November 30,2009
11月2日から始まった
宋知宣solo exhibition「土の雨」が本日で終了するが、
実はこれほど早く終了を感じた展覧会は今までない。

なぜか?
自分なりにはっきりとした結論は堅持している。
それは、彼女の展覧会を契機に自分なりの今後の方向性を
明確にしたいという強い思い入れがあったからだ。
COMBINEとBAMIgalleryは、ただ単に作家の作品を売る
紹介するという機能を先議として有する他とは確実に違う
という意思表示とそれに適う芸術表現を追求し、それらから
確かな芸術的担保を与えられる商売として我々が選択した作家
を訴求するという根本の理念を具体的に具現化していく。
そのための可視化行為として即時の商業性を得られないが、
芸術表現に対する考え方、その為の空間性の意味を強烈に
アピールし得るインスタレーション展開を積極的に取り入れる
ことにより、その個性を他に比類なきものとして反映させる
勝負に出る。
実に大層なことを列記したが、私としては確実にこのような
事を念頭に置き、彼女の企画を決意したのである。
ただ単に作家を選択し、それを展示し販売・・・・・
どこに優位性があるのか?いち早く選択したということのみを
優位性として捉えることに私は大いなる疑問を過去も現在も
抱いている。確かに選択がなければ成り立たないものでもあるが
なぜ?選択したのか?という事に対する考え方というものの
打ち出し方がもっとも重要なのではないのか?と思うのである。
選択するには理由がある。たとえ他の環境にてすでに選択されて
いたとしても、そこには確実に独自の選択理由が必要だと私は
思う。
我々が選択する意味が他所と仮に同一視された場合があるならば
それはやはり商売的な合理性という部分に集約するように受け止
められることを避けることは出来ない。
商売を一義とする集団が、、、
それを否定するのは可笑しな話のように受け止められるかもしれ
ないが、しかし、冷静に逆から考えれば、主体性をなくした選択
理由には、なぜ?そこでないといけないか?という必然性は雲散
霧消化し、誰がやっても良いではないかという結論にしか辿り着
かない。
それでは、なんの為に優れた芸術を独自に探し出し世の中に訴える
のかという根本的な存在意義まで問われることになりかねない。
私が見る限りこれからのこの商売のあり方は、他所は知らないが、
私自身としては決してそれでは通用しないと考えたのである。
芸術のコンビニエンスストアをCOMBINEしたいなどと思ったこと
はない。
大して売れていないものが偉そうに言うな!と
叱責され馬鹿にされるのも現状からは致し方ない、、
その通りである!
これは正直に申し上げれば、確実に大して売れてなんかいない。
こんな事に嘘をついたところで何の意味もない。
しかし大して売れていないのであるという現実が前にあるなら
ばこそ・・・
いっそのこと“本当に売れない”ものを力強く押し出した方が、
やっている事の意味を伝えるために残るものも実に大きい。
同じ時間の消費にしても大きな意味の違いが生まれる。
笑い話であるが
売れなかった訳ではない!
もともと誰が見ても“銭”に変わらないものだから、売れま
すの?売れてますの?などというくだらないものにも制約さ
れず
清々する!!
そんな思いが。実は彼女と出合ったころに芽生え始めていた。。
彼女と初めて出会ったのは今年の春だったと記憶している。
たまたまギャラリーを見に来てくれたときに、レンタルスペー
スと勘違いしたのがキッカケとなり、ポートフォリオを見るこ
とになった。
色々話をしたが、その時に一番感じたのは、確かにこの子は
韓国から日本に焼物・陶磁器を学びに来ているが、その本質は
なにも焼物の技術のみを修得しにきているわけではない!という
事が如実に掴み取れた。
これは何を意味しているか?彼女は自身の表現のために焼物
陶磁器を材料として選択しているだけであり、焼物という
日本国内でこの言葉から連想するようなものの最終形をまった
く想像として持っていないという事であった。
ポートフォリオに載せていた過去の作品も彼女が語る言葉も
、そこには従来の焼物などという制約はまったくなかった。
正直に私が感じたものは、コンセプチャルなアート、それを
陶磁器という日常の固定観念下で凝固したものを駆使しぶち
破るという手法に見えたのであった。
確かに日本の中にも優れた陶磁器による“オブジェ”を作り出す
作家が存在する。しかし宋知宣が考えているものと、それら既存
の有名作家が考えているものと、私は最初から同一視できない
大きなものを感じとれたのである。
彼女のポートフォリオの中にあったBOXという作品の説明文が私
の目を強く引き付けた!
