー性から村上が説くような戦後日本の存在と
アメリカのような対比が伺えるだろうか?


少し違うような気がしないか?
先程来から言う、大いなる歴史的堆積を昇華し普遍的
日本及び日本人の感性が共感できないだろうか??


そこには『我が国が誇る』という形容詞が誰の目に疑いもなく
しっくりと収まる。また世界から見ても日本を代表する
という感性が間違いなくあるだろう。。


そして政治体制も、確かにアメリカ追従、安全保障を丸投げ
して経済のみに邁進し世界的な地位を確保し、それもアメリ
カの傘の下でのみ許される範囲という捉え方は正しいだろう。
世界的に見てその姿は、アメリカの支店のような関係性、主
体的意見を言った所でアメリカの意見と相違する事が許され
ない日本という存在は結局、世界からは真の意味での独立国
家たり得ない姿として映っても仕方がない。これも事実であ
ろう。


しかし、だからといって国民がそのことによって災厄を何
代にも渡って被ったか?といえば、どちらかと言えば豊か
な国家という印象をこの65年間は享受し続けてきたのでは
ないだろうか?


これもネガティブに捉えれば前述のような事情から生まれ
それを茫漠と受容し結果論的に捉えられなくもないが、
実際はその制約の中で闘った人間達がいて成り立った
繁栄であるという側面が確実に存在する。


自民党というのはある意味戦後の2大保守党の合体
で出来上がった。党是は改憲であり先に述べた真の
意味での独立国家というものだったが、状況が許す
最優先事項が経済発展であり、言葉は悪いが後回し
した。これは現実的な後生に対するツケであり、それが
今、この2011年に噴出している。しかし後回しにしな
くてはいけない事情も理解できる。あまりにも貧しく、
困窮の度合いが高かった戦後のこの国で第一の問題は
社会生活の安定であった。又アメリカに通商部分でしか
国際的な窓口を開けてもらえていない状況の現実的
選択であったと思う。


それが戦後の経済政策の有り様だろう。


しかしこの自民党が取った経済政策、私はかなり評価できる
と考えている。何も村上が定義するようなネガティブなもので
はなく、実に日本的な発展過程を辿ったのではないか?と常々
感じている。


それは何か?と言えば


国民総中流という結果である。


これは何を意味しているかと言えば、所詮経済的な発展度合い
とは国民の総和としては現れてこない。もっと言えば発展の量
化とは数値、もしくは個々の所得に現れるのであるが、それは
平均という部分での判断が下される。


平均とはなにか?



飛び抜けたモノが平均を押し上げる場合と
本当に平均が厚い層を成す場合と2種あるだろう。



前者とは現在の中国を見れば一目であろう。
沿岸部の経済発展とそれを享受する一部の富裕層
それが中国の国威を表してる。しかし国民全体はどうか?
まだまだ貧困と呼べる人口が多く存在しているのが現実
ではないだろうか?


格差とよばれるものである。


しかしこれは世界各国の先進国と後進国の有り様
をみればさほど奇異な風景ではない。どちらかというと
ごく当たり前であり為政者はこの部分のコントロール
に難渋すると同様に、国家戦略的に経済発展を望む
最短の方法論として一部の格差を生み出している。


しかし日本がとった政策はどうだろう。先の言葉にある
国民総中流とは言葉通り、皆が過不足なく平均に
密集し、その平均を世界第二位まで押し上げたのである。


驚くような富裕層はいないかもしれないが、国民一人一人
はある意味の豊かさを享受できる環境が生まれたのである。


このような成功が世界のどの国にあろうか?ある意味の頂点
を指し示した経済発展であったと言っても過言ではない。


しかし長らく我々はこういう日本的なモノを『だから駄目だ!』
的に『欧米的な競争世界には向かない勝てない』というような
事を聞き続けてきたような気がする・・・


しかし本当にそうなのか?何時の時代も日本は駄目だと
聞いてきたように感じるのは私だけであろうか?
村上隆が是認する戦後日本とサブカルチャーの平野という
風景が日本なのだろうか????


