February 16,2011
一時帰る時間が遅かった時分があった。
今はそうでもないが・・・
多分30歳を過ぎたくらいだったと思う。
8時9時前だと早いほうだ、大抵10時くらい、、
理由は良くわからないが、とにかく遅かった。
必然的に子供との接触は朝の約20分くらいで、
出張などに行くと1週間で1時間くらいしか接触
していなかった。
ある時、帰るとウォークマン?が充電してあった。
見たことのないものだった・・・
嫁に聞くと長女のお誕生日プレゼントとのこと、、、
とにかく家のことも子供のことも良くわからない。
たまに早く帰るときにコンビニに寄りプリンを買
うくらいしか子供と接触していない頃だ。。。。
そう考えると私の父親はもっとひどかった。
とにかく家にいなかった。
しかし浮気やそういったことではなく、とにかく
仕事で家にはいなかった。
先日親父の年齢を考えると、何と73歳になっていた。
定年退職と還暦祝いを家族でしたような記憶が微か
にあるが、あれから15年近く経ったとは、、、、、
なにより、まさかあの親父が73歳とは!
孫とニコヤカニ遊ぶ好々爺たる親父にいまだに違和
感があり、なぜか年齢を考えると不思議でならなか
った。
いや。。不思議というより認めたくないのかも。。。
私の親父は昭和12年生れ、身長173cm。
この時代の男性にしては大きいほうだと思う。
若い時分は野球で鳴らし、結構体格も良い!
本人からは一切聞いたことはないが、祖母や母親曰く、
結構、野球で上を目指していたらしいが、小さい時分
に怪我をした指が災いし、結局高校までで挫折したら
しい。
とにかく家にいなかった。
モーレツ社員が当たり前の時代で、私の親父も例に
漏れずその権化たるものがあった。
旅行などは記憶をたどると、親父の会社の釣りクラブ?
に子供ひとりでついていったのと、小学校5年に2泊3日
でいった海水浴くらいで、あとは数回初詣に平安神宮と
八坂神社につれて行って貰ったくらいである。
元旦も朝の11時には家をでて、お客なのか会社のメンバー
なのか良くわからないが新年会に出かけていた。
海水浴は親戚の叔父さん一家についていっていた。
だから私は小学校時代親父と映っている写真がない。
父親参観は1回来たくらいだ、たしか小学校3年だったと
思う。
ほとんどいないから、たまに来てくれたり、つれて行
ってもらったことが異常にコアな記憶として残っている。。
でもそれが当たり前だと思っていたし、不思議ではなかった。
親父は運送会社の営業だった。
日曜日しか休みの無い時代に日曜日も休んでいなかった。
あまりの忙しさに嘘のような話しだが、パジャマのズボン
を脱ぐのをわすれ、パジャマのズボンの上からスーツの
ズボンを履いて数回出勤していた。
あるとき家に帰ってくると、顔を腫らしていた。
理由はトンでもない客にぶん殴られたらしい。
休みに家にいても夕刻家族は憂鬱だった。
必ず電話が入るのである。トラックが事故を起こしたと
いった陰鬱な内容の電話を怒りながらするのである、
一家団欒になれるはずもなく、いまだに“サザエさん”
が始まると胸騒ぎが起こるのはその時のトラウマである。
家族に怒鳴ったり、手をあげる親父ではなく、どちらかと
言うと愉快なキャラクターだったが、仕事の時の顔は
“怖い”顔だった。。。。

実は25年ほど親父とは一緒に暮らしたが
本人から自分のことを聞いたことがほとんどない。
母親や妹からあとになって聞いた事の方がはるかに多い。
私が思春期から青年へと移行するなかで、親父もまた
仕事の忙しさが増していったのを記憶している。
今でも覚えているのは親父が40歳前後の時分に、課長へ
と昇進したことを母親が喜んでいたのを何故か鮮明な記憶
として今ももっている。
私がその時分に感じたことは、率直に言って、、、、
この人は何が面白くて年がら年中家にもロクにいないで
仕事しているんだろう?という疑問のみであった。
数年後社会に出る自分を考えたとき
“こんな風にはなりたくない”
という気持ちが肥大していったのは間違いない。
そして実際に話す機会も少なく、正直疎ましい存在で
あった。
ひょっとすると馬鹿にしていた部分もあったと思う。
大学に進学する手前の春休みに、突如無理やり親父
の会社のバイトに行かされた。
