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コロナ禍、とタイプしようとして「ころなか」と打ち、変換を押すと
コロナ香、と出た。
新型コロナの香り立つ7月か。。。。
夏の季語かというくらい風雅な響きになってしまった。
どんなに苦しい時でも穏やかに余裕をもって考えられる自分で有りたいものですね。

さて
緊急事態宣言中に焼成した
“マスク”
(詳しくは過去ブログをご覧ください→マスクを1200度で焼きました。


を0号のパネル作品にしました。


COMBINE/BAMI galleryのオンラインショップサイトに掲載されています。
こちらからぜひご高覧ください。
↓↓↓
COMBINE/BAMI gallery オンラインショップ "MASK"
※特注オリジナルのアクリルケース額装ですので、ご購入の場合、額装に少しお時間をいただきます。


もう一点、COMBINE/BAMI galleryのオンラインショップサイトには新しい作品も掲載されています。
“一匹の蟻”



ぜひ以下リンクからご高覧ください。
↓↓↓
COMBINE/BAMI gallery オンラインショップ "一匹の蟻"
※特注オリジナルケースのアクリルパネル額装ですので、ご購入の場合、額装に少しお時間をいただきます。

この作品は
焼成によって得られるマチエールと絵画的フォルムを
平面作品として表現するシリーズです。
加えて、これまでは意図的に避けて来た“いわゆる”絵画表現も試みました。

焼けた土、素材と絵画的空間、
抽象的なフォルムと具象
0号の中にレイヤーとして複雑に混在する異次元を感じていただけたらと思い作りました。


僕は
焼くという行為と化学変化が、ただのトリッキーでユニークな表現手段というより、
色を乗せる、形を変える、に加わる新しい物理的表現手段として
これからの美術表現を拡張すると
本気で考えています。

木製パネルに土を塗って焼く、というこのシリーズは
まだ僕が地面を焼いていたころ
10年前くらいから研究、取り組み始めた表現ですが、

このコロナ禍で、いくつかの展覧会が吹き飛ぶ中
今こそ新しいこの実験的表現に取り組むべき時と

今後積極的な展開、発表に向けて、さらに新しい手法、表現、素材を加えながら
制作を進め始めたところです。


そして、これらの0号作品、COMBINE/BAMI galleryのオンラインショップサイトは8月に始まるグループ展とリンクしています。
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ZERO HOUR exhibition

2020.08.06 (thu) - 2020.08.19 (wed)
OPEN 12:00~18:00
期間中無休
※最終日午後4時閉廊
COMBINE/BAMI gallery
京都市下京区二人司町21
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WEBで閲覧いただき、ご興味を持っていただけました場合
オンライン上のみでも、お問い合わせいただいたり、お求めいただくことはもちろん可能ですが
時世柄、情勢にご注意いただきながらではございますが
展示会にて作品を同タイミングで実見していただけることも、本展覧会の魅力かと思います。


よろしくお願いいたします。

▲TOP
"皮膚-抜け殻は生きている-"



"皮膚-抜け殻は生きている-"
2020
陶(備前土・焼締焼成)、パネルに陶土、顔料

H18.3×W14.3×D5.5cm(F0)
H3.2×W2.9×D2.3cm(昆虫のサイズ)
H40.6×W23.3×D7.8cm(アクリル額装サイズ)




生きた証がそこにある。
が、それはあくまで証であって「生」そのものではない。
死せる皮膚的なものに「生」を乗せたら、それはミイラのようなものだ。
人工的に作られるミイラは、再生の願いだから
これはこれで不死と再生の願いということでいいのだろうか。



子供のころの純粋な感動
セミの羽化
残った抜け殻をたくさん集めた思い出。

なぜあんなにも「抜け殻」に魅せられるのだろうか

あまりに生きていた形を残すがために、なのか妙に命を感じてしまう。
「いのち」を入れることが出来たら、再び動き出すかもしれないと思ってしまう。





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作品に関しては「なにでできているの?」と聞かれることが多いので
作品を構成する物質的な部分について説明を書いておこうと思います。


F0号のパネルにセミの抜け殻がくっついています。これが作品です。
そのバックの縦長のパネルが額装です。これにアクリルケースカバーが付きます。

F0パネル部分については
木製のパネルに定着材を混ぜた陶土を塗り、同様に定着材を混ぜた酸化ジルコニウムを塗っています。
これらはひたすら「素材」なので、絵画的絵の具の質感に慣れている人は、どのような印象を受けられるでしょうか。
土の塊、陶板と感じられるのでしょうか。空間的なものを感じられるでしょうか。
僕にとっては「満たされた無」というイメージです。

