トーナメント戦
July 27,2010
気づくと10日近くブログを
サボっていた・・・・
最近の事を書きたいと思うところだが
どうもダイアリー的なブログが苦手で
結局、、、10日近くサボってしまった。
近況をごく簡単に纏めると
当月中旬から輸出について各所へ見積
もりを行い作業の段取りを手配してい
たことと
当月上海へ渡航されるKFLのF氏と
最終的な打ち合わせを行い、販売の段
取りを詰めていたこと、、、
合わせて昨年と流通の形態を変更させた
事にって生じた、中国当局への提出書類の
準備等・・・・
この2週間は大まかには以上のような作業
に追われていたような感じである・・
実際にはまだまだ細かい作業が残って
おり、ツール類や第二段の輸出等、、、
5月に上海へ渡航し、そこで頂いた宿題を
6月にそれぞれ提出し、結果の出たものや
まだまだ継続審議のものなど様々な進捗
があるのだが、何をおいても基軸はアート
フェアにどれほどこれまでの計画や接触し
てきた人を集約できるか?今回はそのポイ
ントが非常に重要であり、以降の展開に
とってもその内容は大きく関わってくる
ことになるだろう。
昨年は手探りどころか、なにも分からな
いまま決行したのだが、それ以降、2度に
渡り上海へ行き、プラスKFLがその間を
縫って上海入りをし、得た様々な情報を
元に今回を迎えている。
短期的な計画(即売)だけを運用するわ
けではないのだが中長期計画を視野にい
れた今回のフェアは正直昨年とは全く違
うコンセプトで迎えるつもりである。
実直に言えば何かを残さなければ、次は
ないし、当然全ての計画は修正せざるを
得ない。
絵画・芸術の世界は当然沢山の人に見て
もらってこそ成り立つものであるが、
ここを少し勘違いしている人たちがいる
ように私は思うのである。
沢山見てもらっても、何も残らなければ
負けである。
次の対戦カードが組める状況を
生み出さなくてはならない。。
だから絵画芸術の世界は、どのような
環境であろうとも実際には”トーナメン
ト戦”なのである。。
なんの反応もないものを全く同じように
次年度も取り扱う人はいないという事
であり、極端に言えば、展覧を失敗す
れば即ちその場を失地するということ
になる。
だから毎回勝たなければ次の場所へは
当然ながら縄張りは拡大しないのであ
る。
様々なイベントが京都は今年多く取り上げ
られているが、実際”何が残るのか?”
という具体性が見えないものが多いように
感じる。当然即売実績ということが主要な
要素になるのだが、果たして満足のいく
もしくは客観的に驚嘆するようなものが
残せたのだろうか??
それ以外の効果についても同様に感じる
情緒的なニュースのみ終わるのであるなら
ば、、、、
参画者の熱い思いだけがその場に残る・・
しかし、こんなものはすぐに冷め、、忘却
の彼方というのが本質だろう・・
もっと言えば、回を重ねるごとに規模や
内容が増幅する可能性があるのか?どうか?
その次、行わなければならない必然性が
不明瞭では何もが続くとは思えないので
ある。
少し僻みや誹謗のように聞こえるかも
しれないが、実際のところそうなので
はないだろうか?
正直昨年のアートフェア参加は失敗では
ないが決して成功とも言えない、ただ
成果として”首の皮一枚残して”本年に
つながったという事でしかない。。
しかし本当は順次色々な計画が拡大して
いかなければならない、これは先述の
次回を迎える必然性と全体計画の中での
必要性ということになる。
実に痴がましい限りではあるが
私の今回のアートフェア参加コンセプト
とは正しくこれが主題である。
龍馬考
July 20,2010
今年、NHK大河ドラマは龍馬伝
であるが、ここで私なりの坂本龍馬
の年表を作ってみた。
※大凡のまとめなので細部で曖昧な
部分、個人的な想像の部分がある
事は、予め申し上げておきます。
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坂本龍馬
1835年11月15日高知城下で誕生
1853年剣術修行、千葉定吉道場入門
↓
親の金で修業
1853年佐久間象山、砲術熟入門
↓
親の金で入門
1858年再度剣術修行再び江戸行き
↓
親の金で再度修行
1862年長州城下で久坂玄瑞と会談
↓
土佐勤皇党の党務であるら
党費にての旅費
1862年 沢村惣之丞と脱藩
↓
実家よりそれなりの餞別
1862年 勝海舟に入門
