November 16,2011
最初の子供ができた時、忘れた事があった。
2番目の子供の時には忘れない様、、、、
そのタイミングを待った。。
それは・・・・・・・
母親のおなかの中に居る時の記憶を聞く
ことである。
ずーと以前に誰かに聞いた事がある。
物心ついて言葉を覚え始めると、それま
での記憶が消えて無くなると。
無くなるというより、消されるという
ほうが近いかもしれない。
消しゴムで誰かが自分のノートを消す
様に。。
しかし、その狭間、記憶が消し去られ
るほんの手前の瞬間には、ひょっとし
て僅かな記憶とそれを表現できる極々
わずかな言葉が残せるのでないだろう
か?と考えた。。
あくまで私の確認でしかないし、本当
にその事を子供が語っているかどうか
の確証は掴めないのだが…
それでもこの興味は抑えがたいものが
あった。。。
2番目の子供が、言葉らしきものを話し
出した時
このタイミングとばかりに聞いた…・
すると、
“暗いところで浮いていた”と答えた。。
正確には浮いている状態を擬態語で表現
しており、言葉では無かったのであるが、
でも間違いなく、記憶にあった。。。
しかし、聞いた後すこし後悔した。。
何かわからないものが物凄い勢いで消し
込んでいる状態に、割り込むことが何ら
かの影響にならないか??と。。。
物心というが、この狭間がなにか還俗す
る瞬間なのか?とも考える。
あるテレビを見ていて関心した。
あかちゃんをプールに放り込むのである。
通常だと無謀にみえる行動だが、しかし、
あかちゃんは泳ぐのである。
そこから色々な説明があったが、基本的
な人間の機能がじつは既に備わっている
らしいのである。
生存本能と言う方が近いかもしれない。
まぁそうなのかもしれない。その潜在的
な能力の覚醒が歩いたり喋ったりという
ことなのであろう。。
しかしこのタイミングで記憶が消えて
無くなる。。
医学的な問題ではなく、私はこの瞬間が
非常に興味がある。
ある種宗教的な解釈を加えた方が理解
しやすいのかもしれない。
そして歩き立ちしゃべり始めるまでの期間、
あかちゃんは全て“かわいい”。。
ここにも潜在的な能力が隠れていると聞く。。
明かに弱者であるということが潜在的な
DNAの中に組み込まれていて、外敵から
の防御として“かわいい”という雰囲気を
醸し出し、極力攻撃を回避するようにして
いるらしいのである。
これも確証たるものはないが、しかし理解
できる。。
父親の精嚢から生れ、何億という競争を
生物として勝ち抜き、そして人体を勝ち
得ていくのである。
その経過を考えてもそれぐらいの戦略性
がDNAに組み込まれていてもおかしく
ないだろう。。
そして、それは死なない為にと言うとこ
ろから生み出された生への攻撃に他なら
ない。
生命を得て世間に出現するのだが、それは
結局積極的な死への彷徨の始まりである。
母親のおなかの中で保持していた記憶は
どこから始まるのであろう?
それは生死の狭間からの記憶のような気
がする。。。。
それが消し込まれる・・生への記憶の
蓄積ばかりが先行していくが、本質は
死へ向かう記憶の蓄積にほかならない。
松下幸之助翁の言葉にある。
「死を恐れるのは人間の本能である。だが、
死を恐れるよりも、死の準備のないことを
恐れたほうがいい。人はいつも死に直面し
ている。それだけに尊い。そしてそれだけ
に、与えられてる生命を最大に生かさなけ
ればならないのである。それを考えるのが
すなわち死の準備である。そしてそれが生
の準備となる。」
死を忘れた人間世界が現在のスタンダード
な社会である。
厚かましくも当然長生きする期待に満ち溢
れている。
かくいう私もそうだ。
しかしそれでも限界、いや、目安は一応
各自もっている。
それは平均寿命という客観的な数値である。
そこまでの人生の計画が全て計算されている。
経済的にも精神的にも。。
しかし、誰もそれを保証されているわけでは
ないのだが。。。。。
平均という確率から外れる可能性を見なくな
る。。。
平均という大部分に何故か自分を適合させる。
どういうわけか本来個人と言う唯一無二の
存在が持つ絶対値であるはずのもの
が、相対的な思考に変化しているのだ。。
これは私も含めてだが、松下翁が言うと
ころの生の準備への不備を逆説的である
が説明しているし、大半が問題としない
事柄になっている。
しかし、なぜ問題としないでいけるの
だろうか???