セミの抜け殻部分は爪先から触覚まで陶製です。
備前焼という焼き物の産地の土で作っています。
関節ごとに分けて造形、焼成までした後、接着剤で組み立てています。
いわゆる釉薬による色付けは使っていません。作品を炭と一緒に電気窯に入れて1200度で焼く「炭化焼成」という焼き方を何度も繰り返すことで素材の深いところまで厚みのある化学変化を起こさせます。
小さな部品に薪窯のような「コントロールできる/できない」のせめぎあいが現れた多様な窯変を表現します。
変化する、というのは生きている、ということなのでそうしたかったのです。
目の部分には金属皮膜を生成する「ラスター彩上絵」という上絵の具のようなものを800度くらいで焼き付けています。
「目の黒い内」というように目の輝きが欲しかったからです。

陶製のセミの抜け殻は、パネルにはお腹の部分からステンレス棒で支持しています。
ステンレス部分は鑑賞の邪魔をしないように白く塗っています。

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5月25日発売の月刊アートコレクターズ6月号
“アートを買って家に飾ろう!”大誌上頒布に
作品"皮膚-抜け殻は生きている-"を掲載していただいております。。

合わせてオンラインでも
アートコレクターの本企画ショップページが起ち上っていまして
全作品が閲覧、購入可能となる試みのようです。。


アートコレクターズ2020年6月号誌上頒布 オンラインショップ
↓↓↓

https://www.tomosha.com/news/n34969.html

▲TOP
【初めての誌上頒布②】作品のこと
5月25日発売の月刊アートコレクターズ6月号
“アートを買って家に飾ろう!”大誌上頒布に
作品"皮膚-抜け殻は生きている-"を掲載していただきます。
大誌上頒布ということで、多くの作品が誌上よりご購入可能という取り組みです。
ぜひご覧ください。
アートコレクターズ6月号詳細はコチラ
↓↓↓↓↓↓↓↓
https://www.tomosha.com/book/b511228.html



僕の昆虫の作品は関節ごとにパーツを焼き物で制作し、
焼成後にシリコン系の接着剤で組み立てる構造です。

このような作品を制作し始めたのは6年前。
だいたいこんなことからです。
↓↓
当ブログ過去ログ「どうして昆虫を作るのですか?」

どんな小さなパーツでも限界まで凹凸で自然に組み合わせられるように造形するよう努力します。
昆虫は基本リアルサイズですので
触覚などの部品は細いもので0.3㎜の細さになり、ちょっとした衝撃でも陶なので折れてしまいます。
関節ごとに弾力性のあるシリコンが仲介することで
シリコン部分が衝撃を吸収し、移動に耐え、一般的にコレクション可能な作品強度を得ることができました。
加えて
UVカットのアクリルケースでのケーシングをデフォルトにすることで
接着剤の劣化する要素を取り除き、現代美術としての持久性も得たとしています。

ここまできたのが5年前
やっと作品のコンテンツに集中することができるようになりました。



焼物との出会いを通じて「変化」「現象」というイメージと得て以来
これまで
私たち、私たちが存在している、命がある、とはどういうことなのか。
制作を通して本質と向かい合いたいと考えて、
焼物を使い普遍的なコンセプトを共有できるような作品を作りたいという気持ちで制作してきました。

自分の作品がどうカテゴライズされるかということにはこだわらないようになってきているのですが
お話しする機会のある時は、技巧ではなく、コンセプトに触ってほしい気持ちがあるので
アートとしてコンセプトを大事にして制作している。と言っています。
それでも
なにしろ素材があまりに強い作品なので工芸との違いは何か、と問われることがあります。
いつもいつも口頭ではうまくお話しできないのですが

