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コンテンポラリーアートの扉
17日~19日まで高松、20日に一旦戻って



21日22日と再度高松



今日から一週間は京都である・・・



瀬戸内国際、結構盛り上がっているようで
是非とも行かなくてはいけないのだが・・・



まぁ上海から帰って、、と言うことになるだろう。



そして釜君の前田寛治大賞展の倉吉展示
もある、、これも上海が終わってから・・・・・



・・・・・・・・・・・・


うーーーん、、、、まぁ、なんとかなるかな??


、、、


この間行き来、交通機関は結構な繁盛で
昨日も帰りの電車は立ちっぱなしであった・・



今週は京都だが、来月の6日~上海渡航
その前に済ましておかなくてはいけない要件
を今週片付ける予定である。



上海との連絡はメールが中心で、CCを含め
ここに来て結構な応酬が繰り広げられている!



実は昨年は出展することだけで精一杯、、
何をどうしていいやらも分からなかった
のだが、今年はこの一年でお会いした様
々な方へささやかな招待状を上海からと
日本から送らせていただいた。



そしてそのメールリストを元に併せて勧誘の
お声をかけさせて頂いている。と言っても、
KFLのF氏K氏の主導のもと上海のLAO
氏を中心に動いていただいているのである。



正直驚いている



思っていた以上に形になっている。
もちろん我々はまだ初めて間がない訳で、、、
国内で行うような訳には当然いかないのだが



しかし凄いと感心した。



なんの根拠もないけど
必ず形になって現れると私は思った。。



もうあと2週間強である。



という今日この頃、、、であるが
遡ること数日前、、



青野女史より相談が入った



昨年釜くんで好成績を収めさせていただいた
画廊で現代美術の括りで企画ができないか?・・と



会期は9月29日から一週間!!




やろう!




と一発で決め




そして概要が決まりました




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タイトル : コンテンポラリーアートの扉

会期/2010年9月29日(水)~10月5日(火)
 最終日は午後4時に閉場いたします

会場/高松天満屋 5階 美術画廊
    直通電話087(812)7548



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基本はCOMBINEの作家で展開するのだが
骨格として京都発という内容を軸に据えた・・



具体的内容に関しては



後日改めてご連絡させていただきます。




が、、、、




百貨店の画廊ではあまりしないだろうな?と
いうようなちょっと面白い展開を企んでます・・・



バタバタの中出来るか否か



こうご期待くださいませ。。。。

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上海アートフェア進捗
実は現在、、、



出稼ぎ中なのですが・・・
一旦京都に戻ってきました。。



この間



お盆休みを挟み



上海アートフェアの準備は



アシスタント石本がKFLのF氏の
指導のもとテキパキとこなして
くれており、、今のところ順調に
進んでいます。



前回のフェアーと物流方法を変えた
ため今回はそれに伴い様々な書類の
準備や処理がありましたが、全て貿
易のプロであるKFLの的確なナビ
ゲートのおかげでこなせております。





当月の初め梱包業者に依頼







これが第一便で送り出した梱包です。
写真だと小さく感じますが、実際には
高さ約180センチ幅250センチ厚み70センチ
はあります。





このように作品を運送途上
出来るだけダメージが無いように梱包







一番懸案であった


エトリ作品も別個に棺桶?のような梱包箱
を作り納棺??いたしました・・・・





少し分かりづらいですが、それを縦にして
梱包箱に収納・・・


向かって右側に見える青色のバンドが
かかった作品・・・これが松ちゃんの
巨大作品”5人の自画像”です・・・・
実は梱包箱の幅は全てこの作品に占領
されての250㎝でした・・







最後にバンドをしっかりかけ完成!!


今日KFL shanghaiより無事作品全てを
オフィスに仕舞ったとの連絡がありま
した、、、、、、、、



が!!!!




KFL shanghaiの”Jack”さんより


(※KFL shanghaiのボスLAO氏の
 娘婿さんです。。)



大きな作品がありエレベーターで運べず
オフィスのある17階まで階段を使って
担ぎ上げた・・・・・・というメール。。。




OH MY ”Buddha”!!!
very sorry





ごめんね・・・JACKさん・・・




すぐに第二便も行きますが





よろしくお願いいたします。。

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2010NIIGATAオフィスアートストリート
お盆休みに入る前の12日



BAMIgalleryのバックヤードでは
人知れず、、、エトリケンジ新作
計画が進行していました・・・



などと書くと大層ですが



来月に行われる





2010NIIGATAオフィスアートストリート



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平成22年 9月25日(土)〜10月24日(日)



新潟市の顔である古町(柾谷小路)から
萬代橋を渡り、陸の玄関口であるJR新潟
駅前(東大通り)に亘る通りは、古くか
ら官公庁や金融機関、商店などが集積し、
新潟市の発展を支えてきたメインスト
リートです。

まちの背骨とも言えるこの通りを、湊町
新潟・商都新潟の歴史や文化が感じれれ
る賑わいの空間として魅力を高め、国内
外から様々な人や物、情報が集まる21世
紀のみなとまちの顔として位置づけます。

市民の理解を深めつつ、浪漫溢れる通り
となるよう、第一歩として「2010 NIIGA
TAオフィス・アート・ストリート」を実
施します。


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に出品する新作の




制作を開始したのでした。。




エトリさんがステージとするのは




閉店した新潟大和百貨店のショー
ウィンドウで、、街の中心部分です。








ここでどの様な展開をするのか?








