2010年代
October 18,2010
先週は特別忙しくはなかったのであるが
色々な方がお越し下さり、様々なお話が
できました。
中国から帰ってきて約一ヶ月
その間、釜くんとの名古屋行き、エトリさん
との新潟行き、そして高松でのCOMBINE
グループ展及び瀬戸内国際芸術祭・・
等々、ほとんど京都を空にしていたのですが
先週はほぼ京都に久しぶりにいました。
先週は
松本君、エトリさん、KFLのFさんとKさん
そして東京から奥野さん、そしてライターの
小吹さん、おかけんたさん等々と会い
色んな事を話しました。
作家達とはやはり作品及び今後の展開の
事が中心で、KFLのFさんKさんとは今後
のビジネス展開について、そして小吹さん
おかさんとはアート市場の現況について・・
とそれぞれのチャネルごとに充実した内容で
あったと思います。
しかし、取りまとめて一つ言えることはなにか
と言えば、やはりそれは”出口”の問題でないかな?
ということと、やはり新しい仕組みの問題かな?
併せてここが大事かなとも思うのは先行きに
対しての想像と思いました。
それぞれの領域で感じているのはやはり閉塞感
であり、そこから出て行く為にはどうするのが
良いか?そしてその為の仕組みとは一体なにか?
話はそれらを踏まえたこれからの分析観、、
そういう事に集約していたように感じました。
少し時間を遡り、この20年というスパンを考えれば
少し見えるモノがあるかなと思いました。
それぞれに考え方があるので一概に私が
語ることが正解などとは言わないですが、
私の個人的な感覚としての時系列に沿って
言えば、、、、
今の現代美術マーケットの源流は、おそらく
1990年代辺りがスタートではないか?と思うのである。
諸説あり、当然その前にも現代美術という部分は
存在していたが、国内で国内の人が積極的に消費
しだしたのは1990年代初め頃だったように思います。
この時期私は働き出したのですが、この当時私の
仕事としての主力商品は間違いなく日本画でした。
そこから見た現代美術とは、か細く脆弱、貧弱な
マーケットであり、これは1980年代とそうは変わる
ものでもありませんでしたが、しかし一部がそれまでの
アンダーグランド的な色彩から脱却し、ポップな
感覚でメディアに露出し出したようにも感じました。
実はその僅かな認知が、今から思えば兆しだった
ような気がします。
その後、色んな流れがある中で突如2000年前後を
境に噴出し出したのが、村上、奈良という存在で
この二人を中心とした世界観が日本の現代美術の
メインストリームのようになっていったと思います。
基本的なコンテクストは違うとは思うのですが
その表面的なキャッチーさから”アニメ、おたく”という
分類がなされ、日本独特なサブカルチャーを背景
にしたというようなストーリーが盛り込まれることにより
それまでのアカデミックな障壁をぶち破り、より一般に
流れでたような感覚がありました。
そういう意味では
数年前、松井みどりさんが分析した手法
マイクロポップ論は分かりやすく類別したものと
言える。
-----------------------------------------------------
*「マイクロポップ」
仏哲学者ジル・ドゥルーズが著書『カフカ:マイナー
文学のために』において明らかにした、新しい時代の
芸術のモデル。 メジャーな言語を使って表現すること
を余儀なくされながら、そのなかで独自の脱線や言い
換え、表現コードの組み替えを行い、既存の表現の
限界を超えて新しい表現を作っている想像力のありか
たを指している。それは、子どものような想像力によ
って、しばしば使い捨てられる日常の事物や「とるに
足らない」出来事をシンプルな工夫によって再構成し、
忘れられた場所や、時代遅れの物や、用途が限定され
ている消費財に新たな使い道を与え、人を自らの隠れ
た可能性に目覚めさせる。
「90年代という、日本の社会が長い不況や社会不安に
あえいだ時代に成人し芸術家活動を始めた、60年代後
半から70年代にかけて生まれたアーティストたちに強
く見られる特徴」だと説明している。なるほど、未成
年的なものの重視は、日本的かもしれない。しかし、
マイクロポップの作家は、上の世代よりも日本的な特
殊性を強調せず、それが「国境を越えて有効な、難し
い時代を生き抜くための方法」を示しており、海外の
