July 31,2009
今回見た大岩オスカールは
私にとって何箇所か改めて考えさせられるものがあった。
大きく分けて2点。
1点は絵画流通のプロモーション形態、作家が戦略的に評価を得るまでの経緯
2点目は世界的な現代アートの文脈にドッキングするコンテクストの形成
この二つである。
こういうものに一般論はないのであるが、ある種の法則的なものは存在する。
しかし、彼の場合、名前が示す通り明らかに国籍を跨ぐ血脈が流れており
価値観も我々とは明らかに違う。そういった彼の経歴と考え方から具現化してい
った実績が通常固定的な観念のなかでモノを考えがちな私には非常に新鮮に
映ったのと、なるほどぉ~…と明確に感じられるものが上記2点に集約し
たポイントから考えさせられた。
先ず第一のポイント
1965年 ブラジル、サンパウロ生まれ
1989年 サンパウロ大学建築学部卒業
1991年 日本に拠点を移す
1997年 現代美術製作所の改築を手掛ける。
2002年 ジョン・サイモン・グッゲンハイム・メモリアル財団、ACC
(アジアン・カルチュアル・カウンシル)より奨学金の助成を受け現在の拠点
NYへ渡米
これが彼の経歴を纏めたものであるが、1965年生れということは私よりも
一歳年上の現在43歳か44歳、日本に来たのは26歳、そしてNYに移った
のが37歳。。
経歴上の特記事項は
1991 「第21回サンパウロ国際ビエンナーレ」イビラブエラ公園/ブラジル
1995 「リトルアペルト」なすび画廊/ヴェネチア
「VOCA展'95 現代美術の展望 -新しい平面の作家たち-」奨励賞 上野の森美
術館/東京
1996 「第4回横浜彫刻展 YOKOHAMA BIENNALE '96」大賞、栄区民賞
横浜美術館前庭/神奈川
1997 「昭和40年会-東京からの声」バルセロナ、スペイン/ワイマール、ドイツ
/ローザンヌ、スイス/東京
1998 「フィリップモリス アートアワード 1998 最終選考会展」東京国際
フォーラム/東京
2006「大岩オスカールとガーデニング」アリゾナ州立大学美術館/アリゾナ
2007 「ファイアーショップ」P.P.O.W./ニューヨーク
これを見ると非常に面白いことが浮かび上がる。
大学を卒業後の2年後、26歳で自国のビエンナーレに参加
その後すぐに日本に拠点を移しているのである。
そしてその4年後の30歳で今も日本の現代美術作家の登竜門
であるVOCAで奨励賞を取っている。
その2年後にグループではあるが日本を離れ世界での個展に
活動を移しつつ、国内でも評価の高いコンペディションや
質の高い個展を開催、そして上記には記載していないが1996年
VOCAの翌年には10ヶ月イギリスに留学している。
そしてそれらの活動を開始しはじめてから5年後の37歳で
アメリカニューヨークに拠点を移す。そこから4年後の41歳
でアメリカでの経歴に記載できるレベルの個展を開始している。
この流れを見て、へぇーーーと感じて終わる、それで構わない
当然、ある一人の人物の経歴でしかないわけであり、他の者が
これについてどうこう言えるものでもない。ましてや同じ道程
を歩めるはずもない。しかし、私としてはこの一見スムーズに
見える流れの中にある、絵画を仕事として行う、しかも世界レベル
で行う人間の道程として、リアルタイムで参考にすべきものが
物凄く分かり安く内包されているような気がするのと、確たる
戦略性が読み取れるような気がしたのである。
全ての段階が5年以内に動いているという点に先ず気づく。
これは間違いなく設計している筈である。設計するという
ことはその設計の強度や必要材料及びそれらを構成するための
質の高い情報を得て、逆算して作業進捗を計画しているのだと
思う。彼の作家としての経歴は事実上26歳からスタートしてい
る。現在43歳としてその時間は17年間である。その内日本に
活動拠点を設けていたのは約10年、約60%の時間を日本にて
消費している。その前後の時間経過を考えれば日本にいる時間
は非常に長い。この10年間の約半分で先ず活動範囲を広げる
評価を得ている。そして後半の5年は明らかにその後の活動
へ繋がる布石を打ち始めている。私はこの間の10年間に蓄積した
ものが実は物凄く意味あるものだったような気がする。それは
