RECENT POSTS
本日よりスタート!GOMBESSA proposal ep2 紫色の藝術旅団
12月は京都と高松にGOMBESSA達が集 結!





BAMIgallery(kyoto)にて12月5日(月)より開催予定!


GOMBESSA proposal ep2
紫色の芸術旅団






プレスリリース

↓ ↓ ↓

http://www.scribd.com/doc/73241039/


当企画は12月21日(水)より高松天満屋の美術画廊
にて開催予定の「現代美術のカッティングエッジ京都
・瀬戸内のゴンベッサたち」のプレビュー企画として
京都の差kkあを展開いたします。

16日の会期終了後、高松にて瀬戸内地域のゴンベッサ
たちと合流する予定です。


<参 加アーティスト>※写真左より

阿部端樹 
   
武者宏迪
    
釜匠  

松 本央

佐野暁


2011 年 2月5日(月)~12月 16日(金)
BAMIgallery Open
12:00-18:00
【gallery Close】 12/10.11

BAMI  gallery
http://combine-art.com/html/gallery/ga_access.php



-------------------



続いて高松天満屋にて12月21日(水)より開催予定!

現代美術のカッティングエッジ
京 都・瀬戸内のゴンベッサたち




プレスリリース

↓ ↓ ↓

http://www.scribd.com/doc/73633432/


京都で編成 を整えたゴンベッサたちが、瀬戸内の
ゴンベッサたちと合流!

本年最後に コンテンポラリーアートの拠点である
瀬戸内地域に集結いたします。

若いアー ティスト達のエッジの効いた能力と
可能性にご期待ください。


<参加アーティスト>※写真左より

阿部端樹   ABE Mizuki
武者宏迪    MUSHA Hiromichi
釜匠      KAMA Takumi
松本央    MATSUMOTO  Hisashi
佐野暁     SANO Akira

辻孝文    TSUJI Takafumi
小橋順明   KOBAYASHI Masaaki
炭田紗季   SUMIDA Saki
高松明日香  TAKAMATSU Asuka

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

9 名 の若きアーティストによる ギャラリートーク開催!

12 月24日(土)午後3時~6時

お客様の質疑応答を交え、各アーティスト達の作品に
かける情熱と今後の抱負等を語ってもらいます。

12月25日(日)午後1時~3時

24日と同様、お客様の質疑応答を交え、各アーティスト達
の作品にかける情熱と今後の抱負等を 語ってもらうのと
同時に、地元「塩江美術館」にて同時期開催中の
塩江アートプロ ジェクト
<高松 明日香 イメージの擬 態>
2011 12/17(土)~2012 2/5(日)
についてアー ティスト高松明日 香より展示内容の
説明等紹介さ せてもらいます。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


2011 年 2月21日(水)~12月 30日(金)
高松天満屋 5階美術画廊(入場無料)
午 前10時~ 午後7時30分 ※ 最 終日は午後4時閉場

香川県高松市常磐町1-3-1
お問い合わせ TEL087-812-7548

▲TOP
香港出張報告と29日ラジオ出演
11月25日(金)から11月29日(火・am6:00)


の間、香港に出張に行ってました。


香港に最初に行ったのは


2007年11月24日


二回目に行ったのは


2008年5月23日でした。



この間(リーマンショック前)に香港で何が起こって
いたかをご存知の方も多いと思います。


これまでその事にはこのブログではあえて触れてき
ませんでしたが、私もホンの少しその渦中にいました。



今回の出張


これは今後に対しての重要なリサーチであり
今の状況把握という内容が中心でした。


又本年ご縁をいただいたコレクター様への
挨拶とその他関係者との打ち合わせ等、4日間
かなり内容の濃い出張となりました。


この間の香港は


オークション・ウィークでした。


香港はもちろん日本からも台湾、韓国や
サザビーズといったオークションハウス
がプレビューも含めてこの間開催していました!