・・・・・・・・・・・・・
世の中にはそんな問題、生の相対値
とは無縁の人間がいる。。
絶対値で生きていく人間が。。。
よく破滅型とか言うのだが。。
それは我々側からの見方でしかない。。
安穏と計算して暮らしている。。
始まりと終わりを、自分たちの量の
過小と比べているだけで濃度を測って
いないのだ。。
明かに我々から見ると死を恐れない
生きかたとしてしか見えない存在が
ある。
本人の計略でそういう相違を起して
いるわけではなく。
自然と我々社会と乖離する人間がい
る。
我々の考えの範疇を遥かに超すので
ある。
なぜ?そんなことになるのか??
考えると、死を常に背中に背負って
いるのだろう…
しかしそれは我々が考える死と果
たして同じなのだろうか??
生命の終焉ではなく、
実際は、
生への実感の消失との闘いのように思える。。。
この場合の”生”とは一体なんなのか?
これが絶対値ではないか・・・・
・・・・・・・・
真剣士・小池重明。。
体じゅうにつけられた酸素吸入器や点滴
の管を引きちぎり、44年の人生を終わ
らせた。
客観的には自殺なのだが、しかしそうは
感じない。。。
彼の生き様にはその事が凝縮している。。
ルポライターの竹中労の言葉にある。
「人は、無力だから群れるのではなく、
群れるから無力になる。」
・・・・・・・・・
遠い物心つく前の生と死の狭間の記憶
を残し、強烈な死への彷徨を突き進む
人間が存在する。
そこには我々が気づかない、生への
準備を示す生きかた、死への彷徨の
本質を語り、教えてくれるものが存
在する。
遠い物心つく前の記憶。。。
姑息に立ちまわる自分が嫌になる
今日この頃だ。。
2番目の子供の時には忘れない様、、、、
そのタイミングを待った。。
それは・・・・・・・
母親のおなかの中に居る時の記憶を聞く
ことである。
ずーと以前に誰かに聞いた事がある。
物心ついて言葉を覚え始めると、それま
での記憶が消えて無くなると。
無くなるというより、消されるという
ほうが近いかもしれない。
消しゴムで誰かが自分のノートを消す
様に。。
しかし、その狭間、記憶が消し去られ
るほんの手前の瞬間には、ひょっとし
て僅かな記憶とそれを表現できる極々
わずかな言葉が残せるのでないだろう
か?と考えた。。
あくまで私の確認でしかないし、本当
にその事を子供が語っているかどうか
の確証は掴めないのだが…
それでもこの興味は抑えがたいものが
あった。。。
2番目の子供が、言葉らしきものを話し
出した時
このタイミングとばかりに聞いた…・
すると、
“暗いところで浮いていた”と答えた。。
正確には浮いている状態を擬態語で表現
しており、言葉では無かったのであるが、
でも間違いなく、記憶にあった。。。
しかし、聞いた後すこし後悔した。。
何かわからないものが物凄い勢いで消し
込んでいる状態に、割り込むことが何ら
かの影響にならないか??と。。。
物心というが、この狭間がなにか還俗す
る瞬間なのか?とも考える。
あるテレビを見ていて関心した。
あかちゃんをプールに放り込むのである。
通常だと無謀にみえる行動だが、しかし、
あかちゃんは泳ぐのである。
そこから色々な説明があったが、基本的
な人間の機能がじつは既に備わっている
らしいのである。
生存本能と言う方が近いかもしれない。
まぁそうなのかもしれない。その潜在的
な能力の覚醒が歩いたり喋ったりという
ことなのであろう。。
しかしこのタイミングで記憶が消えて
無くなる。。
医学的な問題ではなく、私はこの瞬間が
非常に興味がある。
ある種宗教的な解釈を加えた方が理解
しやすいのかもしれない。
そして歩き立ちしゃべり始めるまでの期間、
あかちゃんは全て“かわいい”。。
ここにも潜在的な能力が隠れていると聞く。。
明かに弱者であるということが潜在的な
DNAの中に組み込まれていて、外敵から
の防御として“かわいい”という雰囲気を
醸し出し、極力攻撃を回避するようにして
いるらしいのである。
これも確証たるものはないが、しかし理解
できる。。
父親の精嚢から生れ、何億という競争を
生物として勝ち抜き、そして人体を勝ち
得ていくのである。
その経過を考えてもそれぐらいの戦略性
がDNAに組み込まれていてもおかしく
ないだろう。。
そして、それは死なない為にと言うとこ
ろから生み出された生への攻撃に他なら
ない。
生命を得て世間に出現するのだが、それは
結局積極的な死への彷徨の始まりである。
母親のおなかの中で保持していた記憶は
どこから始まるのであろう?
