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満腹なのにハラペコ男
なんとなしに、寝る前にぼんやりtwitterを見てたら誰かのツイートで、宮崎駿が「満ち足りた人生を送っている人間は物語を描こうなんて思わない。足りない部分を埋めるために一所懸命描くんだ」と言っていた。というようなことが書かれていた。


それを見て、すごく素直に納得できた。

そして眠って、なぜか真夜中に目が覚めた。脳みそがよう働いている感じだ。



急に昔のことを思い出した。
確か17歳くらいのときのことなんだけど、あのときぐらいから私はずっとずーっと退屈と戦っていた。
バイトもしてたからお金も困ってなかったし友達もいたし、わりと楽しくしていたはずなんだけど、私はずーっと何かに飢えていた。何かが足りない。その足りない何かの正体をつかめずにいた。


足りない何かを補うために、私は色んなことをした。


たらふく飯を食っても満たされないし、欲しい服とか買いまくっても満たされないし、女の子と遊んでも満たされないし、爆音で音楽を聴いても、やっぱり足りない何かが埋められずにいた。

私はその感覚を無視することも、ごまかすこともできなかった。そんなこじれた状態が続きめちゃくちゃにあがいていたある日、私は芸術と出会った。



前にもこの話はしたと思うので割愛するけど、このときから私は作ることに強烈に魅了され、今も続いているわけです。


前はわからなかったけど、なぜ魅了されたのかが今なら分かる。私が病的に求めていた足りない何かが、芸術は持っていたからです。



冒頭に書いた、足りない部分を埋めるために一所懸命描くんだ。と一緒で、私が何かを作る理由は、私の中にある、足りない部分を埋めるため、この飢餓感を満たすためなのです。これが遠藤良太郎のエンジンです。



しかし、そうはいっても世の中、というかこの社会の中で生きているわけだから、この社会の中で何か役割を演じなければなりません。なぜなら自分一人が「足りない部分を埋めるために作るんだ」とか一般的に見てちょっと浮世離れしたこと言ってるだけじゃあただのイタい人になりかねません。

社会というのはたくさんの人が、一人一人それぞれなんらかの役割があって、何かを演じて成り立っています。それはつまり、何かを作ること、いわゆる芸術家だとか作家だとか、そういう人たちも例外ではありません。それを放棄してしまっては、ただの趣味と言わざるを得ません。



芸術家、が持つ役割とは一体なんだろうか?
もしこの社会で、芸術家に役割が無いなんか特別なものだとしたらおそらく芸術という概念は淘汰されてなくなってしまっているはずなので、必ず何か役割があるのです。


この答えに正解はたぶん無いでしょうが、私には私の経験から導きだした正しさがあります。



私は、芸術家とは非日常を作り出し、演出し、提供する。という役割があると考えています。



以前、とある美術館のキュレーターの方が「芸術家とは狂気の予言者である」といっていました。


人にとっての最大の非日常とは、結局のところ人だと私は考えます。他の生き物では満たされません。小型のワンちゃんやニャンコでもです。
人というのは本当に意味がわからなくて、矛盾だらけで、合理的なような欠陥だらけのような、不安定だけど強かったり弱かったり。


そんな人が生み出す、狂気を抽出したような作品こそ、最大の非日常であり、それを作り出すことが芸術家の役割ではないかと思います。



私はまだまだハラペコです。もっともっと。

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