クリスティーズ香港






ここに伺うのは3年ぶり3回目です。


オークションの規模、内容は間違いなく東アジアNo1
であり、ミュージアムピースレベルの作品がプレビュー
では満載、ある種の社交場的雰囲気が様々な意味で
訪問する人々を魅了する。


正直、不遜かもしれませんが、ここを見ずして
東アジアのアートマーケットの状況を語るのは
如何かな?と思います。


結果からの考察に関してはまた別のエントリーにて
紹介させていただきたいのですが、かいつまんで
申し上げれば、現在香港の主要顧客は中国メインランド
台湾、シンガポール、インドネシアというラインナップ
だと思います。ボリュームで言えば中国と台湾がほとん
どでしょうか?


内容に関しては、時代的には、骨董、近代というのが
中心です。しかも近代中国の油画、国画と呼ばれる
彩色の墨彩画等が異常に高騰しています。
1800年代後半から1900年代初頭及び1960年代位かな?


所謂この時系列で考えた場合、、、


中国が極度に混乱していた時期と符合します。

つまり清朝末期、及び大東亜戦争期、そして
文化大革命期と言う事です。


中国のロストジェネレーション


つまりこの過酷な時代に苦境を乗り越えて
活躍した?もしくは再評価されている作家が
億円単位で取引されています。

特に西洋的な感覚を内包した、もしくは
実際にレオナルド藤田のように異邦人と
して活躍した等です。

これは様々な考え方はあると思います。

間違いなく中国人による中国的価値の投機的
な動きでしょう。

そしてもう一つは中国だけのある意味
相対的価値観による動きだと言う事です。


西洋と同期した値動きではない、、、、


どういった事かと言えば



モネ、ゴッホなどよりもずっと高い
中国近代作家がゴロゴロ存在するという
事です。

我々からすると少し理解に苦しむ
状況ですが・・・・・


価格、取引高だけで見れば事実です。


ここではこの程度の紹介しかできませんが
アートプライス社という所のレポートを
探してお読みください。



以下はその一端です。



---------------------



中国は2010年、世界の美術品

(絵画、展示品、彫刻、素描、写真、

印刷物)の33%を占めており、

米国は30%、英国は19%、

フランスは5%だった。



さらに2010年の競売額による

世界のトップ10に入る中国の

芸術家は4人(2009年は1人)

となり、そのうち競売額の一番低い

人で1億1200万ドルを生み出し

ている。斉白石はアンディ・ウォー

ホルや同時代の張大千を押さえて

2位となり、徐悲鴻は6位の

1億7600万ドル、傳抱石は

9位だった。中国芸術家の若い

世代もいまや先人よりさらに強力

に進出している。2010年の世界

トップ10に入る現代芸術家のうち

、半分以上が中国人である

(曽梵志、陳逸飛、王沂東、張暁剛、

劉小東、劉野)。米国はバスキア、

クーン、プリンスの3人である。




-----------------



特に斉白石や張大千、趙無極などは
恐ろしい値段に高騰している・・・


さて、、リーマンショック前に
高騰していたコンテンポラリー
はどうか?


実は上海で知り合ったあるギャラリスト
と偶然出会い、状況を聞いたところ、、
確実に買い控えていると言う事です。

しかし、まま、ある意味安定的な局面に
入ったかな?とも私は感じました。

そして日本人はと言えば、、、、、、


正直、草間、奈良、村上(?は確実に
以前ほどではない、と感じました。)
位でしょうか?


そして今回の特徴は


諏訪敦でしょう。


日本でもここ最近雑誌は毎月写実という括りで
特集を組んでいますが、、その流れか?


