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生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し   (秘蔵宝鑰 空海)

わたしたちは生まれ生まれ生まれ生まれて、生のはじめがわからない
死に死に死に死んで、死のおわりをしらない


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今、小沢一郎の発言が世間を賑わしている。
民主党の小沢一郎幹事長は10日、和歌山県高野町で全日本仏教会
の松長有慶会長と会談後、記者団に宗教観を披露した。この中で小
沢氏はキリスト教に対し「排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を
背景とした欧米社会は行き詰まっている」との見解を表明。イスラ
ム教については「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」
と述べた。

この発言の批判に対しての彼の反論は・・


「根本的な宗教哲学と、人生観の違いを僕は述べた」
という事であった。そしてこの発言を彼は訂正していない。


政治情勢からこのコメントを考察すれば、今後確実に求められる政
権基盤の磐石化を担う参議院選挙に対し、票田である仏教という宗
教界に対するリップサービスともとれる失言だが、今もって失言と
認めていないことが、ある種言葉がかなり足りなく誤解を増幅させ
てはいるものの彼の哲学を反映していからなのだろうな…と理解し
ている。


断っておきたいが、私は小沢シンパではない。しかしながら、彼の
意図する本質は分からないが、私なりに理解できる部分もこの発
言には存在する。


キリスト教という言葉と仏教に対する対立軸を明確にした仮説が実
に乱暴で、その上詳細な説明がないのが一般には理解を得られない、
言葉を武器とする政治家としては少し粗雑な感を受けるのだが、
100%ではないが、キリスト教ではなく、西洋文明もしくは近代
合理主義、近代思想というような対立軸で考えた場合は少し納得で
きるものもある。



梅原猛さんが数年前著述した森の思想という概念がその部分を説明するが・・


(梅原猛 森の思想・抜粋)
近代文明を指導したデカルトやベーコンの考え方は、人間と自然を
峻別し、自然を客観的に研究する自然科学の知識によって、自然を
征服する技術をもとうとする思想です。


かくて、自然科学は飛躍的に発展し、人類は、自然について三百年
前にもっていた知識とは、比較できないほどの精密な知識を持つよ
うになった。そしてそれとともに自然征服の技術は飛躍的に進み、
人間は自然から、それまでの人間にはとうてい考えられないような
豊かな富を生産することができるようになった。そしてその代償に、
地球環境の破棄という、まさに人間は、自分の生きている土台を根
本から崩壊させるような危機に直面したわけです。



私は、現代、人類は一つの岐路に立っていると思います。このまま
の文明をつづけて、21世紀には滅びへの一歩を踏み出すか、ある
いは別の道を切り拓くか、現在そういう大きな岐路に立っていると
思います。(梅原猛 森の思想・抜粋)


この近代文明の成立概念を一纏めでキリスト教としたところに大き
な問題があるのだが、しかしキリスト教の存在と西洋を中心とした
近代文明の成立は多次元で語れるものではなく、基本的には同一線
上の流れであることは確かだ。


キリスト教の成立過程を考えれば、そこには“神”という存在を外
して当然語ることはできない。


しかしながら、この神だが基本的には一神教である。神という絶対
的存在と個という自分。この構造が近代西洋文明の根底には脈々と
流れており、この神と個という直結感覚が生み出したものこそ、先
に述べた自然科学の知識によって、自然を征服する技術という事に
もつながったと解釈できる。



もっと平明に言えば、人間主義であるという事であり、強く人間の
尊厳を主張したのである。そうなると、、、、


(以下、梅原猛 森の思想・抜粋)
人間は万物の長であり、すべての動物を支配する権利をもつという
思想が出てきます。そしてそれが一歩進むと、人間はすべての動物
がもたないような神の理性をもち、そして人間が、ほかの動植物を
含んだ自然を支配するのは当然であり、それこそ文明であるという
思想が出てきます。



一方に自我としての人間をおき、一方に物質としての自然をおき、
その人間が自然を科学的に認識すればするほど自然を支配でき、そ
の自然支配こそ文明の方向であるという考え方が出てきます。


…という説明には納得感が強く増す。



実はこの考え方、福沢諭吉は、こういう考え方をとり入れて近代
日本の基礎をつくった。



そして実際、日本を含めた近代国家を取り巻く世界は繁栄した?
のであるが…果たしてこの考え方はこの先も破綻なく続くのか?
ということが梅原猛の説くところであり、それには今、地球規模
で迎えた終末観を乗り越える“新たな哲学”が必要であり、それ
がアジアを中心とした思想性なのではないか?という事なのだと
思う。



