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吉野ロボ 5
村上隆の限界、そこから今後ということで前回は終了したが


如何なることか?


単純に『我が国が誇る』という形容詞の後に
村上隆を置いて良いのかどうか?という疑問が
実はこれほど世界を席巻したアーティストには常に
つきまとっていることを感じるのは私だけではない
筈だ・・・・・


ある意味日本の不思議な感覚



所謂自国で認め切れていない、もしくは決められない
優柔な感覚ないしは蒙昧さ。外国=西洋によって認め
られたものは無条件に享受するという主体性の無さが招
いているという解釈も妥当である。もう少し冷静に考えれ
ば、今はまだという部分も当然あるだろう。



死んだ後、過去の業績からという、もうその後の変化の
予測を立てなくてもよいタイミングでゆっくりと検証して
という時期でないから誰も今後との兼ね合いで言いかねて
いるという見方も他方ではあるだろう。



仮説を立てる勇気がない。



なぜなら彼は描いて?(描かせて)喋って、商売して
とオールマイティーでその全てが日本の誰もが体現した
ことがない境地に身を置く逸材であり、面と向かって
何か言える人間がいるか?という部分もある。


仮に何かを言ったとしても、じゃ現実は?という
部分の反問に応える実績を持った人間は誰なのか?


村上を批判する人は多いと思う。しかし実際
その論調の急先鋒は一体誰なのか?と考えれば
誰もいない。ジャーナリズムなどというものがその場合
の機能の一旦を担う筈なのだが、、、、果たし・・・・て、、
わざわざここで明らかにする必要もないほど結論は
見えている・・・・



学術界は?同様だろう??


まぁ、、いるのだろうが、、、何の反響、所謂、先ほど
述べた急先鋒なる存在としては見えてこない・・


本当はアート以外の識見者がこの手の部分に加わって
も良いはずなのだが、、、、それもない。。。。


これは後で話すことになるが、、そこが本来おかしな部分
だとも思う。。


もう一つは、、余談だが


過去のアーティストに比べると、、、、、、、、、、、、、
弁舌・論説が鋭く、広角的にメディアに露出する彼の姿勢
に対しての虚無感や面倒くささや、、、まぁ煩いという
部分も多分にあるだろうし、、メディア露出という観点
から言えば、同様に多数露出しているタレントとの並列
感で見れば、受け入れられないという嫌悪感もあるだろう。


『俺が俺が・・』的な謙虚さ寡黙さのないビジュアルを
大半の日本人は間違いなく嫌うであろう。


そう言えば、彼のビジュアルから


誰それ様のおかげで自分は・・・などというものは
私の独断と偏見かもしれないが見聞きしたことは
ない。


しかし、これほどの世界的な成功を収めた日本人アーテ
ィストが現役世代として過去いたであろうか?量的判断は
当然出来ないが、しかし明らかに彼以上を仮定し
並べてみても天秤がどう動くかは誰の目にも明らかで
あろう。


そして長々と書き連ねたが、所謂西洋を基盤とする
アートの世界においての彼の台頭及びその足跡は
他国の別のアーティストと比べても何らの欺瞞(当然
その位置にいくにはある程度同様の法則が存在しスタン
ダードであるという前提)もなければ遜色もない。



私はそう思う。


少し話がそれたが、、個人的なキャラクターが起因
することも多少はあるにしても、しかし何故か彼の
業績に対して日本国内ではどうもしっくりした評価
というものが無いのが現状のように感じる。


確かに何度も言うが現役で活躍しているアーティスト
であり、今もまだ途上といえばそうなのだろうが、、
しかし過去のアーティストからすると誰もが検証でき
ない位置にまで到達していることから考えれば、
無条件と言うまで行かないにしても、かなり大きな
ボリュームで持続的に称賛があっても良いのだが、、
現実的に他の世界で活躍している人との比較において
見た場合、、少し、、いやかなり違うような気がする。。。



日本人は無知なのか?妬みなのか?納得できないのか?


