宋ちゃんの表現
November 30,2009
11月2日から始まった
宋知宣solo exhibition「土の雨」が本日で終了するが、
実はこれほど早く終了を感じた展覧会は今までない。

なぜか?
自分なりにはっきりとした結論は堅持している。
それは、彼女の展覧会を契機に自分なりの今後の方向性を
明確にしたいという強い思い入れがあったからだ。
COMBINEとBAMIgalleryは、ただ単に作家の作品を売る
紹介するという機能を先議として有する他とは確実に違う
という意思表示とそれに適う芸術表現を追求し、それらから
確かな芸術的担保を与えられる商売として我々が選択した作家
を訴求するという根本の理念を具体的に具現化していく。
そのための可視化行為として即時の商業性を得られないが、
芸術表現に対する考え方、その為の空間性の意味を強烈に
アピールし得るインスタレーション展開を積極的に取り入れる
ことにより、その個性を他に比類なきものとして反映させる
勝負に出る。
実に大層なことを列記したが、私としては確実にこのような
事を念頭に置き、彼女の企画を決意したのである。
ただ単に作家を選択し、それを展示し販売・・・・・
どこに優位性があるのか?いち早く選択したということのみを
優位性として捉えることに私は大いなる疑問を過去も現在も
抱いている。確かに選択がなければ成り立たないものでもあるが
なぜ?選択したのか?という事に対する考え方というものの
打ち出し方がもっとも重要なのではないのか?と思うのである。
選択するには理由がある。たとえ他の環境にてすでに選択されて
いたとしても、そこには確実に独自の選択理由が必要だと私は
思う。
我々が選択する意味が他所と仮に同一視された場合があるならば
それはやはり商売的な合理性という部分に集約するように受け止
められることを避けることは出来ない。
商売を一義とする集団が、、、
それを否定するのは可笑しな話のように受け止められるかもしれ
ないが、しかし、冷静に逆から考えれば、主体性をなくした選択
理由には、なぜ?そこでないといけないか?という必然性は雲散
霧消化し、誰がやっても良いではないかという結論にしか辿り着
かない。
それでは、なんの為に優れた芸術を独自に探し出し世の中に訴える
のかという根本的な存在意義まで問われることになりかねない。
私が見る限りこれからのこの商売のあり方は、他所は知らないが、
私自身としては決してそれでは通用しないと考えたのである。
芸術のコンビニエンスストアをCOMBINEしたいなどと思ったこと
はない。
大して売れていないものが偉そうに言うな!と
叱責され馬鹿にされるのも現状からは致し方ない、、
その通りである!
これは正直に申し上げれば、確実に大して売れてなんかいない。
こんな事に嘘をついたところで何の意味もない。
しかし大して売れていないのであるという現実が前にあるなら
ばこそ・・・
いっそのこと“本当に売れない”ものを力強く押し出した方が、
やっている事の意味を伝えるために残るものも実に大きい。
同じ時間の消費にしても大きな意味の違いが生まれる。
笑い話であるが
売れなかった訳ではない!
もともと誰が見ても“銭”に変わらないものだから、売れま
すの?売れてますの?などというくだらないものにも制約さ
れず
清々する!!
そんな思いが。実は彼女と出合ったころに芽生え始めていた。。
彼女と初めて出会ったのは今年の春だったと記憶している。
たまたまギャラリーを見に来てくれたときに、レンタルスペー
スと勘違いしたのがキッカケとなり、ポートフォリオを見るこ
とになった。
色々話をしたが、その時に一番感じたのは、確かにこの子は
韓国から日本に焼物・陶磁器を学びに来ているが、その本質は
なにも焼物の技術のみを修得しにきているわけではない!という
事が如実に掴み取れた。
これは何を意味しているか?彼女は自身の表現のために焼物
陶磁器を材料として選択しているだけであり、焼物という
日本国内でこの言葉から連想するようなものの最終形をまった
く想像として持っていないという事であった。
ポートフォリオに載せていた過去の作品も彼女が語る言葉も
、そこには従来の焼物などという制約はまったくなかった。
正直に私が感じたものは、コンセプチャルなアート、それを
陶磁器という日常の固定観念下で凝固したものを駆使しぶち
破るという手法に見えたのであった。
確かに日本の中にも優れた陶磁器による“オブジェ”を作り出す
作家が存在する。しかし宋知宣が考えているものと、それら既存
の有名作家が考えているものと、私は最初から同一視できない
大きなものを感じとれたのである。
彼女のポートフォリオの中にあったBOXという作品の説明文が私
の目を強く引き付けた!
