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青と赤の思考メモ
いよいよ明日から八木君との二人展「Black & Blue/Red」がはじまります。

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阿部瑞樹・八木佑介二人展
「Black & Blue/Red」
2018.5.16(wed)-22(tue) ※最終日16:00まで
山口井筒屋5階美術ギャラリー
http://www.izutsuya.co.jp/storelist/yamaguchi/access/
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今回の自分のテーマは青もしくは赤です。

青と赤について少し具体例を出してみると、
トイレの男女マークの色、
赤青鉛筆、カスタネット、リトマス試験紙、
床屋のくるくる回るサインポール、
赤と青の3Dメガネ、道路の信号...などなど。
よく見ると様々なものに赤と青が使用されています。

また、青と赤をイメージするものとして、
一日の始まりと終わり(深く青い朝と赤く色づく夕方)、
水と大地、生と死、
動脈と静脈、温度を表す色...など。
赤と青に対する色々なイメージもいつの間にか私達の頭に根付いています。


以上の例から、青と赤からは相反する色でありながらも
循環するイメージがあると自分は考えています。

そのきっかけは、恐らく以前も書いた祖父の山での死という出来事でしょう。
山で行方不明になり、半年後にほぼ白骨化して見つかった時、
遺体確認のために警察の方に画像を見せてもらった時のはっと気づくような感覚。
今ある肉体が土に還り、木々や水蒸気(空気の一部)になる。
まさに赤→青。そして青→赤という循環を強く意識した体験でした。

また、青と赤の境界について考えていく事も面白い。
赤青鉛筆の芯の境界は何色なのか?
境界だから紫ということは無いでしょう。
これが赤と青の境界です!と言いきる事ができない、
不可視で曖昧でカオスな部分が境界には存在していると考えます。

自分の作品ではその不可視な部分を、
"透明なもの"として仮に可視化して(いるように見せかけて)
表現してみたものも今回の展示作品に入っています。

青と赤、単純な色として見えてくるものだけではなく、
・相反するもの
・循環するもの
・見えない境界とその曖昧さ
などが今後の作品テーマになってくる予感がしています。
今回はそのはしりと言えるでしょう。

山口県で関西から少し離れますが機会がありましたら是非よろしくお願いします。

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透明観
朝起きて、眼鏡をかける。

コップ一杯の水と、
液晶越しのニュース。

準備をして外へ出掛ける。
車や電車に一歩乗り込めば、景色が流れる。

急な雨で買ったビニール傘。

帰りの車内で見る、水滴のついた窓の景色。

そんな雨の日もあった。



普段の生活の中で、多くの透明な物に囲まれて生きている。

家や車のガラス、ビニール傘、眼鏡、アクリル板...
今あなたがこれを読んでいるのも、液晶越しの光。

透明なものに囲まれて生活している私達は、

ある時はガラス越しに物理的に、

ある時は自分の主観越しに精神的に、

無意識のうちに透明なフィルターを通して物事を見ている。

きっと自分の見ている世界は、

他人には違って見えているはずだ。



見えているはずなのに認識していない透明を描きたい。

私は私の透明を不透明な絵具で描き、あなたとの境い目を観てみたい。


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阿部瑞樹 透明観

2018.03.14 (wed) - 2018.03.24 (sat)
OPEN 12:00~18:00
期間中無休
※最終日午後4時閉廊

BAMI gallery
〒600-8824
京都市下京区二人司町21番地

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人は命が終わると

赤茶色に分解される


一日が終わる瞬間

あたりは赤に染まる



赤く染まった無機質な人工物は

命があるような

不気味な存在になる



うまくいかなかった作品を片手に帰る黄昏時に

そんな事を思った。


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「after80昭和最後の人たち」
9月6日(水)からBAMIギャラリーにてグループ展に参加させていただきます。
一旦自分を0の状態にリセットして、新しい作品を描いています。
是非お越し下さいませ。

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after 80 昭和最後の方の人たち
2017.09.06(wed) - 2017.09.15(fri)
OPEN 12:00〜18:00 期間中無休

釜匠 1985 年 阿部瑞樹 1987 年 松本央 1983 年
遠藤良太郎 1987 年 佐野暁 1981 年 公庄直樹 1982 年


after90 平成最初の方の人たち
2017.09.19 (tue) - 2017.09.29 (fri)
OPEN 12:00~18:00
期間中無休

八木佑介 1991 年 宮本大地 1991 年 岡部賢亮 1990 年
太田夏紀 1993 年

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1987年2月、日本という平和な国に私は生まれた。

幼少期のかすかに残ってる社会的な事象の記憶でパッと
思い浮かぶのはベルリンの壁の崩壊、バブルの崩壊。
ほとんど記憶はないが大人達のざわついた空気を肌で
感じた事は覚えている。物心ついてからは阪神淡路大
震災、地下鉄サリン事件、9・11テロ、最近では東日本
大震災などが挙げられる。