私は当然それもあるだろうとは感じますが、、
全体的に、写実に限らず、絵と言うものの
本質軸に回帰しているのではないか?と
感じています。


つまり泡沫的な動きではなく・・・・


当然、近代物の高騰という局面はあるにしても
コンテンポラリーの高騰から凋落局面は全体の
平均を下げる要因として否めません。


その中間で安定的な、所謂普遍性を持った価値観
に相応するものを提示していくとなればやはり
これらの感覚が中心となるのではいか?と感じま
した。


またもう一つの大きな流れは


中国の近代に反応?もしくはコミットすべく
日本の近代物が提示されているという点です。


児島善三郎、藤田嗣治等々、、、


つまり今後中国近代の流れ余波を買って
アジア近代という枠のイメージを持って
いるのか?と感じました。


冷静にその感性を考えれば


アーティストの生き方に対しての考察が
かなり重要な要素として感じられました。


瞬間的なハプニング性に近い直感的な
ものは退行し、重厚な感覚が求められて
いるのかな?と思います。


いずれにしても、、、、



3年前狂乱からクラッシュした、、あの時分の
銘柄は皆無に近い状態であることは間違いあり
ません。


そして、、ここが一番大事な事ですが


これはもう東アジアでは結論が出ている
状況の認識ですが、、、、、


日本人は売りに来ただけで


買わない・・・・・


これは正直、深刻な状況です・・・・
実際、、冷静に直視すれば、、、、
日本という枠の価値は毀損し
ほとんど無くなりかけてます・・






唯一


先ほど記した草間、奈良、村上が
ある意味守護しているような状況
かもしれません。


異論は多々あるでしょう、、しかし
私はマーケットの成立という観点から
考えればそう感じます。


*****************




さてオークションから


本年ご縁を頂いたコレクターとお会いし
様々な楽しい会話、そしてご自身のコレク
ションをマンションまで伺い拝見させてい
ただきました。






ALEX氏


陶器、カメラ、コンテンポラリーアートの
コレクターで実に情熱的で優しいジェント
ルマンでした。





ご自身のコレクションを丁寧に説明して下さいました。

世界中を飛び回りながら、コレクションの研究
をされておられ、必ず質問する事には文献を示し
詳しく説明してくださいました。


そして台湾式のティー・ブレイク


マンションの24階、彼の部屋から臨む
オーシャンビューは気持ち良いの一言
に尽きました。








***************



その他にも様々な方とお会いし打ち合わせを
いたしましたが、タイムアップ!


29日深夜1時半フライト・・・









帰る数時間前、日本からメールが、、、


12時半からラジオの生放送が入りました!
12時から打ち合わせです。



大丈夫ですか?





午前6時に関空着、戻るにはなんの問題もないが、、
打ち合わせが一件、、、、


なんとか無事スケジュールは調整でき


生放送出演・・・


初めてラジオの中継生放送というのを経験しました
が、、実に面白い経験でした。






わずか30分で要点を取材

見事な手際でした。






約10分間の出演。

途中、、お客様???にも出演いただき
臨場感を演出!!!


「かわいい---!」








なんとか無事終了いたしました・・・・・



KBS京都様



ありがとうございました!