完璧でない日本語表現のため違和感のある箇所が存在するが、
原文のまま正確に転記したいと思う。
----------------------------------------------------
BOX中に自分の去る記憶(過去/思い出・・)表現

冷蔵庫/髪の毛/ビーカー8個/試験管5個/試験管大/絵の具/
ハロゲンランプ/電線及び220Vコード/糸/針金/水・・
冷蔵庫は私の記憶を盛っておく貯蔵庫だ。一日中よく開いて
(取り出して)閉める(入れて置く)・・オリルゾック
(他人達と違うように)平凡ではなかったお父さんの
存在-冷蔵庫考案に常に置かれていたビーカーを思い浮か
んで・・・・
冷蔵庫-記憶の貯蔵庫だ。
冷蔵庫の開いて閉める感じを観覧者が体験するよう
にしたかった。
正四角形に近い形態を捜してBOXをイメージを現したし、
新しいものではない中古を利用して過去のイメージを現そ
うとした。
ビーカー 具体的な記憶を盛ることができる道具だ。
お父さんを意味して、量をはかることができる役目もできる。
髪の毛 オブジェ(記憶そして自我)私が夢の中で見た滲む
こととママが師私の胎夢での蛇そして私は巳の年生まれた。
そんな相関性を念頭してオブジェを作った。
ビーカーの中にそして水中に掛かって浮遊する自我を現す。
絵の具を盛った試験管-自分のこれからの(美しい)未来
をそしてお父さんの化学実験がまた始まっていつかは成功
するだろうという
念頭の意味がある。
-----------------------------------------------
少し難解であるが、この文章で大事なポイントは
●冷蔵庫は私の記憶を盛っておく貯蔵庫だ。
●ビーカー 具体的な記憶を盛ることができる道具だ。
お父さんを意味して、量をはかることができる役目もできる。
冷蔵庫という日常の中に存在する物品。その機能とは食材が
出たり入ったりし体内に吸収されるまでの時間的中間位置に
存在する。
中身は日々入れ替わり、新たな構成に変化し続ける。
が、冷蔵庫という本質には時間経過においての変化はない。
ここに彼女がこだわり続ける日常性というものが深く凝縮さ
れているような気がしてならない。
記憶の連続性が人間を構成し、自分をとりまく家族までを
も同一線上に整列させる。その最小単位としての装置が記
憶の断片であり、その補完装置が人間の脳裏をはじめとす
るものとなる。
人間の肉体を通過する日常と冷蔵庫というものへの仮託。
このコンセプトが実に面白いのと同時に、ビーカーという
物理的質量を区分し可視化する装置に重きを置くことにより、
父親という存在の“質量”を測ろうとする行為は現実的記憶
の凝固を試みる面白い実験性を孕んでいるように思えた。
ここでもう一段面白いのは、彼女はある意味客観的区分としては
“焼物作家”であるが、この作品及び説明文には焼物という我々
の固定観念は存在していない。
しかしである、焼物というものの本質を考えれば、土という何年
もの時間を経過した地球の記憶物を人間が固体化し、ある種の造
形を施したものを焼くことにより、カタチを生み出す。この一連
の流れを考えれば土という“地球の記憶”を作家という“冷蔵庫”
を通過し新たな生命の記憶に変化するという流れに捉えられなく
もない。
陶芸を本質的に考えれば、確かに必要作業を論じることも重要で
あるが本質とはなにか?と問われれば地球の記憶を人間社会の日
常生活に具体物として変換する行為なのではないかと極論を張る
ことも可能だと私は思う。
宋知宣の焼物と自身の表現との関係性とは、実はこの辺りのコン
セプチャルな部分から成り立っているという事が私にとっては実
に刺激的であった。
今回、展覧のコンセプトの提出を指示したとき、彼女から中々具
体的な返事がこなかった。当然前もってラフプランは組んだので