完璧でない日本語表現のため違和感のある箇所が存在するが、
原文のまま正確に転記したいと思う。
----------------------------------------------------
BOX中に自分の去る記憶(過去/思い出・・)表現

冷蔵庫/髪の毛/ビーカー8個/試験管5個/試験管大/絵の具/
ハロゲンランプ/電線及び220Vコード/糸/針金/水・・
冷蔵庫は私の記憶を盛っておく貯蔵庫だ。一日中よく開いて
(取り出して)閉める(入れて置く)・・オリルゾック
(他人達と違うように)平凡ではなかったお父さんの
存在-冷蔵庫考案に常に置かれていたビーカーを思い浮か
んで・・・・
冷蔵庫-記憶の貯蔵庫だ。
冷蔵庫の開いて閉める感じを観覧者が体験するよう
にしたかった。
正四角形に近い形態を捜してBOXをイメージを現したし、
新しいものではない中古を利用して過去のイメージを現そ
うとした。
ビーカー 具体的な記憶を盛ることができる道具だ。
お父さんを意味して、量をはかることができる役目もできる。
髪の毛 オブジェ(記憶そして自我)私が夢の中で見た滲む
こととママが師私の胎夢での蛇そして私は巳の年生まれた。
そんな相関性を念頭してオブジェを作った。
ビーカーの中にそして水中に掛かって浮遊する自我を現す。
絵の具を盛った試験管-自分のこれからの(美しい)未来
をそしてお父さんの化学実験がまた始まっていつかは成功
するだろうという
念頭の意味がある。
-----------------------------------------------
少し難解であるが、この文章で大事なポイントは
●冷蔵庫は私の記憶を盛っておく貯蔵庫だ。
●ビーカー 具体的な記憶を盛ることができる道具だ。
お父さんを意味して、量をはかることができる役目もできる。
冷蔵庫という日常の中に存在する物品。その機能とは食材が
出たり入ったりし体内に吸収されるまでの時間的中間位置に
存在する。
中身は日々入れ替わり、新たな構成に変化し続ける。
が、冷蔵庫という本質には時間経過においての変化はない。
ここに彼女がこだわり続ける日常性というものが深く凝縮さ
れているような気がしてならない。
記憶の連続性が人間を構成し、自分をとりまく家族までを
も同一線上に整列させる。その最小単位としての装置が記
憶の断片であり、その補完装置が人間の脳裏をはじめとす
るものとなる。
人間の肉体を通過する日常と冷蔵庫というものへの仮託。
このコンセプトが実に面白いのと同時に、ビーカーという
物理的質量を区分し可視化する装置に重きを置くことにより、
父親という存在の“質量”を測ろうとする行為は現実的記憶
の凝固を試みる面白い実験性を孕んでいるように思えた。
ここでもう一段面白いのは、彼女はある意味客観的区分としては
“焼物作家”であるが、この作品及び説明文には焼物という我々
の固定観念は存在していない。
しかしである、焼物というものの本質を考えれば、土という何年
もの時間を経過した地球の記憶物を人間が固体化し、ある種の造
形を施したものを焼くことにより、カタチを生み出す。この一連
の流れを考えれば土という“地球の記憶”を作家という“冷蔵庫”
を通過し新たな生命の記憶に変化するという流れに捉えられなく
もない。
陶芸を本質的に考えれば、確かに必要作業を論じることも重要で
あるが本質とはなにか?と問われれば地球の記憶を人間社会の日
常生活に具体物として変換する行為なのではないかと極論を張る
ことも可能だと私は思う。
宋知宣の焼物と自身の表現との関係性とは、実はこの辺りのコン
セプチャルな部分から成り立っているという事が私にとっては実
に刺激的であった。
今回、展覧のコンセプトの提出を指示したとき、彼女から中々具
体的な返事がこなかった。当然前もってラフプランは組んだので
あるが、心棒となるべきものを出してくれと依頼してからかなり
の時間があった。
しばらく辛抱強くまった後に来たのが
土の雨というテーマであった。
私は直感的に面白いと感じた。
土の雨などは現世には存在しない。しかし雨と土の関係性を考
えればそこには一連の自然界の循環が存在し、分離した存在で
ないことは一目で理解できる。
雨というものを記憶に例えるならば、それは間違いなく自然界
の循環の記憶であり、そこには土ということに集約される地球
と水という連関の記憶にも相当する。
単純に土が当然その記憶の循環にも含まれており、雨とはそう
いう地球上の自然界の循環をチューブのように巡らすものであ
るということだ。
あえてそこで自然界の記憶の循環に反する土というものに雨の
役割を持たすことにより、循環の成り立ちや記憶の整合性を如
実に考えさせられる表現であるのと同時に、その循環の遮断を
現実と反することで想像させることにより、より自然界の記憶
の循環、その奇跡的なメカニズムと重要性を考えさせられるよ
うな気がしたのであった。。
そいう壮大な記憶の循環が、、、
我々の日常には何気なくコンセントのように差し込まれており
日々気づくことはない。しかし逆の考え方では、実はそういう
壮大な奇跡的なメカニズムを感じるのも我々は日常でしかあり
得ない。
ここに日常と言う記憶の冷蔵庫の扉を開け閉めする行為によって
生まれる本質的日常の存在が浮かび上がるのではないだろうか??
