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エモーション
エモーションという言葉がある。


特にこれまで意識してこなかったが、ここ最近、、


否、ここ数年という方が正確かもしれない。


調べると、


心身の動揺を伴うような強い感情,感激,感動。

喜怒哀楽の感情。

理性・意志に対して感情,情緒。



大まかに把握すれば、感情であり情緒であると理解できる。


但し、基本言葉としての区分は名詞であり、用法によって
不可算名詞であり可算名詞、つまり複数と成り得ない状況
と複数と成り得る一般的な通念化としても存在する・・・・


大体この感情や情緒というものを如何程理解しているか?
自らに問えば、かなり大きな疑問を感じる。


又、その人間が持つといわれているこの要素のメカニズム等
も実のところ良くわかっていない。


解っていないから問題か?と言えば日常生活で困る事もない。



しかし個人と言う殻の中ではそうかもしれないが、
他者という関係がある社会ではどうなのか?と考えれば、
相手を観る場合、正確には相手と自分が成立する環境に
おいては、大半はこの感情や情緒と言うものを一番に気
にしてはいないか?


ある意味それは立場によって大きく変わるが、特定個人
から不特定多数の組織、果ては観念的な社会という対象
にまでに、、


常に縦横無尽にアンテナを蔓延らしているようにも感じる。



そう考えれば、我々が生業としているものとは?この感情
と言うメカニズムをどう捉えているのか?と大きな不思議
が私の中にはある。



日常生活では困らないと先述している、しかし社会という
関係性においてはかなり支配的に拘束されるとも先述した。


このように大別したものと私が大きな不思議を感じると述
べる我々の生業において一番相違する点は何か?と考えれ
ば、我々は作品という自分と他者において客観的媒体もし
くは感情を左右させると言う意味においては触媒と呼べな
くもないものをその狭間に存在させ感情と向き合う事を
生業としている。



再度、エモーションという言葉を調べる。



これは明らかに英語であり訳語としては感情と通念化して
いるが、よくよく調べればかなりいい加減な纏め方である
とも感じる。



英語においては同様の内容を示す単語が他にも存在する。


日本語でそれを直裁に定義する語もない。



違いは、解らない。あくまで人間の持つメカニズムの大枠
という程度である。


しかしある一つの出口がある。心理学においては



“情動”。。。



ここで心理学の云々を述べるつもりはないが、再び情動
という言葉を調べる。



Wiki転載


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本来の日本語の意味としては、比較的短期の感情の動きの
ことである。

個体・個人を動機づけるものとしての英語affectの訳語と
しての「情動」は様々な議論を呼んでいる。


また専門用語として学問間で意味が異なる場合がある。


英語affectの訳語として選択された「情動」は、元来の
日本語の用法とは異なっている。


主に「興奮」が中心的であるが、「不安」「快不快」も
情動として扱える。


一般的な「怒り」「喜び」「悲しみ」を情動とするか、
感情とするかは、心理学、脳科学、医学、認知科学の
研究者の立場により異なる。



----------------



.wikipediaを正確なものと定義はしないが、ただ上記文章
から一つの事が解る。



情動と感情は相違する。



再度、Wiki転載



-------------------


人間の感情はその脳の発展した構造からきわめて複雑化
しており、簡単に区別・分類できるものではないが、
基本的には食欲や性欲など本能的な欲求にかかわる感情と、
人間が独特にもっている尊敬や慈しみなどの感情に大別す
ることができる。


