August 5,2014
エモーションという言葉がある。
特にこれまで意識してこなかったが、ここ最近、、
否、ここ数年という方が正確かもしれない。
調べると、
心身の動揺を伴うような強い感情,感激,感動。
喜怒哀楽の感情。
理性・意志に対して感情,情緒。
大まかに把握すれば、感情であり情緒であると理解できる。
但し、基本言葉としての区分は名詞であり、用法によって
不可算名詞であり可算名詞、つまり複数と成り得ない状況
と複数と成り得る一般的な通念化としても存在する・・・・
大体この感情や情緒というものを如何程理解しているか?
自らに問えば、かなり大きな疑問を感じる。
又、その人間が持つといわれているこの要素のメカニズム等
も実のところ良くわかっていない。
解っていないから問題か?と言えば日常生活で困る事もない。
しかし個人と言う殻の中ではそうかもしれないが、
他者という関係がある社会ではどうなのか?と考えれば、
相手を観る場合、正確には相手と自分が成立する環境に
おいては、大半はこの感情や情緒と言うものを一番に気
にしてはいないか?
ある意味それは立場によって大きく変わるが、特定個人
から不特定多数の組織、果ては観念的な社会という対象
にまでに、、
常に縦横無尽にアンテナを蔓延らしているようにも感じる。
そう考えれば、我々が生業としているものとは?この感情
と言うメカニズムをどう捉えているのか?と大きな不思議
が私の中にはある。
日常生活では困らないと先述している、しかし社会という
関係性においてはかなり支配的に拘束されるとも先述した。
このように大別したものと私が大きな不思議を感じると述
べる我々の生業において一番相違する点は何か?と考えれ
ば、我々は作品という自分と他者において客観的媒体もし
くは感情を左右させると言う意味においては触媒と呼べな
くもないものをその狭間に存在させ感情と向き合う事を
生業としている。
再度、エモーションという言葉を調べる。
これは明らかに英語であり訳語としては感情と通念化して
いるが、よくよく調べればかなりいい加減な纏め方である
とも感じる。
英語においては同様の内容を示す単語が他にも存在する。
日本語でそれを直裁に定義する語もない。
違いは、解らない。あくまで人間の持つメカニズムの大枠
という程度である。
しかしある一つの出口がある。心理学においては
“情動”。。。
ここで心理学の云々を述べるつもりはないが、再び情動
という言葉を調べる。
Wiki転載
------------------------
本来の日本語の意味としては、比較的短期の感情の動きの
ことである。
個体・個人を動機づけるものとしての英語affectの訳語と
しての「情動」は様々な議論を呼んでいる。
また専門用語として学問間で意味が異なる場合がある。
英語affectの訳語として選択された「情動」は、元来の
日本語の用法とは異なっている。
主に「興奮」が中心的であるが、「不安」「快不快」も
情動として扱える。
一般的な「怒り」「喜び」「悲しみ」を情動とするか、
感情とするかは、心理学、脳科学、医学、認知科学の
研究者の立場により異なる。
----------------
.wikipediaを正確なものと定義はしないが、ただ上記文章
から一つの事が解る。
情動と感情は相違する。
再度、Wiki転載
-------------------
人間の感情はその脳の発展した構造からきわめて複雑化
しており、簡単に区別・分類できるものではないが、
基本的には食欲や性欲など本能的な欲求にかかわる感情と、
人間が独特にもっている尊敬や慈しみなどの感情に大別す
ることができる。
情動とは医学や脳科学の専門用語として前者の感情を指し、
人間的な感情とは区別して考えられている。
-------------------
このことより解るのは感情という人間独特のメカニズムの
中に本能的な欲求をベースとする情動が存在する。
つまり全ては感情と言う枠内ではあるが特別な囲みとして
存在する情動というコアなメカニズムが存在するという事
が解る。
つまりエモーションとは、
個体・個人において比較的短期の感情の動きであり、食欲
や性欲など本能的な欲求にかかわる感情となる。
問題は、この差異を日常の言葉では分けられないという事
があることに気付く。
一般に、6種類の代表的な感情として、
1. 喜
2. 怒
3. 哀
4. 楽
5. 愛
6. 憎
と言うのがあるが、先ほど来より示している情動も
説明においてはこれら単語の意味を含む。
逆説的には日常生活においては言葉からの差異は作り
出せない。
私はこの感情と情動の差において考えた場合、先ず
時間軸が相違するという点から、本能に依拠する
度合いの差を一番感じる。
人間が独特にもっている尊敬や慈しみとは違う存在
としての情動=エモーションというものを考えれば、
尊敬や慈しみは本能との依拠度合いが格段に違う。
つまり情動とは人間が生物として持たされたもっとも
人間という種類の生物らいしいメカニズムではないか?
と考える。
では尊敬や慈しみは人間らいしいメカニズムではないのか?