私はいずれも当たっていると思う。


まぁ異論は様々あるだろうが、、、、
世界に認められ、、どちらというと国内で嫌悪されて
いる・・・という風景が私には見えるのである。。。



逆説的には現状国内における村上隆の浮揚は実はこの
カウンターがあるから成り立っている側面もある。


あえて無視できない存在を演出しているのか、自然と
この感情と戦う姿勢によって成り立っているのか?
は分からないが、この日本人と村上という図式が、
もうかれこれ10年近く続いていることは間違いない。


なんであんなマンガみたいなものが?
あんなもの、一時の・・・
大体自分で作りもしないで・・・・


もうキリがないほどあり、一部の理解は得ても
それ以外に浸透するほどの彼の功績紹介とその
内容を説明するものがないというのは何なのだ
ろうか?


何度も言うが、世界を席捲し一世を風靡した
アーティストであり、過去の世界的と呼ばれる
アーティストの誰よりも一般に評価されてもいい
筈なのであるが・・・


いや、まだもっと先だろう?という意見に
しても前時代的な情報流通ならそうだろうが
現代の情報社会である・・・・



当然さきに述べた批判?というより誹謗そのも
のが日本と言う閉鎖的な市場性と概念性を表して
いるのも事実である。


実際その狭間の中にいる人は彼だけではなく数多
存在するだろうが、彼は頭一つも二つも突き抜けた
存在である事を考えれば・・・・


日本ではこの手の存在は延々認められないのか?
という感性も実は存在すると思う。



いや、、大きくあるだろう。。。
しかしどうも解せないのは、世界的な評価に恐ろしく
弱い国民性があまり発露されていない彼の存在に
は疑問が残る・・・


では、、



なぜこのような図式が成り立つのか?



あくまで私見であるが、、



単純に私は、彼及び彼の作品、及びコンテクスト
は日本と日本人を表現しきれていない。


これにつきると思うのである。


確かにこの項にて再々彼が世界へ飛躍する道程
を段階的及びその時々の経済的情勢・気運を絡ませて
説明し、その根本が西洋を基盤とするものへの
カウンターであり、即ちその激突が海外にも国内
にも触媒効果として作用したという事を語った。


合わせて過去のアーティストとの大きな違いとして
彼は、日本を脱出したコスモポリタンではなく、あくまで
日本人、そこからの感性をカウンターとして創出し
堅持しているとも説明した。



それは即ち彼が日本と言うものを駆使した結果という
ことではあるのだが、、




しかし、冷静に考えれば・・・・・・・・・・
これはあくまで日本のある一面を使い効果を発揮
しただけであり、当然事実無根ということではない
が、あくまで、あるポイントからの村上隆の解釈
と論理性でしかなく、それが即ち日本そのものを
端的に表したかと言えば、少し疑問が残る。


ある一部分の普遍性(スーパーフラット)とある
時間軸からくる(戦後)関係性を接合し溶解した
結果をアメリカとの接合点に持ち出し、それが世界
的に流通し始めたアニメーションと言う産物との結
合を根拠に据えたのだったが、、


彼が描き作り出した接合点である現代のサブカルチャー
というフィールドからの日本という具体性の抽出と、
世界、特に中心的アメリカに接合させた手法は、実は
広範な普遍性を持つ日本そのものをバックボーンにし
たわけではない。


それは誰にも理解できるであろう。



又逆にアートがそこまで広範な日本というものを
網羅しその感性を一つに集約できるのか?という
疑問も当然あるだろうが、しかしここで言う彼の日本
とは、日本人が心底感じている日本とは


”ある一点が”



大きな隔たりを持っているという事と同時に、果た
して彼の言う日本とは本当の日本人を直喩している
のか?どうかの大いなる疑問があるのである。。


これがある意味の結論です。



、、、、、、、、、、、、、、、



ある一面の真理、、アメリカ側からの視線であり、
及び20世紀末から21世紀に向かう中での日本を彼なり
に集約したという事でしかない。。日本からすれば
少し客体化されすぎている自国の姿が浮かび上がる。


これはもっと言えば日本人の普遍性を描きだした
訳ではなく、歴史の中にある、ある一時点、戦争という
日本が世界との関係で初めて挫折した時点のマインド
からくるネガティブな面を切り抜いたに過ぎず、
そういう意味でこのネガティブな時点でも息づく日本
の普遍性、それをサブカルチャーという辺境にて認め
その純度の高い醸成具合の栄養素・・すなわち
成長させ続けたの主体を、日本でなくアメリカであると
いう論法に帰着させた事は、あまりにも日本及び日本人
という歴史的堆積全体からする割合が少なすぎる、
もしくは妥当性を欠いているように感じて止まないのでは
ないか?と思うのである。。