今はまだ構想段階ではありますが




実に楽しみです。




新作も




これまでとは




違った作風を考えておられるよう





3月の当ギャラリーで爆発的な
反響を得たエトリ作品の新たなる






進化した作品がもうまもなく発表
されます!



こうご期待ください!!

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亡国
8月15日



これを終戦と呼ぶか



敗戦と呼ぶか



言葉の違いは大きい。
即ち思想信条が内包されている。



ここであえて思想信条を述べる
つもりはない。



しかし、この数年来この国の彷徨
からは色々と考えさせられるものが
多い事も事実である。


この彷徨・・


私は、、、これはあくまで個人的な
考えであるが、やはり歴史の考察・
議論の欠如が積年によって出てきた
結果なのではないのかと常々考えて
いる。


その欠如、正確には分断と論じても
よいのだが、それはおそらく1945年
の8月15日まで遡らねばならないよう
な気がしてならない。



ここ最近



フッと思う事、



いや正確には単語なのであるが



”亡国”という言葉である。



現在、何事においてもメディアが放つ
この国の客観的事情は、その内容に
おいて大半が凋落の風景である。。


そして政治のスローガンの大半が
この国の再生であったりする・・



こういったネガティブな空気が蔓延
する社会の中で極端な、最悪の想定と
は何かと考えれば、行きつく所の突
き当たりはやはり”亡国”という
言葉に直結するような気がするの
である。




しかし、亡国とは




言葉の直訳としては国が滅びる、亡くなる
という事で頭では理解できるが、果たして
その風景とはどういった事なのだろう?
と考える・・・




私はさほど頭が良いわけではないし、そ
ういった事を高い次元で学んだ事もないか
ら安直なイメージしか湧かないが、、、、




それでも足りない頭を振りしぼり考えた
イメージ・想像とは、、、少し寂しい
ものが浮かんできた・・・・




亡国と言えど



この国の地図上の地形が無くなるわけでもない。



この国の全ての人々が死滅するわけでもない。



逆に言えば




この国の地図上の地形はそのままである。



この国の大半の人々の人間としての生活は
継続するのである。。




では亡国とはなにか?



一体なにがなくなるのか??



私は



文化だと思うのである。



それは古から培ってきたものが



無くなる




これが即ち亡国であると考える。



支配された時




支配された側の主体性などは
ほぼ無視されるのは当然であろう・・




言葉として妥当かどうか分からないが
植民地という一つの象徴される形から
想像してもそれは容易に理解できる。




文化がなくなる




単純に直言すれば、これはあくまで
極論を論拠に据えている私論である
ことを改めてここで加筆するが、、、



もう、日本語を喋れない



もうこれまで大事にしてきた
お祭りができない・・・



この国の歴史的遺産・遺構が別の価値
観に支配される、それは即ち保全を含め
支配側の価値観に委ねられてしまう・・



この国で醸成されてきた殆どのものが
今、我々は最上のものとして崇めてい
るが、それがほとんどそうはならなく
なる。。



これは実に寂しい限りである・・



もっと言えばその時、自らの
拠り所をどこに求めるのか??



子孫に誇りをもって伝える
文化がない。



いや正確には



文化は存在しても伝える
事を許されない・・



それを想像した時、今の生活から
いかほどのものが欠損するか、、、



いつも、こんなもの・・などと
深く意味など考えないものでも・・




亡国という最終地点から
今のこの国を眺めると、




案外色々なものが愛おしくなるのは
私だけではない筈である。。。



グローバルやインターナショナルは
大いに結構だと思う。公用語の英語化
もそうだろう、しかし大事な根幹は
大丈夫か?と問いたくもなる・・・・






戦後10年も経たない日本のアートシーン
に突如現れたアーティスト、、、





河原温という当時19歳の青年が、ペン画
ですけども『浴室シリーズ』という、ペ
ン画でタイル張りの浴室から妊婦、足の
ない妊婦、腹の膨れた妊婦や少年などの
顔がこう壁から突き出ているというそう
いう絵にショックを受けて、それがああ、
つまり戦争が終わってもあの極限状況は
そんなに簡単に変わらない、人間の回復
なんて嘘っぱちだ、今我々が置かれてる
のはこんな状態だというふうに、河原温
のあの『浴室シリーズ』で痛感したので
あります」(針生一郎ミニ・レクチャー)







