阿部瑞樹くんの活動報告(高松・京都)
January 29,2011
すこし遅くなってしまいましたが
現在、高松天満屋で
阿部 瑞樹 solo exhibition
『 from the car 』
2011.01.19 (wed) - 2011.02.15 (tue)
at 高松天満屋5階アートギャラリー
〒760-8516
高松市常盤町1丁目3番地1
5階アートギャラリー
TEL087-812-7549(担当 青野)
営業時間 10:00〜19:30
http://www.tenmaya.co.jp/takamatsu/
開催しております。
BAMI galleryから彼の地元で開催された
富山大和『夢創展』を経て現在高松にて
展開しております。
是非お立ち寄りください!








尚、阿部瑞樹くんは現在
第3回京都日本画新展へも出品しております。
明日までですのでお近くの方は是非お立ちより
ください。
-----------------------------------------

●第3回京都日本画新展
1月26日(水)~1月30日(日)10時~20時
(最終日17時まで。閉場30分前締切)、美術
館「えき」KYOTO(京都市下京区烏丸通塩小路
下ル東塩小路町。ジェイアール京都伊勢丹7F
隣接。有料Pあり)
TEL075・352・1111。
「京都 日本画新展」は、京都を中心に活動し
ている若い日本画家たちの新たな発表の場と
して創設されたものです。京都画壇の将来を
担う人材の育成を目指し、日本画を志す創造
性あふれた若い人材の活動を推奨します。第
3回となる本展では、大賞・優秀賞受賞作をは
じめ、選考委員から推薦を受けた23歳から45
歳までの37作家の清新な作品を一堂に展覧し
ます。あわせて選考委員5人の新作も発表。
入場無料。
問い合わせTEL075・255・9757
(京都新聞COM事業推進部)。
【ギャラリートーク】
各日14時から。
1月28日(金)
林潤一(京都嵯峨芸術大学名誉教授)
村田茂樹(日本画家)
1月29日(土)大野俊明(成安造形大学教授)
竹内浩一(日本画家)
1月30日(日)小嶋悠司(京都市立芸術大学名誉教授)
------------------------------------------
■ そして来週3日(木)からBAMI galleryでは
エトリケンジ solo exhibition
「プロトタイプ-ジュリエッタ」
2011.02.03 (thu) - 2011.03.08 (tue)
gallery close 2/6・11・12・13・20・26・27・3/6
open 11:00~18:00
開催いたしますので
ぜひお誘いあわせの上お越し下さいませ!
心よりお待ち申し上げております!!

Twitterブログパーツ
プロトタイプージュリエッタ&world's end girlfriend
January 27,2011
エトリケンジ solo exhibition
「プロトタイプ-ジュリエッタ」
2011.02.03 (thu) - 2011.03.08 (tue)
gallery close 2/6・11・12・13・20・26・27・3/6
@BAMI gallery
open 11:00~18:00
プロモーションビデオを作りました。
音源は、、
world's end girlfriendさん
「singing under the rainbow」
※公式ホームページ
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
http://www.worlds-end-girlfriend.org/
レーベルのnobleさん
※公式ホームペジ
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
http://www.noble-label.net/artist/?ja&weg
のご厚意により期間限定3月8日(火)まで使用する事を
許可していただきました。
映画「おそいひと」を見た瞬間
エトリさんの展覧会PVを作るならこの音源
「singing under the rainbow」しかない!
と確信いたしました。
※映画「おそいひと」
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
http://osoihito.jp/
しかし無断にと言うわけにはいかないので
断られるのを覚悟で連絡をさせていただいた
ところ、真摯な対応をしてくださり、展覧会
内容等を精査していただいた後、期間限定を
条件に本日許可してくださいました。
world's end girlfriendさんnobleさんには
この場を借りて御礼を申しあげます。
誠にありがとうございました!
出来ましたら素晴らしい音源ですので
出来るだけのボリュームにてお楽しみ
ください。
ヒマ
January 26,2011
エアーポケットのように
突如暇になる瞬間がある。。。
仕事をしていて全ての接触、
摩擦点が一瞬なくなるような瞬間で
大抵そんな時グダグダと残ったり、
飲みに行ったりと無理に周りと摩擦点
を作ろうとし、
結局帰る時間は平均的な時間になるの
だが、先日は珍しく
「帰ろ!」
と、出た。
こういうモラトリアムのような感覚も
たまにはいいか!
なんとなく、、一人でブラブラ。。。。
出たのが5時30分
自宅の最寄の駅に着いたのが6時20分。。
何年ぶりだろうか?という位早い帰宅だ・・
寒くなった、、冬、陽も短くなった。
もうこの時間だと暗い。
しかし、、駅前のスーパーや小学校や色々
な地元の機能が動いている。
当然、休日の街の機能は知っているのだが、
案外平日は?となると知らないのである。
だから以外にも自分の住んでいる街ながら
その日見た風景は新鮮に映った。。。
駅から家までは徒歩15分のなだらかな
下り坂。何となく毎日の行程ではあるの
だが、新鮮さも手伝い普段よりも速力も
落としブラブラ周りを眺めながらの帰路
となった。
しばらく歩くと、工事中という看板が目
の前に現れ、そこに大きな矢印が書かれ
ており
迂回せよ!との事であった。
急いでいる時には至極腹立たしい指示なの
だが、この時は“仕方ないナァ”といつも
使わない道へ迂回した。。まぁそうでもな
ければ通らない道もあるか!とちょっとし
た楽しみに切り替えて歩を進めた。。。
が、、、うん?この道、、、
記憶にくっきりと残る道程。。。
そうだ、、
忘れていたが、小学校から成人になるまで
仲良かった友人の家に繋がる道ではないか??
実に懐かしい。。。。近所ではあるのだが、
、そう言えばもう何年もこの道を通る事は
なかった。。。
暫く歩くと友人の家。
そう言えば小学校の頃、毎日来ていた。
家はその当時と全く同じ、当時と変わる所
は何もない。
違うのは、彼がいないという事だ。
この街を出て行った訳ではない。
死んでいなくなったのだ…
彼は転校生だった。
小学4年生の時のことだ。。
家が近いという事で先生から、いろいろ
教えるようにと言われその日から一緒に
帰ることとなる。
彼は丸刈りでぽちゃぽちゃした体型で、
自分を平気でさらけ出せ、自らのウィー
クポイントも笑いに変えられる愛嬌のあ
る雰囲気だったので直ぐに皆と仲良くな
り、そう時間もかからない内にクラスの
人気者になった。。
あだ名は“ヒマ”だった。。
肥満体の“ヒマ”。。
皆がヒマ・ヒマと呼んでいた。。
仲の良い友達の親までも“ヒマちゃん!”
