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手のひランド@あべのハルカス近鉄本店
明日、5/17からあべのハルカス近鉄本店にて「手のひランド」という手のひらサイズ?の作品展が始まります。





遠藤は20日と28日に在廊しています。新作も投入しているのでぜひぜひお越し下さい。よろしくお願いします。

出品作家:遠藤良太郎 釜匠 太田夏紀 岡部賢亮 公庄直樹 佐野暁
【手のひランド】
会期:2017年5月17日(水)→5月30日(火)
会場:あべのハルカス近鉄本店
   タワー館11階 美術工芸品売場


Mix!! -三彩猫-
9x6x5cm
陶土


Mix!! -福の上にて#1-
20x15x13cm
陶土


Hello!! -だるま#1-
10x15x14cm
陶土

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八木一夫から考える
戦後、現代陶芸の異才として語られる、八木一夫の作品集を改めて熟読。
八木一夫の作品は、移り変わりが激しい。


有名なザムザ氏の散歩のような、いわゆるオブジェ焼きと称された機能を排除したやきものや、かと思えばけっこう素朴な器や、ブロンズの作品、海外の作品のオマージュぽいもの、動物などの具象形態、果ては焼成の変化を排除した黒陶による作品など、作品の幅はかなり広く捉え所がない。










それぞれの作品に共通していることは、強烈な好奇心なのかな、と思う。

同じ時代を生きたわけじゃないから知らないけど、勝手に憶測するに、ひとつの作品に対してあまり時間をかけるタイプではなく、頭の中のアイデアをどんどん形にしていきたい、インプットからアウトプットまでのスピードが極端に早い人だったんだろうな。そしてそれを実現する器用さや容量の良さを兼ね備えていたんだろう。なんとなくそんな感じがする。



八木一夫の残した言葉の中に


「初もの喰い、新しがり屋、皿ねぶり、などという軽薄さをむき出しのままで、この世間をまかり通れたこと。それはまさに敗戦なればこそだった。ただセンチメンタルと好奇心との、双翼で飛翔すればよかった。」


とある。そういう制作スタンスは八木一夫の気質でもあり、戦後っていう時代の特質でもあったんだろう。

だから今の時代に八木一夫を当てはめてしまうと、おそらくは、作家としての方向性がよくわからん、とか結局なに作ってる人?みたいな感じに見られてしまうのかもしれない。


ただ、八木一夫は茶碗は生きものだ、とか、器は独立したものではなく、周囲の中へ同化しながら周囲そのものとつながる、一つの流動感だ。と言っている。そうした精神性を見るに、作品はもちろん、八木一夫自身も、絶対的なものではなく、常に移ろいゆくものだということを受け入れて生きていたんだと思う。(戦争という劇的な変化を受け入れざるを得ない時代を生きた、という背景もあるように思う)




今の時代は絶対的な評価を求められる傾向が強い。
より確かなもの、より分かりやすいもの、より潔癖なもの、そうしたものが求められている。

しかし過去から学ぶに、そんなものは無いことが分かる。
形在るものはいつかなくなる。仏教でもそれが定説。おれもそう思う。



だけど、なんだろう、黒陶の作品を作る晩年の八木一夫は、無常な中に身を置きながら、確かなものを求めていたような、そんな気がする。


一言でいえば矛盾してるじゃん、で終わっちゃうんだけど、矛盾を抱えて生きる、それは右にも左にも答えが出ない流動的な状態をキープして生きる、ということなのかもしれない。


今の時代を面白くするために必要なものは、そうした度量の広さなのかもしれない、と思った。やっぱ好きだな八木一夫。

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30歳になりました@三十路
4/28に30歳になりました。



30歳、よくここまで生きてきたなぁ、と思った。
というのも、思い返せば「あ、死んだかも」っていう瞬間がいままで何度もあったし、、


例えば、小さい頃に10円玉を飲み込んで喉に詰まったとき、自転車乗ってて前方不注意の車に吹っ飛ばされたとき、つまずいて顔面から大量出血したとき、2年連続インフルからの肺炎になったとき、などなど、、ちょっと違えばとっくに死んでると思う。


こんな調子だから、勝手におれは28とか29あたりで死ぬんじゃないかなぁ、なんてわりと真面目に思っていたのですが、こうして生きて30歳になりました。


生きているというよりかは、ギリギリのところで、なんかよくわからんものに生かされているんだなぁ、という感じ。


そして30歳になったことで、確かになったことは、自分の人生は短距離走のタイプじゃなかったんだってこと。


どこが終わりかわかんないけど、おれの人生はフルマラソンなんだな、そういう運命に生かされてるわけだから、おれはその運命を全うしなくてはいけない。Born This Way的なやつだ。

今まで作ることも、それ以外もたくさん回り道をしてきて、寄り道だらけで全然すすまねー!っていう焦りみたいなもんがあったけど、きっとこれでいいんだ。


イチローもそれでいいって、そうじゃなきゃダメだって言ってた。バカボンもそれでいいのだって言ってるしレディ・ガガも他の道なんてないのよって言ってるし、みうらじゅんもそこがいいんじゃない!って。



そういうわけだから、自分の運命を認めて、たくさん寄り道しながら進んでいこう。きっと面白いことになる。


今後ともよろしくお願いします、30歳遠藤、はじまりはじまり。

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個展 世界がちょっと変わるとき -メタリックセラミックス-
1/20からBAMIgalleryにて新年一発目の個展が始まりました。