▲TOP
佐野暁展終了のご挨拶
佐野 曉 URUSHI exhibition
Hello ♡ Kumasan





昨日(11/30)を持ちまして無事終了いたしました。


たくさんの皆さまにご来廊いただき、誠にありがとう
ございました。


心より御礼申し上げます。


また、この展覧会をご紹介いただきました


週刊新潮様、リビング新聞様、KBS京都様、はじめ
様々な形で告知頂きましたメディアの皆様、誠に
ありがとうございました。


丁寧にご紹介いただきましたそのお言葉の
ご期待に応えられるよう作家共々、尚一層努力す
る所存でございますので今後ともよろしくお願い
申し上げます。


さて展覧会の状況ですが、


佐野君とは以前に知り合った時の事を少し
触れさせていただきましたが、私としては


満を持して、というのが偽りなき心境でし
た。


漆という技法を考えれば、、、


作家活動に突入したばかりの彼が寡作である
ことは致しかない、、、、、


しかし一日でも早く当方で、紹介したいとい
う強い思いがずっとありました。


その思いと、彼のスケジュールが合致するポイント、
それを調整して実現したのが今回の展覧会でした。


それだけに私にとっては思い入れの深い展覧会の
実現となりました。


そして、その期待通り、メディアの方々の反応、その
反応によりお越しいただいた沢山の方々、、、、


なかでもとても嬉しかったのは、


普段、あまりギャラリーに見えられないような
方々が多数足をお運びいただいた事でした。


お母様の手を引っ張って来てくれた
小さなお子様たち、年配のご夫婦、、、、、


また同じ道の先輩、そして高名な現代美術作家の


「いやぁ~気になって見に来ました!」


という感想は、こういうギャラリーを運営する者
にとっては、ある種、溜飲が下がる思いでした。



佐野君の個展はこれで終了いたしますが、


12月5日(月)からは


GOMBESSA proposal ep2
紫色の藝術旅団



2011.12.05 (mon) - 2011.12.16 (fri)
gallery close 12/10・11
open 12:00~18:00

GOMBESSA proposalの第2回目企画。
COMBINEが選抜する京都で活動するエッジの効いた
ゴンベッサたちの新作を網羅。

※プレスリリース

↓ ↓ ↓

http://www.scribd.com/doc/73241039/

当企画は12月21日(水)より高松天満屋5階美術画廊
にて開催予定”現代美術のカッティングエッジ
京都・瀬戸内のゴンベッサたち”のプレビュー企画
として京都側の作家を展開いたします。

↓ ↓ ↓

http://www.scribd.com/doc/73633432

16日の会期終了後高松にて瀬戸内側のゴンベッサたち
と合流する予定です。

京都で編成を整え本年最後に瀬戸内地域の
コンテンポラリーの拠点へ進攻いたします。

【参加アーティスト】
釜匠
松本央
阿部瑞樹
佐野暁
武者宏迪




開催させていただきます。


このグループ展でも引き続き佐野作品はご覧いただけます
ので、お見逃しされた方はぜひご来場くださいませ。


そして佐野作品だけではなく、


釜匠、松本央、阿部瑞樹の会心の大作及び、

これがデビューとなる京都造形芸術大学4回生

の武者宏迪の作品を展示する予定ですので、

こうご期待ください!



























▲TOP
八木佑介 solo exhibition 【午前2時】@高松天満屋アートギャラリーにてスタート
本日(11/23)より

八木佑介 solo exhibition 【午前2時】





高松天満屋5階アートギャラリーにてスタート

いたしました。

会期:11月23日(水)~12月30日(火)
場所:高松天満屋5階アートギャラリー
直通電話:087(812)7549 担当 青野
※最終日は午後4時閉場


午前二時五十分
60.6×60.6(cm)
2011年制作
画布、水干絵具、岩絵具


午前二時五十八分
65.1×65.1(cm)
2011年制作
麻紙、水干絵具、岩絵具







午前二時五十二分
145.5×145.5(cm)
2011年制作
麻紙、水干絵具、岩絵具




【展覧会ステイトメント】


午前二時、誰もいなくなった街には光が溢れている。

夜が明る過ぎるのではないだろうか、と僕は思う。

無人の街を煌々と照らし続ける光に僕達は麻痺している。

この作品群では画面を真っ暗に塗りつぶした上から

光の粒子を点描として描き重ねている。

この絵にあるのは光と闇だけであり、その光の群れ

により街が形取られている。自然本来のそこにある

べき夜の闇と無人の街を支配する人工の光の関係から、

僕達人間が築いたこの巨大な都市の姿をとらえたい。



-------------------






彼、八木君は京都造形芸術大学の3回生です。

彼と知り合ったのはもう一年位前になるだろうか?