あるが、心棒となるべきものを出してくれと依頼してからかなり
の時間があった。
しばらく辛抱強くまった後に来たのが
土の雨というテーマであった。
私は直感的に面白いと感じた。
土の雨などは現世には存在しない。しかし雨と土の関係性を考
えればそこには一連の自然界の循環が存在し、分離した存在で
ないことは一目で理解できる。
雨というものを記憶に例えるならば、それは間違いなく自然界
の循環の記憶であり、そこには土ということに集約される地球
と水という連関の記憶にも相当する。
単純に土が当然その記憶の循環にも含まれており、雨とはそう
いう地球上の自然界の循環をチューブのように巡らすものであ
るということだ。
あえてそこで自然界の記憶の循環に反する土というものに雨の
役割を持たすことにより、循環の成り立ちや記憶の整合性を如
実に考えさせられる表現であるのと同時に、その循環の遮断を
現実と反することで想像させることにより、より自然界の記憶
の循環、その奇跡的なメカニズムと重要性を考えさせられるよ
うな気がしたのであった。。
そいう壮大な記憶の循環が、、、
我々の日常には何気なくコンセントのように差し込まれており
日々気づくことはない。しかし逆の考え方では、実はそういう
壮大な奇跡的なメカニズムを感じるのも我々は日常でしかあり
得ない。
ここに日常と言う記憶の冷蔵庫の扉を開け閉めする行為によって
生まれる本質的日常の存在が浮かび上がるのではないだろうか??
日常に何気なく降る雨。
しかしその記憶装置となる個人という冷蔵庫には様々な
雨が存在するはずであり、液体がすなわち雨などという
もので決め付けることも面白くないし、マグリット
などは人物が天から止め処なく降っていたし、宮島達男は
デジタルカウンターが瀧のように降り注いでいた・・・・
これらはなにも雨や瀧を模造したものではない。
そこには作家の表現として大事な意味が含まれている
はずだ・・・
。。。。。。。。。。。。。。。
さて、、、
そういったことを踏まえて今回チャレンジした展覧会も
終わりを告げようとしているが、思惑とどうであったか?
私は大成功ではないが、一定の評価を与えても良いのではないか?
と考えている。
展覧会開催中、高名な作家や私が関係する美術関係者が
多数訪れてくれたが、、、、
「雨に感じないなぁ~・・水でも垂らしたら?」という実にくだ
らない感想を漏らした高名な作家や、ライティングがどうたらと
作品の本質を論評できずにスゴスゴ帰ったベテラン造形作家にも
出会えたし、これどうやって売るの?と執拗にこれをやる意味を
哀れみをもって問いかけられるというような経験も多数した。。。
実に刺激的なそして実験的な一ヶ月であった。
そういう意味では
わずかかも知れないが
思惑通りだったのではないか!と思う。。。
Kappa chicken 「不器用な色たち」at高松天満屋5階アートギャラリー
November 26,2009
始まりました!!
Kappa chicken Solo Exhibition
「不器用な色たち」
at 高松天満屋5階アートギャラリー
2009.11.25 (wed) - 2009.12.15 (tue)
今回はkappaちゃんに飾りつけを
お願いしました。






放屁論
November 23,2009
放屁論。
れっきとした平賀源内の評論である。

このタイトルだけでも作者が只者でない事が窺い知れる。
元来、屁にTPOはない。
屁は時としてその人物を限りない辱めにさらしてしまうかなり
危険な行為でもある。
出来ればそんなものは、しないというより人間の肉体機能とし
て無い方がいいとも思うが、、、誰しも過去の密かな経験とし
て、お腹が張り苦悶の末に出してしまった大放屁!の開放感と
爽快感!!を得た経験があるのではないだろうか??
あれは恥ずかしながら実に気持ちがいいものである!
