December 8,2011
本日12月8日(木)でCOMBINEは丸3年を迎えます。
まずは、普段から過分なるご配慮ご支援をいただいて
おります皆様方にこの場を借りて深く御礼を申し上げ
ます。
大変厳しい状況が続いておりますが、自らに与えられ
た仕事に精進し、期待に応えられますよう奮励努力
いたす所存です。
今後とも皆様方にはご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い
いたします。
さて、
12月8日という日付をスタート日とさせていただいた
理由は前年同日の当ブログにも記載させていただきまし
たが、改めて申し上げれば、私にとっては確信的に決意
した日にちでありました。
2010年12月8日Blog
↓ ↓ ↓
http://combine-art.com/html/blog/ueyama/post/blog.php?post_id=1457
実は、この日本人ならば誰しもが知る日という
12月8日の事について、私は学校教育で知る前
に知識として持っておりました。
当然、親から聞いた分けですが、
それは一般的な歴史を教えてもらうという事
とは少し違いました。
私の父は
昭和13年12月8日生まれです。
私は物心つくころから母親はもちろん祖母(私は
祖父の記憶がまったくない)から、父親が生まれた
日は特別な日であるという事を刷り込まれてきたの
でした。
昭和13年とは軍靴の響きどころか、日本がもう
ほぼ大戦を決意していた時分であり、昭和16年12月8日の
3年前という事で、出産そのものは同日ではないにし
ても、その当時の日本人、子供を産んだ母親からすれば、
3歳になる息子、又その後の日本を見るにつけ、得も言わ
れない感覚が芽生えたのは言うまでもない事でしょう。
その感覚は私が生まれ物心つく、その時においても
変わることなく、否、敗戦・復興・興隆という経験を
踏まえた上で新たな感覚が生まれ伝えてきたであろうと
想像できます。
ある意味私はその感覚を早くから吸収してきたように
思います。
そして私にとってこの特別な日というものは独特な興味
として増幅し、青年になり成人したのちの今も変わらず私
の胸のうちに存在します。
やはり起点はここじゃないのか?
と感じるのです。
そのあたりの事情、12月8日をスタートとした
経緯に関して、ほとんど無いとは思いますが・・・
もし、ご興味のある方がいらしゃいましたらお手数
ですが上記リンクURLから昨年の12月8日blogを
ご覧ください。
12月8日を起点と感じる感覚
今年の日本も起点だったように感じます。
私ごときが言うまでもないでしょうが、
あえて言えば3.11です。
この日を境にあらゆる日本人は様々な事を考えた
でしょうし、今も考えている、そして当分考え続
ける事でしょう・・・・
3.11そのものも、何故3.11が起きたか、又その後
の事。しかしどれもこれも問題の行きつく先は、
全ての起点は何か?という事だったのではないで
しょうか?
それは強引な論法かもしれませんが、喪失から
生まれた感覚であり、喪失することによって
得たと言えるかもしれません。
戦後日本の起点はなんだったのか?
未曽有の発展を遂げ、近年躓き、そのまま
凋落とまでは言わないが、鈍化、見通しが
絶たない・・・
そして追い打ちをかける様に起きた
3.11・・・・・・・
何を追い求めて来たのだろうか?と・・・・
3.11、、、
我々が見たその時の光景とは何だったのか?
国土の一部が荒廃し、人家もなく、ただただ
現代人としては決して見た事のない風景が広
がる・・
我々は何を亡くしそして悲しみと共に何を得た
のか?もしくは何を取り戻そうと今揺り戻しを
しているのか?
3.11は我々全てにブレーキをかけた事は間違い
ない。そして、、、、その事により
深い闇のような中に放り込まれ、これまでに
無かった共同体としての感覚が生まれたよう
に私は感じました。
この共同体としての感覚とは一体何なのか?
やはりそれは、国家という決して触って、見て、
という物理的ではない超越した枠組み、普段様々
な物的境界によって認識している、もしくは知識と
して得ているものとはちがう、今の自分たちの中に
流れている共感の磁場そんなものではないか?
