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kappaちゃん「silent color」始まりました!
本日3月10日(木)より



kappachicken solo exhibition
「silent color」
2011.03.10 (thu) - 2011.03.31 (thu)
gallery close 3/12・13・19・20・27
open 11:00~18:00



スタートいたしました!!











思い起こせば彼女と出会って早3年半


BAMI galleryでの個展も今回で3回目と
なりました。

1回目の個展終了後2回目を迎えるまでの間
彼女と一度美術館に伺った事がありました。

そのとき丁度彼女と同世代の女性作家が
半身像の立体を展示していました。

正直申し訳ないが、さほど精緻な作りの作品
ではなかったのであるが、内側からでてくる
何かが妙に魅力的な作品だった・・


その作品を前にして


直感的に私は、、、、



『立体つくってみる?』



とkappaちゃんに何気なく聞いてみた

答えは意外?というか力強く

『ハイ、やってみたいです!』


との事であった。。。。


私は絵も画かなければモノを作る人間でもない。
しかし、ごくごく単純な感覚として、仮に人を
画く場合、本当に大事なのは画かれていない、、


つまり正面を向いた人物像であるならば”背中”
なのではないのか?と常々感じていた。

その意識が非常に大事なのではないの?と
いう安直な発想からkappaちゃんに立体を勧めた。

あくまで試験的というか実験としてだった・・

立体は360度責任もって”実在”を創り出す
行為である。だからこの作業はなにか今まで
とは違う新たなものをkappaちゃんに生まさせる
のではないか?と感じたのでした。


それは、、



ある意味正解だったように思います。

今後の彼女の作品の中で
大きな位置を占めるのではないかなぁ?
と秘かに期待しています。



是非皆様



彼女の新作立体及びその立体と世界観を
同期した平面作品をご高覧賜りますよう
ご案内申し上げます!



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movie エトリケンジ @BAMI gallery solo exhibition プロトタイプ-ジュリエッタ
残すところあと一週間となりました。


ぜひお立ち寄り下さい!!







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エトリケンジ YTV ニュースten 
先日の21日


約一年近く取材をしていただいた
内容が無事ニュースtenにて放送
されました。


5月の創造公園渋谷 Art Re Public Shibuya
12月の高松天満屋での個展


その間BAMIgalleryとエトリケンジ・アトリエ
にての取材及び夜間野外撮影等、、、



これまでに何度かテレビの方には
お世話になったのですが、今回ほど
丹念に取材をしていただいたのは
初めてでした。



当然様々に飛び込んでくるニュース取材の
タイトなスケジュールを調整していただいて
の取材、何度も”ボツ”なのかなぁ~と
思うような期間が開いたこともたびたびあった
のですが、、


そのつど



『そんなわけないじゃないですか~』

との担当記者のJさん


本当にお世話になりました。




実は年始早々に放送予定の連絡を
もらっていたのですが、、、



急遽編集段階で変更箇所が出て撮り直し
まで行いました。



夕刻のニュースのわずかな時間での
紹介ではありますが、それをよりよく
、よりわかりやすく視聴者の方々に
お伝えするというYTVスタッフの方々の
使命感には只々圧倒された次第です・・・・



YTVのスタッフの皆さま

長きに渡り本当にありがとうございました。






■こちらは3月8日までの期間限定です

world's end girlfriend音楽
による個展プロモーションビデオ

↓ ↓ ↓ ↓ ↓






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ラストタンゴ・イン・パリ
「ラストタンゴインパリ」・・


1972年公開



これは面白かった。



頽廃的で全般に虚無感が漂う
私の好みであった・・



イタリアでは公開後四日にして
上映禁止処分を受け、各国でも
芸術かワイセツかで大きなセン
セーショナルを起こした。



ある冬の朝、パリのアパートの
空室で男女が偶然に出会った。



中年の男ポール(M・ブランド)と
若い娘ジャンヌ(M・シュナイダー)は、
お互に興味も持たず室内を点検して
いたが、間違い電話に刺激された男
の強い腕がジャンヌを捕えた。