と呼んでいた。。
そんな彼と最初のイキサツもあって私は
大の仲良しになった。
毎日彼と遊んだ。。
彼は私のことを○○さんと“さん”付けで
呼んでいた。
子供心にもなんか違和感があったので、
“いいよ、やめろや”と何度か言ったの
だったが
“やめへん”と言う答え。何時しか“やめろ”
という事も言わなくなり、○○さんという事
に落ち着いた。。
なんでだろう?と今更ながらに考えるのだが、、
何かにつけてドン臭かった“ヒマ”はいつも
私にいろんな事を聞いてきた。
その都度私は答えていた。。。最初の出会い
がそうだったのだが、以降もズッとそんな関
係だった。。だからか?私には変な話だが尊
称をつけてくれていた。。。
自分は偉そうに兄貴風を吹かすつもりはない
のだが…なぜかそんな関係になっていった。。。
ヒマはアホだった。
頭が悪いというより、勉強が出来なかった。
言葉は悪いが完全に“落ちこぼれ”だった。
それでも彼は一向に意に介さない風であり、
生来の明るさがそんな事を吹き飛ばす勢い
を持っていた。
しかし、周りと違い、私はそんな楽観的に
は笑えなかった。。
私はヒマのような自虐的な事で笑いを振り
まけるほど大らかではないし何より
“笑われる”ことが嫌であった。。
だから、、いつも一緒にいる分、なんとな
く自分が笑われているような気にもなった…
私は心配になって一度だけ
確か夏休みだったような気がするが ??
“ちゃんと勉強しろよ!”と喧嘩したこと
があった。
彼は黙って私の話を聞いていたのだが、、
話が途切れた所で黙って背を向け家に帰っ
ていき・・・・・・・・・・
気まずい雰囲気だけがその場に残った。。。
少し言い過ぎた…・おせっかいに。。。
と後悔した。。
が、、次の日、いつもと変わらない調子で
○ ○さんあっそぼー!
と家に来た。。。
昨日の事はまったくなかった事のように・・
またいつもの二人になって遊んだ。
そんな奴だった・・
中学に入りクラスも分かれ疎遠というより
も一緒に居る時間が少なくなった。しかし
3年生の時同じクラスになり小学校の時と
同じように戻ったのだが、大きな違いが現
れた。
受験だ。
ヒマは就職すると決めていた。だから受験
勉強はまったくしなかった。
年末から受験の2月3月まで彼は一人だった。
でも受験当日の朝、家に来てくれた。
頑張ってな!○○さん!!とニコニコしていた。
受験の緊張で適当に“ありがとう”と言った。。
迷惑ではなかったが、その時、余裕がなく彼の
優しい気持ちを受け止めることができなかった
のは、大人になった今でも小さいシコリとして
たまに疼くことがある・・
私は無事公立高校へ進学することが決まり
ヒマは“寿司屋”の就職が決まった。。。
お互い岐路を向かえそれぞれの道に進んでいった。
それからお互い顔を合わせることも無くなった。
暫くして噂で“ヒマ、寿司屋一週間で辞めたら
しい”と言うことを聞いた。。。
へぇー。。どうしてるんやろ?
あいつ・・
と気になりつつも、勝手なもんで、頭の中の
ひっかかりはその時だけのものとしてしまっ
た。いや…確か一度家に行ったが、、家を出
ていたようだった。。
しかし、高校2年生になり、、、、、、
具体的に大学受験のことが眼前に現れ、悶々
とし始めたのある日
懐かしい声が家の外から聞こえてきた!
○ ○さんあっそぼー!
うん?と慌てて家を出ると
ヒマだった!
見ると随分風体が変わっていた。。
頭はパンチパーマ
眉毛なし
当時のヤンキーが着ていたボンタン風の
ズボンに派手なシャツ
足元は女性モノのサンダル。
立派なヤンキーになっていた。。。が!
顔と表情は小さい時のまま
体型も同じだった。。。。。
だからなんとなく
奈良の大仏さんのような・・
久しぶりだった。
仕事の噂を聞いた。
やはり本当だった。一週間で寿司屋は
辞めたらしい。
その後は職を転々としていたのだが
今は板金だったか鉄鋼所だったか?
忘れたがそういった工場に勤めていた。。。
風体は別にして真面目に働いているよ
うだった。。
そのとき何をして遊んだのか?もう今
は覚えていないが、それからチョクチ
ョク会うようになったのだが、、私は
また受験ということでそんな関係が途
絶えた。
大学に入り、毎日市内に通うようにな
ると地元とはドンドン疎遠になってい
き、当然ヒマのことも頭の中から消え
ていった。。
ヒマもそう言う事を察知したわけでは
ないが、彼も私の前に現れる事が無く
なった。
そんな期間が4年近く過ぎたころ、私は
大学4回生の夏休みを向かえていた。
本来4回生とは就職の年であり、皆その
ことに邁進する時期なのであるが、私は
留年が決まっており毎日することも無く
ブラブラしていた。
留年することは1回生から決定していた
ことだった。。。。。。
大学に入りほとんど授業に出なかったの
だから当然の結果だったのだが、なにか
しら漠然と“何かしたい”という思いを
沸沸と抱いてはいたのであるが、想いだ
けでなんら努力もせず、なにをという大
テーマも見つけられず結局最終学年まで
ズルズルと来てしまったのであった。
しかし周りが具体的に将来を形づけよう
としている最中、自分はなにもないまま
ブラブラと親のスネをかじってのうのう
としていた事になんともいえない苛立ち
と情けない自分を初めて目の当たりにし、
今まで適当に逃げていた自分という姿と
初めて向き合ったのだった。
そんな情けない自分だから、結局ブラブ
ラしたくはないが何をしていいのか分か
らずブラブラするしかなかった。家にい
てられない、かといって友達の家にいっ
ても迷惑・・後輩たちとと言ってもみっ
ともなく感じ、、、、、、
結局自分一人でブラブラするしかなかった。。。
そんな時
またあいつは私の前に現れた。。
ある日、駅からブラブラ歩き通りの角を曲
がった所で、家の前で母親が作業着を来た
人間と笑いながら話している姿が目に飛び
込んできた。
近づいていくとその作業着の男がヒマであ
ることが分かった。。。
もうヤンキーではなかったが
今度は立派な“現場のおっさん”になって
いた。。
「○○さんひっさしぶり!飲みにいかん??」
「おっ、、おぉ。。いこか・・」
そう言えば二十歳を超えてから初めて会った
事に気付いた。
そうかこいつと飲んだことがない。いくか!
と二人地元の居酒屋に繰り出した!!
何を喋ったのか?細かい事はもう覚えてい
ない。
しかし、ヒマは前にあった時に言っていた
工場に今も勤めており、ベテランではない
が、それなりに仕事を任されて頑張ってい
た。
アルバイトもロクにしない私と違い金回り
も良かった。。。。
「○○さん?」
「うん?」
「仕事は??決まった??」
「いやぁ・・それが留年で。。。まだ大学。。」
「そう。仕事なにするの?」
「うーん。。わからん・・」
「ふぅーん。。」
「ヒマ、、今の所楽しい?」
「うん!まぁキツイけど楽しいよ!結婚もするか
もしれんし!」
「結婚?」
「うん!」
「そうか。。」
到底その時の自分にはまったくなかった具体的な
人生設計だった。。
いまだに小学校時分と本質的に変わらない今の自
分の生活…
大学に行ってただけだ。。。
電車乗って・・
この日、居酒屋からスナックを何軒か行った。
全部ヒマが奢ってくれた。。
なんか小さい時分
あの夏休みの日
“ちゃんと勉強しろよ!”と偉そうに言ってい
た自分を・・・・
ヒマが逆転していた。。
でも、、ヒマは私みたいに
偉そうではなかった。。。。。。
あの時のような気まずさは
彼にはなかった・・
それから幾度か飲みに行った。
でも、、そんな話はそのときだけだった。。
それ以降、、一回も彼はしなかった・・
大学5年生になり
私は思うところがあり卒業しようと朝
から晩まで学校に行った。
単位を一年で取れるかどうかという程だっ
たが、とにかく卒業しようと頑張った。
振り返ればこのときが人生一番勉強した?