日常に何気なく降る雨。
しかしその記憶装置となる個人という冷蔵庫には様々な
雨が存在するはずであり、液体がすなわち雨などという
もので決め付けることも面白くないし、マグリット
などは人物が天から止め処なく降っていたし、宮島達男は
デジタルカウンターが瀧のように降り注いでいた・・・・
これらはなにも雨や瀧を模造したものではない。
そこには作家の表現として大事な意味が含まれている
はずだ・・・
。。。。。。。。。。。。。。。
さて、、、
そういったことを踏まえて今回チャレンジした展覧会も
終わりを告げようとしているが、思惑とどうであったか?
私は大成功ではないが、一定の評価を与えても良いのではないか?
と考えている。
展覧会開催中、高名な作家や私が関係する美術関係者が
多数訪れてくれたが、、、、
「雨に感じないなぁ~・・水でも垂らしたら?」という実にくだ
らない感想を漏らした高名な作家や、ライティングがどうたらと
作品の本質を論評できずにスゴスゴ帰ったベテラン造形作家にも
出会えたし、これどうやって売るの?と執拗にこれをやる意味を
哀れみをもって問いかけられるというような経験も多数した。。。
実に刺激的なそして実験的な一ヶ月であった。
そういう意味では
わずかかも知れないが
思惑通りだったのではないか!と思う。。。
宋知宣solo exhibition「土の雨」が本日で終了するが、
実はこれほど早く終了を感じた展覧会は今までない。

なぜか?
自分なりにはっきりとした結論は堅持している。
それは、彼女の展覧会を契機に自分なりの今後の方向性を
明確にしたいという強い思い入れがあったからだ。
COMBINEとBAMIgalleryは、ただ単に作家の作品を売る
紹介するという機能を先議として有する他とは確実に違う
という意思表示とそれに適う芸術表現を追求し、それらから
確かな芸術的担保を与えられる商売として我々が選択した作家
を訴求するという根本の理念を具体的に具現化していく。
そのための可視化行為として即時の商業性を得られないが、
芸術表現に対する考え方、その為の空間性の意味を強烈に
アピールし得るインスタレーション展開を積極的に取り入れる
ことにより、その個性を他に比類なきものとして反映させる
勝負に出る。
実に大層なことを列記したが、私としては確実にこのような
事を念頭に置き、彼女の企画を決意したのである。
ただ単に作家を選択し、それを展示し販売・・・・・
どこに優位性があるのか?いち早く選択したということのみを
優位性として捉えることに私は大いなる疑問を過去も現在も
抱いている。確かに選択がなければ成り立たないものでもあるが
なぜ?選択したのか?という事に対する考え方というものの
打ち出し方がもっとも重要なのではないのか?と思うのである。
選択するには理由がある。たとえ他の環境にてすでに選択されて
いたとしても、そこには確実に独自の選択理由が必要だと私は
思う。
我々が選択する意味が他所と仮に同一視された場合があるならば
それはやはり商売的な合理性という部分に集約するように受け止
められることを避けることは出来ない。
商売を一義とする集団が、、、
それを否定するのは可笑しな話のように受け止められるかもしれ
ないが、しかし、冷静に逆から考えれば、主体性をなくした選択
理由には、なぜ?そこでないといけないか?という必然性は雲散
霧消化し、誰がやっても良いではないかという結論にしか辿り着
かない。
それでは、なんの為に優れた芸術を独自に探し出し世の中に訴える
のかという根本的な存在意義まで問われることになりかねない。
私が見る限りこれからのこの商売のあり方は、他所は知らないが、
私自身としては決してそれでは通用しないと考えたのである。
芸術のコンビニエンスストアをCOMBINEしたいなどと思ったこと
はない。
大して売れていないものが偉そうに言うな!と
叱責され馬鹿にされるのも現状からは致し方ない、、
その通りである!