絵の内容ももちろんなのだが、絵画が金銭に変わる仕組みの根底
土台を作り上げたのではないか?と想像するのである。彼の回顧展
を見れば一目瞭然なのであるが、初期作品の大作のほとんどが
有名企業や有名コレクター及び美術館のコレクションとなっている。
これが実は本質である。
所詮、金銭、経済が伴わないものは個人の趣味でしかない。
このコレクションからもう一つ想像できることは、こういう
回顧展が始まると、大事な内容の秀作がすぐに一箇所に集まるという
ことである。これは基本的には誰かがその作品たちをオーガナイズ
しているということの証左であり、もっと踏み込んで言えば、この
コレクションとは作家がコレクターに預けているということである。
お金を貰った上で…この関係性を如何に築くかが実は勝敗を分かつ。
村上隆を盲目的に崇拝をする訳ではないが、芸術家企業論という
名のもと現代の作家に不足している要素を端的に喝破したことは、
この時代無視できない要素であることは間違いない。
絵で食べたい、芸術家として生きたい、それを主観的事情
ではなく客観的な姿として享受したいのであるならば、作家も
個人企業主である必要がある。そう考えれば、必ず資本が必要であり
それをどこで求めるのか?この単純明快な仕組みを理解せずして
ただ欲求の赴くままで茫漠と時を過ごしても、現実的な事態はなにも
進捗はしない。オスカールが選択したのは、優良な株主を得たという
ことではないだろうか?株式投資銘柄として資金を集めるのではなく
長期保有の機関投資家を10年間で蓄積し、その資本力で次なる展開
、事業拡大を目論んだのではないだろうか?そして実際、現在配当
これは感情的な満足感も含めた、高配当を捻出している…・し、より
高みへの階段を登りつつある。43歳で国内の有力な美術館で回顧展覧の
ロードが組まれていることを冷静に考えても、株主としては満足に
値する大きな飛躍であることは間違いない。。
福武財団の福武 總一郎さんが、経済は文化の僕であると論破
したのは有名であるが、まさしく文化、芸術というものは、経済
的な資力がなければ成り立たないものである。また文化・芸術が
ない社会で経済のみで人は生きていけないというのも摂理であると
思う。この相対関係から生れるものを如何に自分の周りの環境で
“圧縮”“解凍”できるか?これが非常に大事なのであると私は
考える。
それをオスカールは26歳から37歳の僅か10年間で作り上げたの
である。もちろん彼だけの仕事だとは思わない、当然ギャラリーを
初めとしたチーム・オスカールというようなものが存在したであろう。
その中で彼の最大の特徴である巨大な作品群は戦略的に作り上げられ
たのは間違いないと考える。彼の巨大な作品試行はコレクションの初
期作を見ても分かるが、比較的早い段階から始まっている。ここで大事
な点は彼が日本に来た当時、正直日本の国内マーケットで巨大な絵画な
どはほとんど売れる対象ではなかった筈である。1995年当時、そうい
ったものが動く、これは現在でもそうかもしれないが、基本的にはパブ
リックスペースでしか活用されていない。
しかしもう一つの要素がここには加わる、グローバル化と村上、奈良とい
う日本の現代美術作家が世界で台頭し始めてきて、日本的現代美術がアニメ
やその他日本のサブカルチャーとリンクし世界マーケットのメニューに遡上
してきたのである。
本来無名の作家の巨大作品など相手にもされなかったのが、日本で誰も相手
にしなかった村上、奈良というジャンルが逆輸入で繁殖し始めてきたことを
契機に関心が高まり始めたのである。
これは背反する状況ではなく、一つに合流する流れとなり、その後の現代美
術市場を形成していく端緒的時期と合致したのである。
ここで大事なのはやはり巨大な作品という結論である。日本のマーケットサイズ
ではない海外視野にたっての戦略性が伺えるのである。
これが優良なコレクターを惹き付けた。。
ここでとった戦術は、まず陽動作戦、そののちどんな戦術でも常套手段なのであるが
隘路に誘い込み戦隊の自由を封殺、その後、その期を逃さず四方八方から攻撃する。
そうすれば相手に対しては壊滅的な打撃を与えられるというようなものだと私なりに
解釈している。
この場合、巨大な作品を描き続ける日経二世がいるという存在の提示が陽動作戦