というよりも一番学校に居たように記憶し
ている。。
朝から晩まで。。。この年はほとんど他人
と接触しなかった記憶がある。だからヒマ
ともあってなかったし、彼もどう言うわけ
か私の前には姿を現さなかった。。
忙しいんだろ。。
ってな程度に考えていた。
無事卒業。そして親の反対を押し切り今
の仕事についた。
それから3年後
私は、友人たちと3泊4日の旅行に出か
けた。
その旅行から帰った日
衝撃的な話を母親から聞かされた。。
…N君、、死んだ。。もうお葬式も終わっ
たみたい。。…
えっ…
嘘や・・
信じられなかった。。。
呆然とした。。
交通事故だった。
夜遅く家に帰る時に起した事故だった。
その家、アパートには
嫁と子供が待っていたらしい。
いつ結婚したのか、、なんにも連絡くれな
かったが、、
とにかく慌てて礼服に着替えヒマの実家
に行った。
おかあさんが出迎えてくれた。。
「おかあさん、、すみません。。知らなかっ
たもんで、、遅くなっ…」と言い終わらない
うちに
「ええから、、ええから、、上がって!」
と家に上げてもらった。
お父さんもいた。。M自動車に勤めていた
職人さんで夜勤が多く、昼間よく私とヒマ
とキャッチボールをしてくれた優しいお父
さんだ。。
「ごぶさたしてます。。すいません、、、
おそくなっちゃって。。」
「ええから、、ええから、、はよこっちおいで」
「はい。。」
通された部屋に仏壇があり前に座ると
白黒のヒマが笑っていた。。
チーン・・
色々死ぬ前の近況をお父さんとお母さんが
話してくれた。。
そして
「○○君、よぉあの子と遊んでくれたね、
ありがとうね。。」
そんな風に言ってくれた。その言葉を聞いた瞬間、、、、
堪えていたものが吹き出した。。
遊んでくれたね、、、、、
違う。。。それは違う。。
。。。。。。。。。。。。。。。
あの日から大分時間が経った。
また、ヒマの事を私は忘れていた。
そう言えばあいつ
私が弱った時に
なにも言ってないのに、必ず
どこからともなく現れた。。。。
今も生きていたら
力になってくれただろうか?。。
遊んでくれただろうか?
どこからともなく
○○さんあっそぼー!
心の中で
自分で自分につぶやいていた。。

Twitterブログパーツ
吉野ロボ 5
January 17,2011
村上隆の限界、そこから今後ということで前回は終了したが
如何なることか?
単純に『我が国が誇る』という形容詞の後に
村上隆を置いて良いのかどうか?という疑問が
実はこれほど世界を席巻したアーティストには常に
つきまとっていることを感じるのは私だけではない
筈だ・・・・・
ある意味日本の不思議な感覚
所謂自国で認め切れていない、もしくは決められない
優柔な感覚ないしは蒙昧さ。外国=西洋によって認め
られたものは無条件に享受するという主体性の無さが招
いているという解釈も妥当である。もう少し冷静に考えれ
ば、今はまだという部分も当然あるだろう。
死んだ後、過去の業績からという、もうその後の変化の
予測を立てなくてもよいタイミングでゆっくりと検証して
という時期でないから誰も今後との兼ね合いで言いかねて
いるという見方も他方ではあるだろう。
仮説を立てる勇気がない。
なぜなら彼は描いて?(描かせて)喋って、商売して
とオールマイティーでその全てが日本の誰もが体現した
ことがない境地に身を置く逸材であり、面と向かって
何か言える人間がいるか?という部分もある。
仮に何かを言ったとしても、じゃ現実は?という
部分の反問に応える実績を持った人間は誰なのか?
村上を批判する人は多いと思う。しかし実際
その論調の急先鋒は一体誰なのか?と考えれば
誰もいない。ジャーナリズムなどというものがその場合
の機能の一旦を担う筈なのだが、、、、果たし・・・・て、、
わざわざここで明らかにする必要もないほど結論は
見えている・・・・
学術界は?同様だろう??
まぁ、、いるのだろうが、、、何の反響、所謂、先ほど
述べた急先鋒なる存在としては見えてこない・・
本当はアート以外の識見者がこの手の部分に加わって
も良いはずなのだが、、、、それもない。。。。
これは後で話すことになるが、、そこが本来おかしな部分
だとも思う。。
もう一つは、、余談だが
過去のアーティストに比べると、、、、、、、、、、、、、
弁舌・論説が鋭く、広角的にメディアに露出する彼の姿勢
に対しての虚無感や面倒くささや、、、まぁ煩いという
部分も多分にあるだろうし、、メディア露出という観点
から言えば、同様に多数露出しているタレントとの並列
感で見れば、受け入れられないという嫌悪感もあるだろう。
『俺が俺が・・』的な謙虚さ寡黙さのないビジュアルを
大半の日本人は間違いなく嫌うであろう。
そう言えば、彼のビジュアルから
誰それ様のおかげで自分は・・・などというものは
私の独断と偏見かもしれないが見聞きしたことは
ない。
しかし、これほどの世界的な成功を収めた日本人アーテ
ィストが現役世代として過去いたであろうか?量的判断は
当然出来ないが、しかし明らかに彼以上を仮定し
並べてみても天秤がどう動くかは誰の目にも明らかで
あろう。
そして長々と書き連ねたが、所謂西洋を基盤とする
アートの世界においての彼の台頭及びその足跡は
他国の別のアーティストと比べても何らの欺瞞(当然
その位置にいくにはある程度同様の法則が存在しスタン
ダードであるという前提)もなければ遜色もない。
私はそう思う。
少し話がそれたが、、個人的なキャラクターが起因
することも多少はあるにしても、しかし何故か彼の
業績に対して日本国内ではどうもしっくりした評価
というものが無いのが現状のように感じる。
確かに何度も言うが現役で活躍しているアーティスト
であり、今もまだ途上といえばそうなのだろうが、、
しかし過去のアーティストからすると誰もが検証でき
ない位置にまで到達していることから考えれば、
無条件と言うまで行かないにしても、かなり大きな
ボリュームで持続的に称賛があっても良いのだが、、
現実的に他の世界で活躍している人との比較において
見た場合、、少し、、いやかなり違うような気がする。。。
日本人は無知なのか?妬みなのか?納得できないのか?
私はいずれも当たっていると思う。
まぁ異論は様々あるだろうが、、、、
世界に認められ、、どちらというと国内で嫌悪されて
いる・・・という風景が私には見えるのである。。。
逆説的には現状国内における村上隆の浮揚は実はこの
カウンターがあるから成り立っている側面もある。
あえて無視できない存在を演出しているのか、自然と
この感情と戦う姿勢によって成り立っているのか?
は分からないが、この日本人と村上という図式が、
もうかれこれ10年近く続いていることは間違いない。
なんであんなマンガみたいなものが?