と感じます。
3.11で無くなったものは家や建物を始めとした
財産、人間、動物等の命、、その他、様々なも
のがあったと思います。
しかし我々共同体が本当に亡くしたモノとは
何か?
私が思うのは、そこで営々と生活してきた
人間達が築いた文化が亡くなってしまったと
痛感するのです。
その地域独特の言葉、お祭り、歴史を踏まえた
街の名前、通りの名前、郷土というモノが持つ
人々の拠り所、そういったモノが瞬時に喪失し
た・・・・・
我々共同体からすれば大事な大事な文化の
一部分が欠損ではなく、雲散霧消と化した
瞬間だったのではないでしょうか?
この時、その事を誰しもが拡大して想像した
事でしょう。自らの郷土が同じ事になったら
・・・・
もっと想像を拡大した場合、郷土の集合である
国家が・・・・
この時、初めて感じるのです、我々共同体が
深い闇の中から共感し合えるモノとは何か?
それは文化なのではないか?
共同体の外郭。
国境というのは文化の境目であり、その境界の
内側で熟成されたものこそ、国家そのもである。
そして、
我々はその国家で育った。
もっと言えば我々はその国家で醸成された遺伝子
を受け継ぎ、今肉体を有し、そして次世代に伝える
役割を担っている。肉体と言う搬送物を持ってして
国家の枠組みである文化を伝えているという事で
ある。
亡国とは何か?
単純に考えれば、文化が亡くなるという
事ではないか?と感じるのです。
国土は残る。世界地図から消えて亡くなる
事はないでしょう。しかしその国土はどの文化
が存在するのか?それによって国家は変わる。
占領され、言葉を取り上げられた。
その時、営々と築き上げてきた文化の歴史は
見るも無残に消滅します。
お祭り、無いでしょう。
街、違うのもになるでしょう。
何もかもが占領側の文化に上書きされていく
のは明白な事だと思います。
3.11
その喪失とは、強引に言えば、まったく見えない
相手に占領されたと言い換えても良いと思います。
その時見えないものの存在を生みだしたのは
他ならぬ我々であり、我々が自ら喪失させた
のかもしれません。
その時初めて気づく起点。
それらを考える時、我々は自らが上書き
してきたのではなく、何かに上書きされて
来てしまったのではないか?と感じる・・・・
そんな事を3.11は想起して止まないのです。
その時、芸術とは何かと改めて考えさせられま
す。
3.11時、色々な救済がありました。芸術という
領域からもチャリティー始め様々な事が企図さ
れました。
それを否定するものではありません。
しかし本質的に芸術とは?と改めて考えると
そういった悲惨な窮状に対して即時何かでき
るのか?
結論は何も出来ない、、と私は感じました。
ある意味無力です。
では芸術とは何が出来るのか?
それは悲しいかな、この現状を芸術家達が
感じそして作品としてその時の社会、人間の
情感に沿う、鏡のように冷徹に映し出すよう
なモノを残していく。
それは即物的な事ではなく、ひょっとすると
かなり先の時代からかえり見た時に感じるも
のなのかもしれません。
しかしそれこそが我々の文化そのものでは
ないかと感じます。
100年200年とその時代には決して生きていない
先人として残すもの・・・・
現状無力たるものが、実は、、、、
文化こそが国の形だと思うのと同時に、
国家の歴史そのものであり、今生きている
人間が最大限未来に対して残せる栄光なの
ではないかと思います。それは悲しい現実も
人道外れる事も様々な諸悪も含めその国家=
文化の全てではないかと感じるのです。。
それを後世に伝える者は誰か?
私はそれこそが芸術家なのではないかと
考えます。
又、文化こそが国境だと考えた場合
その防人とは芸術家なのではないか?