行為が終ったあと、二人は何事もな
かったように別れた。



ジャンヌにはTVプロデューサーの
トム(J・P・レオ)という婚約者が
あった。


いまトムは、彼女を主人公に「少女の肖像」
というドキュメントを製作している。


ジャンヌはあのアパートでの悪夢にも似た
一瞬の暴力が忘れられなかった。



彼女は憑かれたように再び部屋を訪れた。



彼女がひそかに予想していたように、ポール
がいた。



彼は提案した。



ここにいる間はただの男と女。



名も知らず、過去も一際明かさない。



ここではセックス以外存在しない、と。



ジャンヌはこの異様なアバンチュールに身
を投じた。


二人は孤島のようなアパートの一室で会い、
オスとメスになって肉欲に身を焦がす。



ポールは下町で簡易ホテルを経営していた。
彼の妻ローザは自殺し、彼にはその理由が
分らなかった。



彼は、妻と肉体関係を結んでいたホテルの
住人マルセル(M・ジロッティ)を訪れ、妻の
話を聞いた。


妻は自分よりもこの男を愛していたようだ。
ポールはただ妻の肉体を恋こがれた。一方
ジャンヌは次第に耐えられなくなってきた。



ポールとの“隔絶した肉欲の時"とトムとの
自然な愛の流れの使い分が困難になってきた
のだ。



この不思議な契約が消滅する日がきた。



彼女は呪縛から解放され、トムをともない新
しい生活の場としてこの部屋を見直した。



その帰り道、ポールはジャンヌを待ち伏せ
ていた。彼女はポールにはっきり宣告しな
ければならなかった。昼間のダンスホール
は社交ダンス・コンテストが開かれていた。



タンゴの曲が流れ、二人は酒に酔いしれた。
逃げるジャンヌを、ポールは執拗に追い、彼
女の家へ押し入った。恐怖がジャンヌを支配
した。彼女は父の遺品の軍用ピストルを握り、
ポールに向けて発砲した。やがてポールはベ
ランダに崩れ折れた。





「私はあなたを誰か知らない……」





ジャンヌはうわ言のようにいい続けていた。




と言うのがインターネット上に流れている
あらすじなのであるが



掻い摘むと



アパートの部屋を探しにきた中年の男と
若い女性が偶然同じ部屋で遭遇し、男が
突如女性を強姦する?(まぁ陵辱という
ほうが正しいか・・)




行為が終わるとお互い何もなかったように分
かれ、どちらが連絡するともなく翌日また同
じ部屋で会い、SEXする。




二人の約束としてお互いの氏素性を決して語
ることなく、ただひたすら肉欲に埋没する。



この偶然の奇異な出逢いを生んだ不思議な
部屋は肉欲のためだけの部屋なる。


しかし、破局を迎える。



男が自らの全てを語り新しい生活を女に求
めるが、女は拒絶し、男を殺害する。



とまぁ、、、あまり“あらすじ”をブレイク
しきれていないのであるが流れとしてはこん
な感じである。



私がこの映画を観て、なにに“おぉ”と
感嘆したのか?と言うと、



-------------------------------------


「ここにいる間はただの男と女。名も知らず、
過去も一際明かさない、ここではセックス
以外存在しない」


-------------------------------------


という点にあった。



この点、自分を中心に考え想像して見ると、
案外気づかなかった面白い世界が広がった
ような気がしたのである。




他人の背景をまったく知ることなく、他人の
過去を拒絶することが出来るのだろうか?そ
れと自分の背景をまったく無にして相手に接
することが出来るのだろうか?




人を見るとき自分は何を見ているのだろうか?
という疑問がフッと湧いてきた。



ここでいう背景とは出自ではなく、人間の考
えとそれによって形づいてきた過去の時間の
ことである。




街中で見かける様々な人



魅力的な女性も居れば、おかしい風体の人
もいる。



その様々な様子は毎日千変万化する風景と
して目に飛び込んでくる。



なんとなく深層の中にある分類で人を整理
しているのであるが、実際にはそれぞれの
人間には無限の背景がある。しかし、そう
いったものに特に関心を持つことなく目に
映る人間をボォーと眺め、こんな風な人あ
んな風な人という社会の中で単純に組み込
まれたイメージの枠組みに落とし込んでい
く。



おっぱいがデカイ女性



SEXしたいなぁ



不思議なことではない。



そこになんらの人間的な背景など望むもの
ではない。




人間の瞬間的な遭遇の関係性から言えば、
主体的に夢想するものがその人間に対す
る全てであり、そこから何かを引き出そ
うとするならば会話し、やはりその人間
の背景という担保が必要となる。