今回の個展では、ひとつの軸をしっかりと据えて、そこから作品展開することを意識して制作、展示を行いました。



今回の個展タイトルの副題にもあるように、メタリックセラミックスを軸に展開しています。メタリックセラミックスとは、そのままですが、金属質な質感を持ったヤキモノです。

なぜ金属質か、なぜこのフォルムか、なぜヤキモノなのか、これに対してのひとつの解を、今回の展示、という形で表しています。



↑これは「Hello!!」という作品です。

日本の縁起物として、国内外で愛され続けている招き猫がモチーフになっている作品です。
招き猫の歴史はなかなか長く、なんと江戸時代から商売繁盛の縁起物として愛され、そして今に至ります。大体160年ぐらいでしょうか。
その結果、招き猫は大多数の方が共通認識できるくらいに「POP」な存在になりました。

POPな存在である招き猫をモチーフにするということは、すでに具体的なイメージが出来上がっているということです。
具体的なイメージが完成されているということは、制作者である私の意思などが入る余地が極端に少ないということです。

それは良くないことではないか?と思われるかもしれませんが、私はそれがすごく良い、と考えています。

作り手の想いが強すぎる作品は、第三者にとってはちょっとキツい。
個人的な想いが強すぎる作品は、第三者が入り込む余地がないのです。

私はそんなPOPな招き猫を、メタリックにすることで、POPでありCULT(カルト)な存在にしました。日常でありながら、非日常である。そんな作品になるように考え作りました。

非日常は、わけのわからない瞬間、角度から唐突に現れるものです。
なのでHello!!というタイトルにしました。


















私は会期中、12:30から終わりまで在廊予定です。
今まで続けてきた色々が、ひとつの形になったように思います。
愉快な展示になっていますので、ぜひお越し下さい、よろしくお願い致します。


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-メタリックセラミックス-
遠藤良太郎 「世界がちょっと変わるとき」
2017.01.20 (fri) - 2017.01.29 (sun)
OPEN  : 12:00 - 18:00
期間中無休



日常にある形。メタリックな質感を纏った日常にある形は、周囲の景色を映し出す。物体と物体の境界線が曖昧になる。その違和感は、日常を非日常に変化させる。 世界がちょっと変わるとき。いつものアイツが、一味違ったアイツになっていた。

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満腹なのにハラペコ男
なんとなしに、寝る前にぼんやりtwitterを見てたら誰かのツイートで、宮崎駿が「満ち足りた人生を送っている人間は物語を描こうなんて思わない。足りない部分を埋めるために一所懸命描くんだ」と言っていた。というようなことが書かれていた。


それを見て、すごく素直に納得できた。

そして眠って、なぜか真夜中に目が覚めた。脳みそがよう働いている感じだ。



急に昔のことを思い出した。
確か17歳くらいのときのことなんだけど、あのときぐらいから私はずっとずーっと退屈と戦っていた。
バイトもしてたからお金も困ってなかったし友達もいたし、わりと楽しくしていたはずなんだけど、私はずーっと何かに飢えていた。何かが足りない。その足りない何かの正体をつかめずにいた。


足りない何かを補うために、私は色んなことをした。


たらふく飯を食っても満たされないし、欲しい服とか買いまくっても満たされないし、女の子と遊んでも満たされないし、爆音で音楽を聴いても、やっぱり足りない何かが埋められずにいた。

私はその感覚を無視することも、ごまかすこともできなかった。そんなこじれた状態が続きめちゃくちゃにあがいていたある日、私は芸術と出会った。



前にもこの話はしたと思うので割愛するけど、このときから私は作ることに強烈に魅了され、今も続いているわけです。


前はわからなかったけど、なぜ魅了されたのかが今なら分かる。私が病的に求めていた足りない何かが、芸術は持っていたからです。



冒頭に書いた、足りない部分を埋めるために一所懸命描くんだ。と一緒で、私が何かを作る理由は、私の中にある、足りない部分を埋めるため、この飢餓感を満たすためなのです。これが遠藤良太郎のエンジンです。



しかし、そうはいっても世の中、というかこの社会の中で生きているわけだから、この社会の中で何か役割を演じなければなりません。なぜなら自分一人が「足りない部分を埋めるために作るんだ」とか一般的に見てちょっと浮世離れしたこと言ってるだけじゃあただのイタい人になりかねません。

社会というのはたくさんの人が、一人一人それぞれなんらかの役割があって、何かを演じて成り立っています。それはつまり、何かを作ること、いわゆる芸術家だとか作家だとか、そういう人たちも例外ではありません。それを放棄してしまっては、ただの趣味と言わざるを得ません。



芸術家、が持つ役割とは一体なんだろうか?
もしこの社会で、芸術家に役割が無いなんか特別なものだとしたらおそらく芸術という概念は淘汰されてなくなってしまっているはずなので、必ず何か役割があるのです。


この答えに正解はたぶん無いでしょうが、私には私の経験から導きだした正しさがあります。



私は、芸術家とは非日常を作り出し、演出し、提供する。という役割があると考えています。



以前、とある美術館のキュレーターの方が「芸術家とは狂気の予言者である」といっていました。


人にとっての最大の非日常とは、結局のところ人だと私は考えます。他の生き物では満たされません。小型のワンちゃんやニャンコでもです。
人というのは本当に意味がわからなくて、矛盾だらけで、合理的なような欠陥だらけのような、不安定だけど強かったり弱かったり。


そんな人が生み出す、狂気を抽出したような作品こそ、最大の非日常であり、それを作り出すことが芸術家の役割ではないかと思います。



私はまだまだハラペコです。もっともっと。

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