状況にも広がっていくという
マイクロポップ世代(60年後半以降生まれ)とは、
物質的な成功から距離を置く考えの人たち。そして
超個人的な出来事や思い出を記憶のまま出すんじゃ
なくて、自分視点を上乗せして作品にしたり、他の人
や一般的にはゴミだったり、どーでもいいようなこと
だったり、ダサかったりすることにも自分視点を上乗
せして作品にしたり、そのこと自体をみんなにどうな
のって投げかけてみたりする手法をアートとして使っ
ている人たちのことを指しているみたいです。
50年代から続いてきた日本の前衛芸術、つまり、
「具体」や「もの派」も「ハイレッドセンター」も、
それぞれアーティストが自分の住んでいる時代や環境へ
の答えとして出した表現であり、海外の前衛芸術とも
連動していました。ただそれを評価したのは日本ではなく
海外の人でした。
また、そういった前衛運動にかかわっていた人数もと
ても少なく、波のある海のような形ではなく、孤立し
た島のような感じで現れました。
また、評価も遅れていて、60年代~80年代には世界の
目が日本に向けられていなかったので、日本の前衛へ
の認知もむしろ、90年代の新しい日本の芸術への感心
がもたらした結果として、すすめられることになった
のです。
--------------------------------------------------
このマイクロポップ論で松井みどりはこの間
(1990~2006)を第4世代に区分し、それぞれ
の特徴を論じている。その起点は1989年とし
ている。
その内容は又後日として
区分としては
第一世代が杉本博司、宮島達男、森村泰昌に代表される
作家で40年代後半から50年代前半生まれ。
第二世代が村上隆、会田誠、奈良美智、小沢剛、曽根裕
に代表される作家で1960年代前半生まれ。
第三世代が伊藤存、杉戸洋、落合多武、青木陵子
に代表される作家ですが、生まれ的には第二世代と
差違が無く、実は奈良美智に関しては第二第三世代に
渡る作家と捉えられている。
その特徴とは
------------------------------------------------
奈良さんの登場によって現代美術の見方が変わりました。
小沢さんが出した新しいタイプの介入芸術にしろ、村上さ
んやヤノベさんが出した日本のネオジオにしろ、一種のコン
セプチュアル・アートだったと思うんです。つまり、作品を通
じて社会について語ったり、社会通念を揺さぶったりするの
を目的とした作品だったのですが、そういう言説喚起能力
を持った作品が評価される一方で、具象絵画というのは
軽視されていたんですね。
第三世代の特徴は、同じ具象表現を使っていても、奈良
さんの表現とははっきり違います。どこが違うかといいますと、
奈良さんの作品は、ひとつの大きなイメージを中心として
感情世界が作られる、シンボリックな表現なんですね。
ところが、伊藤さん、杉戸さん、落合さんの作品というのは、
小さなイメージを組み合わせたり、線や点の動きによって、
ある構造から別の構造に自由に移動していくような、連想
ゲームのような作品なんです。それはつまり、第二世代の、
物語性、社会性、ドラマ性志向から、第三世代の表現の
中心が「知覚」へとシフトしていき、それと同時に表現自体
もより流動的になってきたということなのです。
-------------------------------------------------------
第四世代とは実はさほど明確な定義づける作家は
存在していないと私個人は思いました。
この部分を時系列に照らせば
2005年以降だと私は思います。
そういう意味では第三世代2005年まではある程度
論拠としての合理性を感じると同時に、全てではない
にしても区分としての論理的包括割合は高いのでは
ないかと思います。
完璧な整合か否かは、論拠によるところであり、
必ずしも他の論拠からこの時代を読み解いた場合
不整合になる部分が多々あることも事実だと思います。
しかしながらくどいようですが、大きくこの時代を分析した
人間がいるわけでなく、そういう意味では中心的論理
と考えても差し支えないように思います。
ただ、、
このマイクロポップ論に依拠するモノとはなにかと
自分なりに考えた場合、、、
そこに存在するのは
第一世代を除く第二・第三世代の特徴とは
”日常”というモノではないか?と私は以前から