しかし、そういう事を無視し人間を独自
の視点で見ろ、という事になれば一体ど
れくらいの内容で他人を見ることができ
るのか?案外“チャチな”内容しか自分
にはないのではないか?と思ってしまう
のである。



やはり人間の背景の情報を得て、そこか
ら想像を僅か働かすという作業しかして
いないのでは?と考えてしまう。。。。。



アダルトビデオを観ていて、自分好みの
女性が痴態をさらけ出す。そういった自
分の嗜好に適う女性とイメージが合一す
るシチュエーションであった場合、キャ
スティング上の情報の中で、その女性と
いう存在を捕らえ、自分の好み、嗜好と
融合させ完結してしまう。



しかし、実際の出演者は違う日常が存在し、
まったく別の人生が存在する。



今画面の彼女を見て自分は興奮していて
ある種の合一感を得ているがその瞬間、
出演者である彼女はどこかの酒場で友達
と談笑しているというような時空間の違
うところで実存は動いている…・



当たり前のことなのであるが、しかし、
この画面上の情報もある意味街中をある
く人物を捉える自分の想像の世界も、そ
う隔絶することのない自身の人間を見る
真実と考えられなくも無い。



それらの思考構造は非日常ではなく、案外
日常性のような気がするのである。



アンディーウォーホールのマリリンモンロー
という作品もある種この感覚に近いような気
がする。



現実のモンローからかけ離れた、メディアの
中に存在するモンローという大衆消費社会が
生み出した人物創造という部分の見え方…・



全て社会が作りこんだ情報、そこからの背景
で人間を創造してしまうのである。



イメージというものとは少し違う、ロボット
にある種の性格プログラムを施すような感じ??
すべて用意された目に見えるインフォメーション
を組み込むのである。



。。。。。。。。。。。。



逆もある。


知り尽くしていたとしても


それは本当に全て知り尽くしているのか?
という事だ。


映画の中にもあるがマーロンブランドの嫁は
自殺する。



しかしその理由はわからない。



分かったのは、妻は浮気していて
その男のことを自分より愛していただろう?
という事だった。




分かっている、というのは人間の情報の大き
な割合である背景を知っているということと
背景を創出する時間の共有部分が存在してい
たというだけでしかなく、しかし肝心な心の
奥底、人間的な背景を作り出す基幹部分がな
にか分からなければ、、、



実は全て分かってないに等しいことに繋がる。



かといって


心の奥底など


どのように知り、間違いなくそうだなどと
完璧に把握出来るのだろうか?言葉でその
答えを得たとしても



それは所詮目にみない実体の無いものであり
整合はつかないし、それこそ自身に省みて考
えた場合本当に一貫した考えとして提示でき
るものがあるのだろうか?



好きという



情報は本当に深層の中に流れるものなのか?
こんなものは完璧な固体化したようなもので
もなければ流動的ないい加減なものでしかな
い。



ましてや量的な尺度もない。



究極は



分からないという事でしかない。


分かるとは答えられないものである。



この映画の中には

通常の道徳的な




思いやりなどというものはない。



だからこそ、これらが示すものとは案外
人間の本質なんじゃないか?と思うので
ある。




ある意味男と女という絵図らは存在する
のであるが実に独白的な各人のエゴしか
存在しないし、本質的には分かりえない
人間間の心の存在ということの提示のよ
うな気もしたのである。。。




人間はどのようにしてコミュニケーション
をとるのか?一番シンプルで極端な形から
こそ、、、見えてくるものがあるよに思え
たのである。




人間の何を見なくてはいけないか。



ある人が言っていたことを思い出す。



SEXとは究極的な本質は“自慰行為”
なのではないか?



自身の生殖器を他人の生殖器にこすりつ
け得られる快感であり、その本質は自分の
手や道具の代わりが相手の性器なのでは?
という事である。




そういう考え方もあり




そうなのか?と納得できないものもある




。。。。。。




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親父の背中
一時帰る時間が遅かった時分があった。
今はそうでもないが・・・


多分30歳を過ぎたくらいだったと思う。
8時9時前だと早いほうだ、大抵10時くらい、、
理由は良くわからないが、とにかく遅かった。



必然的に子供との接触は朝の約20分くらいで、
出張などに行くと1週間で1時間くらいしか接触
していなかった。


ある時、帰るとウォークマン?が充電してあった。


見たことのないものだった・・・


嫁に聞くと長女のお誕生日プレゼントとのこと、、、


とにかく家のことも子供のことも良くわからない。
たまに早く帰るときにコンビニに寄りプリンを買
うくらいしか子供と接触していない頃だ。。。。



そう考えると私の父親はもっとひどかった。
とにかく家にいなかった。



しかし浮気やそういったことではなく、とにかく
仕事で家にはいなかった。



先日親父の年齢を考えると、何と73歳になっていた。



定年退職と還暦祝いを家族でしたような記憶が微か
にあるが、あれから15年近く経ったとは、、、、、
なにより、まさかあの親父が73歳とは!