しかしながら、この快楽とは本来隠密裏の事柄であり・・・
この行動には必ず以下の原則が伴うことも我々は人間社会の
マナーとして認識している、、。。。。
誰にも言えない、知られたくない,知られてはいけない・・・
そう、この快楽は人間個人一人だけが味わう快楽であり、他人
に対しては不快この上ない現象なのである。しかし、誰しもが
体得している快楽であることもまた事実なのだが、、これに対
しての相互理解を深めるなどということが元来あまりないので
ある。。
そしてこの部分も肝心なのだが、比べてわかってもらえないと
いう、、なんとももどかしいジレンマを感じる快楽でもあるの
であった。。
屁に不快感を示す,もしくは嘲笑を浴びせ掛けるのは決して先
天的な感性ではないと思う。おそらく通念的なものだと思うが、
しかしなぜかあの音は後天的な笑いの信号音として認識したも
のでなく、先天的な滑稽感があるのか?実に不思議である。
そしてどんなに美人で頭が良くても、カッコの良い男性であろ
うと,おそらく生涯10,000発以上はするだろうと私はひそかに
考えている。(いや、そんなものでは効かないと思う!)
それほど日常生活において常態化した行為が・・・・こうも疎ん
じられるのは???
この屁=滑稽・不快という通念が逆転したばあい、、
○●氏の屁は素晴らしい!
時と場所を見事に選ぶ、美しい放屁だ!しかも匂いにも気品が
ある・・・
日ごろの胃腸のケアがよろしいのでしょうなぁ!!
“う------------------ん、、我輩もかくありたし!!”
などという通念が生まれても本来おかしくはないと思う・・・
しかしながら、人類史上、決してそのような通念の変異は
21世紀まで見られることはなかった・・
口から出る言葉という音は、哲学を語り恋愛を語り時として人
を傷つける音をも発するが、基本は人間の肉体から発生する
“音である”。。。
同様に、、
尻の穴から出る“屁”も音であり、生物としてのメカニズムだ
けでみると言葉も屁も同じ音の発生である。
まぁ違いは、、口臭に比べ、、その臭気の攪拌範囲が著しく広
い場合があるが・・・
さて、平賀源内“放屁論”だが・・
源内先生曰く、
「漢にては放屁といひ、上方にては屁を“こく”といひ、関東
にては“ひる”といひ、女中は都ておならといふ。其語は異な
れども、鳴ると臭きは同じことなり。その音に三等あり。ブツ
と鳴るもの上品にして其形圓く、ブウと鳴るもの中品にして其
形いびつなり。スーとすかすもの下品にして細長くして少しひ
らたし。是等は皆素人も常にひる所なり。」
ある時の話、
江戸の両国で「へっぴり男」なる自在に屁を出す大道芸人が人気
を博していたらしい。
うぐいすの鳴き声や、水車の回る音などかなりのレパートリー
を持ち、かなり金を稼いでいたらしく、源内先生と仲間たちは
早速に出かけその芸を確認したらしい。。。。
仲間達はインチキではないかと批判的であったが、源内先生は
「たとえ、からくりがあるにせよ、見せているのは尻一つ。そ
れが誰の目が見てもからくりがわからぬ。それならそれで、立
派な芸ではないか。」と言いましたが、仲間の一人が食って掛
かりました。
天下の源内があんな「へっぴり男」を誉めるとは、一体どういう
料簡か?人前で尻を見せるあの行為のどこが立派な芸なのか?
それに対して源内先生、
人間が、体内より発するものは、天地の定めにより、貴賎の違い、
身分の違いなるものが自ずとあるとこは否定できない。中でも、
もっとも身分の高いものは、頭脳より発せられる「思想」であろう。
口から生じられる声、歌の類も、身分の高い方に属する。
そして、低い身分に耐えているものに「糞」「小便」のたぐいが
ある。人々はそのものたちを、やれきたないとか、やれ臭いとか、
けがらわしきものとさげすみ、それを話題にするだけでも下品と
見なしている。しかし、その「糞」、「小便」でさえ、田畑に使
えば、立派な肥しとなり、その価値をもって、最下位を逃れてい
る。
最下位に位置するものは語るも明白、「屁」である。屁こそ百害
あって一利なし。厳粛なる式の場などで、もしも「屁」などひろ
うものなら、その武士は、切腹まちがいなし。田畑の肥しにもな
らず、さらに悪いことに、目に見えず、人に罪をかぶせたすぐさ
ま、姿をくらまし、逃げさるもの。誠に、卑怯にして、卑劣。
歴史上、「屁」の価値など見出した人間など、聞いたこともなし。
名実共に「屁」こそ最も卑しきものであることは、万人が認める
ところである。
が、しかしである!