違うような気が最近している。


結果として日本は優れたものを発露し世界に冠たる国家
を形成した側面が十分ある。しかし問題は根底にある、、
安全保障との絡みで全てが整合しないというギクシャクを
ずっと抱え続けている。これが本質であり、また戦後日本
という姿ではないだろうか?ましてや、今その経済発展も
斜陽を迎え、これまでに成功してきたものが通用しなくなる
情勢を抱えるに至っている。その起点が20年前であり、、
具体的な凋落を感じるのが2000年以降の隣国中国の
発展である。又この時期の社会情勢が先に述べたように
世界の新たな枠組みとリンクした、、、そいうった時に出て
きた村上という存在、、そしてネガティブな戦後史観・・・


しかし今、我々の意識の総合が覚醒し始めているという
状況を仮定(私は現実的な潮流と捉えるが・・・)、、、、
した場合、村上隆にもっとも欠けていて、、我々の日本
というモノを曲解させかねない、又ネガティブな客体化された
日本像とは違う、、これからの日本、世界と極を一にする
新たなコンテクスト。世界にカウンターを打ち込める強靱な
モノ!



それはある一点に集約されると私は思うのである。



その、、、、




ある一点とは




私は”心”



日本人の世界に比類なき”心”なのではないか?



と、、感じている。



(つづく。。)



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エトリケンジ solo exhibition メディア取材本編
現在開催しております


エトリケンジ solo exhibition 『 VANISHING FIGURE』
2010.12.22 (wed) - 2010.12.30 (thu)
@ 高松天満屋 5階 美術画廊
http://www.tenmaya.co.jp/takamatsu/saiji.html

〒760-8516
香川県高松市常磐町1-3-1
TEL 087-812-7548



いよいよ明日最終日となりました。



沢山の方においでいただき、
心より感謝いたしております。
誠にありがとうございました。



お越し頂いた方々とお話して感じたのは
作品を中心とした今回の不思議な空間を堪
能していただけたと、誇張無く自負してお
ります。


しかし、浮かれることなく冷静に振り返ると
課題も多数気づきました。



これは作家にとっても私にとっても大変良い
勉強になりました。次の展開には十分活かせ
ると思います。



明日は最終日で午後4時閉廊


まだ一日弱ほど展覧の時間はありますので
まだご覧頂いて無く興味を持っていただいた
又、一度見たが再度と思っていただいている
方がおられましたら是非おこしくださいませ。


心よりお待ち申し上げております!


さて今回のブログは遅くなりましたが
展覧を取材していただきましたメディア
の本編の一部を恒例のCOMBINEプレゼンツ
ムービーにてご紹介させていただきます。


実は今回の展覧、地元メディアの方に多数
取材していただきました。何編ものNEWSに
していただいたのですが、まだデーターが
全て手元にありませんので入手次第順次ご
報告させていただきます。



又本日は春より継続取材をしていただいている
YTV様にも遠路関西から取材にお越し頂きました。


この継続取材に関してはおそらく来年放送に
なると思います。5月の渋谷でのストリートアート
その後BAMIギャラリーでのインタビューと制作風景
そして今回の展覧会風景、おそらく充実したドキュ
メントになると期待しております。

こうご期待ください!!


では



COMBINE presentsムービーをご覧くださいませ!!












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釜匠solo exhibition 『のぞきみ展』スタートいたしました!
本日より


釜 匠 solo exhibition
「 のぞきみ展 」
2010.12.13 (mon) - 2011.01.28 (fri)
gallery close 12/19・26~
2011 1/5・8・9・10・15・16・23

open 11:00~18:00
@BAMI gallery


スタートいたしました。


釜 匠 solo exhibition 『のぞきみ展』








彼がBAMI galleryにて初個展を開催してから
約一年半、その間に色々な経験を積み、
BAMI galleryに帰ってきました。



今回は本年、前田 寛治 大賞展に出品した
作品『クワガタムシの引き出し』を中心に、彼の
着想にてサムホールを主体とした小作品構成
の展覧です。


ギャラリーを覗けば!


快心の出品作100号と描きおろしのサムホール作品
の対比、彼がこの展覧会を『のぞきみ展』と名付けた意
味が垣間見えるような面白い空間となりました。


是非みなさまお誘い合わせの上


”のぞき”に来てください!!


よろしくお願いたします!



※今日のCOMBINE presentsムービーは
  釜くん撮影です!