孫とニコヤカニ遊ぶ好々爺たる親父にいまだに違和
感があり、なぜか年齢を考えると不思議でならなか
った。




いや。。不思議というより認めたくないのかも。。。





私の親父は昭和12年生れ、身長173cm。



この時代の男性にしては大きいほうだと思う。
若い時分は野球で鳴らし、結構体格も良い!



本人からは一切聞いたことはないが、祖母や母親曰く、
結構、野球で上を目指していたらしいが、小さい時分
に怪我をした指が災いし、結局高校までで挫折したら
しい。


とにかく家にいなかった。



モーレツ社員が当たり前の時代で、私の親父も例に
漏れずその権化たるものがあった。



旅行などは記憶をたどると、親父の会社の釣りクラブ?
に子供ひとりでついていったのと、小学校5年に2泊3日
でいった海水浴くらいで、あとは数回初詣に平安神宮と
八坂神社につれて行って貰ったくらいである。



元旦も朝の11時には家をでて、お客なのか会社のメンバー
なのか良くわからないが新年会に出かけていた。



海水浴は親戚の叔父さん一家についていっていた。



だから私は小学校時代親父と映っている写真がない。



父親参観は1回来たくらいだ、たしか小学校3年だったと
思う。



ほとんどいないから、たまに来てくれたり、つれて行
ってもらったことが異常にコアな記憶として残っている。。



でもそれが当たり前だと思っていたし、不思議ではなかった。



親父は運送会社の営業だった。



日曜日しか休みの無い時代に日曜日も休んでいなかった。
あまりの忙しさに嘘のような話しだが、パジャマのズボン
を脱ぐのをわすれ、パジャマのズボンの上からスーツの
ズボンを履いて数回出勤していた。



あるとき家に帰ってくると、顔を腫らしていた。



理由はトンでもない客にぶん殴られたらしい。



休みに家にいても夕刻家族は憂鬱だった。



必ず電話が入るのである。トラックが事故を起こしたと
いった陰鬱な内容の電話を怒りながらするのである、
一家団欒になれるはずもなく、いまだに“サザエさん”
が始まると胸騒ぎが起こるのはその時のトラウマである。



家族に怒鳴ったり、手をあげる親父ではなく、どちらかと
言うと愉快なキャラクターだったが、仕事の時の顔は



“怖い”顔だった。。。。






実は25年ほど親父とは一緒に暮らしたが
本人から自分のことを聞いたことがほとんどない。
母親や妹からあとになって聞いた事の方がはるかに多い。


私が思春期から青年へと移行するなかで、親父もまた
仕事の忙しさが増していったのを記憶している。



今でも覚えているのは親父が40歳前後の時分に、課長へ
と昇進したことを母親が喜んでいたのを何故か鮮明な記憶
として今ももっている。



私がその時分に感じたことは、率直に言って、、、、



この人は何が面白くて年がら年中家にもロクにいないで
仕事しているんだろう?という疑問のみであった。



数年後社会に出る自分を考えたとき



“こんな風にはなりたくない”