となるが、これは相対化した人間の歴史によって積み重ね
たものであり人間の常軌をコントロールするものであり、
言葉を初めとする共通認識を保つ為に偽善とまでは言わな
いが人間が作り出したメカニズムのような気がするのである。
情動が比較的短期の感情の動きと定義しそれに対して総体
として理解する感情を長期的感情の動きと強引に定義すれば、
そこには人間の持つ知識や、それらからの認識による判断が
左右し、そこには相対的な平均を見出すという人間の歴史的
過程がにじみ出てくるようにも思うのである。
これは独善的な私なりの見方でしかないが
嬉しいや悲しいという感情の芯を本当に感じることは稀であり
そういう状況だからという装置が案外人間には備わっている。
つまりこれは他者に対して自らの状況を説明するための
メカニズムの匂いが案外強いのではないか?と感じるの
である。
確かに一人で泣く、喜ぶと言うのがあり、他者に対して
説明していない事も多々あるが、、、、
これは、自分への独り言から派生するもの
つまり、自分が自分に語りかけるという側面ではないか?
と私は思うのである。
少し抽象的だが、
「自分と言う自分の関係者。」
我々は始終喋り続けている。
他者と会話しない、一人っきりの状況でも
我々は「自分と言う自分の関係者。」に語り続けている。
これは残念ながら情動ではない。
さて、、、
我々が生業としているものとは?この感情と言う
メカニズムをどう捉えているのか?と大きな不思議が
私の中にはある。
という最初の疑問だが、
我々が考える作品を触媒とした世界において、果たして
これまで説明してきたものに対して、我々はどの部分と
向き合うのか?
我々は常に“感動”という事を“お経”のように言った
り言われたりするが、、
もっともつまらない表現は
“癒し”
“上手下手”だが、、、
これが果たして???
私は実は、芸術とはこの感情総体の中に存在する
“情動”という部分が一番肝要な箇所だと?常々
考えている。
この情動のやりとりが即ち“3秒の法則”にかなり
重要な要素として感じるのである。
3秒の法則とは、私が呼んでいるだけの事だが、
作品は3秒で判断される。
この3秒とはまさしく“情動”に他ならない。
つまり作り手の中にある情動と感じ手側の情動が
共鳴するのに長い時間は必要ない。
又、この情動を如何に作り出すのか?
このプロフェッショナルが“芸術家”だと私は考える。
じゃ、、、
この情動はどこにあるのか?
なにがそうなのか?
言葉では決して説明できない
そういうことだけは解る
・・・・・・・・・・・・
特にこれまで意識してこなかったが、ここ最近、、
否、ここ数年という方が正確かもしれない。
調べると、
心身の動揺を伴うような強い感情,感激,感動。
喜怒哀楽の感情。
理性・意志に対して感情,情緒。
大まかに把握すれば、感情であり情緒であると理解できる。
但し、基本言葉としての区分は名詞であり、用法によって
不可算名詞であり可算名詞、つまり複数と成り得ない状況
と複数と成り得る一般的な通念化としても存在する・・・・
大体この感情や情緒というものを如何程理解しているか?
自らに問えば、かなり大きな疑問を感じる。
又、その人間が持つといわれているこの要素のメカニズム等
も実のところ良くわかっていない。
解っていないから問題か?と言えば日常生活で困る事もない。
しかし個人と言う殻の中ではそうかもしれないが、
他者という関係がある社会ではどうなのか?と考えれば、
相手を観る場合、正確には相手と自分が成立する環境に
おいては、大半はこの感情や情緒と言うものを一番に気
にしてはいないか?
