RECENT POSTS
ハッちゃんと京やん
昨日テレビを見ていたら



土曜日


おぉ!という告知。



岡八郎と花紀京のゴールデンコンビのみを
編集したdvdが発売されるというものであった。



吉本新喜劇は今も大変な人気があるが、、
しかし私にとって、忘れられないのがやはりこの
二人が絡んで作り上げていた笑い、これに適う
新喜劇の笑いは正直今もあまり見る事がない!



岡八朗と土曜日そして吉本新喜劇というワードは、
関西に育ったわれわれ世代には特別なものがある
はずです!


奥目の”ハッちゃん”は



ある種の”ヒーロー”だった。。



昔小学校は現在の様に週休二日では無かった。



しかし土曜日は4時間授業で12時過ぎに終わり、
小学校時分はこの土曜日が楽しみで待ち遠しかった。


もともと休みではないのだから半日で授業が終わる
のは少し得な気分があり、家に帰ってから友達と遊
んだり等のスケジュールが目白押しだった。


でもスケジュールは午後1時から始まる吉本新喜劇を
見てからしか始まりませんでした!



これは、みんなそうでした!だからみんなとの約束は
午後2時からなのです。


12時過ぎに学校が終わり、みんなダッシュで吉本新喜
劇のオンエアーに間に合うように家に帰り、用意して
いた昼ごはん、大抵“チキンラーメン”“昨日の残り
のカレー”とかなのだが、取りあえず食べてテレビに
噛り付き,、、、、



「えげつなー!」「くっさー!」



と毎週同じタイミングでのギャグなのではあるが、
笑っていたし、、、、、、、、、



やっていた。。。



こういう小学校時分の土曜のスケジュールは私だけの
思い出かと思うと、大学に入って別の関西地域から通学
していた友人も同じ思い出を共有しており、その状況が
まったく同じであった。



「そうや、そやねん!汗かいてダッシュで帰って見ててん!」



「俺も!俺も!」




類は友を呼ぶで集まった傾向かなーとも思いましたが、
これが実はそうではなく結構なムーブメント?いや関西人
DNA?!


当時“おはよう朝日”で岡八郎訃報のコメントを宮根誠司
アナが喋っていたが、まったく同じ思い出を語っていた。



「とにかく土曜は走って学校から帰り見てましたねー」、
彼も1963年生れでわれわれ世代だ。



吉本新喜劇の笑いは洗練された都会の笑いとは違い、
泥臭く直接的でおしゃれではない。



関東の人には受け入れがたいものが存在するんじゃないだ
ろうか、特に当時の吉本新喜劇の笑いというのは。



確かに笑いに種類が存在するのは認めるが、笑う側には
笑い方の種類はない!おしゃれな構成とか洒脱な会話と
か以上に、笑えるか笑えないかが絶対的な基準で、私は
吉本の泥臭く直接的で



“これでもか”の笑いを体いっぱいに充満させて育ち
ました。



笑わせる行為は、人間にとって一番崇高な行為ではない
かと思います。



人間以外に状況を笑う生き物は存在しますが、考えて
相手を笑わす生き物は存在しません。。



笑いの基本・根底には“差別・優越”という人間にとって
はあまり他人見せたくない欲望が存在しているのは事実
でしょう。



あこがれる・尊敬・敬愛と言うような存在を笑いの対象に
は考えないでしょう、しかし劣る・愚鈍・不運という事は
笑いの対象になり得るのです。




プロのお笑いは、笑わせるのであって“笑われる”のでは
ない。



人間の不道徳な感情をクスグリ、自らを笑わせる対象と化
す緻密な計算を企てる哲学者であります。



表面的洒脱感や泥臭さそんな違いではなく、芸人の笑いに
対する哲学の凄みが、われわれの笑いのボルテージを左右
するのと、ハッちゃんはじめ吉本の役者さんたちは、われ
われの関西人DNAをよく解剖し理解しています。



だから当時亡くなった直後の「ハッちゃん」を偲ぶコメント
で、楽屋では物静かで読書家だったというのは理解できる
し、、、、




究極は、お笑いのビートたけしから




”世界の北野”のような存在を輩出するフィールドに
”笑い”は成り得るのだと思います。

▲TOP
絶海の孤島



宇喜多秀家という武将がいた。


関が原敗戦以降、紆余曲折はあるが生き延び、
最終的に“八丈島”に流刑となり、そこで50年、
84歳まで生きたという武将だ。。。



私はあるときこの武将に強烈な興味を抱いた。



以前から思うのであるが、現在の岡山の県民性は
江戸時代の統治者である池田藩ではなく、その前
の戦国時代の統治者である宇喜多の性質が現代
にも色濃く反映されているように感じるのである。