という気持ちが肥大していったのは間違いない。



そして実際に話す機会も少なく、正直疎ましい存在で
あった。


ひょっとすると馬鹿にしていた部分もあったと思う。



大学に進学する手前の春休みに、突如無理やり親父
の会社のバイトに行かされた。


母親からの厳命だった。



春先だったのでこの時期の運送屋のバイトといったら
“引越し”だ。いろいろやらされた、庁舎移転、個人宅、
官舎等様々な人の引越しをてつだった。



昇進し勇躍移動をする家族、降格なのか左遷なのか
人生の岐路的家族の移動、大量の税金を投入した
新庁舎へ公務員様の下僕のような移動手伝い、本当
に様々だった。



とにかく初日から体が板のようになった、母親に愚痴を
いってバイトを止めたいと申し出たが、絶対に許されな
かった。


バイトの最中は親父と接触することはほとんどなかったが、
たまに遠目に見かける事があっったが、作業員と同様に引
越しを手伝っていた。



不思議だった、親父はその当時確か次長職でスーツを着て
事務所にいるものだと思っていたが、違ったのである。



約3週間くらい大学の入学式手前までバイトに行かされた。



そのとき本当に迷惑に感じたし、なんでこんな事をやらん
といかんのか正直むかついた。



でもかなりキツイ仕事で危険も一杯あるし、現場のおっさん
の気性は荒いし大変な職場だと言う事は十分理解したが、
だからといって親父は凄いとか、感謝とかいう気持ちはまっ
たくなかった。



あったのは“やっと終わって清々した”



という感情だけだった。。。。



大学をどうにか卒業し(留年したのだが)、会社に入社した。



最初に待っていた仕事は納品をはじめ肉体労働の雑務だった。
スーツなんかまったく必要ないし、友人や後輩に見られたら
恥ずかしいような姿で毎日肉体労働に従事した。



家に帰るとぐったりで、すぐに居間で寝る毎日であった。



そのご結婚し今に至るのだが、先日思い返してみると、客観的
な家庭人としての自分の姿を想像すると、親父そっくりではな
いか。。



否定していた筈だったではないか。。



机になんか座って仕事していないし、親父は少なくとも毎日家
には帰ってきたが、今の自分は出張に行って幾日も家にいない
日がある。。そして子供も家庭も嫁任せでほったらかしだ。。。
言訳ではなく、本当に仕方がないとしか抗弁しようがない。。



15年前に親父が定年退職し、その後ポツポツと母親や妹から
親父の現役時代の話しを聞くようになった。


どうも女性陣には私には言った事がないような事を話してい
たみたいだ。



おどろく事が一杯あった。










私が小学校低学年時代、親父は給料が安く、毎月末、金に
窮した母親が不安にかられ、父親に文句を言いつづけてい
たらしい。


そして月末の食卓は決まって“やきそば”だった。



その当時そんな事はまったく解らないし喜んで食べていたが、
実はそうだったらしい。



特段裕福ではなかったが、金に窮したという感覚は子供時分
なかったが、夫婦間では結構深刻な問題だったのではないだ
ろうか。


母親が喜んだ課長昇進のとき、実は真剣に退職し独立を考え
ていたらしい。一生懸命やっても報われないと感じた事と、
友人たちが華々しく独立し裕福になる姿に嫉妬があったら
しい。


母親曰く、



一生懸命やりすぎたのか、出来たからなのか良く解らないが、
仲間との不協和音を度々おこし精神的に参っていて、正直あ
きらめと開き直りが交差していたみたいだ。



そして何よりも“高卒の叩き上げ”というハンディが学歴学閥
という壁を乗り越えられない現実が存在した。



そんな時分に私は青年期に突入していたのだ。。。



しかし実際にはまったくしらなかった。



その当時そんな内容を聞いたところで大して気にも止めなか
ったと思う。



そんな親父に突如大きな転機が訪れる。



それは私が大学を留年して卒業する時分だ。



コツコツと結局サラリーマンを続けていたのだが、
ある時大手通販会社のロジスティック戦略営業に
参加することとなり、同業大手数社との競争とな
ったらしい。



はっきりいって親父の会社が日本一の規模を有して
いるのだが、国営に近い存在がゆえに機敏さに欠け
柔軟性に欠けるきらいがあったのは否めなかったと
思う。



しかし最終的には親父率いる営業部隊が勝利を収め、
支店年商の10%以上(数億)の商いとなったらし
い。


そして単発の営業売上ではなく恒常的営業成果とし
て本社よりかなりの評価をもらったみたいである。



たしかにその時分頻繁に遠方へ日帰り出張を繰り
返していたのを覚えているが、物心ついたときか
らあまり変わらない感覚だったので気にならなか
ったし、家族も数年後にこの時の事を知る。



今だから解ることがある、この様な大きな案件は
もちろん会社のプロジェクトとして動くのだろうが、
局面局面はリーダー個人の判断が大きく求められるし、
最終段階の闘いでは、後方部隊は勝利の夢想をかな
り肥大化させており、失敗が許されない精神的窮地
にリーダーは追い込まれる。



