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個展 世界がちょっと変わるとき -メタリックセラミックス-
1/20からBAMIgalleryにて新年一発目の個展が始まりました。

今回の個展では、ひとつの軸をしっかりと据えて、そこから作品展開することを意識して制作、展示を行いました。



今回の個展タイトルの副題にもあるように、メタリックセラミックスを軸に展開しています。メタリックセラミックスとは、そのままですが、金属質な質感を持ったヤキモノです。

なぜ金属質か、なぜこのフォルムか、なぜヤキモノなのか、これに対してのひとつの解を、今回の展示、という形で表しています。



↑これは「Hello!!」という作品です。

日本の縁起物として、国内外で愛され続けている招き猫がモチーフになっている作品です。
招き猫の歴史はなかなか長く、なんと江戸時代から商売繁盛の縁起物として愛され、そして今に至ります。大体160年ぐらいでしょうか。
その結果、招き猫は大多数の方が共通認識できるくらいに「POP」な存在になりました。

POPな存在である招き猫をモチーフにするということは、すでに具体的なイメージが出来上がっているということです。
具体的なイメージが完成されているということは、制作者である私の意思などが入る余地が極端に少ないということです。

それは良くないことではないか?と思われるかもしれませんが、私はそれがすごく良い、と考えています。

作り手の想いが強すぎる作品は、第三者にとってはちょっとキツい。
個人的な想いが強すぎる作品は、第三者が入り込む余地がないのです。

私はそんなPOPな招き猫を、メタリックにすることで、POPでありCULT(カルト)な存在にしました。日常でありながら、非日常である。そんな作品になるように考え作りました。

非日常は、わけのわからない瞬間、角度から唐突に現れるものです。
なのでHello!!というタイトルにしました。


















私は会期中、12:30から終わりまで在廊予定です。
今まで続けてきた色々が、ひとつの形になったように思います。
愉快な展示になっていますので、ぜひお越し下さい、よろしくお願い致します。


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-メタリックセラミックス-
遠藤良太郎 「世界がちょっと変わるとき」
2017.01.20 (fri) - 2017.01.29 (sun)
OPEN  : 12:00 - 18:00
期間中無休



日常にある形。メタリックな質感を纏った日常にある形は、周囲の景色を映し出す。物体と物体の境界線が曖昧になる。その違和感は、日常を非日常に変化させる。 世界がちょっと変わるとき。いつものアイツが、一味違ったアイツになっていた。

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満腹なのにハラペコ男
なんとなしに、寝る前にぼんやりtwitterを見てたら誰かのツイートで、宮崎駿が「満ち足りた人生を送っている人間は物語を描こうなんて思わない。足りない部分を埋めるために一所懸命描くんだ」と言っていた。というようなことが書かれていた。


それを見て、すごく素直に納得できた。

そして眠って、なぜか真夜中に目が覚めた。脳みそがよう働いている感じだ。



急に昔のことを思い出した。
確か17歳くらいのときのことなんだけど、あのときぐらいから私はずっとずーっと退屈と戦っていた。
バイトもしてたからお金も困ってなかったし友達もいたし、わりと楽しくしていたはずなんだけど、私はずーっと何かに飢えていた。何かが足りない。その足りない何かの正体をつかめずにいた。


足りない何かを補うために、私は色んなことをした。


たらふく飯を食っても満たされないし、欲しい服とか買いまくっても満たされないし、女の子と遊んでも満たされないし、爆音で音楽を聴いても、やっぱり足りない何かが埋められずにいた。

私はその感覚を無視することも、ごまかすこともできなかった。そんなこじれた状態が続きめちゃくちゃにあがいていたある日、私は芸術と出会った。



前にもこの話はしたと思うので割愛するけど、このときから私は作ることに強烈に魅了され、今も続いているわけです。


前はわからなかったけど、なぜ魅了されたのかが今なら分かる。私が病的に求めていた足りない何かが、芸術は持っていたからです。



冒頭に書いた、足りない部分を埋めるために一所懸命描くんだ。と一緒で、私が何かを作る理由は、私の中にある、足りない部分を埋めるため、この飢餓感を満たすためなのです。これが遠藤良太郎のエンジンです。



