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吉野ロボ 1
先日ある小説を読んでいて


ハッとさせられるというか、、あぁ・・なるほど
というのか、改めて考えればそうだなと思うモノの



しかしながら、、気がつかなかった事に気づかされた。。。



それは何かと言えば



川端康成という文豪の有名な小説の『雪国』
の書き出し文


「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」


である。



この文章よくよく考えると”主語”がないのである。
雪国が主語でもなければトンネルでもない・・


ましてや文章の中に示されてはいないから当然
なのだが、トンネルという単語から関連づけられる
汽車でもない・・


この文章が示している情景と時間軸には
まったく主語が存在しないのである・・・


少し調べてみると、日本語における特徴的
部分というのか、特質であり、日本語は主語
を必要としない言語でもあるらしいのである。


へぇ~と思うが、英語や中国語その他の言語
で置き換えて考えてみれば比較しやすいが、こ
れら言語では主語がなければ実は成立しない
仕組みが内包されていて、言葉の仕組みが実は
文法や単語(所謂スペル・漢字等)という部品
部分とマニュアル以前に日本語の感覚とはまっ
たく違う事が解るのである。。。。。



なるほどぉ~と関心したのはこういった事が
判明したこともさることながら、、主語を必要
としない言語文化を構築した日本人とは?
という部分に深く突き刺さった事が実は一番
大きかった。



そう言えばだが、そうなると


中原中也の汚れちまった悲しみに・・・という
詩にも主語なるものは見受けられない・・




俳句などもほぼ主語は省略されている。



「古池や蛙飛び込む水の音」


まぁ強引な解釈として


古池でも蛙でも主語とした
場合、、


1、古池が蛙に飛び込まれた水の音


?????


2、蛙が古池に飛び込む水の音



この方が説明はつくが・・・・果たして

「古池や蛙飛び込む水の音」

の表現しようとしたものと比べ
どうであろうか?



何となくではあるが、、、まったく
違う情景というより状態を説明
しているだけのような気がしなく
もないのと同時に、、ここが大きな
違いを孕んでいるように感じない
だろうか?


これだと基本は水の音という部分に
集約されていて古池という情感から
は何も現れてこない・・・・


何となく西洋の合理性的な匂いが
するのは私だけでは無い筈である。。


主語述語という組み合わせで考えれば
実は日本語は述語・述部が強く、主語
を必要としない、もしくは述語部分から
類推するという仕組みが備わっており、
あえて明記しないという考え方もある。。



もう一つ思えるのは、、主語という”~が”
と言うような主体的存在を先ず明確に
するという構造自体が実は日本人の
生活に根ざした風土・思想性とは逆の
構造があるように私は感じるのである。



どういう事かと言えば



常に客観的な視線を持つことを前提として
おり、その客観的風景から例えば自らであった
り、他者であったりの存在の輪郭を浮き上がら
せる、、、自分を中心にもしくは例えば物語
の主人公を中心にし風景を解説するのではなく
全体からの自分というモノを見る視線を重視
しているように感じるのである。



日本独特のスタイルと呼ばれる私小説に
至っても、実際には自分というものを極端に
まで観察すること客観視することによって、その
観察の中にある風景からの対比として自分を
浮かび上がらせている。結局、私はこう思う
故にこういう行動をとったなどというような構造は
あまり見受けられない。流れるような時間軸の
なかで彷徨う自分という、、ある意味あまりにも
主体性を欠如した中心人物というのが大抵の
設定の中心を成す・・・・・



これが実は日本における日本人の思考構造と
深く関わっているというよりも根底じゃないか?
と感じるのである・・・・・・・・・・・・・・・・・・



例えば絵画などを考えてもそうなのだが、、西洋に
おける一枚の絵という概念は日本では西洋文化
が流入してくるまではほとんど無かったと言っても良い。
どういう事かと言えば、庶民にその感覚がなかった
という事よりも所謂西洋における王侯貴族に類する
日本の大名などは、飾るというよりも、その空間に
存在する、所謂障壁画や屏風という空間性、もしくは
床の間という空間を中心としての演出物として絵画を
考えていた事は想像に難くない・・・



空間性はあっても、、、、
一枚の絵などという主体性は存在しない・・


浮世絵にしてもそうである
世間という空間の中で存在するから成立したのであって
タブローという概念はまったくない。。。



そう考えると・・・


今で言うインスタレーションを室内空間毎に作り出し
ていたというのか、、極論で言えば西洋的な所有感覚
ではなく共有感覚というような事に思える・・・




それは前述の全体からの個という空間感覚、明らかに
所有者というのは大名であるのだが、あえてそのキャプ
ション的説明もしくは誇示を持たない。
もっと言えば、絵画を飾るというより、絵画によって構築
された仮想空間の中に入り込むという欲求が実はこの
言語構造に近いような気がするのである。



この感受性で言えば、確かに日本以外の文化圏の
人間と交流、もっと言えば交渉する場合、、かなり
難解をもって迎えられることは当然であり、しかも日本
以外が全て違うという事を考えれば、国際社会での
日本的思考が不向きというのも納得出来る・・・


しかし、それは全て駄目なことなのか?とも思う。


私が小さい自分からホンの最近まで、大半世界から
見た日本という見え方においてほとんどが


だから駄目!という事をすり込まれ続けてきたが、、、、



本当にそうなのか?と最近はつくづく感じることが
ある。


なんか全て駄目みたいな・・・・



逆説的に考えれば、こんな感受性というのか、、
独特のオリジナルな言語文化を持ち、そこから
独特の空間意識や創造的嗜好性を持つにいたった
民族性は実はもっと誇らしく感じてもいいのではないか?
と思うのである。



他に類似性がない!これはとてつもなく大きな特質だと
思う。



明らかに世界標準と言うことは認識していかなくては
ならないが、しかしだからといって、全てを消し去り、
全て主語をもって言語思考構造を組み立てる必要
はまったくないと私は思うのである・・


ましてや西洋から見たという日本像というものに対して
媚びを売るような構造の日本アピールはまったくもって
間違いだと思う・・・・


過去から連綿と繋がる本質的な意味での
日本人という部分、、、、、



本当の意味での日本人という事を今はもっと皆で
考察し感じる時期なのではないか?と最近頓に思うの
である。



日本は科学という先端文明をもって世界に冠たる
国家の礎を築くというのは結構なことであるが、、、、



日本がこれまでそういった分野で先行できてきた
事も、実は先述している日本的な感受性が大きく
絡んでいると私は感じている。



その最も明確な分野こそが



ロボットなのでは?と以前から考えていた・・・・


いや逆に実は純粋に日本人の感受性のDNAを具現化させて
いるのは、、、、アートでも政治でも経済でもなく、、、、


科学、とりわけ医療科学とロボット科学の分野なのでは?


と考えている・・・





(つづく)




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