身分高き「思想」をもって多額の金を得るのは、いともたやすい
こと。麗しき「声」をもって歌い、金を得るのも、当然の理。
これこそ「ふつう」。そこには、なんの工夫も手練もなし。金
の成る木で金を得ることは、なんの苦労もないことである。
だが、あの「ヘッピリ男」なるは、万人に見捨てられてきた「屁」
を粗末にせず、それをもってして工夫・修行の限りをつくし、見事
、大衆の眼前にて披露し、金を稼ぐという偉業を成し遂げたのであ
る。
これを「立派」と私が認めるのは、その故である。
う----------------------ん!!
万人に見捨てられてきた「屁」で金を稼ぐという偉業を成
し遂げた!かぁ!!
なるほどぉ!である。。
なんとなく、ただなんとなくではあるが・・
芸術家なんてのも、、、万民の生活に即時役に立つ具体物を
つくらずして金を稼ぐという偉業、、その類似する状態から
考えれば・・・
さしずめ、、優れた芸術家などは
優れた
「ヘッピリ男」なのではないか?
と、、、、考えてしまう今日この頃であった・・・
ἀπορία
November 21,2009
ずっと以前ネットのニュースを見ていて
うん??なに!と興味を引く記事があった!!!
スティーブン・ホーキング博士
(Stephen William Hawking、1942年1月8日 -イギリス
の理論物理学者。「車椅子の物理学者」)

『将来、惑星衝突や核戦争などの大災害により人類が滅亡の
危機にさらされる可能性があることを指摘。その解決策として、
宇宙に飛び立ち他の惑星に入植することで、人類の安全を図る
ことができると述べた。 その一方で、従来の化学燃料ロケッ
トで入植に適した惑星に辿り着くまでには、5万年はかかる、
としている。』
この時、ホーキンスあるいはホーキングでネット検索すると、
軒並み上記のニュースが掲載されていて、ブログをはじめ彼、
そして宇宙物理学に興味のあるサイトは凄い勢いで大いに取
り上げていた。。
この時、少しトキメキを感じたが、実際には少し悲観的内容
なのかなぁ??と・・
現状と未来について、何かの暗示?提言??いずれにしても、
この話、いい大人の適当な妄想の世界ではなく、彼、ホーキン
グ博士の口から出た事が人類にとって大きな大きな意味がある
んじゃないだろうか??と関心したのであった。
このホーキング博士の業績そのものを私はよく知らないが、
20世紀後半および今世紀初頭の大天才であると言う事ぐらい
は知っていた。。
本来は宇宙物理学の博士なのだが、その論評は多岐に渡って
いて実に興味深い。
彼は,筋萎縮性側索硬化症――「ルー・ゲーリッグ病」とも呼
ばれる,運動ニューロンの疾患――を患っており,車いすの生活
を余儀なくされている。同氏はかつてアイザック・ニュートン
博士も務めていたケンブリッジ大学の学部長を務めている。
聞くところによると現在、肉体で動く部位は眼球が僅かだけら
しい。。この状態でどのようにして意思疎通を図るのかは分か
らないが、言葉?に相当する彼の頭の中の言語をPCで変換し
伝える特殊な仕組みを携行しており、これによって上記のよう
なコメントを当時だしたらしい。。
私はこの人を見るたびに感じるのだが、神が遣わした人物??
としか思えないのである。。
誰かのサイトに書いていたが、仮に彼が生まれるのとこの病気に
なるのが今の時代より少し早ければ、このような啓示は出せてい
ない。。それは、彼のこの病魔に雁字搦めにされた肉体をサポート
する科学がないからである。。この時代にいるからこそ可能なの
だ。。と・・・
そしてこの奇跡的な条件を踏まえ考えると、我々は彼の制約だら
けの肉体を通じて神の啓示を聞いてるとしか思えないのである。。
なぜ、五体満足ではない彼に、これほど人類にとって先進的でかつ
重要な内容の解明を託すのか?