デイリーモーションのcombine-kflの動画

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吉野ロボ 2
なぜ、医療とロボットが至って日本人的特性に
適っているのか?というよりも、素直に日本人的
気質を表出しているかという事だが、、、、


実は明確な論理性を持ち合わせているわけではない。


ただ先般のブログで記述したが主語を持たない
独自性の強い言語文化、この形成から想像
できる民族の性質という部分から考えても、、、


西洋のような主語述語的な必然性からモノを考える
といよりも、何か漠然とした全体から物事を浮かび上
がらせているような気がしてならないのである。
特別必然性がないにも関わらず探求する、しかしながら
なんとなくの直感的行為の連続性の積算と発想から
それらを体系立てて答えを導きだすような・・・・・


この際医療は別の機会に譲るとして、先ずロボット
に集約して語れば、、


以前のブログでも少し触れたが、機械文明、その
合理的な概念というのは日本に明治期大きな
ものが流入した。当然今の我々もその全体の
大きな流れの恩恵を受け現代に至っているので
あるが、どこか日本人が猛然と研究しているのは
それら西洋から流入した文明の起点その発想とは
異なるように感じるのである。



とりわけロボットにおいて考えれば、結論として
なぜ日本人は『 ヒューマノイド 』にこれほど拘るのか?
という疑問というのか不思議を以前からズッと考え
て来たのである。



ロボットは利便その一点から考えれば
ヒューマノイドなど空想の肥大的産物としては
存在価値は見いだせるが、現時点の現実とし
ては何の利便性も見いだすことは出来ない。


現代でこそある程度その精度が核心的部分まで
極まったからその転用という発想も生まれるが、、


初期段階でヒューマノイドを・・・といきなり取りかかる
発想は、、、実に他の国の科学者にあるだろか?


もちろん無いとは言えない、、科学はその直感的
想像からの検証行為でもあるからまったく否定は
出来ないが、、何か日本人はそういった事とは別次元
の取り付かれ方をしているように見えるのである・・・



だからなのかどうかは解らないが、、現実日本人は
かなりの時間、労力、資力を傾けてこのヒューマノイド
開発に拘り続けている。


アトム!


これかと思うがそれは違うと思うのである
手塚治虫も日本人のDNAを持ってあの
偉大な作品を作り上げた訳であって、アトム
そのものがと言うことではないと思う。


少なからず日本人のこだわりを堅固なモノに
するバックボーン、、もしくは方向性を指し示した
のは間違いないが・・・


これは一体何なのか?と思うのは私だけであろうか?


これも以前に少し触れたが、からくり人形の代表的
なモノでお茶を運ぶというモノがあるが、、、、、、、


ここまで精緻なものを開発する頭脳と労力があれば
本来、お茶を大量に作り出すという、、この一点に
機械的論理性とそれから来る合理性を求めれば
良いモノを、なぜ人形にしてお茶を運ぶという全く
何の利便性も享受できないものへの創作意識が
強く傾くのか???実に不思議でしょうがないので
ある・・・・・



確かに楽しい


そして皆にはお茶は運ばれないにしても
多くの人が手を叩いて喜ぶ、、ある意味の
イベントにはなる。。。。。。



ロボットには現時点の科学で主体性を持たせる
ところまでの開発は進んでいない、ある程度の
ルーティンによる人工知能的な、所謂経験値
からの動作というものは持ち始めているが、自ら
が考えるというのはない。



しかし、日本人の発想からすれば、それに猛烈
に進んでいる事は明白である。



しかし二足歩行をクリアし、あらゆる人間的な行動
を模した?いや機械として生物的な行動を具現化
させたという驚異的な極地まで到達している・・・



しかし何度も言うが、現実利益を生み出す産物
としてヒューマノイドは存在していない。



話は少し逸れるが、、、


私は常々考えてきたのであるが、日本人は西洋から
流入した芸術、まぁ輸入とあえて置き換えるが、、、
その大半明治期に入ってきたのもののインボイスが
間違っていたんじゃないか?と考えている。。。。。



例えばモネなどがその良い例であり、モネの輸入インボイス
は”技術”所謂描き方という部分であり、その芸術的考え
等はほとんど無視されてきたのではないか?と思うのである。



それは他の絵画も同様で、ゴッホなど何が優れているのか
本当に彼の生き方を割愛もしくは削除し、作品のみで判別
する部分の中で理解できているのか?と根本的な部分に突
き当たる・・・