我々の存在を守護している本質こそが
芸術家なのだと私は思うのです。
自らの仕事
3年過ぎ4年目を迎えるにあたり
改めて我々の仕事の意味を考える次第であります。
まずは、普段から過分なるご配慮ご支援をいただいて
おります皆様方にこの場を借りて深く御礼を申し上げ
ます。
大変厳しい状況が続いておりますが、自らに与えられ
た仕事に精進し、期待に応えられますよう奮励努力
いたす所存です。
今後とも皆様方にはご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い
いたします。
さて、
12月8日という日付をスタート日とさせていただいた
理由は前年同日の当ブログにも記載させていただきまし
たが、改めて申し上げれば、私にとっては確信的に決意
した日にちでありました。
2010年12月8日Blog
↓ ↓ ↓
http://combine-art.com/html/blog/ueyama/post/blog.php?post_id=1457
実は、この日本人ならば誰しもが知る日という
12月8日の事について、私は学校教育で知る前
に知識として持っておりました。
当然、親から聞いた分けですが、
それは一般的な歴史を教えてもらうという事
とは少し違いました。
私の父は
昭和13年12月8日生まれです。
私は物心つくころから母親はもちろん祖母(私は
祖父の記憶がまったくない)から、父親が生まれた
日は特別な日であるという事を刷り込まれてきたの
でした。
昭和13年とは軍靴の響きどころか、日本がもう
ほぼ大戦を決意していた時分であり、昭和16年12月8日の
3年前という事で、出産そのものは同日ではないにし
ても、その当時の日本人、子供を産んだ母親からすれば、
3歳になる息子、又その後の日本を見るにつけ、得も言わ
れない感覚が芽生えたのは言うまでもない事でしょう。
その感覚は私が生まれ物心つく、その時においても
変わることなく、否、敗戦・復興・興隆という経験を
踏まえた上で新たな感覚が生まれ伝えてきたであろうと
想像できます。
ある意味私はその感覚を早くから吸収してきたように
思います。
そして私にとってこの特別な日というものは独特な興味
として増幅し、青年になり成人したのちの今も変わらず私
の胸のうちに存在します。
やはり起点はここじゃないのか?
と感じるのです。
そのあたりの事情、12月8日をスタートとした
経緯に関して、ほとんど無いとは思いますが・・・
もし、ご興味のある方がいらしゃいましたらお手数
ですが上記リンクURLから昨年の12月8日blogを
ご覧ください。
12月8日を起点と感じる感覚
今年の日本も起点だったように感じます。
私ごときが言うまでもないでしょうが、
あえて言えば3.11です。
この日を境にあらゆる日本人は様々な事を考えた
でしょうし、今も考えている、そして当分考え続
ける事でしょう・・・・
3.11そのものも、何故3.11が起きたか、又その後
の事。しかしどれもこれも問題の行きつく先は、
全ての起点は何か?という事だったのではないで
しょうか?
それは強引な論法かもしれませんが、喪失から
生まれた感覚であり、喪失することによって
得たと言えるかもしれません。
戦後日本の起点はなんだったのか?
未曽有の発展を遂げ、近年躓き、そのまま
凋落とまでは言わないが、鈍化、見通しが
絶たない・・・
そして追い打ちをかける様に起きた
3.11・・・・・・・
何を追い求めて来たのだろうか?と・・・・
3.11、、、
我々が見たその時の光景とは何だったのか?
国土の一部が荒廃し、人家もなく、ただただ
現代人としては決して見た事のない風景が広
がる・・
我々は何を亡くしそして悲しみと共に何を得た
のか?もしくは何を取り戻そうと今揺り戻しを
しているのか?
3.11は我々全てにブレーキをかけた事は間違い
ない。そして、、、、その事により
深い闇のような中に放り込まれ、これまでに
無かった共同体としての感覚が生まれたよう
に私は感じました。
この共同体としての感覚とは一体何なのか?
やはりそれは、国家という決して触って、見て、
という物理的ではない超越した枠組み、普段様々
な物的境界によって認識している、もしくは知識と
して得ているものとはちがう、今の自分たちの中に
流れている共感の磁場そんなものではないか?