であり、そこにタイミングよく興味をもった集団を誘い込む。この場合の隘路
とはやはり巨大な作品を他には誰も描いていないという事が一番大きなポイント
となり選択の幅がないのである。これがまさしく隘路になる。そして絵の内容が
日本的でもなければ他の類似性もそう認められないとなれば非常にオリジナル性
が高まりいよいよ隘路となって集団が殺到する。そこでこれまで書き溜めてきた
ものを一気に放出すれば、想像を越える戦果を得られるのは当然である。
私はここまで劇画的ではないとは思うのであるが、しかしこれに近いものが
オスカールの日本における10年間には存在したと思うのである。これはタイミ
ングも良かったと思う。しかし運が良かっただけではないと思う。冷静に状況を
判断し敢行した戦略であることは間違いない。そこに運が乗ったのであり、縦横に
強かな戦略が張り巡らされたいたと思う。
間違ってはいけないが、当然リスクはある。
もっと言えば、戦略とか、設計とか緻密な精度の高い仕組みのよな事を今まで書いて
きたが、それは結果論であり、実際には、つまるところ単純ではあるが…
博打である。が、、博打とは確率のゲームである。
つづく
私にとって何箇所か改めて考えさせられるものがあった。
大きく分けて2点。
1点は絵画流通のプロモーション形態、作家が戦略的に評価を得るまでの経緯
2点目は世界的な現代アートの文脈にドッキングするコンテクストの形成
この二つである。
こういうものに一般論はないのであるが、ある種の法則的なものは存在する。
しかし、彼の場合、名前が示す通り明らかに国籍を跨ぐ血脈が流れており
価値観も我々とは明らかに違う。そういった彼の経歴と考え方から具現化してい
った実績が通常固定的な観念のなかでモノを考えがちな私には非常に新鮮に
映ったのと、なるほどぉ~…と明確に感じられるものが上記2点に集約し
たポイントから考えさせられた。
先ず第一のポイント
1965年 ブラジル、サンパウロ生まれ
1989年 サンパウロ大学建築学部卒業
1991年 日本に拠点を移す
1997年 現代美術製作所の改築を手掛ける。
2002年 ジョン・サイモン・グッゲンハイム・メモリアル財団、ACC
(アジアン・カルチュアル・カウンシル)より奨学金の助成を受け現在の拠点
NYへ渡米
これが彼の経歴を纏めたものであるが、1965年生れということは私よりも
一歳年上の現在43歳か44歳、日本に来たのは26歳、そしてNYに移った
のが37歳。。
経歴上の特記事項は
1991 「第21回サンパウロ国際ビエンナーレ」イビラブエラ公園/ブラジル
1995 「リトルアペルト」なすび画廊/ヴェネチア
「VOCA展'95 現代美術の展望 -新しい平面の作家たち-」奨励賞 上野の森美
術館/東京
1996 「第4回横浜彫刻展 YOKOHAMA BIENNALE '96」大賞、栄区民賞
横浜美術館前庭/神奈川
1997 「昭和40年会-東京からの声」バルセロナ、スペイン/ワイマール、ドイツ
/ローザンヌ、スイス/東京
1998 「フィリップモリス アートアワード 1998 最終選考会展」東京国際
フォーラム/東京
2006「大岩オスカールとガーデニング」アリゾナ州立大学美術館/アリゾナ
2007 「ファイアーショップ」P.P.O.W./ニューヨーク
これを見ると非常に面白いことが浮かび上がる。
大学を卒業後の2年後、26歳で自国のビエンナーレに参加
その後すぐに日本に拠点を移しているのである。
そしてその4年後の30歳で今も日本の現代美術作家の登竜門
であるVOCAで奨励賞を取っている。
その2年後にグループではあるが日本を離れ世界での個展に
活動を移しつつ、国内でも評価の高いコンペディションや
質の高い個展を開催、そして上記には記載していないが1996年
VOCAの翌年には10ヶ月イギリスに留学している。
そしてそれらの活動を開始しはじめてから5年後の37歳で
アメリカニューヨークに拠点を移す。そこから4年後の41歳
でアメリカでの経歴に記載できるレベルの個展を開始している。
この流れを見て、へぇーーーと感じて終わる、それで構わない
当然、ある一人の人物の経歴でしかないわけであり、他の者が
これについてどうこう言えるものでもない。ましてや同じ道程
を歩めるはずもない。しかし、私としてはこの一見スムーズに