考えていました。
幻想的な安全保障に守られているという錯覚
のもとに肥大化した、日本国内における隔絶的
日常・・・・
全てを日本という国の中でのみ自己完結してきた
日常・・・
上記説明に記載した
-----------------------------------------------------
物質的な成功
から距離を置く考えの人たち。そして超個人的な出来事
や思い出を記憶のまま出すんじゃなくて、自分視点を上
乗せして作品にしたり、他の人や一般的にはゴミだったり、
どーでもいいようなことだったり、ダサかったりすること
にも自分視点を上乗せして作品にしたり、そのこと自体を
みんなにどうなのって投げかけてみたりする手法をアート
として使っている人たちのことを指しているみたいです。
---------------------------------------------------
と言うのが実は一番如実にこれらの形態を物語って
いるような気がします。
そしてもう一つの大きな特徴とは
世界、グローバールな中で胎動するアートの潮流とは
隔絶した世界観が存在する。積極的にコミットするので
はなく
---------------------------------------------------
上の世代よりも日本的な特
殊性を強調せず、それが「国境を越えて有効な、難しい
時代を生き抜くための方法」を示しており、海外の状況
にも広がっていくという,,
---------------------------------------------------
世界的な基準から見た時、特異な風景として存在する日常と
世界からの隔絶しきった日本人の内省的な感覚の醸成。。
この二つが大きな特徴のような気がいたしました。
そしてアートビジネス的に考えた場合、実はこの第一~
第三世代の作品や考え方が1995年から2005年まで現代美術
というアートマーケットを支えていたのものであることは
間違いではなく、そのバックボーンはそれまでの国内マー
ケットではなくグローバルマーケットに広がった事であっ
たと思います。
なぜグローバルマーケットに広がったか?
松井みどりがあるところで語ったものを取り上げると
---------------------------------------------------
1989年以降に出てきた日本のコンテンポラリーアートでは、
まず、間を空けずに、次々と才能を持ったアーティストが、
集団で、波のように出てくるようになったのです。また、
グローバリゼーションということもあり、そうした新傾向
の認知も早かったんですね。海外の人が日本にやってきて、
日本にも自国の芸術の新傾向と似たようなものがあること
を発見し、たまたまこの人たちは日本人だからこういう表
現をしているのかもしれないけれども、これは自分たち
の国のアーティストたちと同じ精神でやっているのではな
いかと認められるような状況が昔よりも出てきたんです。
---------------------------------------------------
と言うような事であるが、
私は単純に
江戸後期から明治期にあった日本各地の特産品の
輸出に近かったのじゃないか?と考えている。
有田、九谷、薩摩、ノリタケ、、、等々・・・
浮世絵は少し別の次元での海外の受け入れ方であった
と思うが、上記産品は
●日本にも自国の芸術の新傾向と似たよ
うなものがあることを発見し、
と言う文脈に合致するような気がするのと同時に、
そういう現象の背景が鎖国という、対外的な環境
との隔絶状況が実は2005年の日本の現代美術
マーケットと合致していたように思うのである。
結局、リーマンショックまでの日本の現代美術
マーケットを支えていたものとは、、
●日常と世界からの隔絶した日本人の内省的な感覚の
醸成。。
であり、そういう意味ではリーマンショック以降に
世界的な価値基準に適う作品がない、、というのが
現実的に現れた現象なのではないか?と私は思うの
である。
付け加えて言うならば
世界の緊迫した状況を理解した
現代美術がないという事かもしれない。
1990年から2005年までの間、自身で発展を
遂げたというような錯覚が蔓延していただけで、
実際には鎖国された国の珍しい産品を金に余裕
のある海外の富者たちが一時の投資として買って
いただけではないか?