情動とは医学や脳科学の専門用語として前者の感情を指し、
人間的な感情とは区別して考えられている。



-------------------



このことより解るのは感情という人間独特のメカニズムの
中に本能的な欲求をベースとする情動が存在する。


つまり全ては感情と言う枠内ではあるが特別な囲みとして
存在する情動というコアなメカニズムが存在するという事
が解る。



つまりエモーションとは、


個体・個人において比較的短期の感情の動きであり、食欲
や性欲など本能的な欲求にかかわる感情となる。



問題は、この差異を日常の言葉では分けられないという事
があることに気付く。



一般に、6種類の代表的な感情として、


1. 喜
2. 怒
3. 哀
4. 楽
5. 愛
6. 憎



と言うのがあるが、先ほど来より示している情動も
説明においてはこれら単語の意味を含む。


逆説的には日常生活においては言葉からの差異は作り
出せない。



私はこの感情と情動の差において考えた場合、先ず
時間軸が相違するという点から、本能に依拠する
度合いの差を一番感じる。



人間が独特にもっている尊敬や慈しみとは違う存在
としての情動=エモーションというものを考えれば、
尊敬や慈しみは本能との依拠度合いが格段に違う。



つまり情動とは人間が生物として持たされたもっとも
人間という種類の生物らいしいメカニズムではないか?
と考える。


では尊敬や慈しみは人間らいしいメカニズムではないのか?
となるが、これは相対化した人間の歴史によって積み重ね
たものであり人間の常軌をコントロールするものであり、
言葉を初めとする共通認識を保つ為に偽善とまでは言わな
いが人間が作り出したメカニズムのような気がするのである。



情動が比較的短期の感情の動きと定義しそれに対して総体
として理解する感情を長期的感情の動きと強引に定義すれば、
そこには人間の持つ知識や、それらからの認識による判断が
左右し、そこには相対的な平均を見出すという人間の歴史的
過程がにじみ出てくるようにも思うのである。



これは独善的な私なりの見方でしかないが



嬉しいや悲しいという感情の芯を本当に感じることは稀であり



そういう状況だからという装置が案外人間には備わっている。



つまりこれは他者に対して自らの状況を説明するための
メカニズムの匂いが案外強いのではないか?と感じるの
である。



確かに一人で泣く、喜ぶと言うのがあり、他者に対して
説明していない事も多々あるが、、、、



これは、自分への独り言から派生するもの


つまり、自分が自分に語りかけるという側面ではないか?
と私は思うのである。


少し抽象的だが、



「自分と言う自分の関係者。」



我々は始終喋り続けている。



他者と会話しない、一人っきりの状況でも


我々は「自分と言う自分の関係者。」に語り続けている。



これは残念ながら情動ではない。



さて、、、



我々が生業としているものとは?この感情と言う
メカニズムをどう捉えているのか?と大きな不思議が
私の中にはある。



という最初の疑問だが、



我々が考える作品を触媒とした世界において、果たして
これまで説明してきたものに対して、我々はどの部分と
向き合うのか?



我々は常に“感動”という事を“お経”のように言った
り言われたりするが、、



もっともつまらない表現は



“癒し”


“上手下手”だが、、、



これが果たして???



私は実は、芸術とはこの感情総体の中に存在する
“情動”という部分が一番肝要な箇所だと?常々
考えている。



この情動のやりとりが即ち“3秒の法則”にかなり
重要な要素として感じるのである。



3秒の法則とは、私が呼んでいるだけの事だが、
作品は3秒で判断される。



この3秒とはまさしく“情動”に他ならない。



つまり作り手の中にある情動と感じ手側の情動が
共鳴するのに長い時間は必要ない。



又、この情動を如何に作り出すのか?



このプロフェッショナルが“芸術家”だと私は考える。



じゃ、、、



この情動はどこにあるのか?



なにがそうなのか?



言葉では決して説明できない



そういうことだけは解る


・・・・・・・・・・・・

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ルサンチマン
最近、物忘れが激しい、、物覚えも悪い、、、、


が、、、


たまにフラッシュバックのように、、


単語が“ポッ!”と頭に浮かぶ、、



はて、、なぜこの単語が、、意味が解らない・・・



しかし頭の片隅に引っかかっていたものが何かの拍子
に引き出しから出る。。



今は便利だ、すぐにNETで調べられる、、あーそうか。


だが、いつどこで得たものなのか?意味を忘れていると
いう事は、音や文字が記号としてだけ頭の中にあるとい
う事だ。



昔、大学時代に寺山修司の“さらば箱舟”という映画を
劇場で観た。


その一場面の中で登場人物がモノの名前を忘れていくと
いう状況があった。。



映画では狂気の兆しとして描かれているのだが、、



その人物が取った行動が面白かった。



モノの名前を忘れるのであるならば、、



モノに名前の書いた張り紙を付けようとする。






しかし天井のどこかから声が聞こえてくる



「文字を忘れたらどうするの?」・・・


あぁぁぁぁぁぁ!と、、


ある種の煉獄的状況に堕ちて行く。。。


先日もハッと頭の中に単語が、、


「ルサンチマン」???なんだ、なんだったか?
ロシアの部隊の名前か??NETという


電脳の泉へ直行=同期?!