1863年 勝海舟の尽力により脱藩赦免
海軍塾塾頭になる。
↓
おそらく勝塾の食客であり
生活費は勝からの流れ
※海軍塾は幕府、各藩首脳に必ずしも理解され
設立された訳ではない。その大いなるパトロン
は越前藩の松平春嶽候であり設立資金五千両
の拠出を得ている。幕府資金3千両。計8000両
貨幣価値換算5億円前後
1864年 神戸海軍操練所設立
龍馬”お龍”と出会う
↓
神戸海軍操練所は幕府機関経費
は幕府より拠出、その費用によ
り海軍士官としての諸々を学び、
生活を成り立たせる。
勝海舟失脚、薩摩藩を頼る
↓
薩摩より資金援助
1865年 神戸海軍操練所廃止
西郷に伴われ薩摩入り
大宰府で公家・三条実美拝謁
亀山社中結成
↓
長崎の豪商・小曾根乾堂
より活動の協力を得る。
薩摩藩より資金援助
毎月一人3両2分支給
現在の貨幣価値20万~28万円
総額約60両(400~600万円)
年間720両貨幣価値換算2400万円~
5000万円
※当然、大浦 慶よりの
援助もあったと思われる。
薩長同盟下交渉に関わり
薩摩藩名義で大量の武器
軍艦購入
↓
9万2千両の商取引を成功
毛利候より200両の謝礼
貨幣価値換算1200~1600万円
※ユニオン号入手。(下関
開戦使用)
薩摩藩援助によりワイル・ウルフ号購入
↓
薩摩資金拠出
ワイル・ウルフ号五島沖にて
遭難殉死12名
↓
多大なる損害
1866年 お龍、小曾根家に預ける。
社中経営行き詰る。
長崎豪商小曾根邸を常宿
とする。小曾根英四郎
保障人となり大極丸購入
↓
全て小曾根家資金拠出
1867年 土佐藩参政・後藤象二郎と会談
土佐藩の援助を得て土佐藩の
外郭団体として海援隊結成。
↓
土佐藩より一人5両の資金援助
を受ける。総額約100両(毎月)
現在の貨幣価値600~900万円
年間1200両貨幣価値換算7000万円
~1億2千万円の契約。
伊予大洲藩籍いろは丸、
鞆の浦沖にて紀州藩
明光丸と衝突沈没。
※一航海500両にて借入
(現在の貨幣価値300~450万円)
↓
初航海にて沈没。
多大なる損害を発生
いろは丸談判に勝利
↓
紀州藩より7万両を賠償金として
(貨幣価値換算42億円~60億円)
支払わせる。
薩土盟約締結。
海援隊士英国水夫殺害
嫌疑をかけられるが不
問にて決着。
↓
解決に土佐藩助力
龍馬名義で小銃1300挺購入契約
↓
土佐藩へ納入
11月15日暗殺。
-------------------------------
という年表である。
まぁ見ていただければ大体理解していただけると
思うのですが、→はおおよその金の拠出と消費
に関しての流れになっています。
特に瞠目すべきは
1865~1867の3年間で動かしていた金の額である
紀州藩からの賠償額も合わせれば、私の貨幣換算
は多少高めの設定かもしれませんがその基準に沿
って考えれば、およそ出入り100億円近い金が動い
ていた事になります。
その2年前大騒動の末設立された神戸海軍操練所
が僅か5億円に過ぎない事を考えれば、このダイ
ナミズムは驚愕と言わなければならない。
しかも拠出されたこれらの金は
全て他人の金、海援隊が純然と稼ぎだした金
ではないという事である。
有体に言えば、人の褌でダイナミックに活動
していたという事が言える。
実は坂本龍馬という人の本質はこういう側面
から見た方が分かりやすいのではないか?と
思います。
藩という大会社の資金を背景に歴史に登場
してくる偉人と違い、彼は独自に出資を募り
それを運営していた事が読み取れるのです。
しかも結果的に上手く行ったという事は
正直あまりなかったように感じます。
どちらかと言うと失敗の連続・・・・
ほとんどが利殖どころか還ってきていない・・
3年間で動かした金銭も凄いが、3年間の
トラブルの多さも目を見張ります・・・
なぜこのような人物、組織に、皆動かされた
のか?
その担保というのか保障というのは?
という事を考えれば
一目瞭然として分かる筈です。
改めて
坂本龍馬のこの年表を見ると
この人は
生涯、ほとんど誰かの金で生きてきた・・
というのか、、、よくまぁ平然とこれだけの
累積した大金を消費通過させたなぁ・・・
何の後ろ盾もない人間が、、、、
と、、思う。。
一つ間違えば
大ぼら吹きどころか
稀代の詐欺師として
歴史に名を残しかねない・・
そう考えると
夢というのは
色んな色彩の金が集まるのだなぁ・・・・・
と改めて感じます。。