母親からの厳命だった。
春先だったのでこの時期の運送屋のバイトといったら
“引越し”だ。いろいろやらされた、庁舎移転、個人宅、
官舎等様々な人の引越しをてつだった。
昇進し勇躍移動をする家族、降格なのか左遷なのか
人生の岐路的家族の移動、大量の税金を投入した
新庁舎へ公務員様の下僕のような移動手伝い、本当
に様々だった。
とにかく初日から体が板のようになった、母親に愚痴を
いってバイトを止めたいと申し出たが、絶対に許されな
かった。
バイトの最中は親父と接触することはほとんどなかったが、
たまに遠目に見かける事があっったが、作業員と同様に引
越しを手伝っていた。
不思議だった、親父はその当時確か次長職でスーツを着て
事務所にいるものだと思っていたが、違ったのである。
約3週間くらい大学の入学式手前までバイトに行かされた。
そのとき本当に迷惑に感じたし、なんでこんな事をやらん
といかんのか正直むかついた。
でもかなりキツイ仕事で危険も一杯あるし、現場のおっさん
の気性は荒いし大変な職場だと言う事は十分理解したが、
だからといって親父は凄いとか、感謝とかいう気持ちはまっ
たくなかった。
あったのは“やっと終わって清々した”
という感情だけだった。。。。
大学をどうにか卒業し(留年したのだが)、会社に入社した。
最初に待っていた仕事は納品をはじめ肉体労働の雑務だった。
スーツなんかまったく必要ないし、友人や後輩に見られたら
恥ずかしいような姿で毎日肉体労働に従事した。
家に帰るとぐったりで、すぐに居間で寝る毎日であった。
そのご結婚し今に至るのだが、先日思い返してみると、客観的
な家庭人としての自分の姿を想像すると、親父そっくりではな
いか。。
否定していた筈だったではないか。。
机になんか座って仕事していないし、親父は少なくとも毎日家
には帰ってきたが、今の自分は出張に行って幾日も家にいない
日がある。。そして子供も家庭も嫁任せでほったらかしだ。。。
言訳ではなく、本当に仕方がないとしか抗弁しようがない。。
15年前に親父が定年退職し、その後ポツポツと母親や妹から
親父の現役時代の話しを聞くようになった。
どうも女性陣には私には言った事がないような事を話してい
たみたいだ。
おどろく事が一杯あった。

私が小学校低学年時代、親父は給料が安く、毎月末、金に
窮した母親が不安にかられ、父親に文句を言いつづけてい
たらしい。
そして月末の食卓は決まって“やきそば”だった。
その当時そんな事はまったく解らないし喜んで食べていたが、
実はそうだったらしい。
特段裕福ではなかったが、金に窮したという感覚は子供時分
なかったが、夫婦間では結構深刻な問題だったのではないだ
ろうか。
母親が喜んだ課長昇進のとき、実は真剣に退職し独立を考え
ていたらしい。一生懸命やっても報われないと感じた事と、
友人たちが華々しく独立し裕福になる姿に嫉妬があったら
しい。
母親曰く、
一生懸命やりすぎたのか、出来たからなのか良く解らないが、
仲間との不協和音を度々おこし精神的に参っていて、正直あ
きらめと開き直りが交差していたみたいだ。
そして何よりも“高卒の叩き上げ”というハンディが学歴学閥
という壁を乗り越えられない現実が存在した。
そんな時分に私は青年期に突入していたのだ。。。
しかし実際にはまったくしらなかった。
その当時そんな内容を聞いたところで大して気にも止めなか
ったと思う。
そんな親父に突如大きな転機が訪れる。
それは私が大学を留年して卒業する時分だ。
コツコツと結局サラリーマンを続けていたのだが、
ある時大手通販会社のロジスティック戦略営業に
参加することとなり、同業大手数社との競争とな
ったらしい。
はっきりいって親父の会社が日本一の規模を有して
いるのだが、国営に近い存在がゆえに機敏さに欠け
柔軟性に欠けるきらいがあったのは否めなかったと
思う。
しかし最終的には親父率いる営業部隊が勝利を収め、
支店年商の10%以上(数億)の商いとなったらし
い。
そして単発の営業売上ではなく恒常的営業成果とし
て本社よりかなりの評価をもらったみたいである。
たしかにその時分頻繁に遠方へ日帰り出張を繰り
返していたのを覚えているが、物心ついたときか
らあまり変わらない感覚だったので気にならなか
ったし、家族も数年後にこの時の事を知る。