その代表的な性質の持ち主とは秀家の父・祖父
であり、謀略の限りを尽くした戦国の梟雄で、とも
すれば北条早雲や斎藤道三以上であるかもしれない。



この現在で言うところの岡山県を中心とした東西の
立地は、全ての中心であった京都とは遠隔地に位置
し戦国の覇を競う拠点としての性格が弱かった。



しかし毛利と全国統治を視野に入れだした秀吉が
対峙したときに初めて軍略上において重要拠点とな
りだした。



そのタイムラインから初めて戦国覇権ドラマの
全国的レベル、この岡山近辺の名主は登場したため、
それまでの宇喜多の所業はさほど周知される事もなく、
その恐ろしさの喧伝が後世においても詳細になく、
薄くなった帰来がある。



しかしよく調べると宇喜多とは、本質的には戦国
史上でも稀有な下克上武将であることは間違い無い。



さてその宇喜多の草創期を築いた武将と秀家が同類か?
というと少し違う。父亡き後秀吉の寵愛・庇護のもと、
五大老となり豊臣政権下では隠然たる権力を持ち得た
のである。



そして家督を継いだのが9歳という少年時代であり、
そこから秀吉の近習として帝王学を備えられる。
出来あがった彼の姿は、中国地方の梟雄であった
祖父・父とはまったく違う“貴人”然としたもので
あった。。



よく戦国ドラマでも登場するが、大抵眉目秀麗な役者
が演じ、おぼちゃま気質を反映するかのような激烈な
性格を表現したりしている。。



ある意味彼は30歳前後まで栄耀栄華の限りを享受し、
歴史の中心人物として活躍していた。



それが関が原の敗戦を期に、急転直下歴史の表舞台か
ら姿を消し、それどころか世捨て人として残りの人生
を過ごすのである。



ここまで強烈な人生の反転はあまりないだろう。。



確かに後醍醐天皇も悲しみのうち吉野で崩御されるが、
ある意味歴史的な意味をもっていたし、それ意外の歴
史上失脚した人物にしても、大抵その時点で死を選ん
だりする。



自身の人生哲学、とくに武将という性格から考えても
秀家の選択は他とは大きく違う。



遠島時点で恐らくお家再興は断たれたという結果であっ
たはずだし、自分の生きる意味が無くなったと考える
のが、この時代の武将としては自然だろう。。。



しかし彼は生き長らえた。



生き長らえたどころか、当時の平均寿命からすると、
倍近い年月を生きた事になる。



そこが私にとっては最大の興味のポイントである。



30歳で失脚、そのご50年絶海の孤島で過ごす。



彼の人生という観点考えると、明かに50年生きた
孤島の生活こそが彼であり、その前半は彼にとって
は人生という時間で考えると僅か三分の一くらいし
かない。


ある意味後半生から前半を見ると“夢幻”程度でし
かない。


それは“浦島太郎”のような。。



何故彼は死を選ばなかったのだろう?



傅く家来もなく、罪人として、栄華を誇った30年の
人生の倍近い時間をどのように過ごしたのであろう??



何故、生きる事に執着したのだろう??



いや、執着したのだろうか??流れの中に身を漂わせ
ただけだろうか??



果たして幼少から帝王学を身につけたものが、そう
いった達観した考えを持ち得たかは少々どころか大
いに疑問がある。。。



しかし、品性下劣な生への執着という汚らしさも感
じないし、ある種の誇りが、不思議にもある。。



生きている時間ってなんだろう?と考えると
結局、今という実感を得ることができる時しかない。



今以外の過去や未来など、ある意味ないのではない
だろうか?



確かに史実として残ったりするが、結局自分の実感
からは遠く離れた“夢”でしかない。



未来にしてもそうだ、なんらの実感はない。



あるとすれば、どういった考えをもって夢想するか
だけである。



そういう意味ではやはり夢でしかない。



以前聞いた事があるが、茶の世界で“夢”は死を
意味するらしい。



それは少しだがわかるような気がする。。



秀家の哲学は知り得ないが、私はこの絶海の孤島
にての50年は、他の武将にはない独特の哲学が存在
したんじゃないか?と今でも深い興味を持っている。。



事実、何故かわからないが、明治になりときの
政権が宇喜多家を赦免している。



250年後の名誉回復である。。



こんな事にその時点で意味があったのか?疑問だが…



秀家の流刑、そして絶海の孤島で歴史と無関係で
ありながら生き長らえたからこそ、この赦免には
大いなる意味が存在する。。。




そして生きるという意味と誇りを考えさせられる。。

▲TOP
松井監督と山本さん
昨日から山本幸夫 solo exhibition『FACE』 がスタート
いたしました。



アシスタント石本のblogにその様子がスケッチされてい
ますが、夕刻、お忙しいにも関わらず松井監督がお越し
下さいました。



実は遡ること一週間前、エトリケンジさんと松井監督と
食事をした際、この展覧の案内へのお礼と是非伺わして
頂きますとのお言葉を頂戴したのでした。



監督は今、東京と京都を行き来しておられ、なかなか
都合がつきにくい忙しい最中、約束通り昨日来ていた
だけたのです。



監督のホームページ(※ダイアリーもあります!)

