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吉野ロボ 2
なぜ、医療とロボットが至って日本人的特性に
適っているのか?というよりも、素直に日本人的
気質を表出しているかという事だが、、、、


実は明確な論理性を持ち合わせているわけではない。


ただ先般のブログで記述したが主語を持たない
独自性の強い言語文化、この形成から想像
できる民族の性質という部分から考えても、、、


西洋のような主語述語的な必然性からモノを考える
といよりも、何か漠然とした全体から物事を浮かび上
がらせているような気がしてならないのである。
特別必然性がないにも関わらず探求する、しかしながら
なんとなくの直感的行為の連続性の積算と発想から
それらを体系立てて答えを導きだすような・・・・・


この際医療は別の機会に譲るとして、先ずロボット
に集約して語れば、、


以前のブログでも少し触れたが、機械文明、その
合理的な概念というのは日本に明治期大きな
ものが流入した。当然今の我々もその全体の
大きな流れの恩恵を受け現代に至っているので
あるが、どこか日本人が猛然と研究しているのは
それら西洋から流入した文明の起点その発想とは
異なるように感じるのである。



とりわけロボットにおいて考えれば、結論として
なぜ日本人は『 ヒューマノイド 』にこれほど拘るのか?
という疑問というのか不思議を以前からズッと考え
て来たのである。



ロボットは利便その一点から考えれば
ヒューマノイドなど空想の肥大的産物としては
存在価値は見いだせるが、現時点の現実とし
ては何の利便性も見いだすことは出来ない。


現代でこそある程度その精度が核心的部分まで
極まったからその転用という発想も生まれるが、、


初期段階でヒューマノイドを・・・といきなり取りかかる
発想は、、、実に他の国の科学者にあるだろか?


もちろん無いとは言えない、、科学はその直感的
想像からの検証行為でもあるからまったく否定は
出来ないが、、何か日本人はそういった事とは別次元
の取り付かれ方をしているように見えるのである・・・



だからなのかどうかは解らないが、、現実日本人は
かなりの時間、労力、資力を傾けてこのヒューマノイド
開発に拘り続けている。


アトム!


これかと思うがそれは違うと思うのである
手塚治虫も日本人のDNAを持ってあの
偉大な作品を作り上げた訳であって、アトム
そのものがと言うことではないと思う。


少なからず日本人のこだわりを堅固なモノに
するバックボーン、、もしくは方向性を指し示した
のは間違いないが・・・


これは一体何なのか?と思うのは私だけであろうか?


これも以前に少し触れたが、からくり人形の代表的
なモノでお茶を運ぶというモノがあるが、、、、、、、


ここまで精緻なものを開発する頭脳と労力があれば
本来、お茶を大量に作り出すという、、この一点に
機械的論理性とそれから来る合理性を求めれば
良いモノを、なぜ人形にしてお茶を運ぶという全く
何の利便性も享受できないものへの創作意識が
強く傾くのか???実に不思議でしょうがないので
ある・・・・・



確かに楽しい


そして皆にはお茶は運ばれないにしても
多くの人が手を叩いて喜ぶ、、ある意味の
イベントにはなる。。。。。。



ロボットには現時点の科学で主体性を持たせる
ところまでの開発は進んでいない、ある程度の
ルーティンによる人工知能的な、所謂経験値
からの動作というものは持ち始めているが、自ら
が考えるというのはない。



しかし、日本人の発想からすれば、それに猛烈
に進んでいる事は明白である。



しかし二足歩行をクリアし、あらゆる人間的な行動
を模した?いや機械として生物的な行動を具現化
させたという驚異的な極地まで到達している・・・



しかし何度も言うが、現実利益を生み出す産物
としてヒューマノイドは存在していない。



話は少し逸れるが、、、


私は常々考えてきたのであるが、日本人は西洋から
流入した芸術、まぁ輸入とあえて置き換えるが、、、
その大半明治期に入ってきたのもののインボイスが
間違っていたんじゃないか?と考えている。。。。。



例えばモネなどがその良い例であり、モネの輸入インボイス
は”技術”所謂描き方という部分であり、その芸術的考え
等はほとんど無視されてきたのではないか?と思うのである。



それは他の絵画も同様で、ゴッホなど何が優れているのか
本当に彼の生き方を割愛もしくは削除し、作品のみで判別
する部分の中で理解できているのか?と根本的な部分に突
き当たる・・・



私は何よりその最たる例はシュールレアリスムだったので
はないか?と考えている。


この絵画理論の中心は形而上学である。


一般的には実体や自己などの存在を規定する普遍的な
原理について研究する哲学の一領域である。世界の根本
的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の
存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものに
ついて考える学問分野である。



しかし根本的に日本及び日本人においてこの考え方は
至って希薄であり、特にそういった事を深く追求するという
歴史的業績は見られない。



なぜ存在するのか?などという部分に考えを突き刺す
ような論理性は有していない。



どちらかと言えば、、あるものは何らかの理由があって存在
するのだろう・・・という一つの存在の理由よりもそれらが
集合する世界観の方がもっと大事というのか、幽霊やその他
の超常現象にいたるまで何の疑問と言えば嘘だが大半、、、、
迷信としつつも受け入れて平然としている・・・・・・・・・・・・・・



このような民族にとって西洋人がある歴史の一時点にたどり
着いた論理性を真に理解できたかというと大いに疑問である。



確かに数名シュールレアリスムの画家というような人間もい
るが見る限り”猿まね”の息を脱していないのが現実であり、
本質的理解が及んでいないことは明白と言わざるを得ない。。


。。



日本人の独自性的解釈の見地から考えれば
所謂西洋的な形而上的発想である、なぜ存在するのか?
などという発想は元来持ち合わせていない。



だからロボットにおいてもその着眼と発想は類似するモノが
あり、ロボットそのものヒューマノイドが存在する根幹的な
考察などはないというかあり得ないのである。。。



そうなると何故日本人はロボットとりわけヒューマノイド
に取り付かれ猛烈に作り続ける、その出口というのか、、
何を追い求めているのか?という所に突き当たる。



私なりの安直な答えかもしれないが、、、、、、、、



存在理由としての人間ではなく、存在そのものとしての
人間をしりたいのじゃないのかなぁ?



と考えている。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


(つづく)




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