僕の作品と素材の関係でいえば
焼物であることが作品のコンセプトの中でどう機能しているかということが、工芸としての陶芸と違う点だと思っています。

そもそも作品をどうカテゴライズするかということに関しては
芸術にはすべて、テクニカルな部分、物理的な部分、コンセプチュアルな部分、文脈的な部分などの要素があって、きちんと分けて考えられるべきだと思っています。
もちろん工芸にも絵画にもそういう見方は当てはめることができるはずなのですが
芸術とか絵画、アートなどは、輸入した経緯があるからそういう考え方になじみもありますが、
工芸はもはや日本にとって、血肉となっている文化と歴史そのもののようなものなので
当然知っていて完全に共有できているつもりでも、本当に人それぞれの多様な「工芸とは」観を持っていて、
通じているようで通じていないのに、わかりあっているような気になっている議論をよく見受けます。
だから
この話も、それを乗り越えてコンセンサスを取ることも、見た目以上に難しく、作品の鑑賞を邪魔してしまうことだと思いました。

そういう矛盾というか、議論は自分の中でも常にあって
出てくる作品、見られ方、自分の文脈とかいろいろと考えてしまうことはありますが
制作者としては、黙って受け止めて、誠実に正直にあがくことだと今は思えます。


結局、目の前の作品は独り歩きしていくし、それこそが作品があることの意味だし
その時、やっと作品は作品になれるのだと思うようになりました。

作品という出来事の前には、僕個人の自覚できるような意識がどう考えているかなんてことは本当は関係ないのです。

鑑賞される方それぞれのバックボーンを持って、観察しながら想像しながら真剣に、自由に作品と向き合っていただけることが
僕と僕の作品の幸せです。
その出来事の中には、自ずから僕のアイデンティティも溶け込んでいるはずです。
それが作品の意味になるのです。

散文失礼しました。
脱線と言うか、あっちこっちして、掲載作品のことまでたどり着けませんでした。
すみません。。




▲TOP
【初めての誌上頒布①】発送の壁
まだ発売前ですが5月25日発売の月刊アートコレクターズ6月号
“アートを買って家に飾ろう!”大誌上頒布に
作品"皮膚-抜け殻は生きている-"を掲載していただきます。
誌上頒布ということで、この度は誌上より作品をご購入可能とのことです。
ぜひご覧ください。
アートコレクターズ6月号詳細はコチラ
↓↓↓↓↓↓↓↓
https://www.tomosha.com/book/b511228.html


誌上頒布そのものはこれまでもありましたが
多くのギャラリーが参加しての
このような規模での頒布はこれまでなかったのではないでしょうか。

僕のとしても初めての参加となり、いろんな意味でどきどきです。

誌上頒布ですが
実は、これまでもオファーがなかったわけではありません。
ただ、あまりに繊細な作品群のうえ、配送必須の企画ですので
お客様と私たちとの間に、お取引そのものを含めて、僕の作品のことをあまり知らない方々を中継する可能性もあり
あらゆる危険を避けて、できるだけ対面でお取引していこうと、お断りしてきたのでした。

運送、シッピングは僕の作品のある意味最大の課題だとギャラリーからも言われてきたのでした。

そして、この度。ギャラリーの上山さんからお話をいただき、いろいろ相談もしました。
いよいよ配送と正面から向き合う時が来たのかもしれません。
図らずもその機会がやってきたのです。

幸いなことに編集部の方には何度も掲載、取材していただく中で作品を実見していただき、お話する機会も数度得られました。
みなさん丁寧な方でギャラリーとの連携もよく、対応もきちんとしていただけそうです。
ギャラリー、作家サイドでも額装など、追加情報など必要な場合は、お伝えできる情報を準備します。
また、そのためのSNSやネットでの発信だと改めて感じています。

作品も、配送に耐えられる作品をチョイスしました。

梱包は作品外箱(外箱と作品の間にも緩衝材入ってます。)のさらに外に
数センチふわふわの緩衝材を挟んだうえでの段ボールで発送となります。
天地無用!!この面が上!精密機器、ガラス、われもの!!貼りまくります。
(発送機会の多い方に伺うと、そういうアピールは案外大事だそうです)

実は、これまで、ギャラリーから宅配業者での作品配送の経験がないわけではありません。
実際、事故はありませんが、ギャラリーが堂々と「これは発送できます。」と言えるためのノウハウをギャラリーと共に作る、いい機会になるかもしれません。
送れるものは、きちんと送る。

発送ノウハウとは関係ありませんが、
箱の中にもお礼のメッセージを入れてみようかな、とか
荷物が届いて開ける時の感動は
例えそれが自分で買ったものだったとしても
プレゼントを贈ってもらった時のような喜び。。独特の良いものがありますよね。