それは生死の狭間からの記憶のような気
がする。。。。
それが消し込まれる・・生への記憶の
蓄積ばかりが先行していくが、本質は
死へ向かう記憶の蓄積にほかならない。
松下幸之助翁の言葉にある。
「死を恐れるのは人間の本能である。だが、
死を恐れるよりも、死の準備のないことを
恐れたほうがいい。人はいつも死に直面し
ている。それだけに尊い。そしてそれだけ
に、与えられてる生命を最大に生かさなけ
ればならないのである。それを考えるのが
すなわち死の準備である。そしてそれが生
の準備となる。」
死を忘れた人間世界が現在のスタンダード
な社会である。
厚かましくも当然長生きする期待に満ち溢
れている。
かくいう私もそうだ。
しかしそれでも限界、いや、目安は一応
各自もっている。
それは平均寿命という客観的な数値である。
そこまでの人生の計画が全て計算されている。
経済的にも精神的にも。。
しかし、誰もそれを保証されているわけでは
ないのだが。。。。。
平均という確率から外れる可能性を見なくな
る。。。
平均という大部分に何故か自分を適合させる。
どういうわけか本来個人と言う唯一無二の
存在が持つ絶対値であるはずのもの
が、相対的な思考に変化しているのだ。。
これは私も含めてだが、松下翁が言うと
ころの生の準備への不備を逆説的である
が説明しているし、大半が問題としない
事柄になっている。
しかし、なぜ問題としないでいけるの
だろうか???
・・・・・・・・・・・・・
世の中にはそんな問題、生の相対値
とは無縁の人間がいる。。
絶対値で生きていく人間が。。。
よく破滅型とか言うのだが。。
それは我々側からの見方でしかない。。
安穏と計算して暮らしている。。
始まりと終わりを、自分たちの量の
過小と比べているだけで濃度を測って
いないのだ。。
明かに我々から見ると死を恐れない
生きかたとしてしか見えない存在が
ある。
本人の計略でそういう相違を起して
いるわけではなく。
自然と我々社会と乖離する人間がい
る。
我々の考えの範疇を遥かに超すので
ある。
なぜ?そんなことになるのか??
考えると、死を常に背中に背負って
いるのだろう…
しかしそれは我々が考える死と果
たして同じなのだろうか??
生命の終焉ではなく、
実際は、
生への実感の消失との闘いのように思える。。。
この場合の”生”とは一体なんなのか?
これが絶対値ではないか・・・・
・・・・・・・・
真剣士・小池重明。。
体じゅうにつけられた酸素吸入器や点滴
の管を引きちぎり、44年の人生を終わ
らせた。
客観的には自殺なのだが、しかしそうは
感じない。。。
彼の生き様にはその事が凝縮している。。
ルポライターの竹中労の言葉にある。
「人は、無力だから群れるのではなく、
群れるから無力になる。」
・・・・・・・・・
遠い物心つく前の生と死の狭間の記憶
を残し、強烈な死への彷徨を突き進む
人間が存在する。
そこには我々が気づかない、生への
準備を示す生きかた、死への彷徨の
本質を語り、教えてくれるものが存
在する。
遠い物心つく前の記憶。。。
姑息に立ちまわる自分が嫌になる
今日この頃だ。。
