RECENT POSTS
八木一夫から考える
戦後、現代陶芸の異才として語られる、八木一夫の作品集を改めて熟読。
八木一夫の作品は、移り変わりが激しい。


有名なザムザ氏の散歩のような、いわゆるオブジェ焼きと称された機能を排除したやきものや、かと思えばけっこう素朴な器や、ブロンズの作品、海外の作品のオマージュぽいもの、動物などの具象形態、果ては焼成の変化を排除した黒陶による作品など、作品の幅はかなり広く捉え所がない。










それぞれの作品に共通していることは、強烈な好奇心なのかな、と思う。

同じ時代を生きたわけじゃないから知らないけど、勝手に憶測するに、ひとつの作品に対してあまり時間をかけるタイプではなく、頭の中のアイデアをどんどん形にしていきたい、インプットからアウトプットまでのスピードが極端に早い人だったんだろうな。そしてそれを実現する器用さや容量の良さを兼ね備えていたんだろう。なんとなくそんな感じがする。



八木一夫の残した言葉の中に


「初もの喰い、新しがり屋、皿ねぶり、などという軽薄さをむき出しのままで、この世間をまかり通れたこと。それはまさに敗戦なればこそだった。ただセンチメンタルと好奇心との、双翼で飛翔すればよかった。」


とある。そういう制作スタンスは八木一夫の気質でもあり、戦後っていう時代の特質でもあったんだろう。

だから今の時代に八木一夫を当てはめてしまうと、おそらくは、作家としての方向性がよくわからん、とか結局なに作ってる人?みたいな感じに見られてしまうのかもしれない。


ただ、八木一夫は茶碗は生きものだ、とか、器は独立したものではなく、周囲の中へ同化しながら周囲そのものとつながる、一つの流動感だ。と言っている。そうした精神性を見るに、作品はもちろん、八木一夫自身も、絶対的なものではなく、常に移ろいゆくものだということを受け入れて生きていたんだと思う。(戦争という劇的な変化を受け入れざるを得ない時代を生きた、という背景もあるように思う)




今の時代は絶対的な評価を求められる傾向が強い。
より確かなもの、より分かりやすいもの、より潔癖なもの、そうしたものが求められている。

しかし過去から学ぶに、そんなものは無いことが分かる。
形在るものはいつかなくなる。仏教でもそれが定説。おれもそう思う。



だけど、なんだろう、黒陶の作品を作る晩年の八木一夫は、無常な中に身を置きながら、確かなものを求めていたような、そんな気がする。


一言でいえば矛盾してるじゃん、で終わっちゃうんだけど、矛盾を抱えて生きる、それは右にも左にも答えが出ない流動的な状態をキープして生きる、ということなのかもしれない。


今の時代を面白くするために必要なものは、そうした度量の広さなのかもしれない、と思った。やっぱ好きだな八木一夫。

▲TOP