今だから解ることがある、この様な大きな案件は
もちろん会社のプロジェクトとして動くのだろうが、
局面局面はリーダー個人の判断が大きく求められるし、
最終段階の闘いでは、後方部隊は勝利の夢想をかな
り肥大化させており、失敗が許されない精神的窮地
にリーダーは追い込まれる。
しかし親父は見事に勝利をおさめる。
この成果が大きかった、自分が望まなくても他に
比肩しようのない成果だったため、一足飛びの出世
を果たす。そして報奨に近い形で傍系会社の社長に
納まる。
やはり最後までラインではなかったのだが、それは
それで凄みのある出世だと私は思う。
傍系会社社長とはハッキリいって名誉職で、実際
2~3年で頭がすげ変わり、業務も本体からの安
定的発注があるため、特段シビア-な経営を迫られ
る物ではないらしい。
極端にいうと2回目の退職金を貰う為のセレモニー
のようなものだと考えられている。
しかし親父は変わり者で、毎朝7時過ぎには出勤し、
現場の社員を鼓舞していたらしい。
どうも自分の考えと、職場というか会社の体質に
距離を感じていたらしい。
やはり叩き上げの人間からすると“こんなヌルイ環境”
は仕事の現場ではないという考えがあったんじゃない
だろうか。。。
しかしどのように受けとめられていたのかは解らないが、
迷惑と感じる人間も多かったと思う。(笑。。)
現場に近い人間の愛情ある言葉は、机上の論理を振り
かざす者の比ではない。
やはり自分たちを理解してくれる人間には共感を覚えるし、
協力も惜しまない。
だからやらなくてもいいのに、業績が自然と上がってしまう。
こうなると良いスパイラルが自然と大きなウネリとして巻き
起る。
この時分に私は30歳を向え、子供が生れ、管理職の
末席にポジションが移る。

あるとき母親がポツリと私に語った。
「大学に進学する前にお父さんの会社にバイトに
行かされたやろ」
「そういうたら、そんなことあったなぁ」
「なんでやとおもう?」
「???いや、わからん、なんで?いじめたかっ
たんとちゃうん、ぐーたらしてたから!」
「あほ!」
母親から教えてもらった理由はこうだった、
父親曰く、私は大学に行き、まじめにしていれば
少なからず事務職になり、結果として能力の有無
に関係なく人の上に立つ。
しかし社会の大半は親父自身が経験した要素でも
あるが、地べたを這いつくばるような環境で仕事
をする人が沢山存在する。
そして社会とはそういった人達の力で動いている
側面が現実的には多数存在する。
そういう人間の一つでも階段の上に立つものが、
そういった人達の苦しみや痛み理解しないで
存在してはいけないと親父は考えていたらしい。
だから僅かでもキツイ肉体労働を経験させ、いつ
か自分が人の上に立つ時、感じてもらいたかった
らしい。
そして人の上に立つ人間になってもらいたかった
らしい。
だから執拗にこの時のバイトだけに限らず、
学生時代を通して肉体労働以外のバイトは
決して許してくれなかった。
家に帰らないことも、学校をサボることも、
留年したことも、女の子から様々な罵声の電話が
入っても、父親は知っていても私は1度も怒られ
た事はない。
ただこの肉体労働の件だけは母親を通じての
厳命だった。
全然知らなかった。。。。。
でも自然と理解していった、間違いなく勤めた会社に
も日中暑い中寒い中肉体を使って働いている人達がおり、
場面場面で土下座に近い形で過去幾度となく無理をお願
いをしてきた。
そして普段の気持ちの問題が一番だということも経験の
中で感じていった。
そして多分それは少なからず肉体を酷使する仕事をホン
の一時でも経験し、そういった仕事に従事する人達との
交わりがあったからこそ理解できる素地が養われたのだ
と思う。。。
人に物事を教えるとは...
部下が出来、事あるごとに叱責を繰り返してきたが、
それは怒っている教育してやっているという思いあがり
と自己陶酔でしかなかったのではないかと自己嫌悪に
陥る。
そして人が教えを受け、それが花開くなんて実際には
長い年月がかかり、教えた者も即時結果を求めること
のできな事、いや、求めてはいけないことを遅まきな
がら自分を通して理解できたような気がする。。。
...........................
