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作家との会話
唐突だが



会話をするとき


ある場面において”グッ”と緊張する時が



私にはある。年を重ねるごとに段々と図々しく
なり、緊張の瞬間も減っているのが現状なのだが



こんな私でも細心に言葉を選び、足りない脳漿を
絞り出す瞬間がある・・・



それは作家と作品の事を会話する場面なのだが
一般的な”論理”ではなく、その作家が制作に
関することに触れる瞬間だ。。



作家は様々な”フェーズ(段階)”にその身を
置きながら制作に励んでいるのだが、コンセプト
が決まり、もしくは頑健なコンセプトを堅持して
いる場合は、冷静に話を聞き”応援”するという
立場において会話を成立させるのだが、それ以外・・


次のフェーズに向かおうとしている、、、これは
言葉が的確さを欠いているかもしれないが、、、、


ある意味作家の長い制作活動において過去を振り返った
場合、その瞬間が”谷底”のような場所に身を
置いている、そんな風景が読み取れた場合、こんな
鈍感な私でも少し言葉を選び会話には緊張してしまう。



基本的な私の作家との接し方は


何も言わないというスタンスである。




技術的なことは当然であるし、コンセプトに関しても
言うことは皆無といっていいと思う。それが私の
考え方である。



会話の基本は社会・政治・歴史・経済、、、こういった
ものにできるだけウェートを置きたいと心がけている・・
その方が、私として与えられるものが多いと確信している。



あえてお互いの接点について苦言を呈するとするならば、
流通に関する事であり、基本、制作を生業と成していな
い者達の脆弱な楽観的なる想像と、”掟””商道徳”
というべき、我々の領域に関するものについては口うる
さく言うべきであるとは思っているが、、、、



彼らが生息している領域に踏み込むことは
余程の事がない限り、近寄ろうとは思わない。



思う事は正直”多々ある”。
何度か口をつくような感覚を抑えた事も
否定はしない。


しかし、私はいつも黙ることにしている・・



それによってどのような反応が生まれるのか
正直分からない、、、、、言えば良いのか?



だからと言って我々の放つ言葉によって本質が進捗
するというような”稚拙な”変化によって変貌を遂げた
などという方が元来オカシイと私は考えているのと同時に
その程度の紆余曲折の中に身を置き悩んでいる程度では



どうなのか?とその本質すら疑ってしまう・・・



それよりも我々の仕事の本質は、彼らが得られない環境
の提示であり、その環境から受ける刺激を如何に与える
かの方がずっと大事であると思う。


その最大はやはり、バーチャルではなく実存としての
作品を多くの人に見せる、、、



これに尽きると思う。



私は何度もこのブログで書いてきたが、現代美術や
コンテンポラリーアートという総枠を商売の対象
としているわけではない。あくまで比類なき個人の
制作による”表現を”商売の対象としている。



現代美術やコンテンポラリーという言葉は説明上
の便宜としては使用する事はあるが、私個人の
考えを表出する場合にはそういったある種の
”ボタン”や”アイコン”を使用しようと思った
事はない。



そう考えたとき、多くの人に見せるという、この
概念の基本は、何者にも束縛されず制約されない
この時代に生きるものの表現を指しているのであり
現代美術の○○クンの絵画を・・・などと言うよう
な事は一切ない。



例えそれがサブカルチャー的であろうが、メインカル
チャーのエッセンスであろうが、アカアデミックであ
ろうがなんら関係ない。。



もっと言えば文学でも良い、音楽でも良い、舞踏でも
ファッションでも、webデザインでも、、、、、



表現という領域に限界はない。



我々がなにをもって選択したか、それが大事であると
同時に、大勢を前にしてその表現の強度が保つかどうか?



それが何よりも大事なのであり、
ある意味我々はそれを判断する、
もしくは”待つ””探す””試す”という
事なのだ・・・と考えている。。。



が、先に述べたように何らかのフェーズに進む、
その瞬間に立ち会う事も避けられない事情としてあり、
その事を論点に話し合うこともある。。。



この場面・・・



これには瞬時に”グッ”と緊張感が高まる。。



先日そんな瞬間を偶然にも、、久しぶりに迎えた・・



先日の”タムラエビス”の新年会に雨森君が久々に
ギャラリーを訪ねてくれた。


昨年末に電話をくれて伺いたいという事を聞いたが
間の悪い事に私は年末まで出張であり、その機会を
逸したのだが、明けて新年に改めて足を運んでくれた
のである。


昨年末もギャラリーに来るには来てくれたのだが
東京で個展をしたときの新作の画像と現在
取りかかっている小作品の画像を置いて帰った
のだった。


そして今回、、
昨年の東京での個展の報告と、今制作している小作品
、、の感想を聞きにわざわざ足を運んでくれた。。



実は新作画像はそれまでに見ていた。


正直な感想は、彼には悪いが


あまり”前に出てくるものがない”という私の判断
があった。


良くは出来ている、シャープでありクールでもある。
しかし少し前にギャラリー島田さんで賞をもらった
小作品に比べると、何かが足りないような気がして
ならなった・・・


何よりも何か予定調和的な安定感があり、作品から
受けるモノよりも、制作過程ばかりが頭の想像として
浮き立つ、、、そのような感覚ばかりが支配したので
あった。



その事を正直に彼に伝えた。



すると、彼もある種の同意見をもっており



その同意を根拠づけるかのように現在取りかかっている
新作をカバンから取り出し、どうしたいかという事を
説明しだした。。。



その作品は無骨であるが、彼らしいモノに私は感じた。



彼と最初に出会ったとき、そのポートフォリオを見て
感心した。



若いが木工という技術部分においてはかなり高い次元
を有しており何の問題もないように感じたが、少し気
になる部分があったのも確かであった。



それは、技術ばかりが評価の対象にならないか?
これでは?と感じた。技術先行であるならばそれは芸術
表現といよりも職人の技術力ということであり、、これ
では伝えるものの前に皆まず技術部分でその感情が堰き
とめられてしまわないか?と感じたのであった。逆に言
えばそれほど木工の技術が優れていたという証左なのだ
が・・・