しかし親父は見事に勝利をおさめる。



この成果が大きかった、自分が望まなくても他に
比肩しようのない成果だったため、一足飛びの出世
を果たす。そして報奨に近い形で傍系会社の社長に
納まる。



やはり最後までラインではなかったのだが、それは
それで凄みのある出世だと私は思う。



傍系会社社長とはハッキリいって名誉職で、実際
2~3年で頭がすげ変わり、業務も本体からの安
定的発注があるため、特段シビア-な経営を迫られ
る物ではないらしい。



極端にいうと2回目の退職金を貰う為のセレモニー
のようなものだと考えられている。



しかし親父は変わり者で、毎朝7時過ぎには出勤し、
現場の社員を鼓舞していたらしい。



どうも自分の考えと、職場というか会社の体質に
距離を感じていたらしい。



やはり叩き上げの人間からすると“こんなヌルイ環境”
は仕事の現場ではないという考えがあったんじゃない
だろうか。。。



しかしどのように受けとめられていたのかは解らないが、
迷惑と感じる人間も多かったと思う。(笑。。)



現場に近い人間の愛情ある言葉は、机上の論理を振り
かざす者の比ではない。



やはり自分たちを理解してくれる人間には共感を覚えるし、
協力も惜しまない。


だからやらなくてもいいのに、業績が自然と上がってしまう。
こうなると良いスパイラルが自然と大きなウネリとして巻き
起る。


この時分に私は30歳を向え、子供が生れ、管理職の
末席にポジションが移る。











あるとき母親がポツリと私に語った。



「大学に進学する前にお父さんの会社にバイトに
行かされたやろ」



「そういうたら、そんなことあったなぁ」



「なんでやとおもう?」



「???いや、わからん、なんで?いじめたかっ
たんとちゃうん、ぐーたらしてたから!」



「あほ!」



母親から教えてもらった理由はこうだった、



父親曰く、私は大学に行き、まじめにしていれば
少なからず事務職になり、結果として能力の有無
に関係なく人の上に立つ。



しかし社会の大半は親父自身が経験した要素でも
あるが、地べたを這いつくばるような環境で仕事
をする人が沢山存在する。



そして社会とはそういった人達の力で動いている
側面が現実的には多数存在する。



そういう人間の一つでも階段の上に立つものが、
そういった人達の苦しみや痛み理解しないで
存在してはいけないと親父は考えていたらしい。



だから僅かでもキツイ肉体労働を経験させ、いつ
か自分が人の上に立つ時、感じてもらいたかった
らしい。


そして人の上に立つ人間になってもらいたかった
らしい。


だから執拗にこの時のバイトだけに限らず、
学生時代を通して肉体労働以外のバイトは
決して許してくれなかった。



家に帰らないことも、学校をサボることも、
留年したことも、女の子から様々な罵声の電話が
入っても、父親は知っていても私は1度も怒られ
た事はない。



ただこの肉体労働の件だけは母親を通じての
厳命だった。



全然知らなかった。。。。。



でも自然と理解していった、間違いなく勤めた会社に
も日中暑い中寒い中肉体を使って働いている人達がおり、
場面場面で土下座に近い形で過去幾度となく無理をお願
いをしてきた。



そして普段の気持ちの問題が一番だということも経験の
中で感じていった。



そして多分それは少なからず肉体を酷使する仕事をホン
の一時でも経験し、そういった仕事に従事する人達との
交わりがあったからこそ理解できる素地が養われたのだ
と思う。。。



人に物事を教えるとは...



部下が出来、事あるごとに叱責を繰り返してきたが、
それは怒っている教育してやっているという思いあがり
と自己陶酔でしかなかったのではないかと自己嫌悪に
陥る。



そして人が教えを受け、それが花開くなんて実際には
長い年月がかかり、教えた者も即時結果を求めること
のできな事、いや、求めてはいけないことを遅まきな
がら自分を通して理解できたような気がする。。。




...........................




うつむいて歩いていて、ある時勾配が急になり、
自分が歩いているところが大きな山だと気付く。




そして戻る事のできない状況まで来ている事に気付き
顔をあげると、、、、、、




まだまだ頂上は遥か彼方、45歳を向える自分の道程は
五合目。




その時その山が







“親父の背中”だと気付く。。





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