そういった鎖国的な感覚の背景から輸出されたのが
マイクロポップの第二・第三世代の作品であり、この
時分の隆盛とは実は明治期の特産品の輸出と
類似するものであり、世界的なアートの文脈とは
かけ離れた現象でしかなかったと理解して差し支
えないと思う。
極論すれば
例えば村上隆というのはこの独特な内省的な
日本的感覚を背景に最大輸出した特産品であり、
2000年から2005年にかけて一番人気があった
日本産品だと判断できる。
しかし最大の問題は今どうであるか?
と言うことである。
このマイクロポップという理論を背景にして
世界的な市場で日本の”産品”はどうか?
リーマンショック以降の全体市場から見た
場合どうなのか?
国内は焼け跡に近いと言うのが嘘偽りの
ない現状ではないか?
経済金融で言えば少なからず海外資本が
引き上げた跡という状況と合致するような
気がするのは私だけであろうか?
ここでもっとも考察すべき点が私はあると思う。
それは2000年から2010年までの日本と
世界の関係と2010年今からの世情は何が
違うか?という点である。
正直2000年から昨年までを考えるよりも
今年に起こっている状況を徹底的に把握
した方が早いような気がします。
為替の状況、食料・資源及び国家の
安全保障における状況、これらがこれま
でこの国で語られはしてきたが、より現実的
な決断を矢継ぎ早に迫られてはいないだろうか?
そしてその決断はすなわち世界における日本
という立場に具体的に直結している。
そして今現在の中国との関係を考えても
分かるが、現実的な領土問題や安全保障
日米安保の具体的な姿や顔かたちが表われ
て来ています。
この世情は正直2000年から2009年までとは
まったく違った状況であり、それまでの内省的な
日本、その中の日常的思考がまったく許されない
状況であることは間違いないと判断できます。
これらから類推して言えることは、全て今までの
ものが破壊され新たな論理が必要となっている
と言うことではないか?と思うのである。
それは芸術とりわけ現代美術などはその感性が
時代との同化、同時代性を求められることを思えば
一番その感受性を高めなくてはならないような気が
します。
有り体に言えば、もうマイクロポップなどという論理は
通用しない、開かれた世界の中の一つという側面から
モノを訴え出なくてはならないというのが政治経済及び
社会とリンクした日本の芸術家達の差し迫った問題
のような気がします。
これは本質的な日本のアイデンティティーが試されて
いることであり、その論拠をアニメおたくなどという
概念で結論づけは出来ないという証左であると
私は思います。
世界的な基準から見た時、特異な風景として存在する日常と
世界からの隔絶しきった日本人の内省的な感覚の醸成。。
ここからマーケット形成は出来ないし、作家の創意も
ここを基準として考えてはいけないと言う結論だと思います。
物事は10年というサイクルで考えられます。
すべて体系化された時系列とはある意味10年周期
にて語られています。
1990年代
2000年代
そして今日は?と考えた場合
それは2010年代なのだと気付くべきであり、
もっと言えば、マイクロポップに代表されてきたもの
とは、2000年代であると言う事への結論を明確
に持つべきだと私は思う。
しかるに、奈良、村上というアーティストとは2000年代
を代表する作家であることは間違いないが、2010年代
の日本を代表するアーティストでありアートマーケットの
先進的なアイテムであるかというとそれは甚だ疑問なので
ある。
今、2010年代が始まったばかりではあるが
本来はこの2010年代を標榜する作家、作品、マーケット
が如何なるモノなのかという議論がもっと活発にあるべきで
あり、それは確実に世界を中心として考えられる人間社会
とリンクしているところでの論理性が求められると私は思
います。
それほど世情は激変していて
緊張が高まっていると思うのです・・・