しかし、そうはいっても世の中、というかこの社会の中で生きているわけだから、この社会の中で何か役割を演じなければなりません。なぜなら自分一人が「足りない部分を埋めるために作るんだ」とか一般的に見てちょっと浮世離れしたこと言ってるだけじゃあただのイタい人になりかねません。

社会というのはたくさんの人が、一人一人それぞれなんらかの役割があって、何かを演じて成り立っています。それはつまり、何かを作ること、いわゆる芸術家だとか作家だとか、そういう人たちも例外ではありません。それを放棄してしまっては、ただの趣味と言わざるを得ません。



芸術家、が持つ役割とは一体なんだろうか?
もしこの社会で、芸術家に役割が無いなんか特別なものだとしたらおそらく芸術という概念は淘汰されてなくなってしまっているはずなので、必ず何か役割があるのです。


この答えに正解はたぶん無いでしょうが、私には私の経験から導きだした正しさがあります。



私は、芸術家とは非日常を作り出し、演出し、提供する。という役割があると考えています。



以前、とある美術館のキュレーターの方が「芸術家とは狂気の予言者である」といっていました。


人にとっての最大の非日常とは、結局のところ人だと私は考えます。他の生き物では満たされません。小型のワンちゃんやニャンコでもです。
人というのは本当に意味がわからなくて、矛盾だらけで、合理的なような欠陥だらけのような、不安定だけど強かったり弱かったり。


そんな人が生み出す、狂気を抽出したような作品こそ、最大の非日常であり、それを作り出すことが芸術家の役割ではないかと思います。



私はまだまだハラペコです。もっともっと。

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怠け者の生き方
明けましておめでとうございます。
今年もまたお世話になりますが、よろしくお願いします。



お正月からものすごくゆっくりとした時間を過ごしていました。ものすごく暇でした。
なので自分について改めて考えてみることにしました。


私は、一言で言うと極度の怠け者です。
そんな大袈裟な、と思われるかもしれませんが、本当にひどい怠け者なのです。あらゆることがめんどくさいのです。


どれくらいひどいかというと、まずご飯を食べるのがめんどくさい。
大体の人は、ご飯を用意したり、食べに行くのがめんどうだ、と言いながらもなんやかんやでしっかりなにかしらのご飯を食べます。


しかし私は、一度めんどくさいスイッチが入ると食べません。食べることを諦めるのです。だから痩せているのです。私だって頭では、しっかりと食事をとらなければ体調を崩してしまうことは百も承知です。しかし、それでもめんどくささに抗えない自分がいるのです。


人間の本能というか、生きるエネルギーでもある三大欲求よりもめんどくささが勝ってしまうことも度々あります。こんなことツラツラと書いていたら、もはや超越者なんじゃないかと思えて来ました。


このように、私は大体のことがめんどくさいのです。
そんな私がこの社会で生きていくためには、自分を騙す必要があります。
そうすることで私は勘違いをして何かを頑張ってみたり、一生懸命何かになろうと演じてみたりするのです。


とんでもないめんどくさがりの私には、私を勘違いさせてくれる人や環境が必要です。
脳みそって高性能だから、案外受け入れてくれるのです。
他人に嘘をついたり、騙したりすることは決して良い事ではありません。
だけど自分になら誰も困らないし迷惑をかけないので悪い事ではないでしょうたぶん。



好きなことをし続けるため、好きな場所に居続けるために、私は私の脳みそを勘違いさせ、何かを演じていくのです。

それが怠け者の生き方です。
自分というものと社会的な自分が必ずしも同じではないように、他人からこの生き方がどう映るのかは、分かりませんが。

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個展 奇天烈都市の暮らし
本日からBAMIgalleryにて個展 「奇天烈都市の暮らし」が始まりました。