Wikiより

主に弱者が強者に対して、憤り・怨恨・憎悪・非難の
感情を持つことを言う。


ふむふむ。。。


更に読み進むと、、



社会的に強者であれば、嫉妬や反感といった感情に主体的
に行動することができるため、フラストレーションを克服
することができ、そのため、仮にルサンチマンの状態に陥
ったとしても、一時的なものでしかないとされる。




反対に社会的な弱者はルサンチマンから逃れられない。
フラストレーションをむしろ肯定し、何もできないこと
を正当化するようになる。

社会的な価値観を否定したり、反転した解釈を行うよう
になる。こういった自分の陥っている状態を正当化しよ
うとする願望こそ、奴隷精神の最大の特徴であるとする。




こうしたルサンチマンの表れの例として、敵を想定し、
その対比として自己の正当性を主張するイデオロギーに
ある。

こういったイデオロギーは、敵が悪の元凶とし、だから
反対に自分は道徳的に優れていると主張する。
「彼らは悪人だ、従ってわれわれは善人だ」ということ
になる。



敵として想定される存在は、自分が無力だと感じさせる
対象が選ばれる。例えば、貧しさに無力を感じるルサン
チマンの敵は資本家や大企業となる。



さらに、そのルサンチマンの敵が拡大すると、対象が社会
全体になる。「世界はどうしようもなく悪によって支配さ
れている。


したがってわれわれのほうが世界より優れている」と拡大
解釈されるようにもなる。



このような状況に至ると人は陰謀論や急進主義、刹那主義
を受け入れ易い心理に陥る。また、人によってはそうした
不満以上に「この世界では(自分は)報われない」という
厭世観や自己の無力感を持つようになり、放蕩や自殺に至
る場合もある。



はぁ・・・なるほど、、、



一つの単語にこれほどの意味があるのか?と思う反面、、


この手の輩はいるなぁ~とも納得、、、まぁ“SNS”など
はルサンチマンで溢れかえっている不健康な場所だなどと
も改めて感じてくる。。。又、、


ルサンチマンという一つの単語で押さえ込めば、、なんと
わなしに可愛くも感じられ、、


狂気・凶器感覚も低減する。。


大体説明を読んでいても、、



フェーズもあるだろうし、、角度もあり、多様である。


さしずめ、、敵などというカウンターの存在が既に、
あいつはそうだと思うならば、思われた相手も同じ
感覚を持つ。



つまり極論だが、、全てが双方向性で、、全てがそうだ
という事になるような気もする。。。



なんだかなぁ・・・である。



・・・・・・・・・



今日ルサンチマンする?


ルサンチマンでも食べるか?



まったく知識がなければ、、



あの人はルサンチマンだ!などと言えば、、



なんか偉い人のようにも思える。。


という間違った用法でもさして違和感がない・・・



しかしながらなんでフラッシュバックのようにこの
単語が突如浮かんだのか、、不思議である。


間違いなく今までのどこかで一度は頭の中に入って来
たのだが、、内容が蒸発して、言葉という容器だけが
残っていたのだ・・・・



そんな事を考えていると、、なぜか今度はある視覚的な
イメージが頭を過ぎる、、、








ウォルフガング ・ライプ WAX ROOM


1950年、西ドイツのメッチンゲンに生まれる。


1968年デュービンゲン大学に入学し医学を学ぶ。


1974年医学では人間の生や死、精神の問題を解決出来
ないとして、芸術に身を転じる。



面白い経歴だ。



この人の作品は11年前に香川県の丸亀にある
猪熊弦一郎現代美術館で現代書家の先生と一緒に観た。



その時はよく解らなかったが、時がたつにつれて感覚的
に沁みこんでくるようなものを感じるようになった。



日常の近くから遊離するような、そうして溶解していく
ような光を感じ、、シームレスな安息と、、


ある種の虚脱。


なるほど、、経歴からの独特な作品に対しての強度ある
極度な客観性が純度を上げていると感じた。


ルサンチマンとライプ


どうでも良い個人的な亡羊とした漂白感覚なのだが、、、


二つには、何か串の刺さったものを感じた



ある日のある時点であった。。。

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Lotus
蓮が好きだ。我が田舎には小さな蓮畑が色々とある。










