おかげさまで丸二年を迎えることができました
December 8,2010
本日は少し触れたいことがあります。
本日2010年12月8日をもってCOMBINEは丸二年という
事になります。
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様々な形で過分なご支援ご協力いただいている方々に
対して深く御礼申し上げると同時に、今後も精進しご
期待に添えるよう努力いたします。
誠にありがとうございました。
皆様、今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいた
します。
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12月8日。この日は日本人にとっては実に大きな日にち
であると思います。
なぜこの日がスタート日なのか今までほぼ語りませんでしたが
この日はあえて私が確信的に決定いたいました。
その理由は二つあります。
一つは普通のサラリーマンであった私にとってこのCOMBINE
プロジェクトは確たる公算もないまま情熱のみで前進させた
決心でありました。
当然今もって成功などと言えるものは何一つ打ち出せ
ていませんが、当時は今以上に何一つも確信できるものなど
ありませんでした。
そんな状況の中、空威張以外のなにものでもないですが、
人知れず京都の片隅で世界に向けて”宣戦布告”をした
のが、2年前の12月8日でした。
もう一つは、少し大層ですが、日本人は必ず全員この
先人達が国際社会に対して大きな決断を下したこの
日に立ち返らなければならないという思いが私の中に
はあります。
それは終戦の日も同様に大事ですが
無謀な戦争に突入したこの日の方が
遙かに今の日本人である我々は見つめ
直す時なのではないか?と考えております。
敗戦後から現代に至るまで、日本は先の大戦に対して
全て蓋を固く閉ざし無視し、経済的な発展のみを大きく遂げ
国際社会に復帰いたしましたが、私は21世紀に至る現在こ
の国の中にある全ての問題の端緒とはこの12月8日からス
タートしたのではないか?と考えております。欧米の価値観
に先導され全て是としてきた事に対する疑問部分とは全て
がこの12月8日に集約されているのだと思います。
戦争という行為は間違った行為であることは明々白々の
事実であり、先の大戦を決して肯定するものではありませ
ん。
しかし、敗戦後全てが戦勝国の価値観で形成されて
きたのか、もしくは捨てさせられたのか?我々が失ったもの
は一体なんだったのか?今大きく感じ始めたこの感覚を
取り戻すには、考えるまもなく突き進んできたこの65年という
時間を冷静に見つめ直す必要があるのではないか?と思う
次第です。
今我々が真の意味で問い直さなくてはならない全てとは
この国のかたちであり、日本人とはなにか?という事だと
私は考えております。
その時、我々が立ち返らなくてはならないのは約65年間
封印してきた先の大戦なのではないかと思います。
民族意識を鼓舞し戦争を肯定するものでは決して
ありませんが、新たな国際社会の中で確固たる日本人
としての意識、そして矜持が持てる、そういう事を望む
のであるならばこそ、あえてこの日にちへの回帰という
のは必要事項なのではないかと考えております。
私どもは芸術を生業とさせていただいております。
その観点からも実は21世紀に入り、この国の芸術は
混乱していると私は見ております。
そのような状況の中で私が大きな声で申し上げたいのは
多様な価値観が錯綜する中であえてその中心軸を打
ち立て国際的な芸術のフィールドに打って出るのである
ならば、日本人としての真の意味でのDNAの発意、そ
の昂揚、これこそが一番大事なのではないかと思ってお
ります。
それは戦後から様々な価値観がこの国の中を駆け回り
今にいたっておりますが、やはり社会と同様に私は今こそ
原点とは何かという回帰を促すべきだと考えております。
やはりそこには12月8日という起点が大きな意味を持つ
と思いました。
先人達が2000年という時間の中で形成してきた文化
この文化のDNAを受け継ぐ現代の我々日本人は、
本当の意味で日本人たり得るのか?それなくして国際社会
で何者として表現を行うのか?残念ながら今の芸術家
及びその卵たる若者達が自らの文化基盤に対してあまりにも
無知蒙昧なことは悲しい限りだと思います。
国際的に評価されているアーティストは多々います
こと我々のフィルードで活躍している芸術家のほとんどが
私が見る限り日本人エッセンスを発意しているように感じ
ます。
しかしながら大変残念なのは、これらの人々のほとんどが
その立ち位置を都合の良いコスモポリタン化していると言う
ことです。
裏返せば、本国の我々が一番評価していない!
という悲しい事実が表裏として存在している。
僅か確信的に日本人としてある意味の気を吐いているのは
村上隆くらいなのではないか?