うつむいて歩いていて、ある時勾配が急になり、
自分が歩いているところが大きな山だと気付く。
そして戻る事のできない状況まで来ている事に気付き
顔をあげると、、、、、、
まだまだ頂上は遥か彼方、45歳を向える自分の道程は
五合目。
その時その山が
“親父の背中”だと気付く。。

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今はそうでもないが・・・
多分30歳を過ぎたくらいだったと思う。
8時9時前だと早いほうだ、大抵10時くらい、、
理由は良くわからないが、とにかく遅かった。
必然的に子供との接触は朝の約20分くらいで、
出張などに行くと1週間で1時間くらいしか接触
していなかった。
ある時、帰るとウォークマン?が充電してあった。
見たことのないものだった・・・
嫁に聞くと長女のお誕生日プレゼントとのこと、、、
とにかく家のことも子供のことも良くわからない。
たまに早く帰るときにコンビニに寄りプリンを買
うくらいしか子供と接触していない頃だ。。。。
そう考えると私の父親はもっとひどかった。
とにかく家にいなかった。
しかし浮気やそういったことではなく、とにかく
仕事で家にはいなかった。
先日親父の年齢を考えると、何と73歳になっていた。
定年退職と還暦祝いを家族でしたような記憶が微か
にあるが、あれから15年近く経ったとは、、、、、
なにより、まさかあの親父が73歳とは!
孫とニコヤカニ遊ぶ好々爺たる親父にいまだに違和
感があり、なぜか年齢を考えると不思議でならなか
った。
いや。。不思議というより認めたくないのかも。。。
私の親父は昭和12年生れ、身長173cm。
この時代の男性にしては大きいほうだと思う。
若い時分は野球で鳴らし、結構体格も良い!
本人からは一切聞いたことはないが、祖母や母親曰く、
結構、野球で上を目指していたらしいが、小さい時分
に怪我をした指が災いし、結局高校までで挫折したら
しい。
とにかく家にいなかった。
モーレツ社員が当たり前の時代で、私の親父も例に
漏れずその権化たるものがあった。
旅行などは記憶をたどると、親父の会社の釣りクラブ?
に子供ひとりでついていったのと、小学校5年に2泊3日
でいった海水浴くらいで、あとは数回初詣に平安神宮と
八坂神社につれて行って貰ったくらいである。
元旦も朝の11時には家をでて、お客なのか会社のメンバー
なのか良くわからないが新年会に出かけていた。
海水浴は親戚の叔父さん一家についていっていた。
だから私は小学校時代親父と映っている写真がない。
父親参観は1回来たくらいだ、たしか小学校3年だったと
思う。
ほとんどいないから、たまに来てくれたり、つれて行
ってもらったことが異常にコアな記憶として残っている。。
でもそれが当たり前だと思っていたし、不思議ではなかった。
親父は運送会社の営業だった。
日曜日しか休みの無い時代に日曜日も休んでいなかった。
あまりの忙しさに嘘のような話しだが、パジャマのズボン
を脱ぐのをわすれ、パジャマのズボンの上からスーツの
ズボンを履いて数回出勤していた。
あるとき家に帰ってくると、顔を腫らしていた。
理由はトンでもない客にぶん殴られたらしい。
休みに家にいても夕刻家族は憂鬱だった。
必ず電話が入るのである。トラックが事故を起こしたと
いった陰鬱な内容の電話を怒りながらするのである、
一家団欒になれるはずもなく、いまだに“サザエさん”
が始まると胸騒ぎが起こるのはその時のトラウマである。
家族に怒鳴ったり、手をあげる親父ではなく、どちらかと
言うと愉快なキャラクターだったが、仕事の時の顔は
“怖い”顔だった。。。。

実は25年ほど親父とは一緒に暮らしたが
本人から自分のことを聞いたことがほとんどない。
母親や妹からあとになって聞いた事の方がはるかに多い。
私が思春期から青年へと移行するなかで、親父もまた
仕事の忙しさが増していったのを記憶している。
今でも覚えているのは親父が40歳前後の時分に、課長へ
と昇進したことを母親が喜んでいたのを何故か鮮明な記憶
として今ももっている。
私がその時分に感じたことは、率直に言って、、、、
この人は何が面白くて年がら年中家にもロクにいないで
仕事しているんだろう?という疑問のみであった。
数年後社会に出る自分を考えたとき
“こんな風にはなりたくない”
という気持ちが肥大していったのは間違いない。
そして実際に話す機会も少なく、正直疎ましい存在で
あった。
ひょっとすると馬鹿にしていた部分もあったと思う。