散歩に出るとかなり長い時間、蓮を眺めている。何が惹きつ
けるのだろうか?とにかく飽きない。。。。








ロータス創業者のコーリン・チャップマンは仏教思想で、
「俗世の苦しみから解放されて夢がかなう実」とされる
蓮にちなんで名付けたらしい。





泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が
仏の智慧や慈悲の象徴、、、








泥から生え気高く咲く花、まっすぐに大きく広がり
水を弾く凛とした葉の姿が、俗世の欲にまみれず
清らかに生きる象徴。。。





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概念(文脈)と市場性
先々週から先週にかけて、は若い作家の出入りが多かった。


松本君は2回、遠藤君、公庄君、長谷君、、それぞれ1時間
から3時間近く話をした。


その内容の核は概念(文脈)と市場性だ。


下の図は吉本隆明の自己表出と指示表出を図式化した
ものだが、特にこの自己表出部分について長い時間を
かけたように思う。







ただしこの図式は不完全である。


デクーニングを完結点にしている事はもちろんだが、
この西洋文脈からの考察は我々日本人の文脈とは
座標がかなり違う。


敢えて左の図は斜めに倒している。


これは、その差を形態化したつもりだ、、


そして赤い線はデクーニングから今への変化を単純に
指示した。


当然デクーニングから今まででは大きな変化の座標点がある。


この自己表出とは単純に言えば心に浮かぶ感情、指示表出は
それを示す言語や視覚的視認性においては絵画等となる。

上図は言語における自己表出から指示表出の変化を示している。
すべて図式化しているが、、


抽象的である。私の観念論かもしれない。。


しかし、話をした。



さて何を話したのか・・・・・

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気は心
またまたブログをサボっている・・・・



COMBINE/BAMI galleryと若い作家の活動報告が多くなった
このブログ、、現在SNS、特にFACEBOOKで速報に近い形で
アップしているせいか、どうも落ち着いてこのブログを書く
という事が癖つけられなくなっている・・・



ナンというのか、、、日々溜まることなく吐き出してい
るので、、その充足感に負けている、、しかし、、アク
セスデーターを見ていると毎日何人もの人が覗いてくれ
ている現実を考えれば、怠慢でしかないし、、言い訳が
ましいとしか言いようがない・・・



本当にいつも覗いていていただいている皆様申し訳ござ
いません。。



という事で、、書こうかと!取り掛かるのですが、、


さて何を書こうか、、松本君の展覧、、確かに始まりまし
たが、この件は少し時間が経った後に纏めたい内容もある
ので、今日の仕事に向かない、、、、


うーん、、と考えた末、、


あまりプライベートな事は極力書かないという主義で来た
私ですが、先日あることを感じたので、、それについて書
いてみようと思います。



少し前、、



朝起きて、居間のテーブルを見ると、新聞紙が丸まって置い
てあった。



何?と手に取ると硬い感触、、丸められた新聞紙を開けると
中から陶器の小皿が3枚出てきた。。。。。









なんだ?どこかで買ったものを仕舞い忘れて置いてあるのか?
と考えたのだが、、どうも普通にスーパーなどに売っている
家庭用品の陶器ではない。



手作り感覚満載で実に味のある、、ある意味良い作品?なのだ。



こういうものを買う人間は我が家にはいない、、はて??
と、まじまじ見ていると嫁が


それ享子からの父の日のプレゼント!



享子とは私の21歳になる長女である。



えっ?