私はそういう意味で彼を凄く尊敬しております。
この国の文化・感受性は他に比類無き素晴らしいもので
あると胸を張って言いたい。その為にもやはり喪失した時点
に回帰し今の日本、その中での表現を見つめたいという
思いで12月8日をそのスタート日と位置づけました。

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吉野ロボ 2
December 7,2010
なぜ、医療とロボットが至って日本人的特性に
適っているのか?というよりも、素直に日本人的
気質を表出しているかという事だが、、、、
実は明確な論理性を持ち合わせているわけではない。
ただ先般のブログで記述したが主語を持たない
独自性の強い言語文化、この形成から想像
できる民族の性質という部分から考えても、、、
西洋のような主語述語的な必然性からモノを考える
といよりも、何か漠然とした全体から物事を浮かび上
がらせているような気がしてならないのである。
特別必然性がないにも関わらず探求する、しかしながら
なんとなくの直感的行為の連続性の積算と発想から
それらを体系立てて答えを導きだすような・・・・・
この際医療は別の機会に譲るとして、先ずロボット
に集約して語れば、、
以前のブログでも少し触れたが、機械文明、その
合理的な概念というのは日本に明治期大きな
ものが流入した。当然今の我々もその全体の
大きな流れの恩恵を受け現代に至っているので
あるが、どこか日本人が猛然と研究しているのは
それら西洋から流入した文明の起点その発想とは
異なるように感じるのである。
とりわけロボットにおいて考えれば、結論として
なぜ日本人は『 ヒューマノイド 』にこれほど拘るのか?
という疑問というのか不思議を以前からズッと考え
て来たのである。
ロボットは利便その一点から考えれば
ヒューマノイドなど空想の肥大的産物としては
存在価値は見いだせるが、現時点の現実とし
ては何の利便性も見いだすことは出来ない。
現代でこそある程度その精度が核心的部分まで
極まったからその転用という発想も生まれるが、、
初期段階でヒューマノイドを・・・といきなり取りかかる
発想は、、、実に他の国の科学者にあるだろか?
もちろん無いとは言えない、、科学はその直感的
想像からの検証行為でもあるからまったく否定は
出来ないが、、何か日本人はそういった事とは別次元
の取り付かれ方をしているように見えるのである・・・
だからなのかどうかは解らないが、、現実日本人は
かなりの時間、労力、資力を傾けてこのヒューマノイド
開発に拘り続けている。
アトム!
これかと思うがそれは違うと思うのである
手塚治虫も日本人のDNAを持ってあの
偉大な作品を作り上げた訳であって、アトム
そのものがと言うことではないと思う。
少なからず日本人のこだわりを堅固なモノに
するバックボーン、、もしくは方向性を指し示した
のは間違いないが・・・
これは一体何なのか?と思うのは私だけであろうか?
これも以前に少し触れたが、からくり人形の代表的
なモノでお茶を運ぶというモノがあるが、、、、、、、
ここまで精緻なものを開発する頭脳と労力があれば
本来、お茶を大量に作り出すという、、この一点に
機械的論理性とそれから来る合理性を求めれば
良いモノを、なぜ人形にしてお茶を運ぶという全く
何の利便性も享受できないものへの創作意識が
強く傾くのか???実に不思議でしょうがないので
ある・・・・・
確かに楽しい
そして皆にはお茶は運ばれないにしても
多くの人が手を叩いて喜ぶ、、ある意味の
イベントにはなる。。。。。。
ロボットには現時点の科学で主体性を持たせる
ところまでの開発は進んでいない、ある程度の
ルーティンによる人工知能的な、所謂経験値
からの動作というものは持ち始めているが、自ら
が考えるというのはない。
しかし、日本人の発想からすれば、それに猛烈
に進んでいる事は明白である。
しかし二足歩行をクリアし、あらゆる人間的な行動
を模した?いや機械として生物的な行動を具現化
させたという驚異的な極地まで到達している・・・
しかし何度も言うが、現実利益を生み出す産物
としてヒューマノイドは存在していない。
話は少し逸れるが、、、
私は常々考えてきたのであるが、日本人は西洋から
流入した芸術、まぁ輸入とあえて置き換えるが、、、
その大半明治期に入ってきたのもののインボイスが
間違っていたんじゃないか?と考えている。。。。。
例えばモネなどがその良い例であり、モネの輸入インボイス
は”技術”所謂描き方という部分であり、その芸術的考え
等はほとんど無視されてきたのではないか?と思うのである。
それは他の絵画も同様で、ゴッホなど何が優れているのか
本当に彼の生き方を割愛もしくは削除し、作品のみで判別