その時から彼はステートメントに記す、、、

*********

午前二時、誰もいなくなった街には光が溢れている。

夜が明る過ぎるのではないだろうか、と僕は思う。

無人の街を煌々と照らし続ける光に僕達は麻痺している。

*********



このことをを語っていた。

本年3.11以前だ・・・・

つまり3.11以降、日本が国の未来を考えるにつけて

焦点となる部分である。



我々がそうも考えなかった部分、疑問もなく享受

していた部分、、、、

それを彼ら若者、とりわけ彼は鋭敏な感受性で

その不条理を嗅ぎとっていたのだ・・・・

彼がポロッと私に語った一言が

恐ろしく心に響き、、唖然とした・・



「映画のセットみたいなんですよねぇ~
深夜の街って・・・・なんか魅かれるんです・・」



そうなのだ、、、、



人が寝静まった街、、そこに煌々と点く灯り

現実であり人が感知しない虚構でもある・・・・




なぜ、なんの為に、、、




彼が描く大半のロケーションを私は知っている

彼と私の家は近い。

この数年前に出来た京都南部の高速のジャンクションだ

確かに何度も深夜このローケーションの中を

車で走った。



人も車もない、、、点滅する信号と只々道を照らす

灯り・・・・


街という生命体の静かな寝息のようにも感じるし、、
彼が言う通り、、、映画のセット・虚構のようにも
感じる・・・・



・・・・・




この深夜2時、無人の街の明かりを彼は


先人達が雄大な自然に寄り添い描いたのと


同様に、、、、


現代の自然たる風景として描こうとしている・・




そこには、、、




我々が目を背けられない




今という同時代を純度高く写す




鏡が存在する・・・・


















▲TOP
死への彷徨
最初の子供ができた時、忘れた事があった。


2番目の子供の時には忘れない様、、、、


そのタイミングを待った。。



それは・・・・・・・



母親のおなかの中に居る時の記憶を聞く
ことである。


ずーと以前に誰かに聞いた事がある。



物心ついて言葉を覚え始めると、それま
での記憶が消えて無くなると。


無くなるというより、消されるという
ほうが近いかもしれない。


消しゴムで誰かが自分のノートを消す
様に。。



しかし、その狭間、記憶が消し去られ
るほんの手前の瞬間には、ひょっとし
て僅かな記憶とそれを表現できる極々
わずかな言葉が残せるのでないだろう
か?と考えた。。


あくまで私の確認でしかないし、本当
にその事を子供が語っているかどうか
の確証は掴めないのだが…


それでもこの興味は抑えがたいものが
あった。。。


2番目の子供が、言葉らしきものを話し
出した時


このタイミングとばかりに聞いた…・


すると、


“暗いところで浮いていた”と答えた。。


正確には浮いている状態を擬態語で表現
しており、言葉では無かったのであるが、
でも間違いなく、記憶にあった。。。


しかし、聞いた後すこし後悔した。。



何かわからないものが物凄い勢いで消し
込んでいる状態に、割り込むことが何ら
かの影響にならないか??と。。。



物心というが、この狭間がなにか還俗す
る瞬間なのか?とも考える。


あるテレビを見ていて関心した。


あかちゃんをプールに放り込むのである。


通常だと無謀にみえる行動だが、しかし、
あかちゃんは泳ぐのである。


そこから色々な説明があったが、基本的
な人間の機能がじつは既に備わっている
らしいのである。


生存本能と言う方が近いかもしれない。


まぁそうなのかもしれない。その潜在的
な能力の覚醒が歩いたり喋ったりという
ことなのであろう。。


しかしこのタイミングで記憶が消えて
無くなる。。


医学的な問題ではなく、私はこの瞬間が
非常に興味がある。


ある種宗教的な解釈を加えた方が理解
しやすいのかもしれない。


そして歩き立ちしゃべり始めるまでの期間、


あかちゃんは全て“かわいい”。。


ここにも潜在的な能力が隠れていると聞く。。


明かに弱者であるということが潜在的な
DNAの中に組み込まれていて、外敵から
の防御として“かわいい”という雰囲気を
醸し出し、極力攻撃を回避するようにして
いるらしいのである。