私は何よりその最たる例はシュールレアリスムだったので
はないか?と考えている。


この絵画理論の中心は形而上学である。


一般的には実体や自己などの存在を規定する普遍的な
原理について研究する哲学の一領域である。世界の根本
的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の
存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものに
ついて考える学問分野である。



しかし根本的に日本及び日本人においてこの考え方は
至って希薄であり、特にそういった事を深く追求するという
歴史的業績は見られない。



なぜ存在するのか?などという部分に考えを突き刺す
ような論理性は有していない。



どちらかと言えば、、あるものは何らかの理由があって存在
するのだろう・・・という一つの存在の理由よりもそれらが
集合する世界観の方がもっと大事というのか、幽霊やその他
の超常現象にいたるまで何の疑問と言えば嘘だが大半、、、、
迷信としつつも受け入れて平然としている・・・・・・・・・・・・・・



このような民族にとって西洋人がある歴史の一時点にたどり
着いた論理性を真に理解できたかというと大いに疑問である。



確かに数名シュールレアリスムの画家というような人間もい
るが見る限り”猿まね”の息を脱していないのが現実であり、
本質的理解が及んでいないことは明白と言わざるを得ない。。


。。



日本人の独自性的解釈の見地から考えれば
所謂西洋的な形而上的発想である、なぜ存在するのか?
などという発想は元来持ち合わせていない。



だからロボットにおいてもその着眼と発想は類似するモノが
あり、ロボットそのものヒューマノイドが存在する根幹的な
考察などはないというかあり得ないのである。。。



そうなると何故日本人はロボットとりわけヒューマノイド
に取り付かれ猛烈に作り続ける、その出口というのか、、
何を追い求めているのか?という所に突き当たる。



私なりの安直な答えかもしれないが、、、、、、、、



存在理由としての人間ではなく、存在そのものとしての
人間をしりたいのじゃないのかなぁ?



と考えている。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


(つづく)




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吉野ロボ 1
先日ある小説を読んでいて


ハッとさせられるというか、、あぁ・・なるほど
というのか、改めて考えればそうだなと思うモノの



しかしながら、、気がつかなかった事に気づかされた。。。



それは何かと言えば



川端康成という文豪の有名な小説の『雪国』
の書き出し文


「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」


である。



この文章よくよく考えると”主語”がないのである。
雪国が主語でもなければトンネルでもない・・


ましてや文章の中に示されてはいないから当然
なのだが、トンネルという単語から関連づけられる
汽車でもない・・


この文章が示している情景と時間軸には
まったく主語が存在しないのである・・・


少し調べてみると、日本語における特徴的
部分というのか、特質であり、日本語は主語
を必要としない言語でもあるらしいのである。


へぇ~と思うが、英語や中国語その他の言語
で置き換えて考えてみれば比較しやすいが、こ
れら言語では主語がなければ実は成立しない
仕組みが内包されていて、言葉の仕組みが実は
文法や単語(所謂スペル・漢字等)という部品
部分とマニュアル以前に日本語の感覚とはまっ
たく違う事が解るのである。。。。。



なるほどぉ~と関心したのはこういった事が
判明したこともさることながら、、主語を必要
としない言語文化を構築した日本人とは?
という部分に深く突き刺さった事が実は一番
大きかった。



そう言えばだが、そうなると


中原中也の汚れちまった悲しみに・・・という
詩にも主語なるものは見受けられない・・




俳句などもほぼ主語は省略されている。



「古池や蛙飛び込む水の音」


まぁ強引な解釈として


古池でも蛙でも主語とした
場合、、


1、古池が蛙に飛び込まれた水の音


?????


2、蛙が古池に飛び込む水の音



この方が説明はつくが・・・・果たして

「古池や蛙飛び込む水の音」

の表現しようとしたものと比べ
どうであろうか?



何となくではあるが、、、まったく
違う情景というより状態を説明
しているだけのような気がしなく
もないのと同時に、、ここが大きな
違いを孕んでいるように感じない
だろうか?