この西洋近代化と新世紀を乗り越えるアジアの思想という部分が、
おそらく小沢一郎がかたくなに訂正を拒否するキリスト教と仏教
という対立軸なのではないか?と私などは推測している。



私なりにその構図を考えれば、

西洋近代思想の根本とは“個と全体”であり、、、
アジアの底流に流れる社会思想とは“全体の中における個”とい
う事ではないか?と考えている。


この場合の個というのは西洋の場合、まさしく今生きている自分
のことなのだが、アジアの思想における個とは、自分を含めた古
からのつながり、家族、親族、先祖、未来の子孫という“線”を
現していると考えるのである。



また全体とは西洋の場合、人間が中心として形成したものを指し、
そこには厳然と存在した自然という捉え方ではなく、人間社会が
支配した自然の形骸を基本的には指している。アジアの思想の
場合は全体とは、当然自分や自分を取り巻く線上以外を指してい
るのであるが、それは厳然と存在した全体が作り出したものとい
う畏敬を前提にした比較なのだと考える。



この根底的な考え方、この考えが昇華したものこそが日本に本来
あった土着的自然崇拝であり、多神教をベースとする宗教観なの
だと思うのである。



(梅原猛 森の思想・抜粋)
日本社会の原理である、生きとし生けるものの同一性の認識と、
生から死への永劫の循環という思想についてですが、この思想が日
本文化を強く貫いている原理です。俳句には季語が必要です。 


この俳諧文学の頂点に立つ芭蕉は「おくのほそ道」で「月日は百
代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」といいました。これ
はさきに私が述べました、あらゆる生きとし生けるものの生から
死への永劫の循環運動をいっているのです。人間は、太陽や月や
あらゆる生きとし生けるものと同じように、永遠に生死の旅をつ
づけるというのが芭蕉の世界観です。



生きとし生けるものの本来的同一性、およびこの世とあの世の間
の絶えざる循環の思想は、日本の芸術や宗教を貫く思想なのです。


再度、小沢一郎の発言に戻るが、確かに大いなる問題発言である
ことは間違いない。


そして詳細を伝えない政治家としての欠落部分も見咎められる。
しかしながら、その中にも“一理”は存在している。実はこの部分
が本来もっと日本全体で考察と認識を深めなくてはならないのだと
私は思うのである。


社会歴史国家民族の形成過程の根幹がまったく違うのであり、国家間
で過去から今後を含む未来においても話し合いを続けなくてはならな
い環境を鑑みた時、この根本的な起源の違いは深く認識しておく必要
があると思うのである。



それと同時に世界規模の問題を克服する思想哲学をそれぞれの底流に
流れる相違した思想性を相互理解し尚且つ協調して生み出さなくては、
それこそ梅原猛が憂う終末へは一直線だと考えられる。



そして日本だけを考えても、明治以降、西洋近代化の思想を移植し
国家繁栄を築き上げたが、日本もその例外ではなく今危機的な状況
を社会的経済的にも迎えている。


日本も独自の克服哲学が必要なのである。



今さらなぜ“坂の上の雲”なのか?とも思うが、今こそ
“坂の上の雲”なのだというような気もする。


和魂洋才。



この本来的な和魂という世界に冠たるオリジナル部分を取り
戻さなくては、今後の世界規模の問題には立ち向かえないよ
うな気がするのである。



そしてこれは芸術も私は同様だと考えている。この西洋との
基本的な相違を認識せず、自らのオリジナリティーの起源を
も考察せずして世界に向けて芸術を発信するというのは無理
があるのと同時に、結局“猿真似”からは脱し切れないと考える。




世界的な日本の芸術家の成功例を冷静に判断した場合、ある
ひとつの法則というのか?思想哲学が如実に浮かび上がって
くる。…・・



その一旦こそが…




生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し   (秘蔵宝鑰 空海)

わたしたちは生まれ生まれ生まれ生まれて、生のはじめがわからない
死に死に死に死んで、死のおわりをしらない




という事と深く関係すると私は考えているのと同時に、絵画を
中心とした芸術がまたコンセプチャルな方へ激しく揺り戻って
いるように感じている。




多分これからは“無作為の作為”所謂“マイクロポップ的”
などという甘いものは受け付けないといっても間違いないだ
ろう・・もっと深遠で且つオリジナル豊かな民族や国家、
時代、社会を映すような文脈やコンセプトが確実に求められる
だろうと思うのと同時に、新たな危機を克服する哲学思想との
融合性をどこに置くか明確さが必要となるである・・





これについては後日又語りたいと思う!

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