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ クリック!


http://www.aa.alpha-net.ne.jp/cineymbw/




監督は山本さんの展覧を丁寧にご覧になられ、その後、
私を交えしばしの歓談にお付き合いいただいたのでした。







事務所、応接室など、、、そんな立派なものがない
当ギャラリーの裏側・・・


ストック場兼、、、私の昼寝場所?程度のスペース、、


実に雑然とした汚い場所にての歓談、、、、しかし、、








お互い芸術を作り出すクリエーター同士、それぞれの
世界についての話の交換が実に面白く、世界を舞台に
闘っておられる映画監督と40年に亘り様々な立体造形
の仕事を続けてこられたお二人の持つ独特のオーラが
刺激的で場所の狭苦しさや汚さを軽々と凌駕し、


しばし小汚い場所は、素敵なディープな空間になりました。。













・・・と、、しかし、、いくら言い訳しても、、
すみませんでした,あのような場所で。。。。。。。




面白かったのは、、松井監督が顔の表情という部分に
対して山本さんに質問したときでした・・









顔が今回の展覧のテーマなのですが、当然我々は
顔=表情というところで囚われますが、山本さん
はその表情というものを消し込んだ中の顔、そこ
から見える何かを求めて実験を重ねておられ、、
その本質的な部分にいきなり突き刺さる松井監督
の鋭い質問が、この展覧を凝縮したものに感じら
れたのでした。



仮面の存在。


能の世界・・


仏像の世界・・



実態以外に存在するもの。視覚以外に存在する顔、
固定観念に囚われている部分以外に存在する顔、
様々な顔がある。



表情というものから考えれば、それは他人があって
初めて作られるものであり人間のコミュニケーション
の道具でもある。しかしそこから開放されたときの
人間の顔とは・・・というもう一つの世界の顔、、




松井監督にも不躾ながらお聞きしました。




役者の顔とは、肉眼で目視したとき、カメラで覗いた
とき、スクリーンに映し出されたとき、それぞれ違う
はずで、どこで選択されるのですか?・・と



監督は、、



表情です。と、、、



私は直接面談したときの表情を大切にしますと、、




これはどの表情が良くて悪くてとは我々には到底分
からない世界なのですが、なにか”ピッ”とくるも
のがその瞬間瞬間に現れるらしいのである。。



そこを掬い上げるらしい・・・・・・・


これは監督のイメージの中の世界との整合で、我々
には当然いくら聞いても踏み込むことのできない
世界なのだが、しかし、映画になって、観客となった
とき我々はその世界を初めて理解できるのかもしれない。



その最初の無垢の瞬間を直感で見つけ出す作業は
大変だろうナァ?と素人ながらにも感心した。、、、、



それからもお二人の話は続きましたが、松井監督の
次の予定時刻が迫りましたので、残念ながらにも散会。。。



帰り際、無理を申して記念撮影・・・
こころよく了解いただいた記念ショットがこちらです。。












松井監督、昨日はお忙しい中誠にありがとうございました。


これからますます暑くなりますのでくれぐれもお体ご自愛
ください。


またお時間がありましたらぜひお立ち寄りください、
こころよりお待ち申し上げております。

▲TOP
山本幸夫展、中井幸子展開始です!
昨日より


高松天満屋5階アートギャラリーにて





本年よりCOMBINE artistとして参加
してもらっている中井幸子さんの展覧が
スタートいたしました。





中井さんは現在仕事の関係でヨーロッパ
に行かれておられ、たまに現地から律儀にも
blogを投稿していただいております。







今年の秋にはBAMI galleryにても個展を開催
する予定ですが、先ずCOMBINE特派員の青野
女史のもとで試験的に反応を見てもらう為に
昨日より展開を開始いたしました。


以前より



私は、風景というジャンル、しかもこれ以上
ないくらいシンプルで誰にも分かりやすく
共感できる、、上手い下手などという誰しもが
子供時分から絵を描くことに対して背負わされ
た呪縛を解放するような伸びやかな内容の作品
をどうしても取り入れたくて、探していたとこ
ろ偶然にも中井さんと出会い、その制作に対す
る考え方や姿勢に深く感銘し参加を願いました。


One ~ Where are you ? ~


このシリーズはもう説明はいらないくらい
シンプルで誰もが一度は紙に向かって描いた
事があるのではないか?と思える”道”の絵、
ですが、しかし誰しもがともすれば描けそうな
この絵に対して持つ感情とは一体なにか?



