February 5,2011
大雑把に言えば、心身二元論とは、
心(精神)と肉体を別個のものとして考えようとする、
西洋哲学の思想一つです。
心身二元論は
自分を規定するのは精神活動で、
肉体というのは精神に付随しているものに
過ぎないという
ある種の唯脳的な思想です。
例えば、外科的な手術をして、
肉体を切り離した(例えば、腕や足を切断)としても、
自分であること、すなわちアイデンティティーは、
なんら揺るぐことは無いという姿勢です。
つまり、人間の活動の中で最も高尚なのは、
精神活動である、
という考えだともいえます。
そして、昨今話題の脳科学というのは、
この近代以降蔓延している、この唯脳的な姿勢に対する
アンチテーゼのような役割を果たしているといえるでしょう。
なぜなら、人間の精神や、思考こそが、
人間の活動において最も重要なものであるとの幻想を、
脳内で起きる一物質による化学反応に過ぎないと暴露したからです。
このことを人間の精神構造や
心のメカニズムまで解明してしまう危ない動きだ、
と反応する人たちもいますが、
それは少し違います。
そのことも脳科学は解き明かしています。
脳科学の研究者によると、人間の脳というのは
単なる計算機に過ぎないらしいのです。
ただ、入ってくる情報の好き嫌いはあるらしい。
この好き嫌いには個人差があります。
それによって均一に流れてくる大量の情報郡に
バイアス(好き嫌いで情報に優劣を付けることで
情報の処理速度が上がるらしい)をかけ、
最終的に快か不快かを判定する情報処理機、
要はコンピューターです。
つまり、脳から精神や心が発生するメカニズムや、
その所在は、まだはっきりとわかっていないのです。
おそらく、近代都市に生きる多くの人々は、
脳科学などの最新の科学知識もある程度理解していながら、
まだ心身二元論的な思考を持って生きています。
なぜなら、我々は自分の肉体はわずかながらでも
日々変化しているにも関わらず、
昨日の自分も今日の自分も揺ぎ無く
同じ自分である
と思い込んでいるからです。
また、科学技術の発展に伴い
便利さや快適さを追求した結果、
人間は自らの肉体をどんどん使わなくなりました。
例えば、歩行や走ることから、
自転車、そしてバイクや自動車へと移行する
交通手段の変遷を見てもわかります。
同じ距離の目的地に行く場合、
歩いて行くのと、
自動車で行くのとは、
肉体を使う部位や肉体的負担に大きく差があり、
自動車で行く場合では、目的地に行く時間も、
それにかかる肉体的負担はより少なくなります。
つまり、文明が発達し都市化が進む
現代は脳から発生した欲求を
満たすためにかかる時間も、
肉体的負荷も限りなく少なくする方向
に進んでいるといえるでしょう。
私自身は、精神と肉体を分けて考えることには反対です。
なぜなら、肉体の伴わない精神や、
心など存在しないからです。
かといって、脳内の化学反応のみで
人の心や精神が語れるとも思っていません。
精神が肉体に影響を与えるように、
肉体の状態もまた、精神に影響を与えます。
お互い相互依存的な関係にあるのだと思います。
だから単純に、
精神活動と肉体の活動とをわけ、
脳の欲求を満たすことを優先する
現代都市文明というのは、
生物として人間を捉えたときに
やばい方向にむかっている気がしてなりません。
心(精神)と肉体を別個のものとして考えようとする、
西洋哲学の思想一つです。
心身二元論は
自分を規定するのは精神活動で、
肉体というのは精神に付随しているものに
過ぎないという
ある種の唯脳的な思想です。
例えば、外科的な手術をして、
肉体を切り離した(例えば、腕や足を切断)としても、
自分であること、すなわちアイデンティティーは、
なんら揺るぐことは無いという姿勢です。
つまり、人間の活動の中で最も高尚なのは、
精神活動である、
という考えだともいえます。
そして、昨今話題の脳科学というのは、
この近代以降蔓延している、この唯脳的な姿勢に対する
アンチテーゼのような役割を果たしているといえるでしょう。
なぜなら、人間の精神や、思考こそが、
人間の活動において最も重要なものであるとの幻想を、
脳内で起きる一物質による化学反応に過ぎないと暴露したからです。
このことを人間の精神構造や
心のメカニズムまで解明してしまう危ない動きだ、
と反応する人たちもいますが、
それは少し違います。
そのことも脳科学は解き明かしています。
脳科学の研究者によると、人間の脳というのは
単なる計算機に過ぎないらしいのです。
ただ、入ってくる情報の好き嫌いはあるらしい。
この好き嫌いには個人差があります。
それによって均一に流れてくる大量の情報郡に
バイアス(好き嫌いで情報に優劣を付けることで
情報の処理速度が上がるらしい)をかけ、
最終的に快か不快かを判定する情報処理機、
要はコンピューターです。
つまり、脳から精神や心が発生するメカニズムや、
その所在は、まだはっきりとわかっていないのです。
おそらく、近代都市に生きる多くの人々は、
脳科学などの最新の科学知識もある程度理解していながら、
まだ心身二元論的な思考を持って生きています。
なぜなら、我々は自分の肉体はわずかながらでも
日々変化しているにも関わらず、
昨日の自分も今日の自分も揺ぎ無く
同じ自分である
と思い込んでいるからです。
また、科学技術の発展に伴い
便利さや快適さを追求した結果、
人間は自らの肉体をどんどん使わなくなりました。
例えば、歩行や走ることから、
自転車、そしてバイクや自動車へと移行する
交通手段の変遷を見てもわかります。
同じ距離の目的地に行く場合、
歩いて行くのと、
自動車で行くのとは、
肉体を使う部位や肉体的負担に大きく差があり、
自動車で行く場合では、目的地に行く時間も、
それにかかる肉体的負担はより少なくなります。
つまり、文明が発達し都市化が進む
現代は脳から発生した欲求を
満たすためにかかる時間も、
肉体的負荷も限りなく少なくする方向
に進んでいるといえるでしょう。
私自身は、精神と肉体を分けて考えることには反対です。
なぜなら、肉体の伴わない精神や、
心など存在しないからです。
かといって、脳内の化学反応のみで
人の心や精神が語れるとも思っていません。
精神が肉体に影響を与えるように、
肉体の状態もまた、精神に影響を与えます。
お互い相互依存的な関係にあるのだと思います。
だから単純に、
精神活動と肉体の活動とをわけ、
脳の欲求を満たすことを優先する
現代都市文明というのは、
生物として人間を捉えたときに
やばい方向にむかっている気がしてなりません。