これは正直に申し上げれば、確実に大して売れてなんかいない。
こんな事に嘘をついたところで何の意味もない。
しかし大して売れていないのであるという現実が前にあるなら
ばこそ・・・
いっそのこと“本当に売れない”ものを力強く押し出した方が、
やっている事の意味を伝えるために残るものも実に大きい。
同じ時間の消費にしても大きな意味の違いが生まれる。
笑い話であるが
売れなかった訳ではない!
もともと誰が見ても“銭”に変わらないものだから、売れま
すの?売れてますの?などというくだらないものにも制約さ
れず
清々する!!
そんな思いが。実は彼女と出合ったころに芽生え始めていた。。
彼女と初めて出会ったのは今年の春だったと記憶している。
たまたまギャラリーを見に来てくれたときに、レンタルスペー
スと勘違いしたのがキッカケとなり、ポートフォリオを見るこ
とになった。
色々話をしたが、その時に一番感じたのは、確かにこの子は
韓国から日本に焼物・陶磁器を学びに来ているが、その本質は
なにも焼物の技術のみを修得しにきているわけではない!という
事が如実に掴み取れた。
これは何を意味しているか?彼女は自身の表現のために焼物
陶磁器を材料として選択しているだけであり、焼物という
日本国内でこの言葉から連想するようなものの最終形をまった
く想像として持っていないという事であった。
ポートフォリオに載せていた過去の作品も彼女が語る言葉も
、そこには従来の焼物などという制約はまったくなかった。
正直に私が感じたものは、コンセプチャルなアート、それを
陶磁器という日常の固定観念下で凝固したものを駆使しぶち
破るという手法に見えたのであった。
確かに日本の中にも優れた陶磁器による“オブジェ”を作り出す
作家が存在する。しかし宋知宣が考えているものと、それら既存
の有名作家が考えているものと、私は最初から同一視できない
大きなものを感じとれたのである。
彼女のポートフォリオの中にあったBOXという作品の説明文が私
の目を強く引き付けた!
完璧でない日本語表現のため違和感のある箇所が存在するが、
原文のまま正確に転記したいと思う。
----------------------------------------------------
BOX中に自分の去る記憶(過去/思い出・・)表現

冷蔵庫/髪の毛/ビーカー8個/試験管5個/試験管大/絵の具/
ハロゲンランプ/電線及び220Vコード/糸/針金/水・・
冷蔵庫は私の記憶を盛っておく貯蔵庫だ。一日中よく開いて
(取り出して)閉める(入れて置く)・・オリルゾック
(他人達と違うように)平凡ではなかったお父さんの
存在-冷蔵庫考案に常に置かれていたビーカーを思い浮か
んで・・・・
冷蔵庫-記憶の貯蔵庫だ。
冷蔵庫の開いて閉める感じを観覧者が体験するよう
にしたかった。
正四角形に近い形態を捜してBOXをイメージを現したし、
新しいものではない中古を利用して過去のイメージを現そ
うとした。
ビーカー 具体的な記憶を盛ることができる道具だ。
お父さんを意味して、量をはかることができる役目もできる。
髪の毛 オブジェ(記憶そして自我)私が夢の中で見た滲む
こととママが師私の胎夢での蛇そして私は巳の年生まれた。
そんな相関性を念頭してオブジェを作った。
ビーカーの中にそして水中に掛かって浮遊する自我を現す。
絵の具を盛った試験管-自分のこれからの(美しい)未来
をそしてお父さんの化学実験がまた始まっていつかは成功
するだろうという
念頭の意味がある。
-----------------------------------------------
少し難解であるが、この文章で大事なポイントは
●冷蔵庫は私の記憶を盛っておく貯蔵庫だ。
●ビーカー 具体的な記憶を盛ることができる道具だ。
お父さんを意味して、量をはかることができる役目もできる。
冷蔵庫という日常の中に存在する物品。その機能とは食材が
出たり入ったりし体内に吸収されるまでの時間的中間位置に
存在する。
中身は日々入れ替わり、新たな構成に変化し続ける。
が、冷蔵庫という本質には時間経過においての変化はない。
ここに彼女がこだわり続ける日常性というものが深く凝縮さ
れているような気がしてならない。
記憶の連続性が人間を構成し、自分をとりまく家族までを