あんなもの、一時の・・・
大体自分で作りもしないで・・・・
もうキリがないほどあり、一部の理解は得ても
それ以外に浸透するほどの彼の功績紹介とその
内容を説明するものがないというのは何なのだ
ろうか?
何度も言うが、世界を席捲し一世を風靡した
アーティストであり、過去の世界的と呼ばれる
アーティストの誰よりも一般に評価されてもいい
筈なのであるが・・・
いや、まだもっと先だろう?という意見に
しても前時代的な情報流通ならそうだろうが
現代の情報社会である・・・・
当然さきに述べた批判?というより誹謗そのも
のが日本と言う閉鎖的な市場性と概念性を表して
いるのも事実である。
実際その狭間の中にいる人は彼だけではなく数多
存在するだろうが、彼は頭一つも二つも突き抜けた
存在である事を考えれば・・・・
日本ではこの手の存在は延々認められないのか?
という感性も実は存在すると思う。
いや、、大きくあるだろう。。。
しかしどうも解せないのは、世界的な評価に恐ろしく
弱い国民性があまり発露されていない彼の存在に
は疑問が残る・・・
では、、
なぜこのような図式が成り立つのか?
あくまで私見であるが、、
単純に私は、彼及び彼の作品、及びコンテクスト
は日本と日本人を表現しきれていない。
これにつきると思うのである。
確かにこの項にて再々彼が世界へ飛躍する道程
を段階的及びその時々の経済的情勢・気運を絡ませて
説明し、その根本が西洋を基盤とするものへの
カウンターであり、即ちその激突が海外にも国内
にも触媒効果として作用したという事を語った。
合わせて過去のアーティストとの大きな違いとして
彼は、日本を脱出したコスモポリタンではなく、あくまで
日本人、そこからの感性をカウンターとして創出し
堅持しているとも説明した。
それは即ち彼が日本と言うものを駆使した結果という
ことではあるのだが、、
しかし、冷静に考えれば・・・・・・・・・・
これはあくまで日本のある一面を使い効果を発揮
しただけであり、当然事実無根ということではない
が、あくまで、あるポイントからの村上隆の解釈
と論理性でしかなく、それが即ち日本そのものを
端的に表したかと言えば、少し疑問が残る。
ある一部分の普遍性(スーパーフラット)とある
時間軸からくる(戦後)関係性を接合し溶解した
結果をアメリカとの接合点に持ち出し、それが世界
的に流通し始めたアニメーションと言う産物との結
合を根拠に据えたのだったが、、
彼が描き作り出した接合点である現代のサブカルチャー
というフィールドからの日本という具体性の抽出と、
世界、特に中心的アメリカに接合させた手法は、実は
広範な普遍性を持つ日本そのものをバックボーンにし
たわけではない。
それは誰にも理解できるであろう。
又逆にアートがそこまで広範な日本というものを
網羅しその感性を一つに集約できるのか?という
疑問も当然あるだろうが、しかしここで言う彼の日本
とは、日本人が心底感じている日本とは
”ある一点が”
大きな隔たりを持っているという事と同時に、果た
して彼の言う日本とは本当の日本人を直喩している
のか?どうかの大いなる疑問があるのである。。
これがある意味の結論です。
、、、、、、、、、、、、、、、
ある一面の真理、、アメリカ側からの視線であり、
及び20世紀末から21世紀に向かう中での日本を彼なり
に集約したという事でしかない。。日本からすれば
少し客体化されすぎている自国の姿が浮かび上がる。
これはもっと言えば日本人の普遍性を描きだした
訳ではなく、歴史の中にある、ある一時点、戦争という
日本が世界との関係で初めて挫折した時点のマインド
からくるネガティブな面を切り抜いたに過ぎず、
そういう意味でこのネガティブな時点でも息づく日本
の普遍性、それをサブカルチャーという辺境にて認め
その純度の高い醸成具合の栄養素・・すなわち
成長させ続けたの主体を、日本でなくアメリカであると
いう論法に帰着させた事は、あまりにも日本及び日本人
という歴史的堆積全体からする割合が少なすぎる、
もしくは妥当性を欠いているように感じて止まないのでは
ないか?と思うのである。。
確かに戦後の世界の枠組みの中における日本を客体化
したときアメリカという存在との関係は切り離して考えら
れない。その最大は安全保障上の問題に集約されるのも間
違いない事実であろう。その安全保障を基盤とする現実的
国家観、その感覚を失った日本の陰影として広がりを見せ
るサブカルチャーも事実だろう。しかし果たしてその光景
の最大公約数が即ち日本か?と言えばそれは否と言わざる
を得ない。。。
現代美術の持つ特性的表現の一旦として及び世界=アメリ
カと極を一にするポイントとしては理解は出来るが、、、
、、、、、、
それはこの10年前までだったのではないか?と考えるの
である。
2000年と現在の2011年ではその現実的国家観に著しい
違いが生まれていることに気づく方は多いはずだ。。。
明らかに日本人は覚醒し始めている。これは内部的な
覚醒と言うよりも外部要因がそれを許さない所まで来た
のである。当然、安全保障の概念も変質というよりも
新たな概念が加わっており、資源、経済、食料、科学的
インフラ、等々、10年前とは比較にならない程の国家観
を一般が求め始めている。
是こそが所謂潮流というものであり、実際私の見る限り
昨年末からの緊張度合いは一気に高まったと感じる。
この状況下においても未だ村上隆の表現する日本観
というものに固執していられるのか?という疑問が起きる
のは不思議ではない筈だ・・
何度も言うが、2000年時点でのコンテクストとして接合
した状況と今は大きく違う。そして彼が使用した日本と
いうモノが、現状と著しく合致しなくなって来ているのと
同時に、覚醒が促されているのである。このある意味
自虐的史観から離れ、本来的な部分というものへの
回帰が実はこの時期に望まれているモノとであると同時に
即ちそれが村上隆がカバーし切れていない大きな面積を
持つ日本というモノのような気がしてならないのである。
村上が言う戦後日本とアメリカの関係は影の部分で
ある。反面に戦後日本とアメリカという、やむにやまれぬ
関係を先ず認識し、それでも国家繁栄を考え、主体的
国家観から憂い、その現実的な制約の中から歩んだ
日本という姿があることも事実である。
松下、ソニー、ホンダという世界に冠たる企業を築き上
げたのもこの時代を背景にした日本である。
そのスピリットの中からでもアートを触発してきたものが
あるわけであり、何もサブカルチャーに戦後が凝縮され
ている訳ではない。アニメと呼ばれるものが制作され、
それを誰もが享受できる環境を誰が整え支えたのか?
それらがスタート仕始めたとき、そこにサブカルチャーとい
うような空気があったのであろうか?
悪いが”おたく”なる言葉が流布されだしたのは、この20年
前くらいのことであり、私が中学時分の30年前は、、、、
二次元コンプレックという呼ばれ方をしていた筈だ。。。。
こういう世界を作りだしたのも日本人であることは間違いな
い。ある意味奇態な存在を受容し肥大化させた感性も
日本人の中にはあるだろうが、それはこの20年という時間
軸の中で生まれた訳であり、、実際にはこの20年という時
間軸を考察するべきである。
私が中学時分のアニメは間違いなくエンターテイメントで
あり、今のような偏狭な存在ではなかった。
私は本質は今もそうだと思う。
客観的に見た場合の錯綜感覚が強すぎるように思うのである。
宮崎駿をサブカルチャーの代表として我々は考えているか?
