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少年たちのように
衝撃という言葉がある


言葉の意味を拾うと


おおよそは以下のようである




●意外な出来事などによって強く心を揺り動かされる
 こと。また、その心の動き。ショック。

●思いがけない出来事によって起こる、心の激しい動き。

●激しく突き当たること。また、それによって起こる
 刺激。強い影響や印象。



これは個人的に感じるものと、客観的に短期間における
集団として感じたもの、長期的に集団が時間軸の断面と
として、、などがあると思うのであるが、、、



個人、特に自分自身を振り返って見ると



今の仕事に至るまでにこの衝撃という事象は
なんだったのか?と考えた場合、、



3人の人物に集約されることに気づく。



以前どこかで書いたかも知れないが、、、
私の今の考え方を形成してくれた人物が3人、実際に
細かい部分ではもっと多数いるのだと思うが、あえて
領域の大部分を集約すると3人の人物に突き当たる。。



時系列で並べると


1、北野武(ビートたけし)

2、川久保玲

3、河原温


この3人となる。



この3人の共通点があることを自分なりに分けると


1、その道(評価されている)のアカデミックな教育
  を受けていない。

2、世界的な流通の一角に確実な自歩を固めている
  所謂、世界標準としての評価を得ている。

3、有史以来存在し熟成してきた日本人の研ぎ澄まさ
  れた感性を単純かつ泡沫的なオリエンタリズムと
  して輸出したわけではなく、普遍的な感性として
  その解釈を西洋人に浸透させた。一つのテーマ
  映画、ファッション、美術というものを西洋人
  が厳然と掲げる歴史的解釈の手法とは全く違う
  東洋人その中の独特な感受性を有する日本人と
  しての解釈を論理的にかつ具体的可視化によって
  論証し、認めさせた=戦い勝利した。これは結果
  としてではなく、端からその為の戦いを考えて
  挑戦した結果として得たという点である。
  自らが思わず手にしたという事では決してなく
  確信的に挑戦した結果である。

4、3人共、私が十代に出会った。
  


この4点があるように思うのである。


特に3番目の大きな”衝撃”とは、、


これは、この場合衝撃を受けたのは相手方となる西洋
なのであるが、実は実際には送り出した3人と同胞であ
る我々の方がより大きな衝撃、特に私はそのように感
じたのであった。



相手方に衝撃を与えた筈が、実はその衝撃波とは
実際には放った手元の方が大きかった・・・


この3人の仕事に対しての私の印象であった。



特に、、川久保玲の登場に関しての衝撃波は30年近く
たった今もなお私の中には存在している。



今から30年前、今とは違い情報と言うのは
紙媒体が主役だった。当然テレビ、ラジオ
というのも存在し今と変わらない大きな力
を持っていたが、先端という事で言えば
紙媒体の取材力というのが柱であった。


その時分、それまでの雑誌の概念を変える
媒体が登場した。後に写真週刊誌と呼ばれる
ものであるが、FOCUSという雑誌が発刊され
毎週金曜日に発売された。


それまでも週刊誌というのは存在したが
大きな違いは誌面の訴求部分の大半が
先ず写真で構成されており、しかもそれが
文章の核をなす大事な要素として成り立って
いた。と言う事は文章を読むというよりも
写真を見る、しかもその週及び近々の
出来事を写真を通じ先ず認識するという
形となっており、それから行くと実は現代の
インターネットの要素が含まれていたような
気がする。



後に類似誌が多数発刊されたが、FOCUSが
一番違った点は、



新潮ジャーナリズムと呼ばれる丹念な取材と
張り込み取材を展開。有名人やタレントの密会
写真掲載などで話題を作ったり、政治的な事件
や災害、事故などのスクープも多い。また、従
来の新聞、テレビなどが報道しなかった、複雑
な事件やニュースの裏側に迫る写真も数多く掲
載した。