これだと基本は水の音という部分に
集約されていて古池という情感から
は何も現れてこない・・・・


何となく西洋の合理性的な匂いが
するのは私だけでは無い筈である。。


主語述語という組み合わせで考えれば
実は日本語は述語・述部が強く、主語
を必要としない、もしくは述語部分から
類推するという仕組みが備わっており、
あえて明記しないという考え方もある。。



もう一つ思えるのは、、主語という”~が”
と言うような主体的存在を先ず明確に
するという構造自体が実は日本人の
生活に根ざした風土・思想性とは逆の
構造があるように私は感じるのである。



どういう事かと言えば



常に客観的な視線を持つことを前提として
おり、その客観的風景から例えば自らであった
り、他者であったりの存在の輪郭を浮き上がら
せる、、、自分を中心にもしくは例えば物語
の主人公を中心にし風景を解説するのではなく
全体からの自分というモノを見る視線を重視
しているように感じるのである。



日本独特のスタイルと呼ばれる私小説に
至っても、実際には自分というものを極端に
まで観察すること客観視することによって、その
観察の中にある風景からの対比として自分を
浮かび上がらせている。結局、私はこう思う
故にこういう行動をとったなどというような構造は
あまり見受けられない。流れるような時間軸の
なかで彷徨う自分という、、ある意味あまりにも
主体性を欠如した中心人物というのが大抵の
設定の中心を成す・・・・・



これが実は日本における日本人の思考構造と
深く関わっているというよりも根底じゃないか?
と感じるのである・・・・・・・・・・・・・・・・・・



例えば絵画などを考えてもそうなのだが、、西洋に
おける一枚の絵という概念は日本では西洋文化
が流入してくるまではほとんど無かったと言っても良い。
どういう事かと言えば、庶民にその感覚がなかった
という事よりも所謂西洋における王侯貴族に類する
日本の大名などは、飾るというよりも、その空間に
存在する、所謂障壁画や屏風という空間性、もしくは
床の間という空間を中心としての演出物として絵画を
考えていた事は想像に難くない・・・



空間性はあっても、、、、
一枚の絵などという主体性は存在しない・・


浮世絵にしてもそうである
世間という空間の中で存在するから成立したのであって
タブローという概念はまったくない。。。



そう考えると・・・


今で言うインスタレーションを室内空間毎に作り出し
ていたというのか、、極論で言えば西洋的な所有感覚
ではなく共有感覚というような事に思える・・・




それは前述の全体からの個という空間感覚、明らかに
所有者というのは大名であるのだが、あえてそのキャプ
ション的説明もしくは誇示を持たない。
もっと言えば、絵画を飾るというより、絵画によって構築
された仮想空間の中に入り込むという欲求が実はこの
言語構造に近いような気がするのである。



この感受性で言えば、確かに日本以外の文化圏の
人間と交流、もっと言えば交渉する場合、、かなり
難解をもって迎えられることは当然であり、しかも日本
以外が全て違うという事を考えれば、国際社会での
日本的思考が不向きというのも納得出来る・・・


しかし、それは全て駄目なことなのか?とも思う。


私が小さい自分からホンの最近まで、大半世界から
見た日本という見え方においてほとんどが


だから駄目!という事をすり込まれ続けてきたが、、、、



本当にそうなのか?と最近はつくづく感じることが
ある。


なんか全て駄目みたいな・・・・



逆説的に考えれば、こんな感受性というのか、、
独特のオリジナルな言語文化を持ち、そこから
独特の空間意識や創造的嗜好性を持つにいたった
民族性は実はもっと誇らしく感じてもいいのではないか?
と思うのである。



他に類似性がない!これはとてつもなく大きな特質だと
思う。



明らかに世界標準と言うことは認識していかなくては
ならないが、しかしだからといって、全てを消し去り、
全て主語をもって言語思考構造を組み立てる必要
はまったくないと私は思うのである・・


ましてや西洋から見たという日本像というものに対して
媚びを売るような構造の日本アピールはまったくもって
間違いだと思う・・・・


過去から連綿と繋がる本質的な意味での
日本人という部分、、、、、



本当の意味での日本人という事を今はもっと皆で
考察し感じる時期なのではないか?と最近頓に思うの
である。



日本は科学という先端文明をもって世界に冠たる
国家の礎を築くというのは結構なことであるが、、、、



日本がこれまでそういった分野で先行できてきた
事も、実は先述している日本的な感受性が大きく
絡んでいると私は感じている。



その最も明確な分野こそが



ロボットなのでは?と以前から考えていた・・・・


いや逆に実は純粋に日本人の感受性のDNAを具現化させて
いるのは、、、、アートでも政治でも経済でもなく、、、、


科学、とりわけ医療科学とロボット科学の分野なのでは?


と考えている・・・





(つづく)




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