する部分の中で理解できているのか?と根本的な部分に突
き当たる・・・
私は何よりその最たる例はシュールレアリスムだったので
はないか?と考えている。
この絵画理論の中心は形而上学である。
一般的には実体や自己などの存在を規定する普遍的な
原理について研究する哲学の一領域である。世界の根本
的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の
存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものに
ついて考える学問分野である。
しかし根本的に日本及び日本人においてこの考え方は
至って希薄であり、特にそういった事を深く追求するという
歴史的業績は見られない。
なぜ存在するのか?などという部分に考えを突き刺す
ような論理性は有していない。
どちらかと言えば、、あるものは何らかの理由があって存在
するのだろう・・・という一つの存在の理由よりもそれらが
集合する世界観の方がもっと大事というのか、幽霊やその他
の超常現象にいたるまで何の疑問と言えば嘘だが大半、、、、
迷信としつつも受け入れて平然としている・・・・・・・・・・・・・・
このような民族にとって西洋人がある歴史の一時点にたどり
着いた論理性を真に理解できたかというと大いに疑問である。
確かに数名シュールレアリスムの画家というような人間もい
るが見る限り”猿まね”の息を脱していないのが現実であり、
本質的理解が及んでいないことは明白と言わざるを得ない。。
。。
日本人の独自性的解釈の見地から考えれば
所謂西洋的な形而上的発想である、なぜ存在するのか?
などという発想は元来持ち合わせていない。
だからロボットにおいてもその着眼と発想は類似するモノが
あり、ロボットそのものヒューマノイドが存在する根幹的な
考察などはないというかあり得ないのである。。。
そうなると何故日本人はロボットとりわけヒューマノイド
に取り付かれ猛烈に作り続ける、その出口というのか、、
何を追い求めているのか?という所に突き当たる。
私なりの安直な答えかもしれないが、、、、、、、、
存在理由としての人間ではなく、存在そのものとしての
人間をしりたいのじゃないのかなぁ?
と考えている。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
(つづく)

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吉野ロボ 1
December 6,2010
先日ある小説を読んでいて
ハッとさせられるというか、、あぁ・・なるほど
というのか、改めて考えればそうだなと思うモノの
しかしながら、、気がつかなかった事に気づかされた。。。
それは何かと言えば
川端康成という文豪の有名な小説の『雪国』
の書き出し文
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
である。
この文章よくよく考えると”主語”がないのである。
雪国が主語でもなければトンネルでもない・・
ましてや文章の中に示されてはいないから当然
なのだが、トンネルという単語から関連づけられる
汽車でもない・・
この文章が示している情景と時間軸には
まったく主語が存在しないのである・・・
少し調べてみると、日本語における特徴的
部分というのか、特質であり、日本語は主語
を必要としない言語でもあるらしいのである。
へぇ~と思うが、英語や中国語その他の言語
で置き換えて考えてみれば比較しやすいが、こ
れら言語では主語がなければ実は成立しない
仕組みが内包されていて、言葉の仕組みが実は
文法や単語(所謂スペル・漢字等)という部品
部分とマニュアル以前に日本語の感覚とはまっ
たく違う事が解るのである。。。。。
なるほどぉ~と関心したのはこういった事が
判明したこともさることながら、、主語を必要
としない言語文化を構築した日本人とは?
という部分に深く突き刺さった事が実は一番
大きかった。
そう言えばだが、そうなると
中原中也の汚れちまった悲しみに・・・という
詩にも主語なるものは見受けられない・・
俳句などもほぼ主語は省略されている。
「古池や蛙飛び込む水の音」
まぁ強引な解釈として
古池でも蛙でも主語とした
場合、、
1、古池が蛙に飛び込まれた水の音
?????
2、蛙が古池に飛び込む水の音
この方が説明はつくが・・・・果たして
「古池や蛙飛び込む水の音」
の表現しようとしたものと比べ
どうであろうか?
何となくではあるが、、、まったく
違う情景というより状態を説明
しているだけのような気がしなく
もないのと同時に、、ここが大きな
違いを孕んでいるように感じない
だろうか?