その事を正直に指摘したとき、彼も率直に認めた。



だから今こんな事を考えています、、と新作のコンセプトを
説明してくれた。



何も加工しない、無意識化で切る組む刺す、という基本の
ごくシンプルな作業に限定し造形物を作ろうという事で
あった。。



なるほどぉ~へぇ~



と、正直驚いた。これはある意味、勇気のいる行動だ、
今まで築き上げてきたものを一度瓦解させてゼロから
取り組む作業である。言葉にすると簡単であるが、
実際にはかなり勇気がいるのと、今までの自分という
形あるものに対する戦いであり、案外苦戦が予想され
る。ましてや絵画とは違い木工は時間的な拘束が長い
それから考えても、過去の自分と離反する作業はかなり
苦痛が伴うことは”素人”の私にも簡単に想像できた。



このとき私は、特になにも言わなかった・・


それから一年半


昨年の個展はある意味彼の新コンセプトの一つの
区切りであったのだ。



確かに、それまでの技術先行の作品からすれば
格段の変化と表現部分への表出は成功している
が、表現という肝心な部分への到達感が少し
希薄、、いや正直、辿りつかないような気がした
のであった・・



その事を伝え、先ほど言ったカバンから取り出した
作品へと話は移行したのである・・・




さすがに私がいちいち指摘するまでもなく、彼も
充分感じていて、カバンから出てきた作品は先にも
述べたが、武骨ではあるが、間違いなく表現という
ものの顔が僅かではあるが顔を覗かしていた・・



この日の話は



表現ということに執着した・・・



仕事の上で何気なくよく使う言葉ではあったが
こんな瞬間のこの言葉は私の頭と体を結構緊張させる。



そして何よりも



作家の領域に踏み込むことへの正直な躊躇と
緊張感・・・・・



彼の新作コンセプトは過去の作品への回帰的部分を
兼ね備えていた。これはその前の昨年の個展の新作
から逃避して回帰したという事ではなく、間違いなく
無意識化で創作するというコンセプトに基づいた
挑戦の栄養素を存分に含んだ上での回帰であった。



だから以前の作品と被る部分があるにしても
それは似て非なるものであることは瞬時に理解できた
のと同時に、



作家とはこのような長旅を続けて




僅かに前に進むのか・・・と、、改めて物を生み出す
苦しみを感じたのであった。。。。



今の彼は



表現という、人が感受する部分に恐ろしく集中している。
ただ出来た、道具としての要素を完備する事により人との
接点を保つなどという事から大きな一歩を踏み出し、、、



ある意味もがいていた・・



この日、一番のクライマックスとなったのは



なぜ雨森くんの表現は”木”でないといけないか?
その必然性と、、自分の表現で木を木として活かせてい
るのか、その理由が見当たらない・・・という部分に突
き刺さった。



確かに樹脂でも石膏でもFRPでもそれ以外の素材でも出
来なくはない。


そういった選択肢があるにも関わらずなぜ木である必
要が・・



単純ながらも”実に重要な部分”に感じた。。




確かにそれまでの彼は木の固定的な観念として持たされて
いるフォルムの限界を飛び越えることを一つのコンセプト
として据えていたのは間違いない。だから大胆な曲線を強
調した作品や、もっとシンプルに組む刺す継ぐという木に
持たされた特徴を強調するようなやり方を選択肢の中軸に
据えた筈だったのであるが、、それが今や大きな問題のポ
イントへと導いたのである・・・



この日こんな他人が聞いたら”堂々めぐり”のような会話
を2~3時間彼と二人でしていた。。



そんな時私の脳裏をかすめるものがあった。。



木の根本的なイメージってなに?
もっと集約して言えば、固定観念や先入観を改めてまと
めて見ると、、そこには



温かさ、優しさ、柔らかさ、、生命感、、有機質、、・・・



しかし、それを作家があえて強調する必要性が果たして
あるのか?そんなものは固定的に観念化されている筈で
あり見れば記号化している筈でもあった。。。



実は逆なんじゃないの?という事に気づく。



木である必要には木の持っている固定観念と逆質のものとの
対比があって初めて木の意味が強まるのではないか?と感じた
のであった。



単純に言えば、金属と合体した木材を見た瞬間
木の意味というのか、、木の存在の意味を人は探り出す。



これが実は重要なような気がした。



そしてもっと言えば



木は緩やかな曲線や鋭角な造形を生み出せることが
木の最大特徴だと、誰しもが固定的観念を抱いているが
それも本来、本当の木の最大特徴的部分ではないのでは
ないか?と感じたのである・・・





木をへし折ると




その折られた箇所



他の材質にない”ささくれ立った”造詣が出現する




ここに生まれる無意識化の造形



これこそが本当の木の特質を象徴しているので
はないのか?




等々・・・・



・・・・・・・・・・・・・・・・




どれも解決策では決してない。



アイデアとも言い難いかもしれない。。



しかし、、




こんな様々な材料をこの日は



かなり二人して積み上げた。。。








3時間後



私は緊張から戻ってきたが




雨森君は今だあの場所に居続けている・・・
作家の生息領域・・・






後は




私は待つのみだ・・





彼の展覧会を用意しようと決心した。。

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