またそのストーリー性から村上が説くような戦後日本の存在と
アメリカのような対比が伺えるだろうか?
少し違うような気がしないか?
先程来から言う、大いなる歴史的堆積を昇華し普遍的
日本及び日本人の感性が共感できないだろうか??
そこには『我が国が誇る』という形容詞が誰の目に疑いもなく
しっくりと収まる。また世界から見ても日本を代表する
という感性が間違いなくあるだろう。。
そして政治体制も、確かにアメリカ追従、安全保障を丸投げ
して経済のみに邁進し世界的な地位を確保し、それもアメリ
カの傘の下でのみ許される範囲という捉え方は正しいだろう。
世界的に見てその姿は、アメリカの支店のような関係性、主
体的意見を言った所でアメリカの意見と相違する事が許され
ない日本という存在は結局、世界からは真の意味での独立国
家たり得ない姿として映っても仕方がない。これも事実であ
ろう。
しかし、だからといって国民がそのことによって災厄を何
代にも渡って被ったか?といえば、どちらかと言えば豊か
な国家という印象をこの65年間は享受し続けてきたのでは
ないだろうか?
これもネガティブに捉えれば前述のような事情から生まれ
それを茫漠と受容し結果論的に捉えられなくもないが、
実際はその制約の中で闘った人間達がいて成り立った
繁栄であるという側面が確実に存在する。
自民党というのはある意味戦後の2大保守党の合体
で出来上がった。党是は改憲であり先に述べた真の
意味での独立国家というものだったが、状況が許す
最優先事項が経済発展であり、言葉は悪いが後回し
した。これは現実的な後生に対するツケであり、それが
今、この2011年に噴出している。しかし後回しにしな
くてはいけない事情も理解できる。あまりにも貧しく、
困窮の度合いが高かった戦後のこの国で第一の問題は
社会生活の安定であった。又アメリカに通商部分でしか
国際的な窓口を開けてもらえていない状況の現実的
選択であったと思う。
それが戦後の経済政策の有り様だろう。
しかしこの自民党が取った経済政策、私はかなり評価できる
と考えている。何も村上が定義するようなネガティブなもので
はなく、実に日本的な発展過程を辿ったのではないか?と常々
感じている。
それは何か?と言えば
国民総中流という結果である。
これは何を意味しているかと言えば、所詮経済的な発展度合い
とは国民の総和としては現れてこない。もっと言えば発展の量
化とは数値、もしくは個々の所得に現れるのであるが、それは
平均という部分での判断が下される。
平均とはなにか?
飛び抜けたモノが平均を押し上げる場合と
本当に平均が厚い層を成す場合と2種あるだろう。
前者とは現在の中国を見れば一目であろう。
沿岸部の経済発展とそれを享受する一部の富裕層
それが中国の国威を表してる。しかし国民全体はどうか?
まだまだ貧困と呼べる人口が多く存在しているのが現実
ではないだろうか?
格差とよばれるものである。
しかしこれは世界各国の先進国と後進国の有り様
をみればさほど奇異な風景ではない。どちらかというと
ごく当たり前であり為政者はこの部分のコントロール
に難渋すると同様に、国家戦略的に経済発展を望む
最短の方法論として一部の格差を生み出している。
しかし日本がとった政策はどうだろう。先の言葉にある
国民総中流とは言葉通り、皆が過不足なく平均に
密集し、その平均を世界第二位まで押し上げたのである。
驚くような富裕層はいないかもしれないが、国民一人一人
はある意味の豊かさを享受できる環境が生まれたのである。
このような成功が世界のどの国にあろうか?ある意味の頂点
を指し示した経済発展であったと言っても過言ではない。
しかし長らく我々はこういう日本的なモノを『だから駄目だ!』
的に『欧米的な競争世界には向かない勝てない』というような
事を聞き続けてきたような気がする・・・
しかし本当にそうなのか?何時の時代も日本は駄目だと
聞いてきたように感じるのは私だけであろうか?
村上隆が是認する戦後日本とサブカルチャーの平野という
風景が日本なのだろうか????
違うような気が最近している。
結果として日本は優れたものを発露し世界に冠たる国家
を形成した側面が十分ある。しかし問題は根底にある、、
安全保障との絡みで全てが整合しないというギクシャクを
ずっと抱え続けている。これが本質であり、また戦後日本
という姿ではないだろうか?ましてや、今その経済発展も
斜陽を迎え、これまでに成功してきたものが通用しなくなる
情勢を抱えるに至っている。その起点が20年前であり、、
具体的な凋落を感じるのが2000年以降の隣国中国の
発展である。又この時期の社会情勢が先に述べたように
世界の新たな枠組みとリンクした、、、そいうった時に出て
きた村上という存在、、そしてネガティブな戦後史観・・・
しかし今、我々の意識の総合が覚醒し始めているという
状況を仮定(私は現実的な潮流と捉えるが・・・)、、、、
した場合、村上隆にもっとも欠けていて、、我々の日本
というモノを曲解させかねない、又ネガティブな客体化された
日本像とは違う、、これからの日本、世界と極を一にする
新たなコンテクスト。世界にカウンターを打ち込める強靱な
モノ!
それはある一点に集約されると私は思うのである。
その、、、、
ある一点とは
私は”心”
日本人の世界に比類なき”心”なのではないか?