確かに戦後の世界の枠組みの中における日本を客体化
したときアメリカという存在との関係は切り離して考えら
れない。その最大は安全保障上の問題に集約されるのも間
違いない事実であろう。その安全保障を基盤とする現実的
国家観、その感覚を失った日本の陰影として広がりを見せ
るサブカルチャーも事実だろう。しかし果たしてその光景
の最大公約数が即ち日本か?と言えばそれは否と言わざる
を得ない。。。
現代美術の持つ特性的表現の一旦として及び世界=アメリ
カと極を一にするポイントとしては理解は出来るが、、、
、、、、、、



それはこの10年前までだったのではないか?と考えるの
である。



2000年と現在の2011年ではその現実的国家観に著しい
違いが生まれていることに気づく方は多いはずだ。。。


明らかに日本人は覚醒し始めている。これは内部的な
覚醒と言うよりも外部要因がそれを許さない所まで来た
のである。当然、安全保障の概念も変質というよりも
新たな概念が加わっており、資源、経済、食料、科学的
インフラ、等々、10年前とは比較にならない程の国家観
を一般が求め始めている。


是こそが所謂潮流というものであり、実際私の見る限り
昨年末からの緊張度合いは一気に高まったと感じる。
この状況下においても未だ村上隆の表現する日本観
というものに固執していられるのか?という疑問が起きる
のは不思議ではない筈だ・・


何度も言うが、2000年時点でのコンテクストとして接合
した状況と今は大きく違う。そして彼が使用した日本と
いうモノが、現状と著しく合致しなくなって来ているのと
同時に、覚醒が促されているのである。このある意味
自虐的史観から離れ、本来的な部分というものへの
回帰が実はこの時期に望まれているモノとであると同時に
即ちそれが村上隆がカバーし切れていない大きな面積を
持つ日本というモノのような気がしてならないのである。


村上が言う戦後日本とアメリカの関係は影の部分で
ある。反面に戦後日本とアメリカという、やむにやまれぬ
関係を先ず認識し、それでも国家繁栄を考え、主体的
国家観から憂い、その現実的な制約の中から歩んだ
日本という姿があることも事実である。



松下、ソニー、ホンダという世界に冠たる企業を築き上
げたのもこの時代を背景にした日本である。
そのスピリットの中からでもアートを触発してきたものが
あるわけであり、何もサブカルチャーに戦後が凝縮され
ている訳ではない。アニメと呼ばれるものが制作され、
それを誰もが享受できる環境を誰が整え支えたのか?
それらがスタート仕始めたとき、そこにサブカルチャーとい
うような空気があったのであろうか?



悪いが”おたく”なる言葉が流布されだしたのは、この20年
前くらいのことであり、私が中学時分の30年前は、、、、
二次元コンプレックという呼ばれ方をしていた筈だ。。。。



こういう世界を作りだしたのも日本人であることは間違いな
い。ある意味奇態な存在を受容し肥大化させた感性も
日本人の中にはあるだろうが、それはこの20年という時間
軸の中で生まれた訳であり、、実際にはこの20年という時
間軸を考察するべきである。


私が中学時分のアニメは間違いなくエンターテイメントで
あり、今のような偏狭な存在ではなかった。


私は本質は今もそうだと思う。


客観的に見た場合の錯綜感覚が強すぎるように思うのである。
宮崎駿をサブカルチャーの代表として我々は考えているか?
またそのストーリー性から村上が説くような戦後日本の存在と
アメリカのような対比が伺えるだろうか?


少し違うような気がしないか?
先程来から言う、大いなる歴史的堆積を昇華し普遍的
日本及び日本人の感性が共感できないだろうか??


そこには『我が国が誇る』という形容詞が誰の目に疑いもなく
しっくりと収まる。また世界から見ても日本を代表する
という感性が間違いなくあるだろう。。


そして政治体制も、確かにアメリカ追従、安全保障を丸投げ
して経済のみに邁進し世界的な地位を確保し、それもアメリ
カの傘の下でのみ許される範囲という捉え方は正しいだろう。
世界的に見てその姿は、アメリカの支店のような関係性、主
体的意見を言った所でアメリカの意見と相違する事が許され
ない日本という存在は結局、世界からは真の意味での独立国
家たり得ない姿として映っても仕方がない。これも事実であ
ろう。


しかし、だからといって国民がそのことによって災厄を何
代にも渡って被ったか?といえば、どちらかと言えば豊か
な国家という印象をこの65年間は享受し続けてきたのでは
ないだろうか?