しかし、私が画家として絵を描くにあたって直接的に
影響されている出来事というのは正直なところ、ほぼ無い
に等しい。ニュースで歴史を揺るがす大事件が起こっても
ニュースの中の出来事で現実感がないし、そのニュースで
すらあまり信用できない時代でもある。


もちろん心は痛むけれど、一方でその自分の心に懐疑的に
なっている自分もいる。ぬくぬくと幸運に恵まれ何不自由
なく平和で幸せに育ってきた私には、どこか人間として抜
け落ちてしまっている部分があるように感じる。何を描い
ても自身でも現実感がなくただの嘘になるので、自然と
身近な事柄を絵の題材・モチーフにすることが主になった。


ここからはとても個人的な話になるが、私には二人の
ちょっと変わった祖父がいる。(いた。)ひとりは父方の、
実家富山の祖父だ。実家の裏庭は祖父の温室や素材置き場
になっていた。悪い表現で言うとゴミ屋敷だ。そこには
パイプやら色んな金属部品やら瓦やらが赤土の地面に積ま
れており、おなじ場所で烏骨鶏や品評会用の植物なども育
てられていた。


幼少の頃は裏庭が秘密基地のようで探索しながら遊んでいた。
錆びた金属と赤土の色、におい、温室のむせ返るような湿度、
烏骨鶏や虫の鳴き声。子ども心にはとても興味が惹かれる要素
がそこには詰まっており、今でも鮮明に思い出せる。


戦後、「物が無い」という中でサバイバルしてきた祖父に
とって、物を集めてストックしておくという事が習慣に
なっていたのかもしれない。また富山は米どころと言われ、
阿部家もご多分に漏れず兼業農家で米をつくっていたので
農業機械のメンテナンスも必要になってくる。年に一度しか
使わない田植え機やコンバインなどはたまにしか使わないせ
いでトラブルが起きやすく、その都度修理しながら使わなく
てはならない。


毎年のように業者による修理を待っていたのでは田植えも
収穫もなかなか進まないので、よく祖父達が(おそらく適当に)
修理して使っていた。祖父の車(旧ビートル)でさえペンキを
塗りながら長い事乗っていた。しかし時代は進んで技術革新
が起こり便利な道具が増えて壊れにくくなってくるにつれて、
祖父が収集していた”いずれ何かに使う”部品などは必要と
される場面が無くなった。あとはもう溜まる一方、錆びる
一方で、私の脳裏に深く刻まれている裏庭が完成したのだ
と考える。


そして三重の母方の祖父だ。残念ながらもうこの世には
いないが、三重の祖父もある意味変わり者だった。とても
頭の良い人で、若い頃は学者でカナリアの研究をしていた
と聞いた事がある。自分にも人にも厳しい人だったらしいが、
私は優しい祖父のイメージしかない。幼い頃から毎年のよう
に三重に遊びにいっていたが、寝る前には孔子の教えを子ど
もの自分に分かりやすいように説いてくれていたのを覚えて
いる。


また、円空をリスペクトしており、祖父自身もよく色んな
山へ登山しにいったり木っ端仏をたくさん彫っていた。
幼い時分にはよく分かっていなかったが、三重の祖父は
信心深い仏教徒というわけではなく、その思想や哲学を学
び日常に活かしたり孫である私に教えてくれようとしてい
たのだろう。と、ここまでは普通に良いおじいちゃんな
祖父だが、私が大学4年生、21歳の時に祖父は山で
行方不明になった。

「この人は山で死ぬんだろうな…」という予感めいたもの
はずっとあったにせよ、現実に山で行方が分からなくなる
というのは人生の中で1、2を争うほどの衝撃だった。


約半年後に遺体で見つかり、警察署で一家が集まりデジカメ
の画像にて遺体確認を行う際、どんな恐ろしい画像を見る事
になるんだろうと思っていたが、見た瞬間にすっと心に落ち
て納得できる事があった。それは「人は土に還る」という事
である。


そこには「悲しい」という感情はなく、祖父は土に還ったん
だなという納得しかなかった。また、祖父の遺体の画像の色
は偶然にも上記した富山の祖父の裏庭の景色の色とも重なり
合うのだ。人も、物も、いずれは朽ちゆくという事を本当の
意味で意識し、理解したのはこの時だろう。ニュースであた
かも別世界のように感じていた死というもの。希薄になって
いた死生観がこのときはじめて目を覚ました。