と、、感じている。
(つづく。。)

Twitterブログパーツ
吉野ロボ 4
January 13,2011
さて別の側面としての触媒効果、
世界市場におけるアート概念という部分であるが、、、、
世界市場の中では必ずその時代時代に潮流と
呼べる中心的な概念の動きが存在する。当然その潮流
とは異質なものも存在としては内包している、だからアートの
海域は広範で様々なものが生息するのであるが、海同様に
潮の流れという時代を象徴すると言う意味においての中
心的先端概念、それを具体化するアーティスト及び作品が
どの時代にも存在する、もしくは存在させようとする動きが
ある。
この潮流と先端は突如と言うことではなく、必ず流れがあっ
てその上に成り立っている。ある時は過去の時代から進化し
たもの、またある時は劇的な逆説から生まれたりということ
なのだが、必ず前時代的なものへのカウンターとして新たな
概念の存在が触媒機能として浮き立ってくる。
場合によってはそれが国という単位の大がかりな現象として
表出する場合もある。
例えば、戦後(第二次世界大戦)以降のアメリカ現代美術
などはヨーロッパを中心としたアートの枢軸を移換させる
”行為”であり、戦後のアメリカを中心としたパクスアメ
リカーナという世界の基軸通貨ドルを中心とした触媒機能
が戦後のアートマーケットを構築したといっても過言では
ない。
歴史的堆積のないアメリカという国がアートの中心となる
場合、単純に考えても大幅かつ劇的なパラダイムシフトを
描けなくてはならない。
文化的な覇権意識、もしくは生活の中心的考え方への橋頭堡
無くして経済的な発展はない。
裸族に服や靴を売るには、その文化的尺度を変化させなけ
れば需要は喚起できないのと同様である。そして同時にそれ
を購入することができる経済的な発展をも喚起しなくては結
実しない。大衆の消費。
日本がパンばかり食う、小学校の給食でもパン
すべてアメリカの穀物を売るための生活の変化及び
経済的な発展への助長という2正面からの作戦を
占領後に仕掛けているのであって、これは日本人が
自主的にそういった嗜好を最初から持っていたわけではない
。。。。
話しは戻るが、、、、
歴史的堆積において新興国であるアメリカが劇的なパラダイ
ムシフトを企てる・・・
その為の道具は先端である、誰も見たことのないモノでなく
てはいけないという事と同時に、歴史的堆積がないアメリカ
には選択の余地がないと言うことである。その誰も見たこと
がないと言うモノへの価値を担保するためには価値=貨幣の
威力としてドルという通貨基軸が及ぼす、アメリカの覇権行
為が背景に合ったというのは全て整合する話しである。
当然ウォホールのような大量消費社会をそのコンテクストに
据えたアートなどは、この世界一の国家、ドルを背景にした
経済力を持ち得た国家で生まれるべくして生まれたアート
であり、その価値の担保として世界市場の中心軸に据えた
というのは文脈的に考えても時間軸からしても、ヨーロッパ
の権威に対抗する新しい枢軸として機能したことは間違いな
い。
社会への触媒機能としてのアート言う概念を
明確に生み出した瞬間だとも思う。
マティスもピカソのある意味アートという虚構の世界の中の
巨人だったものが、ウオホールの登場により社会通念と合致
する同時代感覚が誰の目に見ても分かるポップアイコンとし
て登場した。
これはラウシェンバーグなどのコンバインペインティングに
その兆しは見られていたのであるが、ウオホールに至って昇
華及び拡大再生産されるアートという概念が生み出され、一
部の隔絶された世界から富の蓄積に応じて消費される材料へ
変化していった瞬間である。アーティストが大衆のイメージ
の世界の中で肥大化して一人歩きしていく瞬間でもある・・・
所謂良く言われるコンテクストという部分は、当然資本の流
動性もその中には含まれてくる。学説的なコンテクストは当
然なのであるがもっと重要なのは、その時代の世界市場にお
ける経済的背景との関連性も大きな要因としてあげられる。
当然そこで触媒としての効果は時代を網羅し尽くすぐらいの
勢いが必要であり、象徴的な視覚効果が求められる。
そういう意味ではポップアートという概念は21世紀に入っ
た今でも十分息づいており、その触媒効果の大きさが想像
できる・・・・と考えられるが、、、
本質は実は大量消費社会の出現と現在はその大量消費から
起こった人間生活の循環の機能不全という意味でのポップ
アイコンが触媒として機能しているという解釈もできる。
一枚のウォホルの絵から2側面の大量消費社会の姿が見えて
くるのである。
まぁもう一つはアメリカの発展と衰微という見方もウォホル
のアートとしての触媒効果は称えている側面に気づく。
後何年かすれば、ウォホルの絵が語るモノの意味がすなわち
アメリカの歴史的核心的部分を語る触媒になるやもしれない・・・・
話しはそれたが、この概念的触媒効果とは一般には、学説的な
飛躍というか、前時代からの開放、進化、改革などがイメージ
されがちだが、実はそんなものは学説的世界の話しであり、実
はそれを如何に肥大させるかという現実的現象面は、経済的な
側面が合致していなければ何も凌駕する事は出来ない。
故に社会に対しての触媒という観点から考えればまったく機能
していないと言うことと同様である。これは極端な考え方かも
しれないが、事実結果から考察すれば明白な事だ。。。。。
ここで村上隆に話しを戻すが
ではなぜ村上隆が世界市場において触媒効果を発揮
できたか、あわせてその触媒効果という化学反応から
何を生み出したのか?という事に対してであるが、、、、、
別に村上隆は前述のような戦略の中で胎動したアーティスト
ではない。
しかし、この時代の日本人が世界市場に食い込むにはと
いう結果から逆に論理展開を施した場合、彼の足跡とは
今後の日本のアーティストに対して示した部分の面積は
多大なるモノがあると私は感じるのである。
それがすなわちアメリカを中心としたマーケットに対しても
日本という閉鎖的マーケット及び学術的世界においても
大いなる触媒であったと考える。
まず結論的に大事なモノとはなにか?
それは村上のコンテクストは全て西洋欧米に対しての
カウンターにて存在しているという点である。
基本的に世界市場を俯瞰した場合、その構成要件
とは西洋を基盤としたものからの成り立ちがあり、それを
アメリカがカウンターとして堅持しているという近現代の
歴史的流れが存在する。これは前述の通りであるが、
もっと極端にかつ平明に分析すれば、全て東洋以外の
概念で構築されていると言うことである。
明らかに簡単なことなのだが、実はこの相対感覚がまったく
欠如している、当然その欠如がこれまで日本国内のみで
市場を形成できてきたバックボーンにもなっているのだが、
しかし世界と極をを一にしょうと考えた場合、その希少かつ
矮小化した日本という存在を明確に認識できた作家は
そうはいなかったと思うのである。
確かにこれまで世界に名を馳せたというアーティストがいるが
私が見る限り、それらは世界の軸に対してコスモポリタンと
して、言葉は悪いが日本人という感性を希薄にした上で
解釈を重ねたという方が正確であり、ここでいう村上のコン
テクストとは明らかに日本人であるという前提をむき出しに
したものであることを理解しておいていただきたい。
では、世界=西洋的基盤に対しての日本のカウンターとは何か
と言えば、これは当然西洋的な感性の堆積とは違うものを
準備しなくてはいけない。当然そこに当ててくるモノとは、日
本という国の歴史的堆積からというのが誰の目にも明らかなの
である。
そうなると我が国のアート(後年の概念として)は宝庫である
それを持っていけば・・・・・となるが、実はこれでは駄目な
のである。
当然西洋を中心とした世界以外の産物であることは間違い
ないのであるが、それは西洋以外のどの国にも存在するある種
のオリエンタリズムでしかないという事だ。
北斎、若沖、光琳・・・・それぞれ世界的な評価という部分が
あるが、それはある意味西洋との対比においてのオリエンタリ
ズムであり、そんなものはインドにも中国にも相似した関係性
のものが存在するのである。
それらが前述した世界市場におけるパラダイムシフトを促す
経済的側面、その時代の人間の感受性を総和とする社会性
を動かすに足るのか?及び西洋的基盤を有する大衆が生活の
中で価値の変化を享受するに足るほどの消費傾向が生まれるの
か否か、、、そういった側面への刺激的なメニューかどうかは
冷静に考えれば理解できる筈だ・・・・・
ここがかなり大事な部分なのであるが、私が見る限り大半が
ここで失敗しているような気がするのである・・・・・・
日本イズムと称して、過去の作品をトランスレートしただけ
では駄目なのである。それはただ単に新たなオリエンタリズ
ムでしかなく極を一にするという接合は生まれないのである。
冷静に考えてもらえば分かるだろうが、国内にも他国の作品
が結構な数流入してくる。しかし大きく俯瞰したときそれら
の扱いはどのようなモノか?その国にとってはそれなりの反
響を持ったものでも我々の国内では所詮・・・と言うような
偏狭の存在に押しやるのが関の山で、ほんの僅かな一部が賞
賛して終わる。
決して胎動するような事にはなりはしない。それは例え美術館
であろうがそれ以外の公益に即した大きなパブリックスペース
においても結果は同様だろう。しかし世界的な反響を背景にし
て入ってきたものはどうだろうか?訳が分からなくても今のメ
インストリームとしてのニュースを受容し本質以外を拡散する。
この違いを考えなくてはならない。それを客観的に他国におい
て想像した場合、結論は一目瞭然だと思うのである。
特に自国の文化に誇りを持つことは何の問題も無いのであるが
それが強すぎることにより世界=潮流というものへの相対感覚
が著しく欠如しているような気がするのである。
もう一度言えば世界の市場は西洋的概念の基盤に成り立って
いる。そこにカウンターを打ち込むと言うことは、相手側への
多大なるインパクト、ここでは触媒とよんでいるが、その化学
反応を創出出来なければ真のカウンターとはなれないという事
である。
村上隆もその底流には西洋との対比において、自国の過去の
作家(ここでは歴史上作品というものを残した人を総称して
そう呼ぶが)の絵を中心とした作品の有り様を考察している。
そこに西洋とは違う大きなというよりも核心的ポイントを2種
あぶり出している。
それはハイアートが存在しない世界という点とそこから生ま
れるスーパーフラットな世界という2種である。
ただし是をそのまま平面絵画もしくは立体として解説しただ
けであるならば、前述の過去の歴史を現代にトランスレート
しただけでしかなく、世界市場の中におけるその評価とは狭
小な新たなオリエンタリズムとしてしか表出できない。
村上は何が違ったのか?