色々な方が論じているので




あえて私ごときが云々するというのは
おこがましいのであるが・・




私はこの絵から当時の衝撃を考えれば



日本人は復興に向け様々な上昇志向を
発揚しているが、本質は死骸の中を
遊泳している、、それは決して忘れる
ことのできない風景であり、、極論
として、、、




私は今もこの国は死骸の海の中を
彷徨っていると思うのである・・





この禍根は消えざるものであり
これを積年に亘り無視し続けた
この国の風景は今改めて見直す
べき時点に差し掛かっていると
思うのである。。






亡国




1945年8月15日以降この国が
欠損したものが




確実にある筈である。。




新たな世紀の




この国の新たな





大戦がはじまっているように
感じる・・・

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今日は午後から



来春出版予定の書籍にエトリさんの
作品が掲載されることになり、その
取材があった・・


私も同席して取材の様子を見ていた
のだが、、、


へぇ~と我ながら感心する事があった。


私は昨年からエトリさんとは知り合い
個展を通じ様々な話もし、自分なりの
作品観というのか考え方をある程度
持つにいたっている。



これはエトリさんの考え方と即ち合致し
ているかといえばそうでない所もある。


当然、プロモーションを行う側の解釈も
加わっている訳で、そういう意味では、
作家の想いから一人歩きさせている
部分を持つに至っているわけである。


良いか悪いかは分からないが、一つ言
えるのは複眼的な要素を加えていかな
ければ作品は大衆の中には薄まらない
という事が言える。原液のままでは
中々飲み込むのがシンドイという事
が言える。しかしあまり薄まりすぎる
とこれも問題であり、もともとの味
とは?となりかねない。最後は唯の
水になってしまう。どこまで薄めるか
これは大変重要な仕事である。



カルピスを想像してただければ分かり
易いかもしれない。



そんな事を思いながら



今日の取材を聞いていて感じたのは、、、
初めて接した人が、その作品の核心に迫る、
所謂前述の原液を薄めて飲めるようにする
というのはこういう事か!と客観的に自分
の仕事を見るがごとく、取材の道筋を聞いて
いたのが凄く面白かったのである。



実に不遜で偉そうなのだが!


もう少しもう少し・・・
もうちょっとで”美味しい味に!”と


心の中で叫んでいた。。。



編集意図というものとの合致があるので
余程逸脱しない限りは黙っていたのである
が、、、



こんな時、私はいつも感じる事がある



後、300年とか500年後に



土中から今の時代の作品が出てきた時



後の世の人はどんな感想をもつのだろう?



実は、仮想として



一旦、作品を土に埋めて後の世からその作品
の感想を想像するというのは案外有効な思索
行為である。



そういった作業を頭の中で繰り返すと



現代性という今生きている作品の持つ
意味というのが結構浮かび上がる側面が
あるのだ。



例えばエトリさんの作品などが300年後
の後の世の人が見た時、素材やテクニック
よりも、、、、



なぜこの時代の人は”こんなものを”作った
のか?という



ある種の形而上的な反問が生まれるような気が
するのと同時に、そういった想像を想起させる
という事が実は一番大事な要素じゃないか?と
感じるのである。



現代美術というが



実は本質は現代から未来への想像が大事な
訳であり、その起点となる時間軸が現代
という事だと私は感じるのである。


この時間軸の考察が欠如したものを
現代美術とは本来は呼べないと私は
思うのである。



未来との交信ができる作品



そういう意味では



少し抽象的ではあるが




未来と言う土中に潜り込み



生きながらえる事ができるものが最良のような
気がするのである。



これを今世の中全般に流布している様々な作品群
に当てはめて考えた場合、簡単に標本上の類例に
属するものが多い・・・と感じないだろうか?



当然300年後の土中から出てくる作品には
キャプションなどは付いていないから、言葉に
よる補足は論外ということである。



話は変わるが



この土中に潜るという感覚で



私がいつもこの時期感じるのは




蝉である。




小さい時分大人から




蝉は何年も土中にいて



成虫になるために地上に出ても
一週間程度で死んでしまう・・・



と教えられた時




えぇぇぇぇぇぇぇと




子供心に何とも言えない身の置き所の無い
虚無感を覚えた。。





たった一週間・・・




なんの為に生きているのか??





しかし大人になって冷静に考えれば





成虫こそが生きているという考え方
がそもそもオカシイ・・・・と気づく。




土中にいる時から生命があり



実は蝉という生き物の本質的姿とは
土中にあるのでは??と感じた。。。





目に見える実態である成虫こそが
と考えがちだが、それはこの生き物
の繁殖時の変化でしかないのだ・・




実は



藝術作品とは




この蝉の一生の流れを逆流させた
ようなものだと私は思うのである。




成虫という部分が現代という時間の
軸だが、本質は長い土中を生き抜く
所謂未来を生き抜き繁殖するという
部分が作品が持たされた生命力の
ような気がしてならないのである。。






ファイル:Cicada molting animated-2.gif

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