それを考えたとき、この絵の持っている、、
意味の大きさを感じざるを得なくなるのでは
ないでしょうか?



この絵の前に立つと不思議と自らの道程を
思い起こすと同時に、誰か知らない他人の
道程をも想起し、それがいつしか誰とも
分からない、、いつの時代とも分からない、
人間の心の道としての感情が開けていくよ
うな感覚に浸ってしまいます。



お近くの方は



是非お立ち寄り下さいませ。



併せて



本日より、、



BAMI galleryでは


山本幸夫 solo exhibition

『FACE』

2010.05.20 (thu) - 2010.06.18 (fri)
gallery close 5/23・29・30 6/5・6・12・13
open 11:00~18:00

が開始されます。


数日前より数回に亘り展示のチェックを重ねて
こられた山本さん。




昨日完了した展示は”圧巻”であるのと同時に
へぇ~と感心させるおもしろさ、そして、なる
ほどという説得力に満ちあふれたものになりました。







基本的には



作品展というよりも



これまで40年に亘り携わってこられた造形の仕事
から導き出された、形というもの、特に人間の顔
というものの持つ造形的な不思議さ及び、そこに
横たわる人間の心理を、今回は挑戦的な実験形式
で展示させていただきました。



展示されている様々な顔をモチーフとした
造形物から、日常では絶対に感じられない
不思議な感覚と、如何に人間は固定観念に
支配されている生き物なのか?と改めて
自己を目覚めさせてくれるような劇的な刺
激を得ていただけます。



皆様



是非お立ち寄りいただきますようご案内
申し上げます。

▲TOP
上海出張報告 3
ちょっと間が開いてしまいましたが


上海出張報告の最終です。


二日まで順調にスケジュールをこなし、いよいよ3日目


この日の最大?というか今回の訪問で一番の大物、
上海美術館 副館長 張 晴/ Zhang Qing 氏との
面談です。





午前10時の訪問約束で時間通りに美術館に到着した
のですが、、KFLのbonnieちゃんがなにやら携帯
電話でやり取り、、、なんとなく上手く行って無い
様子・・・










しばらく黙ってbonnieちゃんの携帯が終わるのを待
っていると


案の定、、不在との連絡。。。


とにかく美術館側の人間が現れるのを待っていると、
若い女性が我々を出迎えてくれて、ある部屋へ案内
してくれました。


名刺を見ると秘書とのこと、事情を通訳を通じて伺
うと、副館長は急遽緊急招集(万博?ビエンナーレ
関連?)の会議に出席のため我々との面談が行えな
いとの回答であった。


しかし、日本から来て”あ、そうですか・・”とい
うのもどうかと思い、無理を承知でなんとか会える
ように取り次いでもらえないか?とお願いしていた
矢先、取りあえず連絡を付けてみるということにな
ったが、本日ではなく明日にアポしてみますとのこ
と、スケジュール的に無理がなければ明日、再度来
てくださいということになった。


いずれにしても他のスケジュールをキャンセルして
も会っておきたい人物であったし、実際翌日はたい
した予定もないので時間の調整は効く。


是非そのようにしてくださいと
秘書の方にお願いした。


そこで、今日は取りあえず折角来たので、美術館の
中を案内しますと言うことになった。


皆で美術館を見て回っていると、建物は古いのであ
るが威厳があり重厚、、確かに少し使いにくい感は
否めないが、それでも全体の雰囲気はさすがに上海
一番の公的美術館だけのものはありました。


ほとんどの部屋が展示換え中であったが、一室フラ
ンスの美術品を展示している部屋があり、すばらし
い内容のモノが展示してあり、じっくり拝見してい
ると、、


bonnieちゃんが私を呼ぶ



『実は、張 晴/ Zhang Qing さんが会議を今抜け出し
てくれたようですので、先ほどの部屋に急ぎ戻って
ください』



との事であった。。



急ぎ部屋に戻り、しばらくすると張 晴/ Zhang
Qing 氏が現れた。



時間がないことは十分理解していたので、単刀直入
に聞きたいことを矢継ぎ早に聞いた。それぞれに丁
寧に答えてもらったが、やはり公的な機関であり、
中国・上海の芸術をある意味司る代表でもある為、
全てに渡ってざっくばらんと言うわけにはいかない。
なによりも、公的な資金の上に成り立っている訳で
あり、その責任があるという事もおっしゃっておら
れた。当然のことだと我々も理解しているところで
はあるが、しかし、そうそう会える人物でもないの
で、しつこく色々質問させてもらった。結果的には
満足のいく面談になったと思う。今すぐ何か具体的
なものが生まれるなどと言うことはないが、それで
もこのような機会に恵まれ僅かながらに縁が生まれ
た事には素直に感謝した。