当然この西洋との間における相違点をカウンターの原動力
として機能させたのであるが、一番大きな点は、翻訳したの
ではなく現代へ接合を果たしたという事だと思う。
どういう事か、単純にアニメーションを始めとする現代の
日本のサブカルチャー文化につなげたという表面的な
見方も結果論からはできるのであるが、本質的には
それだけであるならば先程来から説明している翻訳作業
もしくは鳥獣戯画から琳派そして浮世絵とつながるスーパー
フラット感覚が現代の漫画アニメまで一本の線で結ばれて
いますという表面的な解釈にしかならない。
表面的にはそれで彼の足跡はいくらでも解釈可能である
しかし、当時のリアリティーを考えればなぜそれが世界標準
に食い込んだか?何度も言うが西洋を基盤とする世界市場
のカウンターの一部分になり得たのか?という疑問の答えに
はならない。
ここで再度前述した部分を考えてもらいたいのであるが、、
---------------------------------
『例えば、戦後(第二次世界大戦)以降のアメリカ現代美術
などはヨーロッパを中心としたアートの枢軸を移換させる
”行為”であり、戦後のアメリカを中心としたパクスアメリ
カーナという世界の基軸通貨ドルを中心とした触媒機能が戦
後のアートマーケットを構築したといっても過言ではない。』
『所謂良く言われるコンテクストという部分は、当然資本の
流動性もその中には含まれてくる。学説的なコンテクストは
当然なのであるがもっと重要なのは、その時代の世界市場に
おける経済的背景との関連性も大きな要因としてあげられ
る。』
-------------------------------
この2側面との関連を無視して独自の解釈だけではカウンター
にはならない。ましてや彼らに対しての触媒効果などは決して
得られるものではない。
ではこの2側面に彼は如何に対応したのか?
彼がしたのか周りがそこに連れ込んだのか?は別にして
結果として彼の業績として考察すると・・・・・・
結論は世界市場=アメリカ=アメリカと日本の本質的関係への
触媒効果というのが一つの公式として浮かび上がる。
何度も言うがこれは”カウンターパンチ”なわけで、オリエ
ンタリズムではないのである。それは、、、これも何度も言
うが、世界の覇権国家からすると、全ての胴元に当たるわけ
であり、インドも中国も日本もその歴史的堆積から醸成され
たモノだけであるならば並列な関係性でしか見られないので
ある。
では世界市場=アメリカ=アメリカと日本の本質的関係とは
なにか?
これはやはり第二次世界大戦以降の関係性から見るしかない
のである。また世界とアメリカという関係性も大戦以降の枠
組みである。
ここに村上は先ず第一のコンテクストの接合点を見いだす。
その大戦以降両国の現状を考察すると、日本は安全保障と
いう傘の下で守られ、危機という概念を抜き取られブクブ
クと経済で肥大化したというのが日本側でアメリカからす
ると戦後新たな植民地政策の成功例として日本統治を堅持
している。
これが本質的な状況であると解釈できる。
この状況下で生まれ肥大化したのが日本のサブカルチャー
であるという結論を導き出したのである。これは日本の歴
史的堆積における統治者と表現者、その結果から出てきた
スーパーフラットな世界という同次元性という見方も出来
るのだが、一番の核心は日本のアニメーションのストーリ
ーを構成するプロット部分だと思う。
私の独自の解釈なのであるが
日本のアニメーションが世界に冠たる文化として誇示できる
最大は、独特の感受性による”ストーリー性”であり、表面
的な絵の作りもあるが、それは一部分でしかないと言うこと
だと考える。
もちろん表面的な絵の作りもオリジナリティー豊かで今、
その模倣の技術力が世界各国でかなり広がりをみせているが、
そういった現状においても尚日本のアニメーションが最高の
位置に居続けているのはやはりストーリー及び全体のプロッ
トだと思うのである。
この日本のアニメを世界最高峰に押し上げているストーリー
その中における独特の感受性とはなにか?と言えば、それは
やはり戦後日本を作り上げてきたアメリカとの特異な関係性
に他ならないと考える。
この作品
これがある意味象徴的に示唆していると判断する

これは大半がご存じだと思うのであるが、、、、、、、、、
タイムボカンというアニメで悪役のドロンジョ一味が最後
ヤッターマンにやられた瞬間におきまりのように現れる
”キノコ雲”である・・・・・
しかしここで再度考えていただきたいのは
原爆というものを中心に考えれば
アメリカと日本というのはお互いやったやられた関係で
はあるが、世界の中ではじめて核という未曾有の凶器
を体現した者同士なのであり、、、、、、
特にやられた日本からするれば、子々孫々累代にいたるまで
忌み嫌うべきものであり行為なのであるが、、、それを想起
させて止まない象徴的なキノコ雲を日本のアニメは何の疑問
もなく軽やかに笑いながらメディアの中で単純なツールとし
て使用している。
そしてもっと問題というのか、、ここが最大のポイントで
あるがアニメ・タイムボカンでは、このキノコ雲が出た後、
悪役達ドロンジョ一味は”死ぬこともなくボロボロの服を
きてどこに向かうともなく自転車で逃げ去っていくのである””・・・・・・・・・・・
死なないのだ・・・・
これは極論かもしれないが、、戦後日本のある意味のマイ
ンドを象徴していると言っても過言ではない・・・
戦争は空想の出来事でしかないのである。
その空想を担保してくれているのがアメリカであり、、、
そいう意味では、この担保からブクブクと独自の世界観を
生み出してきたのが、日本の二次元アニメを中心とする
サブカルチャーであるという定義は決してこじつけではない
ように思うのである。。。。。。
ここにも実は近現代における日本の世界的な位置付け
が読み取れる。
これが現実的な日本であり、、、、、、、、、、、
茫漠と自国の歴史的堆積を誇っているものとは
次元が違う鋭い現代感覚があると認識できる。
付け加えて言えば
この絵そのものから某かの絵画特有の情緒を求めても
意味はない。ないのだから・・・・
では何があるのか?と言えばただ自身のコンテクストに
即した触媒装置としての物理的側面のみである。。
ただし、それが触媒効果を発揮した物質であるという
結論に至った場合、この物質は大いなる価値を有する
事になるのである。
長々と書いている視覚的一面でもある・・
村上がカウンターとして選出したのは二次元のアニメを中
心としたサブカルチャーではあるが、その本質はそのサブ
カルチャーが生まれた経緯、つまりアメリカがある意味日
本のサブカルチャーを育てた?というと正確ではないが、
醸成させたという、彼らに対しての関係性を表出したので
ある。その結果として現在のアニメを中心としたサブカル
チャーを創り出し維持している技術的な”技法は”過去の