現代では火葬が99%以上を占めるこの日本で、はじめて向き
合った生々しい「死」がこの祖父の死だった事、また、
幼少の頃から見てきた「錆びた」景色と相まって、現在の
私の作品に多いに影響を及ぼしていると言える。

いささかマイクロポップではあるが、私にはこれだけしかない。


阿部瑞樹

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阿部瑞樹のルーツ
思えば、昔からそうだった。


三重に祖父母(母方)の家があり、
毎年夏になると母が帰省した際には必ず鈴鹿サーキットへ遊びにいっていた。

ゴーカートが大好きで色んな種類のゴーカートに乗って
楽しんでいた事は今でも鮮明に思い出せる。

F1界の伝説、アイルトン・セナが大活躍していた時代。
当時、幼稚園児の僕もF1に夢中になっていた。

F1のチームとドライバーを全て覚えていたらしく...
地元のテレビにF1大好き少年として出演まで果たしたようだ。(覚えてない)


※Wikipediaより

時は過ぎ、セナも34歳という若さでレース中の事故で不帰の人となってしまった。
そしていつの間にか僕の興味の対象はガンダムへと移っていた。。

ガンダムといえば、あの大きいロボットを創造するかもしれないが、
僕が夢中になっていたのはSDガンダムという
デフォルメされて三頭身くらいになったガンダムだ。


SDガンダムは中に人が乗っているロボットではなく、
ガンダム自身が物を考え、言葉を発し、まるで生きているように
コミカルな描写で描かれたアニメだった。

そのビデオを飽きずに何度も観ていた記憶がある。

小学生の高学年になってくると、
そのSDガンダムのプラモデルにド嵌りすることとなる。

ただ組むだけではなく、
色んなガンダムのパーツを組み合わせてオリジナルのガンダムを作ったり、
ガンダムマーカーというもので自分で塗装したり、
出来たガンダム同士を妄想で戦わせたり。。

そんな小学生時代だった。


中学生にもなると、今度はリアル頭身のガンダムも好きになった。
そうなると三等身なガンダムと比べるとプラモデルも複雑化し、
作るのには非常に時間もかかる。
けれど塗装からちゃんとして、
組み上がった時はすごく気持ち良かったのを覚えている。

わりと器用な方だと自分でも思うが、
その器用さはプラモデルで身につけたといっても過言ではない。


また、なぜかシャーペンやボールペン、マーカーに
それぞれ名前を付けて一人遊びしていた。
今思うとはずかしいが...俗にいう黒歴史である。

この頃から無意識に「物」を単なる物として捉えていなかったのかもしれない。


さて、高校生になるとスタジオジブリ作品に没頭することとなる。
「風の谷のナウシカ」に登場する巨神兵。
人間によって作られた人型の人工生命体。
人工物に対する人間の業を感じ得ずにはいられなかった。

「天空の城 ラピュタ」に登場するロボット兵。
人が滅びた後もラピュタで動き続けるロボット兵は
もはや自然と融合しており、
人間の業から解き放たれたピュアな存在として描写されている。

そんな、宮崎駿監督の描き出すロボットたちが
それまでの僕の経歴からすると好きにならないはずがなく、
ノートの端や机などあらゆる所に落書きをしていた。


それと同時にふつふつと自動車への興味も再燃してきていた。


スタジオジブリの背景の仕事をしたくて美大に進む事を決め、
浪人は許されなかったので、
公立は落ちたが京都造形芸術大学は受かったので進学した。


大学時代、ふと友人から「攻殻機動隊」というアニメ作品を見るように勧められる。
その中で「タチコマ」というAIロボットが破壊されるシーンで
タチコマが涙(?)のようなオイルを流すシーンがある。



それまでどんな悲しいストーリーの映画や本などを見ても
涙ひとつ流さなかった自分が、攻殻機動隊のそのシーンではじめて涙を流した。

今でも思い出すとちょっとうるっときてしまうくらいだ...。




自分の原点はF1...もとい自動車。
もはや本能レベルで惹かれてしまう物。

そして、「人工物」に対する考え方は、
日本のアニメーション作品によって形成されてきた。

今も昔も、やってる事は変わらないんだなとつくづく思う。

「生機物」というタイトルで個展を現在開催中だが、
生きた 機械の 人工物
という内容で、自動車という人工物の色々な捉え方を
絵に描いて表現しようとした。



どうしようもなく自分は自分でしかない

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