大学に進学する手前の春休みに、突如無理やり親父
の会社のバイトに行かされた。
母親からの厳命だった。
春先だったのでこの時期の運送屋のバイトといったら
“引越し”だ。いろいろやらされた、庁舎移転、個人宅、
官舎等様々な人の引越しをてつだった。
昇進し勇躍移動をする家族、降格なのか左遷なのか
人生の岐路的家族の移動、大量の税金を投入した
新庁舎へ公務員様の下僕のような移動手伝い、本当
に様々だった。
とにかく初日から体が板のようになった、母親に愚痴を
いってバイトを止めたいと申し出たが、絶対に許されな
かった。
バイトの最中は親父と接触することはほとんどなかったが、
たまに遠目に見かける事があっったが、作業員と同様に引
越しを手伝っていた。
不思議だった、親父はその当時確か次長職でスーツを着て
事務所にいるものだと思っていたが、違ったのである。
約3週間くらい大学の入学式手前までバイトに行かされた。
そのとき本当に迷惑に感じたし、なんでこんな事をやらん
といかんのか正直むかついた。
でもかなりキツイ仕事で危険も一杯あるし、現場のおっさん
の気性は荒いし大変な職場だと言う事は十分理解したが、
だからといって親父は凄いとか、感謝とかいう気持ちはまっ
たくなかった。
あったのは“やっと終わって清々した”
という感情だけだった。。。。
大学をどうにか卒業し(留年したのだが)、会社に入社した。
最初に待っていた仕事は納品をはじめ肉体労働の雑務だった。
スーツなんかまったく必要ないし、友人や後輩に見られたら
恥ずかしいような姿で毎日肉体労働に従事した。
家に帰るとぐったりで、すぐに居間で寝る毎日であった。
そのご結婚し今に至るのだが、先日思い返してみると、客観的
な家庭人としての自分の姿を想像すると、親父そっくりではな
いか。。
否定していた筈だったではないか。。
机になんか座って仕事していないし、親父は少なくとも毎日家
には帰ってきたが、今の自分は出張に行って幾日も家にいない
日がある。。そして子供も家庭も嫁任せでほったらかしだ。。。
言訳ではなく、本当に仕方がないとしか抗弁しようがない。。
15年前に親父が定年退職し、その後ポツポツと母親や妹から
親父の現役時代の話しを聞くようになった。
どうも女性陣には私には言った事がないような事を話してい
たみたいだ。
おどろく事が一杯あった。

私が小学校低学年時代、親父は給料が安く、毎月末、金に
窮した母親が不安にかられ、父親に文句を言いつづけてい
たらしい。
そして月末の食卓は決まって“やきそば”だった。
その当時そんな事はまったく解らないし喜んで食べていたが、
実はそうだったらしい。
特段裕福ではなかったが、金に窮したという感覚は子供時分
なかったが、夫婦間では結構深刻な問題だったのではないだ
ろうか。
母親が喜んだ課長昇進のとき、実は真剣に退職し独立を考え
ていたらしい。一生懸命やっても報われないと感じた事と、
友人たちが華々しく独立し裕福になる姿に嫉妬があったら
しい。
母親曰く、
一生懸命やりすぎたのか、出来たからなのか良く解らないが、
仲間との不協和音を度々おこし精神的に参っていて、正直あ
きらめと開き直りが交差していたみたいだ。
そして何よりも“高卒の叩き上げ”というハンディが学歴学閥
という壁を乗り越えられない現実が存在した。
そんな時分に私は青年期に突入していたのだ。。。
しかし実際にはまったくしらなかった。
その当時そんな内容を聞いたところで大して気にも止めなか
ったと思う。
そんな親父に突如大きな転機が訪れる。
それは私が大学を留年して卒業する時分だ。
コツコツと結局サラリーマンを続けていたのだが、
ある時大手通販会社のロジスティック戦略営業に
参加することとなり、同業大手数社との競争とな
ったらしい。
はっきりいって親父の会社が日本一の規模を有して
いるのだが、国営に近い存在がゆえに機敏さに欠け
柔軟性に欠けるきらいがあったのは否めなかったと
思う。
しかし最終的には親父率いる営業部隊が勝利を収め、
支店年商の10%以上(数億)の商いとなったらし
い。
そして単発の営業売上ではなく恒常的営業成果とし
て本社よりかなりの評価をもらったみたいである。
たしかにその時分頻繁に遠方へ日帰り出張を繰り
返していたのを覚えているが、物心ついたときか
らあまり変わらない感覚だったので気にならなか
ったし、家族も数年後にこの時の事を知る。
今だから解ることがある、この様な大きな案件は
もちろん会社のプロジェクトとして動くのだろうが、
局面局面はリーダー個人の判断が大きく求められるし、
