August 12,2010
今日は午後から
来春出版予定の書籍にエトリさんの
作品が掲載されることになり、その
取材があった・・
私も同席して取材の様子を見ていた
のだが、、、
へぇ~と我ながら感心する事があった。
私は昨年からエトリさんとは知り合い
個展を通じ様々な話もし、自分なりの
作品観というのか考え方をある程度
持つにいたっている。
これはエトリさんの考え方と即ち合致し
ているかといえばそうでない所もある。
当然、プロモーションを行う側の解釈も
加わっている訳で、そういう意味では、
作家の想いから一人歩きさせている
部分を持つに至っているわけである。
良いか悪いかは分からないが、一つ言
えるのは複眼的な要素を加えていかな
ければ作品は大衆の中には薄まらない
という事が言える。原液のままでは
中々飲み込むのがシンドイという事
が言える。しかしあまり薄まりすぎる
とこれも問題であり、もともとの味
とは?となりかねない。最後は唯の
水になってしまう。どこまで薄めるか
これは大変重要な仕事である。
カルピスを想像してただければ分かり
易いかもしれない。
そんな事を思いながら
今日の取材を聞いていて感じたのは、、、
初めて接した人が、その作品の核心に迫る、
所謂前述の原液を薄めて飲めるようにする
というのはこういう事か!と客観的に自分
の仕事を見るがごとく、取材の道筋を聞いて
いたのが凄く面白かったのである。
実に不遜で偉そうなのだが!
もう少しもう少し・・・
もうちょっとで”美味しい味に!”と
心の中で叫んでいた。。。
編集意図というものとの合致があるので
余程逸脱しない限りは黙っていたのである
が、、、
こんな時、私はいつも感じる事がある
後、300年とか500年後に
土中から今の時代の作品が出てきた時
後の世の人はどんな感想をもつのだろう?
実は、仮想として
一旦、作品を土に埋めて後の世からその作品
の感想を想像するというのは案外有効な思索
行為である。
そういった作業を頭の中で繰り返すと
現代性という今生きている作品の持つ
意味というのが結構浮かび上がる側面が
あるのだ。
例えばエトリさんの作品などが300年後
の後の世の人が見た時、素材やテクニック
よりも、、、、
なぜこの時代の人は”こんなものを”作った
のか?という
ある種の形而上的な反問が生まれるような気が
するのと同時に、そういった想像を想起させる
という事が実は一番大事な要素じゃないか?と
感じるのである。
現代美術というが
実は本質は現代から未来への想像が大事な
訳であり、その起点となる時間軸が現代
という事だと私は感じるのである。
この時間軸の考察が欠如したものを
現代美術とは本来は呼べないと私は
思うのである。
未来との交信ができる作品
そういう意味では
少し抽象的ではあるが
未来と言う土中に潜り込み
生きながらえる事ができるものが最良のような
気がするのである。
これを今世の中全般に流布している様々な作品群
に当てはめて考えた場合、簡単に標本上の類例に
属するものが多い・・・と感じないだろうか?
当然300年後の土中から出てくる作品には
キャプションなどは付いていないから、言葉に
よる補足は論外ということである。
話は変わるが
この土中に潜るという感覚で
私がいつもこの時期感じるのは
蝉である。
小さい時分大人から
蝉は何年も土中にいて
成虫になるために地上に出ても
一週間程度で死んでしまう・・・
と教えられた時
えぇぇぇぇぇぇぇと
子供心に何とも言えない身の置き所の無い
虚無感を覚えた。。
たった一週間・・・
なんの為に生きているのか??