これが骨格になっており


特に、従来の新聞、テレビなどが報道しなかった、
複雑な事件やニュースの裏側に迫る写真も数多く
掲載した。


この点であった。


16,7歳の当時、正直、色々な情報として
この雑誌はある意味魅力的であった。今なら
インターネットで誰もが自由に即時入手できる
ものも当時は手に入らなかったし、京都という
地方では噂すらなかった。


それはある意味今のインターネットのブログ
やツイッッターが成り立つ重要要件である
”内幕””内輪話”というものが、ほぼ見え
なかった時代に、この雑誌は推測の領域を
持ちつつも、世間に提示、しかも視覚的に
した事は大きかった。



実は私が川久保玲の存在を知ったのは、
この雑誌であった。


1981~1982年ごろ



パリコレクションで日本人が大きな衝撃
を与えた!



黒主体の服装に穴あきセーター



後に”ボロルック””乞食ルック”という
川久保、山本耀司が鮮烈的に発表したコレ
クションであった・・・・




この当時、FOCUSはその事実だけを伝えた
のであるが、私にはそれまでパリコレと言えば
ケンゾーでありイッセイであり、海外コレクション
で有名だったのはカンサイ位は知っていたが


川久保、山本耀司??誰??
何をしたの??


と全くその情報がそれ以上には入らなかったが
そののち日本中のファッションが真っ黒になり
カラス族と呼ばれる位に黒と言う色がファッション
を席捲しつくした・・


それと同時にバブルを迎えDCブランドブームと
言うのが国内で隆盛を極め、私も例にもれず
その流れの中で様々なデザイナーの服をバイトして
買った口だったのであるが、その時王様のように
君臨していたのが


Comme des Garcons


であった。。


Comme des Garcons


意味を調べると


少年たちのように・・


なんてネーミングなんだ、デザイナーの名前
じゃないのか?しかもなんで少年のように・・
なんて形容詞なんだ・・なんでだ・・


実に不思議なブランドであったが


その当時、数多のマンションの一室から
立ちあがった国内のブランドの中にあって
他を決して寄せ付けない凛とし毅然とした
匂いをこのブランドは放っていた。


『分からない人は結構です』


という明確なメッセージがショップからも
匂い立っており、なんとなく犯しがたい
雰囲気を持っていた。それは服からだけの
メッセージではなく、このブランド全体が
持つイメージとしても”ガキ”であった
我々にも通じるものがあった・・・・



これが1985年から87年位のことだったので
あるが、ボロルック発表から3,4年後の
出来ごとであった。


しかし、世の中のファッション、経済的
にはDCブランドという流れで把握される
のであるが、私個人の感想としてはその
ほとんどの既成服が大半コムデギャルソン
の模倣のようにも思えてならなかった・・
異論は当然あるが私にはそのように思えた
それはアイテムはもちろんブランディング
から、、、、全て模倣していたような気が
する。。


ここまで皆が倣うというのは一体なんなのか
そしてその中でも寡黙に何も語ることも
なく君臨していて、またその中心である
川久保玲なる人物は写真すら見たことがない
どのような人物なのか実に神秘的であった。


それから5年6年後90年代に突入してから
ちらほらと彼女、川久保玲の仕事に対して
の論評が国内でも出始め、目にするように
なって・・・・・


その記事やメディアに出る内容の
あとを追いかけるように


彼女の仕掛けた仕事の一部分、考え方が
霧が晴れるように見えたとき・・・・・


戦慄を覚えた・・


世界で戦うという事は、否応なく自らの
アイデンティティーを切り離すことは出来ない
いやそれ以上に、自らの出自を深く深く考察し
その思想の根を深く突き刺さした上に立脚しな
くてはならない事に気づかされる。


やはり我々は日本人なのだ。


彼らとは違う。先ずこの厳然とした
事実をどれほど理解しているか?