これだと基本は水の音という部分に
集約されていて古池という情感から
は何も現れてこない・・・・
何となく西洋の合理性的な匂いが
するのは私だけでは無い筈である。。
主語述語という組み合わせで考えれば
実は日本語は述語・述部が強く、主語
を必要としない、もしくは述語部分から
類推するという仕組みが備わっており、
あえて明記しないという考え方もある。。
もう一つ思えるのは、、主語という”~が”
と言うような主体的存在を先ず明確に
するという構造自体が実は日本人の
生活に根ざした風土・思想性とは逆の
構造があるように私は感じるのである。
どういう事かと言えば
常に客観的な視線を持つことを前提として
おり、その客観的風景から例えば自らであった
り、他者であったりの存在の輪郭を浮き上がら
せる、、、自分を中心にもしくは例えば物語
の主人公を中心にし風景を解説するのではなく
全体からの自分というモノを見る視線を重視
しているように感じるのである。
日本独特のスタイルと呼ばれる私小説に
至っても、実際には自分というものを極端に
まで観察すること客観視することによって、その
観察の中にある風景からの対比として自分を
浮かび上がらせている。結局、私はこう思う
故にこういう行動をとったなどというような構造は
あまり見受けられない。流れるような時間軸の
なかで彷徨う自分という、、ある意味あまりにも
主体性を欠如した中心人物というのが大抵の
設定の中心を成す・・・・・
これが実は日本における日本人の思考構造と
深く関わっているというよりも根底じゃないか?
と感じるのである・・・・・・・・・・・・・・・・・・
例えば絵画などを考えてもそうなのだが、、西洋に
おける一枚の絵という概念は日本では西洋文化
が流入してくるまではほとんど無かったと言っても良い。
どういう事かと言えば、庶民にその感覚がなかった
という事よりも所謂西洋における王侯貴族に類する
日本の大名などは、飾るというよりも、その空間に
存在する、所謂障壁画や屏風という空間性、もしくは
床の間という空間を中心としての演出物として絵画を
考えていた事は想像に難くない・・・
空間性はあっても、、、、
一枚の絵などという主体性は存在しない・・
浮世絵にしてもそうである
世間という空間の中で存在するから成立したのであって
タブローという概念はまったくない。。。
そう考えると・・・
今で言うインスタレーションを室内空間毎に作り出し
ていたというのか、、極論で言えば西洋的な所有感覚
ではなく共有感覚というような事に思える・・・
それは前述の全体からの個という空間感覚、明らかに
所有者というのは大名であるのだが、あえてそのキャプ
ション的説明もしくは誇示を持たない。
もっと言えば、絵画を飾るというより、絵画によって構築
された仮想空間の中に入り込むという欲求が実はこの
言語構造に近いような気がするのである。
この感受性で言えば、確かに日本以外の文化圏の
人間と交流、もっと言えば交渉する場合、、かなり
難解をもって迎えられることは当然であり、しかも日本
以外が全て違うという事を考えれば、国際社会での
日本的思考が不向きというのも納得出来る・・・
しかし、それは全て駄目なことなのか?とも思う。
私が小さい自分からホンの最近まで、大半世界から
見た日本という見え方においてほとんどが
だから駄目!という事をすり込まれ続けてきたが、、、、
本当にそうなのか?と最近はつくづく感じることが
ある。
なんか全て駄目みたいな・・・・
逆説的に考えれば、こんな感受性というのか、、
独特のオリジナルな言語文化を持ち、そこから
独特の空間意識や創造的嗜好性を持つにいたった
民族性は実はもっと誇らしく感じてもいいのではないか?
と思うのである。
他に類似性がない!これはとてつもなく大きな特質だと
思う。
明らかに世界標準と言うことは認識していかなくては
ならないが、しかしだからといって、全てを消し去り、
全て主語をもって言語思考構造を組み立てる必要
はまったくないと私は思うのである・・
ましてや西洋から見たという日本像というものに対して
媚びを売るような構造の日本アピールはまったくもって
間違いだと思う・・・・
過去から連綿と繋がる本質的な意味での
日本人という部分、、、、、
本当の意味での日本人という事を今はもっと皆で
考察し感じる時期なのではないか?と最近頓に思うの
である。
日本は科学という先端文明をもって世界に冠たる
国家の礎を築くというのは結構なことであるが、、、、
日本がこれまでそういった分野で先行できてきた
事も、実は先述している日本的な感受性が大きく
絡んでいると私は感じている。
その最も明確な分野こそが
ロボットなのでは?と以前から考えていた・・・・
いや逆に実は純粋に日本人の感受性のDNAを具現化させて
いるのは、、、、アートでも政治でも経済でもなく、、、、
科学、とりわけ医療科学とロボット科学の分野なのでは?
と考えている・・・
(つづく)

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