しかし大人になって冷静に考えれば
成虫こそが生きているという考え方
がそもそもオカシイ・・・・と気づく。
土中にいる時から生命があり
実は蝉という生き物の本質的姿とは
土中にあるのでは??と感じた。。。
目に見える実態である成虫こそが
と考えがちだが、それはこの生き物
の繁殖時の変化でしかないのだ・・
実は
藝術作品とは
この蝉の一生の流れを逆流させた
ようなものだと私は思うのである。
成虫という部分が現代という時間の
軸だが、本質は長い土中を生き抜く
所謂未来を生き抜き繁殖するという
部分が作品が持たされた生命力の
ような気がしてならないのである。。

来春出版予定の書籍にエトリさんの
作品が掲載されることになり、その
取材があった・・
私も同席して取材の様子を見ていた
のだが、、、
へぇ~と我ながら感心する事があった。
私は昨年からエトリさんとは知り合い
個展を通じ様々な話もし、自分なりの
作品観というのか考え方をある程度
持つにいたっている。
これはエトリさんの考え方と即ち合致し
ているかといえばそうでない所もある。
当然、プロモーションを行う側の解釈も
加わっている訳で、そういう意味では、
作家の想いから一人歩きさせている
部分を持つに至っているわけである。
良いか悪いかは分からないが、一つ言
えるのは複眼的な要素を加えていかな
ければ作品は大衆の中には薄まらない
という事が言える。原液のままでは
中々飲み込むのがシンドイという事
が言える。しかしあまり薄まりすぎる
とこれも問題であり、もともとの味
とは?となりかねない。最後は唯の
水になってしまう。どこまで薄めるか
これは大変重要な仕事である。
カルピスを想像してただければ分かり
易いかもしれない。
そんな事を思いながら
今日の取材を聞いていて感じたのは、、、
初めて接した人が、その作品の核心に迫る、
所謂前述の原液を薄めて飲めるようにする
というのはこういう事か!と客観的に自分
の仕事を見るがごとく、取材の道筋を聞いて
いたのが凄く面白かったのである。
実に不遜で偉そうなのだが!
もう少しもう少し・・・
もうちょっとで”美味しい味に!”と
心の中で叫んでいた。。。
編集意図というものとの合致があるので
余程逸脱しない限りは黙っていたのである
が、、、
こんな時、私はいつも感じる事がある
後、300年とか500年後に
土中から今の時代の作品が出てきた時
後の世の人はどんな感想をもつのだろう?
実は、仮想として
一旦、作品を土に埋めて後の世からその作品
の感想を想像するというのは案外有効な思索
行為である。
そういった作業を頭の中で繰り返すと
現代性という今生きている作品の持つ
意味というのが結構浮かび上がる側面が
あるのだ。
例えばエトリさんの作品などが300年後
の後の世の人が見た時、素材やテクニック
よりも、、、、
なぜこの時代の人は”こんなものを”作った
のか?という
ある種の形而上的な反問が生まれるような気が
するのと同時に、そういった想像を想起させる
という事が実は一番大事な要素じゃないか?と
感じるのである。
現代美術というが
実は本質は現代から未来への想像が大事な
訳であり、その起点となる時間軸が現代
という事だと私は感じるのである。
この時間軸の考察が欠如したものを
現代美術とは本来は呼べないと私は
思うのである。
未来との交信ができる作品
そういう意味では
少し抽象的ではあるが
未来と言う土中に潜り込み
生きながらえる事ができるものが最良のような
気がするのである。
これを今世の中全般に流布している様々な作品群
に当てはめて考えた場合、簡単に標本上の類例に
属するものが多い・・・と感じないだろうか?
当然300年後の土中から出てくる作品には
キャプションなどは付いていないから、言葉に
よる補足は論外ということである。
話は変わるが
この土中に潜るという感覚で
私がいつもこの時期感じるのは
蝉である。
小さい時分大人から
蝉は何年も土中にいて
成虫になるために地上に出ても
一週間程度で死んでしまう・・・
と教えられた時
えぇぇぇぇぇぇぇと
子供心に何とも言えない身の置き所の無い
虚無感を覚えた。。
たった一週間・・・
なんの為に生きているのか??
しかし大人になって冷静に考えれば
成虫こそが生きているという考え方
がそもそもオカシイ・・・・と気づく。
土中にいる時から生命があり
実は蝉という生き物の本質的姿とは
土中にあるのでは??と感じた。。。
目に見える実態である成虫こそが
と考えがちだが、それはこの生き物
の繁殖時の変化でしかないのだ・・
実は
藝術作品とは
この蝉の一生の流れを逆流させた
ようなものだと私は思うのである。
成虫という部分が現代という時間の
軸だが、本質は長い土中を生き抜く
所謂未来を生き抜き繁殖するという
部分が作品が持たされた生命力の
ような気がしてならないのである。。