と感じます。
3.11で無くなったものは家や建物を始めとした
財産、人間、動物等の命、、その他、様々なも
のがあったと思います。
しかし我々共同体が本当に亡くしたモノとは
何か?
私が思うのは、そこで営々と生活してきた
人間達が築いた文化が亡くなってしまったと
痛感するのです。
その地域独特の言葉、お祭り、歴史を踏まえた
街の名前、通りの名前、郷土というモノが持つ
人々の拠り所、そういったモノが瞬時に喪失し
た・・・・・
我々共同体からすれば大事な大事な文化の
一部分が欠損ではなく、雲散霧消と化した
瞬間だったのではないでしょうか?
この時、その事を誰しもが拡大して想像した
事でしょう。自らの郷土が同じ事になったら
・・・・
もっと想像を拡大した場合、郷土の集合である
国家が・・・・
この時、初めて感じるのです、我々共同体が
深い闇の中から共感し合えるモノとは何か?
それは文化なのではないか?
共同体の外郭。
国境というのは文化の境目であり、その境界の
内側で熟成されたものこそ、国家そのもである。
そして、
我々はその国家で育った。
もっと言えば我々はその国家で醸成された遺伝子
を受け継ぎ、今肉体を有し、そして次世代に伝える
役割を担っている。肉体と言う搬送物を持ってして
国家の枠組みである文化を伝えているという事で
ある。
亡国とは何か?
単純に考えれば、文化が亡くなるという
事ではないか?と感じるのです。
国土は残る。世界地図から消えて亡くなる
事はないでしょう。しかしその国土はどの文化
が存在するのか?それによって国家は変わる。
占領され、言葉を取り上げられた。
その時、営々と築き上げてきた文化の歴史は
見るも無残に消滅します。
お祭り、無いでしょう。
街、違うのもになるでしょう。
何もかもが占領側の文化に上書きされていく
のは明白な事だと思います。
3.11
その喪失とは、強引に言えば、まったく見えない
相手に占領されたと言い換えても良いと思います。
その時見えないものの存在を生みだしたのは
他ならぬ我々であり、我々が自ら喪失させた
のかもしれません。
その時初めて気づく起点。
それらを考える時、我々は自らが上書き
してきたのではなく、何かに上書きされて
来てしまったのではないか?と感じる・・・・
そんな事を3.11は想起して止まないのです。
その時、芸術とは何かと改めて考えさせられま
す。
3.11時、色々な救済がありました。芸術という
領域からもチャリティー始め様々な事が企図さ
れました。
それを否定するものではありません。
しかし本質的に芸術とは?と改めて考えると
そういった悲惨な窮状に対して即時何かでき
るのか?
結論は何も出来ない、、と私は感じました。
ある意味無力です。
では芸術とは何が出来るのか?
それは悲しいかな、この現状を芸術家達が
感じそして作品としてその時の社会、人間の
情感に沿う、鏡のように冷徹に映し出すよう
なモノを残していく。
それは即物的な事ではなく、ひょっとすると
かなり先の時代からかえり見た時に感じるも
のなのかもしれません。
しかしそれこそが我々の文化そのものでは
ないかと感じます。
100年200年とその時代には決して生きていない
先人として残すもの・・・・
現状無力たるものが、実は、、、、
文化こそが国の形だと思うのと同時に、
国家の歴史そのものであり、今生きている
人間が最大限未来に対して残せる栄光なの
ではないかと思います。それは悲しい現実も
人道外れる事も様々な諸悪も含めその国家=
文化の全てではないかと感じるのです。。
それを後世に伝える者は誰か?
私はそれこそが芸術家なのではないかと
考えます。
又、文化こそが国境だと考えた場合
その防人とは芸術家なのではないか?
我々の存在を守護している本質こそが
芸術家なのだと私は思うのです。
自らの仕事
3年過ぎ4年目を迎えるにあたり
改めて我々の仕事の意味を考える次第であります。