極論になるかもしれないが、単純に降臨?としか思えない。。
彼の肉体ではない精神の部分に人類未来の重要な部分が宿っている
ような感じがする。。。
そしてアインシュタインが閃光のような入り口であるならば、
ホーキング博士はもっと生身の人間的限界の啓示というのか、
哲学的部分の継承を感じるのであった。。
科学者というものの本質は、我々が現在イメージしているもの
とは、本来少しギャップがあるんじゃないかなぁ?と感じると
きがある。
どうも一般的には数理論法により難しい問題を解決していく人
種のようなイメージがあるが、実際はホーキング博士のように
科学の究極を極めたような科学者は、必ず哲学的な部分に突き
当たり、、神の啓治のような言葉を吐露するような気がするの
である。。
ある意味説明がつかないと言う事が必ず存在する。。そうなると
神というものに代表される漠然とした摂理を混入しないと整合が
つかなくなる。。
結論を導き出す理論を創り出せても、では、なぜそれが存在するか
という形而上学的な理由は論理的に答えられない部分ではないのか
なぁ??パラドックス的な状態に落ち込んでいくような気がする。
ガリレオも結局、彼の業績は宗教という場で検証される。。これは
時代が違うということではない。現代でも科学的推論部分では必ず
倫理、宗教と呼ばれるものと闘う?というか科学の論点を離れ検証
の場面が幾重にも出現する。。遺伝子などは現代のその最たる問題
ではないだろうか??神の領域?と言われている部分である。。
しかし、突き破らねばならない部分であることも間違い無いし、
人類の決断部分でもある。。
科学が進化する限り、比例して行く問題であり、時代時代で整合
させないと、反比例の現象を招いてしまう。。倫理や哲学という
部分が先導するのではなく、必ず科学が先導する。
これは乖離したものの隙間を埋めると言う事ではない。。
アメーバーの様に形状が変化し、突出した部分の状態でしかなく
元は同体なのだ。。
だから科学者こそ、人間社会の未来に対する真の預言者であり、
そして科学者とは本来哲学者なのではないのだろうか??と考え
るのと同時に、すこし乱暴かもしれないが、芸術家も最終的な生
息領域は同質なのではないか?本質に対するアプローチの方法が
違い、見た目の結論が芸術家の場合、抽象的かもしれないが、
基本的な思考構造は同質のような気がする・・・・
ジェームス・タレルなどがアプローチしているものは
十分科学的弁証法を論拠にした表現のような気がする。
などと、、具にも付かないことを一人考える今日この頃である。。
話しを戻すが
遺伝子についてもホーキング博士は興味深い論評を掲げている。。
「人工知能(AI)は飛躍的に進化しており,人類がこれに対抗す
るには遺伝子操作が必要だ」と語った。
ホーキング博士はコンピュータ技術がますます高度になっており,
将来的には人類の知性を超えるだろうと語っている。同氏は遺伝
子改造が,DNA構造をより複雑にし,人類を「改良」できると認
めている。
「われわれ人類の知性とは対照的に,コンピュータの性能は18カ
月おきに2倍になっている。コンピュータが知性を持ち,世界を
支配するという危険は現実のものとなっている」
同氏は,「人類を電子システムより優れた存在にしておきたいのな
ら,われわれは遺伝子操作の道を進むべきだ」と述べている。
同氏は,遺伝子工学により,より大きな脳と高い知能を持った超
人類を作り出せるようになるだろうと語っていた。人間の脳を
コンピュータにつなぎ,「人工脳によって人間の知性を高める」
ことができる技術の必要性を唱えている。
現実を鑑みた場合、、かなり強烈な論理で理解に苦しむというか、
ある種のSF的内容にしか聞こえないというのが実情ではないだ
ろうか??。。。
ヒューマノイド??の出現???
しかし近未来をこれほどの優れた科学者が類推すると、かなり
現実的な問題として具体論になる。。。
神の啓示??
