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上海アートフェア報告 2
さて、前回はアートフェアに臨む商売的状況を書き
ましたが、、

今回は会場内に所狭しと中国の画廊を中心に展開
されていいた作品たちについて少し触れたいと思います。
予めお断りしておきますが、これはあくまで私個人の
主観であり、独断色が極めて強い内容であることをご
了承ください。

結論から述べれば、残念ながら数多の作品を見ましたが、
どれ一つとっても感心するものはありませんでした。

確かに大きさや、筆致の激しさ、色等、独特の個性を確認
することは出来ましたが、一点一点の内容を見たとき、
いわゆる芸術というレベルにおいて誠優れたものは皆無に
等しかったように感じました。ごく僅か良いなぁ!という
ものはありましたが、しかしながら自分の中にあるゾーン
に放り込めばそれもあまり斬新かつ衝撃的といえるもので
はなく、ただ凡庸なものにしか感じられなかったのでした。

これまで香港で開催されているクリスティーズにおいて
中国のコンテンポラリー作家や、最近日本の美術館でも
展覧された“アバンギャルド・チャイナ”など中国の先
鋭的なアーティストの作品を見てきただけに、会場内の
作品たちには正直がっかりさせられました。

しかしながらよくよく考えれば、ここ最近見てきた中国
人アーティストをもって全体が優れているという判断は
軽率であり、しかも改めて彼らの作品に共通するテーマ
性を考えれば、個人と国家、資本主義と社会主義のシン
クロする社会様相の中における人間性の喪失・没我・唯
物史観に主体性無く変貌する状況に対するアンチテーゼ
と、所謂アーティスト個人の内面性を掘り下げたような
ものや普遍的な美意識に根ざしたもの、また国家を超え
た所に存在する人間創造に対する観念性などというもの
では無かったのではないかと気づくと同時に、それ以外
は?という疑問にも直面する。。

今存在する中国の現代表現とは・・
中国の人が表し中国以外の人が感じるオリジナリティー
溢れる世界観ではなく、自分たちを取り巻く政治経済社
会の風景をシニカルに表現しているというのが大半のよ
うな気がするのである。(まぁ中国に存在する混沌とした
混乱や矛盾を表しているから独創的と言えなくもないが
・・・・・・・)

それらが現在の中国トップ・プレーヤーたちの大半のコ
ンセプトであり、ある意味極端かもしれないがそれ以外
の多様な表現はほとんど存在しないような気がしたの
であった。

極論かもしれないが、上記コンセプト以外でオリジナリ
ティー溢れるこの国の現代における表現はまだほとんど
存在せず、不遜かもしれないが、まだまだ芸術表現とい
意味においては後進国であることは間違いない。日本に
高密度で堆積されてきた芸術的思考からすれば、まだま
だ層は薄いと断じざるを得ない。

。。。。。。。。。。。。。。。


私は常々このコンバインに関わる人たちに言って
いるのであるが、コンバインは現代美術という
言葉の装置を取り扱っているわけではない。


現代を映す優れた芸術表現を取り扱っているのであると・・
これはなにを意味しているのかと言えば、中国のアーテ
ィストに未だ脆弱な部分があるとするならば、この表現
という部分ではないか?と思うのである。


表現という言葉は


表・・・・あらわし(表面)
現・・・・あらわす(現身)



社会状況をシニカルに捉えるのはあくまで表面的な
活写に過ぎずその次の段階である表したものを見る
人たちが感じ、その人たちの目に見えない部分の
“現れる”という感情・情緒を引き出そうとする部
分が著しく脆弱なのではないか?と私は感じたので
ある。

社会状況を分かりやすく可視化するこれだけでは表現
には当たらない。現すという部分に独特のオリジナル
な世界、そのアーティストだけしか有しえない世界観
が必要なのだ。それからすれば絵は違えど訴えるもの
が類似、類推されるというのは・・・我々からすれば
ただのジオラマを同じように説明的に見せられている
ようなものであり、当然そこに感動や感心は沸き立た
ない。数人のトッププレイヤーで完結という事である。
現代中国の世界的アーティストの銘柄を上げれば、
作家の数の割に・・・ある程度簡単に把握できる状況
がそれを物語っているような気がするのである。

これは何も中国の人だけではないかもしれない。
未だ絵画の技術論や既成の美術史観からくる知識を披
瀝することが芸術論のように捉えている日本国内の輩
にも共通する事である。

しかしながら逆説的かつ冷静に判断すれば

うかうか根拠無く優越感に浸ってばかりおれない状況
も見てとれる。。

冷静に考えれば、民主化を叫び、挫折した天安門事件
から僅か20年。だから当然現代表現の多様性には時間的
限界があるという見方もある。


では今後を考えればどうなのだろうか?
相当な勢いで単一的なコンセプトで短時間で世界を席巻
できるパワーは侮れるものではない。そしてその進化
スピードも我々の経験した10年とは比べものにならな
いというのも明白である・・・


その時、日本人の表現の優位性とは一体なにになるの
だろうか?勝ち負けがあるわけではないが、各国の
オリジナリティーは今以上に重要視されるはずであり、
その中でとりわけ“日本”??となった
場合・・・・なにを軸として訴えるのであろうか?