これもネガティブに捉えれば前述のような事情から生まれ
それを茫漠と受容し結果論的に捉えられなくもないが、
実際はその制約の中で闘った人間達がいて成り立った
繁栄であるという側面が確実に存在する。


自民党というのはある意味戦後の2大保守党の合体
で出来上がった。党是は改憲であり先に述べた真の
意味での独立国家というものだったが、状況が許す
最優先事項が経済発展であり、言葉は悪いが後回し
した。これは現実的な後生に対するツケであり、それが
今、この2011年に噴出している。しかし後回しにしな
くてはいけない事情も理解できる。あまりにも貧しく、
困窮の度合いが高かった戦後のこの国で第一の問題は
社会生活の安定であった。又アメリカに通商部分でしか
国際的な窓口を開けてもらえていない状況の現実的
選択であったと思う。


それが戦後の経済政策の有り様だろう。


しかしこの自民党が取った経済政策、私はかなり評価できる
と考えている。何も村上が定義するようなネガティブなもので
はなく、実に日本的な発展過程を辿ったのではないか?と常々
感じている。


それは何か?と言えば


国民総中流という結果である。


これは何を意味しているかと言えば、所詮経済的な発展度合い
とは国民の総和としては現れてこない。もっと言えば発展の量
化とは数値、もしくは個々の所得に現れるのであるが、それは
平均という部分での判断が下される。


平均とはなにか?



飛び抜けたモノが平均を押し上げる場合と
本当に平均が厚い層を成す場合と2種あるだろう。



前者とは現在の中国を見れば一目であろう。
沿岸部の経済発展とそれを享受する一部の富裕層
それが中国の国威を表してる。しかし国民全体はどうか?
まだまだ貧困と呼べる人口が多く存在しているのが現実
ではないだろうか?


格差とよばれるものである。


しかしこれは世界各国の先進国と後進国の有り様
をみればさほど奇異な風景ではない。どちらかというと
ごく当たり前であり為政者はこの部分のコントロール
に難渋すると同様に、国家戦略的に経済発展を望む
最短の方法論として一部の格差を生み出している。


しかし日本がとった政策はどうだろう。先の言葉にある
国民総中流とは言葉通り、皆が過不足なく平均に
密集し、その平均を世界第二位まで押し上げたのである。


驚くような富裕層はいないかもしれないが、国民一人一人
はある意味の豊かさを享受できる環境が生まれたのである。


このような成功が世界のどの国にあろうか?ある意味の頂点
を指し示した経済発展であったと言っても過言ではない。


しかし長らく我々はこういう日本的なモノを『だから駄目だ!』
的に『欧米的な競争世界には向かない勝てない』というような
事を聞き続けてきたような気がする・・・


しかし本当にそうなのか?何時の時代も日本は駄目だと
聞いてきたように感じるのは私だけであろうか?
村上隆が是認する戦後日本とサブカルチャーの平野という
風景が日本なのだろうか????


違うような気が最近している。


結果として日本は優れたものを発露し世界に冠たる国家
を形成した側面が十分ある。しかし問題は根底にある、、
安全保障との絡みで全てが整合しないというギクシャクを
ずっと抱え続けている。これが本質であり、また戦後日本
という姿ではないだろうか?ましてや、今その経済発展も
斜陽を迎え、これまでに成功してきたものが通用しなくなる
情勢を抱えるに至っている。その起点が20年前であり、、
具体的な凋落を感じるのが2000年以降の隣国中国の
発展である。又この時期の社会情勢が先に述べたように
世界の新たな枠組みとリンクした、、、そいうった時に出て
きた村上という存在、、そしてネガティブな戦後史観・・・


しかし今、我々の意識の総合が覚醒し始めているという
状況を仮定(私は現実的な潮流と捉えるが・・・)、、、、
した場合、村上隆にもっとも欠けていて、、我々の日本
というモノを曲解させかねない、又ネガティブな客体化された
日本像とは違う、、これからの日本、世界と極を一にする
新たなコンテクスト。世界にカウンターを打ち込める強靱な
モノ!



それはある一点に集約されると私は思うのである。



その、、、、




ある一点とは




私は”心”



日本人の世界に比類なき”心”なのではないか?



と、、感じている。



(つづく。。)



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