これも確証たるものはないが、しかし理解
できる。。


父親の精嚢から生れ、何億という競争を
生物として勝ち抜き、そして人体を勝ち
得ていくのである。


その経過を考えてもそれぐらいの戦略性
がDNAに組み込まれていてもおかしく
ないだろう。。


そして、それは死なない為にと言うとこ
ろから生み出された生への攻撃に他なら
ない。


生命を得て世間に出現するのだが、それは
結局積極的な死への彷徨の始まりである。



母親のおなかの中で保持していた記憶は
どこから始まるのであろう?


それは生死の狭間からの記憶のような気
がする。。。。



それが消し込まれる・・生への記憶の
蓄積ばかりが先行していくが、本質は
死へ向かう記憶の蓄積にほかならない。




松下幸之助翁の言葉にある。


「死を恐れるのは人間の本能である。だが、
死を恐れるよりも、死の準備のないことを
恐れたほうがいい。人はいつも死に直面し
ている。それだけに尊い。そしてそれだけ
に、与えられてる生命を最大に生かさなけ
ればならないのである。それを考えるのが
すなわち死の準備である。そしてそれが生
の準備となる。」


死を忘れた人間世界が現在のスタンダード
な社会である。


厚かましくも当然長生きする期待に満ち溢
れている。


かくいう私もそうだ。



しかしそれでも限界、いや、目安は一応
各自もっている。


それは平均寿命という客観的な数値である。



そこまでの人生の計画が全て計算されている。


経済的にも精神的にも。。


しかし、誰もそれを保証されているわけでは
ないのだが。。。。。


平均という確率から外れる可能性を見なくな
る。。。


平均という大部分に何故か自分を適合させる。



どういうわけか本来個人と言う唯一無二の
存在が持つ絶対値であるはずのもの
が、相対的な思考に変化しているのだ。。



これは私も含めてだが、松下翁が言うと
ころの生の準備への不備を逆説的である
が説明しているし、大半が問題としない
事柄になっている。


しかし、なぜ問題としないでいけるの
だろうか???


・・・・・・・・・・・・・





世の中にはそんな問題、生の相対値
とは無縁の人間がいる。。


絶対値で生きていく人間が。。。


よく破滅型とか言うのだが。。



それは我々側からの見方でしかない。。
安穏と計算して暮らしている。。



始まりと終わりを、自分たちの量の
過小と比べているだけで濃度を測って
いないのだ。。



明かに我々から見ると死を恐れない
生きかたとしてしか見えない存在が
ある。



本人の計略でそういう相違を起して
いるわけではなく。



自然と我々社会と乖離する人間がい
る。



我々の考えの範疇を遥かに超すので
ある。


なぜ?そんなことになるのか??



考えると、死を常に背中に背負って
いるのだろう…



しかしそれは我々が考える死と果
たして同じなのだろうか??



生命の終焉ではなく、



実際は、



生への実感の消失との闘いのように思える。。。



この場合の”生”とは一体なんなのか?


これが絶対値ではないか・・・・



・・・・・・・・



真剣士・小池重明。。



体じゅうにつけられた酸素吸入器や点滴
の管を引きちぎり、44年の人生を終わ
らせた。


客観的には自殺なのだが、しかしそうは
感じない。。。



彼の生き様にはその事が凝縮している。。



ルポライターの竹中労の言葉にある。



「人は、無力だから群れるのではなく、
群れるから無力になる。」



・・・・・・・・・



遠い物心つく前の生と死の狭間の記憶
を残し、強烈な死への彷徨を突き進む
人間が存在する。



そこには我々が気づかない、生への
準備を示す生きかた、死への彷徨の
本質を語り、教えてくれるものが存
在する。



遠い物心つく前の記憶。。。




姑息に立ちまわる自分が嫌になる
今日この頃だ。。

▲TOP