また表面的な“アニメ”?と、、なるのだろうか???


もう”お絵かき”は無しにしたいものである。。



我々ももう少し骨太の表現及び藝術理論のコンテクスト
が必要であり、、、


もっと競争に勝つことを視野に入れる必要があるような
気がしてならない・・・・


いずれにしても東アジアマーケットは今後、今以上の
濃い内容で展開していくことは明白であろう。。。。

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上海アートフェア報告 1

















上海アートフェアが終わりました。


このアートフェアを無事に終えることができたのも、様々な
方々のご尽力あってこそ、この場をお借りして御礼申し上げ
ます。


誠にありがとうございました。


帰国したのは今週の月曜日深夜、それから残務等バタバタ
しておりこのブログでの報告が遅くなってしまいました。

遅ればせながら少しアートフェアについて書きたいと思い
ます。

結果を奢ることなく語らせていただけるならば、まずまず
だったのではないかと思います。そして出展して良かったと
素直に言える状況を得られたと思います。しかし当然ながら
足りない、力不足が否めない点、また様々に協力をいただいて
こそ成り立っている部分など、今後において膨大な課題が
あることもまた事実であり、これらの部分を一つ一つ謙虚に
捉え努力を重ねていきたいと素直に思った次第であります。

さて、、

出立前にこのブログにおいて書き記した
“なにをもって成功とするか?”
実にこの事が終始大事な柱であったことを今改めて感じて
おります。

アートフェアというものには様々な可能性の意味が含まれて
います。当然、参加するそれぞれがその可能性をどのように
活用するかによるのですが、その中で我々が参加する意義と
は何か?これを具体化することこそが、一番大きな意味を持
っていたような気がいたしました。

過去参加した方々、それについて報じたマスコミ、そしてそ
れに付随する風聞。様々な実感を得ない情報が錯綜する中で、
なにを見極めるのかこれはやはり実際に参加し行動しないと
分からないものが如何に多いか今回改めて感じました。

正直、今回参加して分かったことは、従来の美術品販売とい
う世の中の狭小な範疇からだけで物事を見ていたのでは
“なにも見えない”“木を見て森を見ず”という例えのごと
き状況しか捉えられないという事でした。

当然参加するには経費がかかり、出来れば最低限そのコスト
を吸収するだけの即売効果を得たいのは当たり前なのですが、
しかしそこを軸にものごとを考えた場合、それで得られるも
のとは一体なんなのか?

逆によく売れた!という即売状況があったとして、これが
アートフェア参加において最大の意義を発揮したというこ
とになるのだろうか?

当然よく売れたということは最大限のインパクトを与えら
れたことにも通じ、決して悲観するべき内容でないことは
事実なのであるが、しかし再度同じ事が生まれる根拠が
あったのかどうか?そこを得なければ逆に悲観的状況と言
えなくもない。

当然翌年同じ状況が高い確率で発生するなどとは断
言は出来ないのだから。(それが綯い交ぜ状況がバブルじ
ゃないか?とも思う・・・・)それから考えればやはり
“継続性”という事が大事であり,それを如何に掴むかが
重要なことだと思ったのでした。言ってしまえば簡単
であり、だれもが連想にそう難しくない事象なのであるが、
これが見ず知らずの国で・・・そしてアートフェアという
僅かな時間の制限の中でとなると容易ならざる事情である
ことは間違いない。が故に、アートフェアをどう活用する
かとは偉そうに大言いたしましたが、実のところ相当な壁
として今回認識できたのでした。

売るという行為の本質は中国であろうが日本であろうが
変わることではない。


ではなぜわざわざ高いコストをかけて他国にまで赴く
必要性があるのか?そこには単純にかの国の発展に依存し、
その状況から得る商売の欲望が存在するからでは無いのだ
ろうか?

その欲望とは果たして一体なんなのか?それがビジネス
としての妥当性、継続性を持っているのであろうか?
はたまた発展を望む公益性に適うのであろうか?

これが中国に出て行く上では非常に大事だなと感じたの
と同時に、ある意味受容する側とのコミュニケーション
を考えた場合、出来る限り明確であることが望ましいと
も考えられました。

しかしながら当然急速に発展する状況から生まれる妙味
は自国民(中国人)がまず享受する。それは美術であろ
うがその他の商売であろうが同じである。

そう考えた場合その間隙をつく、もしくは圧倒的な資本
と内容をもって交流するような状況がなければ商売的な
思惑など貫徹できはしない。

それらの誰もが想像できうる状況を知った上で、わざわ
ざ赴く戦略性とはいかなるもので、勝算がどこに存在す
るのか?この次元で物事を見なければ、、、、、、、

“ただの出稼ぎ”でしかなくなる。

しかしこの出稼ぎ、出稼ぎと言えどそれほど甘いもので
はない。バブルだった、そうでなかったという事で結論
づけられるものでもないと思う。

アートフェアの会場、その会場で発生するマーケット性
が中国の美術品(あえて書くが、ここ数年加熱した現代
美術市場)のマーケットなのだろうか?