展示されている作品は、全て焼き物で作られています。





作品は建物の形をモチーフにしています。
そして四角い模様は、窓をイメージしています。





私は、「グレー」な存在に魅力を感じます。
右でも左でもない、曖昧な存在。





この建物も様々な窓がありますが、
窓の向こうに何者が住んでいるのかはこちらからはわかりません。





何かわからない正体不明なものはとても怖いものではありますが、
反面、不確かなものの中に、自由や面白さが詰まってるものです。

そんな不確かな面白さを形にしたいと思っています。


ぜひお越し下さい。

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遠藤良太郎 奇天烈都市の暮らし
2016.06.25 (sat) - 2016.07.08 (fri)
OPEN  : 12:00-18:00
期間中無休
【お問い合わせ】
COMBINE office
〒600-8824
京都市下京区二人司町21番地
TEL.075-754-8154 FAX.075-754-8154
www.combine-art.com
office@combine-art.com
【アクセス】
COMBINE office /BAMI gallery
http://combine-art.com/html/gallery/ga_access.php


BAMIgallery外観

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ゲームの荒行
好きなもの、みんな色々あるかと思いますが自分は何が好きだろう。

あー、けっこうゲーム好きだなぁー、と思った。
ゲーム。これはとても楽しいものです。画面の向こう側での楽しさ、とはいえとても魅力があります。

私はちょうど初代ポケモンブームのとき小学生で、親にねだってポケモン緑をゲットしました。
必死になってポケモンを育てました。モンスターボールを投げたらABボタンを意味なく連打していました。あのときからずっとゲームが好きです。

そこからはまさに、ゲームとともに育って来たといっても過言ではありません。
私が育てばゲームも育つ。
ゲームのハードはファミコン、スーファミ、ゲームボーイ、PS、セガサターン、64、アドバンス、キューブ、PS2、PSP、Vitaと大体のものを購入してかなりの本数のゲームをプレイし、それはもう膨大な時間をゲームに捧げてきたような気がします。あんまり覚えてません。某狩りゲーと某格闘ゲームの二本だけでもプレイ時間が軽く1000時間越えてます。きっと長いこと高熱が出ていたのでしょう。

しかし世の中の風潮としてはゲームが好き!とかいうと「大人にもなってまだゲーム?」みたいな、肩身の狭さを覚えずにはいられません。

特に、ゲーム否定派がこぞっていうこの言葉「ゲームやってなんか意味あるの?」

この問いに私は何か引っかかりを感じます。
この問いに込められたものを考えると、やはり大人になると意味のあるもの=価値あるもの、という構図ができてしまうようで、意味の無い無駄なものは排除される傾向にあるようです。ゲームは排除される筆頭のようです。

確かにゲームを寝る間も惜しんで必死になってやっても何も見返りはありません。あるとしたら難しい漢字が読めるようになることと、東西南北が分かるようになるぐらいです。
確かに無意味、見返りなどありません。むしろ目が悪くなって運動不足になります。



しかし意味がないから夢中になれる、という側面もあるように思います。
ゲームの魅力の最大はそこかもしれません。


最近、目的のない遊びをしただろうか?(ゲーム以外で)
ふと考えると、全然していないような気がします。
何かにつけて行動には理由や目的がなければならないと錯覚しているようにも思います。


小さい頃は、全てのものが遊び道具に見えました。
落ちてる石拾ったら何か的を決めて投げたり、木があったら登ってみたり、こうした遊びに意味や目的などまったくありません。だけど楽しい。
子供にとって、遊びとは生きることそのものです。


遊びというものは本来、意味や目的がないものです。

生きることもまた、意味や目的なんてないのかもしれません。

長い高熱が最近はだいぶ微熱になって落ち着いてきたので、ゲームだけではなく、何か他の遊びを考えてみようと思います。

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