これまで毎年自分のお小遣いの範囲でちょっとしたもの
をくれていた。大抵、、酒のおつまみになるような食べ
るものが多いのだが、、、



なぜか今年はボリュームが例年と違う。そして傾向もか
なり違う。


もっと言えば、、、なぜ突如このようなしっかりしたものを・・・・


確かにアルバイトもしているから、、など、、と考えられるが、、、、


黙ってもらえば良いではないか?と他人は言うと思うが、、



普段ほとんど会話のない親子、、、



しばらく考え、、嫁に、、、



なんで陶器なん?と聞いた。



あー!それ、今、教育実習でお世話になっている施設
の生徒さんが作ったものを買ったみたい!



その施設は、障害をもった人たちの施設で、小学校から
高校生までの年齢の人たちを色々な事で教育している
施設である。



なるほどぉ!



確かに温かみがある、味もある、そして魅力もある、
なかなかのものを選んでくれている。



嬉しかった。しかし、、本当に嬉しかったのはもらっ
た陶器ではなく、、、、



そういう所にお世話になり、そこで一生懸命前向きに
そしてひたむきに作っている生徒さん達の情熱に対し
て取った彼女の行動、、、、




“気は心”



この部分が実に嬉しかった。



そのために父の日がたまたまあった、、それで十分だ。。。



親ばかな話である・・・・スミマセン。。



彼女は教育の道を志している。特に幼児教育の道に進みた
いらしい。



正直、自分の子が教育者?と考えただけでも、、、


到底、、私自身を鏡で映せば、、噴飯ものだ・・・



大学受験の時、当然その道を進むべくの学科を選んだが、
残念ながら合格する事はなかなか出来なかったのだが、
受験シーズンも終盤を迎えたある日、もうほとんど浪人
もしくは、、本人からすれば不承不承の大学を覚悟して
いた時期、、、


塾の先生からとある受験先を提案された。


確かに教育系だが、、、、見ると、、



障害児教育であった。



彼女の希望とは違う。



しかし、少し話をした。



同じ教育、誰かが必ずやらなければならない尊い仕事。



そして何時のどの時代もかならずいる弱い存在の人たち・・・・



何かを会話した覚えはない。


ただ彼女は聞いていただけのような記憶がある。


結局、彼女はその大学に受かり進む事にした。


それから約2年半、、、



今はもう実習に行くところまで勉強しているのか・・・・。



確か3週間程期間があったように記憶する。毎朝早くに出て
夜遅く帰ってはレポートを書いていた。会話することもな
いから嫁に聞く。



今の実習って、、


障害者の人を教えるのをさせてもらってるの?



そう。



いや?じゃないの?


ぜんぜん!



へぇ~、、、



そして件の陶器である。




自分の娘がちゃんと出来ているなどとは努々思わない。


関係の方々にご迷惑をおかけしている、、、


また生徒さんたちにも・・・・



なによりも自分の娘が人にモノを教えるなどと考えただ
けでも震えてくる・・・



しかし、、この



“気は心”の形を見ると、、



本当に感謝する。良い勉強をさせてもらったな、、と。


この先、この道に進めるかなど、また進めても向いてい
るか、続けられるかなど、、そんな甘いものではないだ
ろう。


しかし、関わった人から良いものを頂いたことだけは確
かだったと感じられたのが嬉しかったのである。



今の私の仕事も、、



若い作家も、、、



実はほとんど、この、、



“気は心”でさせていただけているようなものだ。



本当に不遜な言い方になるが、、応援とよく言うが、、



ガンバレー!という事だけでは成り立ちはしない。



今は何の価値もないが、何かにひっかかりを持って
いただき頑張りなさい!とご購入いただき初めて
物事が進む。



それは私の仕事も作家もそうである。



だから頑張らなくてはならない。逃げてはいけない。



成長しなくてはいけない。裏切れない。



そのつながりを大切にしなくてはいけない。



誤解があってはいけないのだが、頑張れという応援が
必要ないと言っているのではない。



そういう事も実にありがたく感謝している。何よりも
心の助けは必要だ。


しかし、現実は、、、



非常に難しい事です。




我々はその狭間でずっともがき苦しみつづけるのだろう
と覚悟している。

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