も同一線上に整列させる。その最小単位としての装置が記
憶の断片であり、その補完装置が人間の脳裏をはじめとす
るものとなる。
人間の肉体を通過する日常と冷蔵庫というものへの仮託。
このコンセプトが実に面白いのと同時に、ビーカーという
物理的質量を区分し可視化する装置に重きを置くことにより、
父親という存在の“質量”を測ろうとする行為は現実的記憶
の凝固を試みる面白い実験性を孕んでいるように思えた。
ここでもう一段面白いのは、彼女はある意味客観的区分としては
“焼物作家”であるが、この作品及び説明文には焼物という我々
の固定観念は存在していない。
しかしである、焼物というものの本質を考えれば、土という何年
もの時間を経過した地球の記憶物を人間が固体化し、ある種の造
形を施したものを焼くことにより、カタチを生み出す。この一連
の流れを考えれば土という“地球の記憶”を作家という“冷蔵庫”
を通過し新たな生命の記憶に変化するという流れに捉えられなく
もない。
陶芸を本質的に考えれば、確かに必要作業を論じることも重要で
あるが本質とはなにか?と問われれば地球の記憶を人間社会の日
常生活に具体物として変換する行為なのではないかと極論を張る
ことも可能だと私は思う。
宋知宣の焼物と自身の表現との関係性とは、実はこの辺りのコン
セプチャルな部分から成り立っているという事が私にとっては実
に刺激的であった。
今回、展覧のコンセプトの提出を指示したとき、彼女から中々具
体的な返事がこなかった。当然前もってラフプランは組んだので
あるが、心棒となるべきものを出してくれと依頼してからかなり
の時間があった。
しばらく辛抱強くまった後に来たのが
土の雨というテーマであった。
私は直感的に面白いと感じた。
土の雨などは現世には存在しない。しかし雨と土の関係性を考
えればそこには一連の自然界の循環が存在し、分離した存在で
ないことは一目で理解できる。
雨というものを記憶に例えるならば、それは間違いなく自然界
の循環の記憶であり、そこには土ということに集約される地球
と水という連関の記憶にも相当する。
単純に土が当然その記憶の循環にも含まれており、雨とはそう
いう地球上の自然界の循環をチューブのように巡らすものであ
るということだ。
あえてそこで自然界の記憶の循環に反する土というものに雨の
役割を持たすことにより、循環の成り立ちや記憶の整合性を如
実に考えさせられる表現であるのと同時に、その循環の遮断を
現実と反することで想像させることにより、より自然界の記憶
の循環、その奇跡的なメカニズムと重要性を考えさせられるよ
うな気がしたのであった。。
そいう壮大な記憶の循環が、、、
我々の日常には何気なくコンセントのように差し込まれており
日々気づくことはない。しかし逆の考え方では、実はそういう
壮大な奇跡的なメカニズムを感じるのも我々は日常でしかあり
得ない。
ここに日常と言う記憶の冷蔵庫の扉を開け閉めする行為によって
生まれる本質的日常の存在が浮かび上がるのではないだろうか??
日常に何気なく降る雨。
しかしその記憶装置となる個人という冷蔵庫には様々な
雨が存在するはずであり、液体がすなわち雨などという
もので決め付けることも面白くないし、マグリット
などは人物が天から止め処なく降っていたし、宮島達男は
デジタルカウンターが瀧のように降り注いでいた・・・・
これらはなにも雨や瀧を模造したものではない。
そこには作家の表現として大事な意味が含まれている
はずだ・・・
。。。。。。。。。。。。。。。
さて、、、
そういったことを踏まえて今回チャレンジした展覧会も
終わりを告げようとしているが、思惑とどうであったか?
私は大成功ではないが、一定の評価を与えても良いのではないか?
と考えている。
展覧会開催中、高名な作家や私が関係する美術関係者が
多数訪れてくれたが、、、、
「雨に感じないなぁ~・・水でも垂らしたら?」という実にくだ
らない感想を漏らした高名な作家や、ライティングがどうたらと
作品の本質を論評できずにスゴスゴ帰ったベテラン造形作家にも
出会えたし、これどうやって売るの?と執拗にこれをやる意味を
哀れみをもって問いかけられるというような経験も多数した。。。
実に刺激的なそして実験的な一ヶ月であった。
そういう意味では
わずかかも知れないが
思惑通りだったのではないか!と思う。。。