このホーキング博士の論理は到底今の倫理観では受け入れがた
いだろう。。このような拒絶反応そのものは、ガリレオの時代
とそう差があるとは思えない。。。
昔から言われるが、想像の世界は50年後にその近似が出現する。
手塚治虫のアトム誕生から50年後には近い世界が出現している。
アトムまでは無理だったが、ホンダのアシモやその他のロボット
の近況を考えると、10年前のそれらよりは飛躍的という言葉以上
の進化を遂げている。。。
人間の想像とはある種の限界はあるにしても、ある種の具体性を
はらんでいるのだ。。しかし、それはあくまで我々の想像範囲で
あって、ホーキング博士レベルになると、まだその先が見えるの
かもしれない。。。いや、、確実に見えているだろう・・
こうなるとホーキング博士本来の分野である宇宙物理学ではもっと
凄い、奇天烈な論理をグイグイ爆発させているのか?と想像を膨
らませてしまう。。
タイムトラベル!ワープ!!これらは論理上、机上論理では可能
である!とも聞いたことがある。。。
アインシュタインの相対性理論発表からホーキングまで!
これは近未来の想像としてはかなりの興味をもつところだが、、、、
その期待とは裏腹に、どうも違う様だ。。。
宇宙物理学者スティーブン・ホーキンス博士曰く、物理法則は
過去へのタイムトラベルを許さないはずであるという時間順序
保護仮説を発表している。
???なんで???
少し意外なような気がした・・・・
わかりやすく言うと、歴史を変えることはできないと言うこ
とらしい。。。
その際、根拠として利用される理論が「タイムパラドクス」
というものらしいのである。。。
もし過去に行くことができたとして、自分の両親の結婚を
妨げたとしよう。もちろん両親が結婚しなければ自分は生
まれてこない。そうすると両親の結婚を妨げた自分は存在
しないことになり、両親は無事結婚するはずだ。となると
今度は自分が生まれ、両親の結婚を妨害し…とどこまで行
っても解決しない(このような問題をパラドクスといい、
鶏が先か卵が先かなどもこれに含まれる)。
だが、これについての対処理論も実は発表されている。一度
は耳にしたことがあると思うが、「パラレルワールド」であ
る。自分のいる世界とは違った世界がどこかに存在するとい
う考え方で、自分の両親の結婚を妨げたとしても、それは別
の世界が広がるだけで、自分のいる世界が消えるわけではな
いと言うことだ。これも完全な理論ではないが、とりあえず
タイムトラベルの道は開けたと言えるだろか??
なんか脆弱な感じがし。。。論拠としても弱いような。。。
どうも最初のタイムパラドックスは人間的倫理の拘束感が強い。。
それを打ち破るような強烈な論理が対処理論にも見うけられない
。。。
それよりも、もともとが所詮、推論でしかないのだ。。
だから、、なぜかどちらも踏み込めていないような気もする。。。
まぁ、もともと時間の概念など人間が作り出したものであり、
時間概念そのものが科学ではないような気もする。。共通認識
を整理するために法則が組み立てられた、人間の為に。。。
時計を中心に時間概念が構築されているだけでしかない。。
本来、人間以外の生物には時間などない。。
昼は明るいから行動し、夜は暗いから寝るという行為で、
肉体に休息を与えているだけだ。。
別に逆でも構わない。。不都合の大きさによって決めただ
けのような気もする。。。
桜は4月の初めに咲く。桜にとっての時間がもしあるなら、
この4月という時点だけである。。
“今”とよく人は言うが、人間の存在する時間など過去も
未来も、それは想像、記憶の世界でしかない。
実体が感じ取れる時間など本来存在しない。肉体や人間社
会の関係も。。。
精神の振動でしかないような気がする。。。。各種宗教
や哲学のアポリアとして延々継続しているものであり、
そこには未だ絶対値として踏み込めない扉が存在するよ
うな気がした。。
科学の先の・・・アポリア。。
どうもホーキング博士の時間順序保護仮説にはそういう
匂いがし、、、、
論理的だけでない、ホーキング博士独特の哲学的な匂いが
強烈にするのである。。。。
ホーキング博士、彼が語った人間論にはそんな匂いを理解
するための何かがあるような気がした。。。
-------------------------------------------------
“人生は、できることに集中することであり、
できないことを悔やむことではない。”
“期待値が「ゼロ」まで下がれば、自分に今
あるものすべてに間違いなく感謝の念が湧く。”
--------------------------------------------------
。。。。。。
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