次回は作品のことです。

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マスクを1200度で焼きました。

"2020年ゲシュタルト崩壊するマスク"
Masaaki KOBASHI
ceramic
2020


皆様 お元気でしょうか。

新型コロナウイルス緊急事態宣言からひと月が経過しました。。
手作りのマスクがかなり浸透し、一つの文化を形成しかけているようです。
岡山の田舎でもなぜか少しづつマスクが出回るようになり、日に日に価格も落ち着いてきているようでした。
宣言は延長となったものの、
マスクの価格と呼応するかのように、(逆なのかもしれませんが)
世間は状況を注視しながらも精神的な少し落ち着きを取り戻し、これまでのことを総括したり、これからのことを考えたりしつつあるように見えます。
僕はといえば、いくつかの重要な個展が中止に追い込まれたものの、もともと平時は人の多い場所にあまり出かけない仕事。
ただただ仕事場にいました。
もう、家の中ではマスクはしません。

そう、家の中ではマスクをしません。
思えば
4月11日
松坂屋名古屋での個展中、愛知県緊急事態宣言によりお店は急遽休業。
個展が途中終了となり、岡山の自宅へ帰ったのでした。
「あなたは感染者の多い地域に何日も行っていた人」ということで、
以降2週間、自宅ハナレのアトリエにベッドを持ち込み隔離生活を送っていました。

「お父さんご飯!」という声が聞こえるとマスクをして、母屋の勝手口に食事を受け取りに行く。
息子や娘が入れ替わり食事を高いところから、僕の差し出すお盆に乗せてくれ、部屋へ持って帰る。
このような生活も数日たつと、なんだか飼われている犬のような気持ちになって来て、これはこれで悪くないかもしれないと思いながらも
作業とベッドのあまりに近い距離感にとまどい、なかなか制作は手に付かなかったのでした。
体は健康。個展は途中で終わったものの、名古屋ではみなさんによくしていただいたという思いばかりで気持ちも落ちてはいない。
食事を待ちながら、昼も夜もなく作業してはゴロン。作業してはゴロン。
作業が進まない。
そして、何度も使って、今は新しい物を使っているのにも関わらず捨てられずにいる使用後の不織布マスクを眺めていたのでした。
マスク。。。マスクってこんなんだったっけ。

・・・・・

そういえば
僕は名古屋に行く前からやっぱりマスクの事を考えていたのでした。

あーマスクがいるなあマスク。
マスクと言うものがこんなに大きい存在になったことはなかった。
マスクマスクマスクマクスマスクマスクマスク。
マスク?マスクってなんだったっけ?
いや、もしかしてマスクじゃなくてマクス?
マスクの中にマクスが入っていても気づかないくらい
世の中ではマスクが求められていた。
ホテルでも、移動中でも、会場でも、マクスしないと、マスク。
ズボンをはき忘れても恥ずかしいだけだが、マスクはダメ、入店を止められてしまう。忘れてはいけない。
そのくらい貴重なマスク。

マスクってこんな感じのものだったっけ?わからなくなってきた。
手作りのマスクも送っていただたいたり、
粉塵作業の仕事柄、マスクの備蓄はある程度ある。
それでも、何度も使って何度も洗ってケバケバのマスクが捨てられない。

もはやマスクは信仰と重なり、マスク本体は偶像のように神格化されかけている。
耳なし芳一が全身にお経を書いて怨霊の手から逃れるように、マスクをすることで、疫病の魔から逃れようとすがる私。
もはやマスクなしでは外は歩けない。
カタカナのヌを何度も書いているうちに、ヌってこんな字だったっけ?とヌのことが分からなくなってしまうように
マクスの情報が多すぎて私の中でのマスクがゲシュタルト崩壊している。

・・・・・

そして、マスクだったかマクスだったか、もうよくわからないけど何か大事な白いそれらをならべて眺めている。

AM1:00

そうだ、焼こう。
大地を生み出した高温の炎で焼き、物質としてのマクスを昇華させ、偶像としてのマスクの形象を陶に置換することで、この概念を永遠化して成仏させるのだ!

磁土の泥漿を丁寧にマスクに塗り電気窯に入れた。

1220℃で焼成。

・・・・・



どうみてもマスクなのに、まったくそうではない「それ」が目の前にある。

前にもましてさらによくわからなくなってしまった白いそれ

これは、なんだろうか、触れるとカサカサと音を立てた。

すこし力を入れるとお骨のようにパリパリと割れた。




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