今後再度我々自身の詳しいポートフォリオを提出
することを約束し美術館を後にした。




その後、昨年の上海アートフェア以降大変お世話に
なっているKFL、LAO氏のご友人やその他ご協力
いただいている方々を食事をし、これまでの報告や
様々な今後に繋がる情報を頂き3日目の出張は終了
いたしました。



翌日最終日



この日は午後6時の飛行機で帰国であったため、
午後3時にはホテルに戻らなくてはいけないため、
市内を午後2時くらいまで行動し、そこからホテル
に戻るというスケジュールにしました。



これまでの3日間のうち2日間はF氏がホテルまで
迎えに来てくれての行動で、3日目の上海美術館は
ホテルから自身でタクシーにて美術館までいきそ
こで皆と合流したのであるが、この最終日は、F氏
から一度地下鉄で目的地までということになった
ので、朝からテクテク南京東駅まで歩き目的地まで
行くことになった。



快晴の上海の街を歩いているととても気分が晴れ
やかで、何故かワクワクと気持ちも高揚し、何と
も言えない充実感が身体を突き抜けた。







街の喧噪が騒がしいというよりも、活気に見溢れ
ていて、生きていく強さ、パワーのようなものを
歩きながら充電しているよな感覚があった。









上海の地下鉄は2回目であったが、実に綺麗で、
日本となんら変わることなはない。




地下鉄網の地図を見ると、ほぼ上海市全域をカバー
しており、よくよく考えれば日本、特に東京や大阪
という都市の例を取っても、実はこの地下鉄という
アクセス手段を選んだ方が時間の配分や金額等、か
なり便利かなとも感じた。





上海市内は交通カードというものがかなり普及して
おり、タクシーも地下鉄も同様に使用することがで
き、地下鉄の駅の改札口で簡単にチャージしてもら
えるので初めての人でも実に便利。


しかしこのカードがないと、、、、、、
すこし厄介で、、地下鉄の切符を自販機で買うの
はちょっと面倒な感じであった・・・



F氏は地下鉄の達人で、新規開通した地下鉄は必ず
乗るということのようでかなり詳しい。そのF氏か
ら地下鉄の方が格段に地理と地名を覚えますよとい
うアドバイスがあった。確かにタクシーは便利な利
器ではあるが、乗ってから車窓を眺めていてもなか
なか東西南北も地名も通りの名前も覚えられない。


しかし足を使って地下鉄に乗り地図を眺め最寄りの
駅を探すと言うことは、否応なく地理を覚える。



今回初めて一人で乗って改めてその重要さを感じた。



これから先も来ることを前提に考えるならば、やは
りもっと上海の地図も地名も頭に入れ、そこからそ
れぞれの区画特有の個性やその背景にある歴史を感
じなければ、いつまでも観光的な空気からは脱却で
きない。



そういう意味では今回地下鉄を勧めていただいた
F氏には改めて感謝でした。。。


さてこの日は午前中



とあるギャラリーを訪問し、その後現在ホットスポ
ットである







田子坊という区画へ、ここで今回お世話になった
F氏とも別れ、そのご一人フラフラ見学し予定の
時間になった頃を見計らいホテルへと戻った。












その後特に問題なく帰国したのですが、振り返って、
今回の訪問は実に有意義であったと感じました。




実際にはこれから色々な宿題を迅速に処理して行か
なくてはいけないのであるが、それにしても、ほん
の少しでも前進できた事には大いに満足しておりま
す。



これから秋のアートフェアまで、様々なことをやら
なくてはなりません、また、具体的な結果も出して
いかなくてはいけません。しかし、だからといって
実力以上を求めて焦るということなく、一つ一つ着
実に前に進めていきたいと考えています。



今回も改めて感じたのですが、中国、日本と
COMBINEに関わって頂ける方が徐々に増え、
その方々のお力添えがあってこそ少しずつ前に進め
ています。



そういった方々をお気持ちを裏切ることのないよ
うこれから全力で取り組まねばと心底決意した次
第です。

▲TOP