堆積から通底しているスーパーフラット感性である・・
という論法なのだ・・・
アメリカが考えもしない関係性をあぶり出す、ここが彼の
仕掛けた第一の触媒効果であり、その具体的検証として
確か2000年あたりであったと思うが、彼を始めとす
る同時代の相似するアーティストを網羅しアメリカで結
構したのが、、、、、
リトルボーイ展という展覧会だったと記憶する。
リトルボーイとはご存じのように原子爆弾の呼び名である。
わざわざこの名前をアメリカにて使用するというのが、
どういった意味を持つのかは想像に難くない。
ただしこれにはもう一つ情勢との合致という機運もある。
これは彼の持った”運”と呼ぶのか、アメリカ側からの仕
掛けに乗ったというのかは分からないが・・・・・・・・・・・・・・・・
いずれにしてもこのタイミング以外無いという絶妙な
ポイントが存在した・・・
この2000年を境にアメリカを中心とする世界が
どのように動いていたかである。
東西冷戦が終結しブロック経済が始動しはじめ世界の
枠組みが大きく変わり、これまで世界の警察を自認
していたアメリカの覇権政策に綻びが見え始めた時期
でもあり、世界の敵は”テロ”だという具体的仮想敵
を見つけにくい、ある意味抽象的な恐怖におののき始
めた時代でもあった。それはとりもなおさず、これま
で虚構にしても安寧を図れた形が崩壊しはじめた事で
もあり、そうなると一体何がほころばしているのかと
いう検証が始まる切っ掛けにも通じることとなり、
その原点はやはり第二次世界大戦で決した世界の枠組
みへの検証へと繋がる。
その枠組みの根本とはアメリカが世界での勝敗の帰趨
を握った根拠、それは間違いなく核の使用という、世
界にとっては人類有史上神をも恐れぬ所行に行き着く
のではないかと思う。。
ここに全てのポイントが集約されてくるその時期、
リトルボーイ展を開催したのである。
この10年前でも駄目だし、今など・・・問題外であろう・・
そしてこれは余談であるが、、、、、
2010年の日本の安全保障の問題点とその起点に関して
彼は既10年前に角度は違うにしてもある意味提議し表現して
いたという事が分かる。これは一つにはかなり精度の高い
検証行為が施されていると言うことと、そこからの戦略性が
うかがい知れる事が出来る。この一つからも彼はかなり誤解
されている部分があるように私は思うのである・・・・・
これが対応した一側面であり概念的コンテクストの触媒効果
である。もう一側面大事なのは、これは学説的及び社会情勢
との融合というある意味観念的な部分である。しかし、先に
述べた重要箇所は、これに経済的側面が絡まないと大衆まで
への触媒効果は発揮されない。
確かに第一側面のみでも社会的反響は十分に促すことが
でき、これまでのオリエンタリズムからすればアメリカと極
を一にするという次元において相当なモノが感じ取られても
おかしくない。
しかし、西洋を基盤とする根幹に現時点で組み込むとなる
とそこには確実に経済的な側面、所謂資本資産の流動性を
生み出さなくてはならない。
それはある意味村上プロジェクトというステークホルダーを
形成しファンダメンタルを公開し、その価値を担保するとい
う行為が最終的に必要となる。
それは単純に言えば、それまで資産形成していた資金の流動
を一気にたぐり寄せる作業であり、上記の学説的検証による
アメリカへのカウンター攻撃及び触媒効果だけでは、実は経済
的な安心感としてのポートフォリオとしては不十分なのである。
ここでもう一つの重要ポイントであるが、これは重複する要素
かもしれないが、、、、、
資本の流動性及びその投資効果に抜群に反応する
ステークホルダーの形成において最重要なものは、、
アメリカが世界通貨の基軸を握ったような、圧倒的な
勢威がいるのである。
ここで又機運というのか?彼が計算したのか?
アニメが世界の新しい枠組みとしての経済カテゴリー
を創出しだしており、その中心が日本であるという
事実、ある意味アニメの覇権を握っているのが日本
だという部分をハイアートにつなげるという、、少し
デリバティブ的な商品化がバックボーンとして生まれる。
逆説として、その銘柄としてのクオリティーと鮮度、濃度
これはアメリカというモノを軸として客観的に見た場合で
あるが、、リトルボーイ展という彼のコンテクストは実に
有効に機能する仕組みへと変化するのである・・・・・・・・
実はこの部分を直感的にアキハバラに集うガキどもが
村上はアニメのカリスマ、おたくのカリスマではない、及び
間違ったものを売り渡したという部分に合致するのだろう!
いずれにしても私の解釈においてはこれらのことを全て
補完して彼の存在は、ビジネス的にも概念的にも現時点
での中心アメリカへのカウンターとしての触媒効果を発揮し
結実させたように思うのである。
これが彼をして曰わく
ピカソ・ウォホールにはなれるが
マティスにはなれないとい事へある意味帰結
する部分でもある・・・・・・・・
所謂、、パラダイムシフト
※その時代や分野において当然のことと考えられてい
た認識や思想、社会全体の価値観などが革命的に
もしくは劇的に変化すること
誰もがなんでこんなもの?が・・・・・・という
驚異に晒されたのである、、、、この10年。。。。
しかし!!!!
これが本題であるが
これは10年前に起こった出来事である。
これが今からも続けて触媒効果を発揮
するのであろうか??
村上隆の最大の特質は類い希なる
洞察力であると私は考える。
然るに、、今、、この10年前と同様の洞察を
した場合、、果たして同じような状況が見える
のだろうか?
世界の情勢、政治的な枠組み、経済的な資本
の流動性、これらは劇的な変化を遂げていない
だろうか??
その時新たな触媒効果、カウンターを打つべき
なのはどこで何か?というのは・・・・・・
日本の優位性はまだアニメであることは間違いない
しかし、それは村上隆が既に占有?というのか・・・
ある意味近代経済学的な考えで行けば、、
限界価値に近づいているように感じないだろうか?
平たく言えば
村上の現実的な触媒効果は終了したと
判断しても良いのではないだろうか??
ある意味最初に書いた、美術館の過去の
触媒装置一覧の中にリストアップされていて
もおかしくない・・・というか、、
ベルサイユはその始まりを象徴している
と私は思うのである。。。。
では今からとはどの様に考えれば良いのか?
そこがこの吉野ロボという項の肝要点である・・・・・・
(つづく)

Twitterブログパーツ
CALENDAR
| 1 |
| 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
| 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
| 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 |
| 30 | |