会場を一歩でれば昼夜を問わずそこかしこで工事の音が
鳴り響き、街が毎日増殖していくような発展の経過・・・
これとアートフェアの会場をどのようにリンクし見るのか?
それが大事なのではないかと思うのである。アートフェア
は極小なコスモスでしかない。しかしそれを取り囲むこの
国というコスモスは異常なスピードと拡大性をもって律動
している。だからあえて言いたいが、美術誌などが報じて
いる内容が如何に稚拙な状況説明で、相対感を著しく欠如
しているか身をもって知ることが出来たのでした。

当然、アートフェア参加の全社が潤うなどという状況は
存在しないし、来場客数にも比例などしない。それはこ
れから先ずっと同じ状況であることは間違いないでしょう。


しかし現実には、中国の発展を体現している多様なジャンル
の人間が会場に足を運んでおり、その人間たちが考える
アートに対する嗜好性というものが確実に存在し、そして
それを取引したいという要望の条件も存在する。それを的確
に把握出来るか否かがアートフェアの大きな意味に変化し
ていってるのではないか?そして仮に某かの兆しを掴むこと
ができれば、それを時間かけてコツコツと形作る決意が必要
なのではないか?と思った次第です。

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上海へ
ただいまより出発いたします。


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上海直前
いよいよ上海アートフェアである。




月曜日7日15時35分関西空港発の便で出発
    19時よりは今回大変お世話になった中国サイドの関係者の
    方々との会食で明後日よりのアートフェアの打ち合わせ。
火曜日8日朝9時より飾付、午後19時より22時までvip対象のプレビュー

そして9日より13日16時まで・・



細かい部分ではこのブログに書けないほど様々な
事があったが、その都度いろんな方にサポートしていただいた。
深く感謝している。


特に今回エージェントとしてサポートしていただいているFさん
には本当に頭が上がらない。その上に今回6日に先発していただき、
フェアのチェックインや荷物の確認、諸々の調整事項までも請け負
っていただいた、本当にありがとうございます。


傍で見ていれば、アートフェアに出展するだけじゃないか?と
思われるかもしれない。本当にその通りで、シンプルにはそれだけ
でしかない。しかし、今回準備を経験させてもらって様々なことを
学ばせてもらったのと同時に、如何に多くの方の暖かいお心で支えて
頂いているか・・改めて痛切に感じた。



このご期待に少しでも応えるよう頑張らなくてはならない。



結果は様々な形で想定できる


しかし本当に大事なのはなにか?


この数日前、大変お世話になっている方から一つの問いを
頂いた。



「あなたは、なにをもって成功とするのか?」



そうなのである。



アートフェアとはやはり手段なのだと改めて思う。



自らなにをしにいくのか、何のためのアートフェアなのか。



これを再度考え、抽象的かもしれないが



このCOMBINEの最初に掲げた理念と照らし合わせ



考え行動していきたいと思う。




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唐墨





先日出稼ぎ中に



ある居酒屋に立ち寄った。



メニューを見ていて



何気なく目に入ってきた文字



「からすみ」



日本三大珍味の1つ



このわた、うに、からすみ



当然”高い”



マスターに少しレクチャーを受ける。。




一般的には長崎のボラで作ったものが
有名であるが、香川県ではサワラを用いる。
この店のからすみは自家製、マスターの手作り
であり、その手間のかかることの甚だしさ・・




高いのも納得である。




ここまで聞いて頼まない訳にはいかないので
頼む・・・




出てきたのが上の写真・・




からすみをきゅうりと大根で挟んで食べる
というごくシンプルな食べ方なのであるが




からすみは当然のことながら塩辛い、が、故に
酒の肴として珍重されるわけであるが、酒飲みには
好都合のこの塩辛さも食べるということを中心に
考えれば、少し・・という面は否めない。



そこで中和させるべきのきゅうりと大根であろう
と想像しながら口に運ぶ。




口に入れた瞬間




あっ!



これは・・・




旨い、、本当に旨い。。




こうなるときゅうりと大根がかかせない・・




また逆にからすみの味の多様さの紹介にも
通ずる食べ方!




ゥーーーーン・・



所謂、中心の食材の強烈な味をただ中和させた
という意味のコンビネーションではない・・




改めて考えると



私もこのからすみきゅうり、大根のような
コンビネーションのような仕事の在り様を
常々考えているのではないか?と・・・



料理というレベルで考えれば、食材を特別
調理していない。




からすみはからすみ



きゅうりはきゅうり




大根は大根




それぞれの個性をそのまま存分に浮き立たせて
いる。



しかしこれを同時に味わうと



なんとも言えないハーモニーが・・




それぞれの強み、らしさ、が





COMBINEしている・・・





こういうCOMBINEが理想かな。。

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