最終段階の闘いでは、後方部隊は勝利の夢想をかな
り肥大化させており、失敗が許されない精神的窮地
にリーダーは追い込まれる。
しかし親父は見事に勝利をおさめる。
この成果が大きかった、自分が望まなくても他に
比肩しようのない成果だったため、一足飛びの出世
を果たす。そして報奨に近い形で傍系会社の社長に
納まる。
やはり最後までラインではなかったのだが、それは
それで凄みのある出世だと私は思う。
傍系会社社長とはハッキリいって名誉職で、実際
2~3年で頭がすげ変わり、業務も本体からの安
定的発注があるため、特段シビア-な経営を迫られ
る物ではないらしい。
極端にいうと2回目の退職金を貰う為のセレモニー
のようなものだと考えられている。
しかし親父は変わり者で、毎朝7時過ぎには出勤し、
現場の社員を鼓舞していたらしい。
どうも自分の考えと、職場というか会社の体質に
距離を感じていたらしい。
やはり叩き上げの人間からすると“こんなヌルイ環境”
は仕事の現場ではないという考えがあったんじゃない
だろうか。。。
しかしどのように受けとめられていたのかは解らないが、
迷惑と感じる人間も多かったと思う。(笑。。)
現場に近い人間の愛情ある言葉は、机上の論理を振り
かざす者の比ではない。
やはり自分たちを理解してくれる人間には共感を覚えるし、
協力も惜しまない。
だからやらなくてもいいのに、業績が自然と上がってしまう。
こうなると良いスパイラルが自然と大きなウネリとして巻き
起る。
この時分に私は30歳を向え、子供が生れ、管理職の
末席にポジションが移る。

あるとき母親がポツリと私に語った。
「大学に進学する前にお父さんの会社にバイトに
行かされたやろ」
「そういうたら、そんなことあったなぁ」
「なんでやとおもう?」
「???いや、わからん、なんで?いじめたかっ
たんとちゃうん、ぐーたらしてたから!」
「あほ!」
母親から教えてもらった理由はこうだった、
父親曰く、私は大学に行き、まじめにしていれば
少なからず事務職になり、結果として能力の有無
に関係なく人の上に立つ。
しかし社会の大半は親父自身が経験した要素でも
あるが、地べたを這いつくばるような環境で仕事
をする人が沢山存在する。
そして社会とはそういった人達の力で動いている
側面が現実的には多数存在する。
そういう人間の一つでも階段の上に立つものが、
そういった人達の苦しみや痛み理解しないで
存在してはいけないと親父は考えていたらしい。
だから僅かでもキツイ肉体労働を経験させ、いつ
か自分が人の上に立つ時、感じてもらいたかった
らしい。
そして人の上に立つ人間になってもらいたかった
らしい。
だから執拗にこの時のバイトだけに限らず、
学生時代を通して肉体労働以外のバイトは
決して許してくれなかった。
家に帰らないことも、学校をサボることも、
留年したことも、女の子から様々な罵声の電話が
入っても、父親は知っていても私は1度も怒られ
た事はない。
ただこの肉体労働の件だけは母親を通じての
厳命だった。
全然知らなかった。。。。。
でも自然と理解していった、間違いなく勤めた会社に
も日中暑い中寒い中肉体を使って働いている人達がおり、
場面場面で土下座に近い形で過去幾度となく無理をお願
いをしてきた。
そして普段の気持ちの問題が一番だということも経験の
中で感じていった。
そして多分それは少なからず肉体を酷使する仕事をホン
の一時でも経験し、そういった仕事に従事する人達との
交わりがあったからこそ理解できる素地が養われたのだ
と思う。。。
人に物事を教えるとは...
部下が出来、事あるごとに叱責を繰り返してきたが、
それは怒っている教育してやっているという思いあがり
と自己陶酔でしかなかったのではないかと自己嫌悪に
陥る。
そして人が教えを受け、それが花開くなんて実際には
長い年月がかかり、教えた者も即時結果を求めること
のできな事、いや、求めてはいけないことを遅まきな
がら自分を通して理解できたような気がする。。。
...........................
うつむいて歩いていて、ある時勾配が急になり、
自分が歩いているところが大きな山だと気付く。
そして戻る事のできない状況まで来ている事に気付き
顔をあげると、、、、、、
まだまだ頂上は遥か彼方、45歳を向える自分の道程は
五合目。
その時その山が
“親父の背中”だと気付く。。

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