最近ガラパゴスとよく言われるが
功罪はあるが、私は先ず大事な部分が
そこにはあると判断する。しかしそれ以上
に大事なことはそれをどう世界に活かせるか?
ここがガラパゴス論の出口ではないか?と
思うのである。


川久保が仕掛けた戦いも実はガラパゴス的
論理展開と解釈できなくもない。


黒という色は何も日本だけの色ではない。


しかし大きく違うのは黒にも


何色もある!という解釈を日本人は持って
いるのと同時に、黒色が雄弁に語る抒情性
を日本人は色々な生活に向けて応用してきた。


それは感情と合一する部分に活用していた
という歴史的事実が彼の国のカルチャー
とは著しく違うのである。


墨染。


ここには雄弁に何色もの黒が存在し、
感情が折り重なる・・・


何度も言うが黒は西洋にも存在する
しかし彼らの黒と我々の黒の違いは
ない、あるのは文化の歴史的な解釈
の違いであり、それは彼らにはない
部分である。


穴あき、ボロ、=みすぼらしい、汚い


そうなのであろうか?
ボロの墨染を纏い、人間、社会の本質を探る
托鉢に邁進する僧侶に対して我々は何を思う
のであろうか?


美とはなにか?


我々には雄弁に世界に語れ・誇れる
文化の解釈論が存在する。


それは先人達が残し守ってくれた
文化が有る所以であり、それを
駆使しなくてなにを自らの論拠
とするのか?


この時より


ある意味今に至る私の考え方は
決まった!


そう”衝撃”でした!!



少年が素直に


感受する


衝撃。。



確かに



少年のように・・・・でした。。



それが先述した


3の項目であった!

3、有史以来存在し熟成してきた日本人の研ぎ澄まさ
  れた感性を単純かつ泡沫的なオリエンタリズムと
  して輸出したわけではなく、普遍的な感性として
  その解釈を西洋人に浸透させた。一つのテーマ
  映画、ファッション、美術というものを西洋人
  が厳然と掲げる歴史的解釈の手法とは全く違う
  東洋人その中の独特な感受性を有する日本人と
  しての解釈を論理的にかつ具体的可視化によって
  論証し、認めさせた=戦い勝利した。これは結果
  としてではなく、端からその為の戦いを考えて
  挑戦した結果として得たという点である。
  自らが思わず手にしたという事では決してなく
  確信的に挑戦した結果である。



川久保玲・山本耀司の

黒の衝撃から15年後


1997年に発表した


「ボディーミーツドレス ドレスミーツボディ」


以降


彼女が何に戦いを挑み、何を考えてきたのかが
段々と一般において水面下から浮上し始めた・・


そして2002年NHKで特集された
『世界は彼女の何を評価したのか』
で、それが良く解剖されたと私は記憶する。


以下はその中でインタビューに答えていた
西洋のトップデザイナー及びジャーナリスト
の言葉です。


そして


川久保玲の戦いの言葉です。



●カールラガーフェルド

彼女は我々のゲームを壊したのです

全く違ったものを出してきたのです

それは醜く見える恐れがありましたが

新しい美があったのです




●アレキサンダー・マックイーン

私たちデザイナーには分かります、彼女は体をデ
ザインしたのです。

なぜ不恰好な物を作るのか、疑問に思うでしょう

しかし、様々な姿の人達を理解することが、知性
なのです。





●ファッションジャーナリスト
 エリザベス・バイエ

川久保の最初の印象はとにかくショックでした

果たしてファッションなのか、何かのメッセー
ジなのか

正直言って分からなかったんです


その後印象が変わりました


彼女は従来とは違う女性の見方を望んでいたの
です

それは女性の肉体的な美しさとは違う美の提言
でした

今までの先入観をくつがえすのに川久保は長い
時間を


費やしました




●川久保玲


私が思う反骨精神とは


人間が全てに於いて平等であれば素晴らしいけれ
ども

それはあり得ない。そのようなどうしようもない
不条理、

さらにその上にはびこる権威に対しての―戦いと
も言えます。

戦うには自由がないと戦えません。反骨精神=
戦うのに

最高に良い方法はクリエーションの場にあると
思います。

だからこそ、自由と反骨精神が私のエレネルギ
ー源なのです。













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