ある意味それは立場によって大きく変わるが、特定個人
から不特定多数の組織、果ては観念的な社会という対象
にまでに、、
常に縦横無尽にアンテナを蔓延らしているようにも感じる。
そう考えれば、我々が生業としているものとは?この感情
と言うメカニズムをどう捉えているのか?と大きな不思議
が私の中にはある。
日常生活では困らないと先述している、しかし社会という
関係性においてはかなり支配的に拘束されるとも先述した。
このように大別したものと私が大きな不思議を感じると述
べる我々の生業において一番相違する点は何か?と考えれ
ば、我々は作品という自分と他者において客観的媒体もし
くは感情を左右させると言う意味においては触媒と呼べな
くもないものをその狭間に存在させ感情と向き合う事を
生業としている。
再度、エモーションという言葉を調べる。
これは明らかに英語であり訳語としては感情と通念化して
いるが、よくよく調べればかなりいい加減な纏め方である
とも感じる。
英語においては同様の内容を示す単語が他にも存在する。
日本語でそれを直裁に定義する語もない。
違いは、解らない。あくまで人間の持つメカニズムの大枠
という程度である。
しかしある一つの出口がある。心理学においては
“情動”。。。
ここで心理学の云々を述べるつもりはないが、再び情動
という言葉を調べる。
Wiki転載
------------------------
本来の日本語の意味としては、比較的短期の感情の動きの
ことである。
個体・個人を動機づけるものとしての英語affectの訳語と
しての「情動」は様々な議論を呼んでいる。
また専門用語として学問間で意味が異なる場合がある。
英語affectの訳語として選択された「情動」は、元来の
日本語の用法とは異なっている。
主に「興奮」が中心的であるが、「不安」「快不快」も
情動として扱える。
一般的な「怒り」「喜び」「悲しみ」を情動とするか、
感情とするかは、心理学、脳科学、医学、認知科学の
研究者の立場により異なる。
----------------
.wikipediaを正確なものと定義はしないが、ただ上記文章
から一つの事が解る。
情動と感情は相違する。
再度、Wiki転載
-------------------
人間の感情はその脳の発展した構造からきわめて複雑化
しており、簡単に区別・分類できるものではないが、
基本的には食欲や性欲など本能的な欲求にかかわる感情と、
人間が独特にもっている尊敬や慈しみなどの感情に大別す
ることができる。
情動とは医学や脳科学の専門用語として前者の感情を指し、
人間的な感情とは区別して考えられている。
-------------------
このことより解るのは感情という人間独特のメカニズムの
中に本能的な欲求をベースとする情動が存在する。
つまり全ては感情と言う枠内ではあるが特別な囲みとして
存在する情動というコアなメカニズムが存在するという事
が解る。
つまりエモーションとは、
個体・個人において比較的短期の感情の動きであり、食欲
や性欲など本能的な欲求にかかわる感情となる。
問題は、この差異を日常の言葉では分けられないという事
があることに気付く。
一般に、6種類の代表的な感情として、
1. 喜
2. 怒
3. 哀
4. 楽
5. 愛
6. 憎
と言うのがあるが、先ほど来より示している情動も
説明においてはこれら単語の意味を含む。
逆説的には日常生活においては言葉からの差異は作り
出せない。
私はこの感情と情動の差において考えた場合、先ず
時間軸が相違するという点から、本能に依拠する
度合いの差を一番感じる。
人間が独特にもっている尊敬や慈しみとは違う存在
としての情動=エモーションというものを考えれば、
尊敬や慈しみは本能との依拠度合いが格段に違う。
つまり情動とは人間が生物として持たされたもっとも
人間という種類の生物らいしいメカニズムではないか?
と考える。
では尊敬や慈しみは人間らいしいメカニズムではないのか?
となるが、これは相対化した人間の歴史によって積み重ね
たものであり人間の常軌をコントロールするものであり、
言葉を初めとする共通認識を保つ為に偽善とまでは言わな
いが人間が作り出したメカニズムのような気がするのである。
情動が比較的短期の感情の動きと定義しそれに対して総体
として理解する感情を長期的感情の動きと強引に定義すれば、
そこには人間の持つ知識や、それらからの認識による判断が
左右し、そこには相対的な平均を見出すという人間の歴史的
過程がにじみ出てくるようにも思うのである。
これは独善的な私なりの見方でしかないが
嬉しいや悲しいという感情の芯を本当に感じることは稀であり
そういう状況だからという装置が案外人間には備わっている。
つまりこれは他者に対して自らの状況を説明するための
メカニズムの匂いが案外強いのではないか?と感じるの
である。
確かに一人で泣く、喜ぶと言うのがあり、他者に対して
説明していない事も多々あるが、、、、
これは、自分への独り言から派生するもの
つまり、自分が自分に語りかけるという側面ではないか?
と私は思うのである。
少し抽象的だが、
「自分と言う自分の関係者。」
我々は始終喋り続けている。
他者と会話しない、一人っきりの状況でも
我々は「自分と言う自分の関係者。」に語り続けている。
これは残念ながら情動ではない。
さて、、、
我々が生業としているものとは?この感情と言う
メカニズムをどう捉えているのか?と大きな不思議が
私の中にはある。
という最初の疑問だが、
我々が考える作品を触媒とした世界において、果たして
これまで説明してきたものに対して、我々はどの部分と
向き合うのか?
我々は常に“感動”という事を“お経”のように言った
り言われたりするが、、
もっともつまらない表現は
“癒し”
“上手下手”だが、、、
これが果たして???
私は実は、芸術とはこの感情総体の中に存在する
“情動”という部分が一番肝要な箇所だと?常々
考えている。
この情動のやりとりが即ち“3秒の法則”にかなり
重要な要素として感じるのである。
3秒の法則とは、私が呼んでいるだけの事だが、
作品は3秒で判断される。
この3秒とはまさしく“情動”に他ならない。
つまり作り手の中にある情動と感じ手側の情動が
共鳴するのに長い時間は必要ない。
又、この情動を如何に作り出すのか?
このプロフェッショナルが“芸術家”だと私は考える。
じゃ、、、
この情動はどこにあるのか?
なにがそうなのか?
言葉では決して説明できない
そういうことだけは解る
・・・・・・・・・・・・