見える流れの中にある、絵画を仕事として行う、しかも世界レベル
で行う人間の道程として、リアルタイムで参考にすべきものが
物凄く分かり安く内包されているような気がするのと、確たる
戦略性が読み取れるような気がしたのである。
全ての段階が5年以内に動いているという点に先ず気づく。
これは間違いなく設計している筈である。設計するという
ことはその設計の強度や必要材料及びそれらを構成するための
質の高い情報を得て、逆算して作業進捗を計画しているのだと
思う。彼の作家としての経歴は事実上26歳からスタートしてい
る。現在43歳としてその時間は17年間である。その内日本に
活動拠点を設けていたのは約10年、約60%の時間を日本にて
消費している。その前後の時間経過を考えれば日本にいる時間
は非常に長い。この10年間の約半分で先ず活動範囲を広げる
評価を得ている。そして後半の5年は明らかにその後の活動
へ繋がる布石を打ち始めている。私はこの間の10年間に蓄積した
ものが実は物凄く意味あるものだったような気がする。それは
絵の内容ももちろんなのだが、絵画が金銭に変わる仕組みの根底
土台を作り上げたのではないか?と想像するのである。彼の回顧展
を見れば一目瞭然なのであるが、初期作品の大作のほとんどが
有名企業や有名コレクター及び美術館のコレクションとなっている。
これが実は本質である。
所詮、金銭、経済が伴わないものは個人の趣味でしかない。
このコレクションからもう一つ想像できることは、こういう
回顧展が始まると、大事な内容の秀作がすぐに一箇所に集まるという
ことである。これは基本的には誰かがその作品たちをオーガナイズ
しているということの証左であり、もっと踏み込んで言えば、この
コレクションとは作家がコレクターに預けているということである。
お金を貰った上で…この関係性を如何に築くかが実は勝敗を分かつ。
村上隆を盲目的に崇拝をする訳ではないが、芸術家企業論という
名のもと現代の作家に不足している要素を端的に喝破したことは、
この時代無視できない要素であることは間違いない。
絵で食べたい、芸術家として生きたい、それを主観的事情
ではなく客観的な姿として享受したいのであるならば、作家も
個人企業主である必要がある。そう考えれば、必ず資本が必要であり
それをどこで求めるのか?この単純明快な仕組みを理解せずして
ただ欲求の赴くままで茫漠と時を過ごしても、現実的な事態はなにも
進捗はしない。オスカールが選択したのは、優良な株主を得たという
ことではないだろうか?株式投資銘柄として資金を集めるのではなく
長期保有の機関投資家を10年間で蓄積し、その資本力で次なる展開
、事業拡大を目論んだのではないだろうか?そして実際、現在配当
これは感情的な満足感も含めた、高配当を捻出している…・し、より
高みへの階段を登りつつある。43歳で国内の有力な美術館で回顧展覧の
ロードが組まれていることを冷静に考えても、株主としては満足に
値する大きな飛躍であることは間違いない。。
福武財団の福武 總一郎さんが、経済は文化の僕であると論破
したのは有名であるが、まさしく文化、芸術というものは、経済
的な資力がなければ成り立たないものである。また文化・芸術が
ない社会で経済のみで人は生きていけないというのも摂理であると
思う。この相対関係から生れるものを如何に自分の周りの環境で
“圧縮”“解凍”できるか?これが非常に大事なのであると私は
考える。
それをオスカールは26歳から37歳の僅か10年間で作り上げたの
である。もちろん彼だけの仕事だとは思わない、当然ギャラリーを
初めとしたチーム・オスカールというようなものが存在したであろう。
その中で彼の最大の特徴である巨大な作品群は戦略的に作り上げられ
たのは間違いないと考える。彼の巨大な作品試行はコレクションの初
期作を見ても分かるが、比較的早い段階から始まっている。ここで大事
な点は彼が日本に来た当時、正直日本の国内マーケットで巨大な絵画な
どはほとんど売れる対象ではなかった筈である。1995年当時、そうい
ったものが動く、これは現在でもそうかもしれないが、基本的にはパブ
リックスペースでしか活用されていない。
しかしもう一つの要素がここには加わる、グローバル化と村上、奈良とい
う日本の現代美術作家が世界で台頭し始めてきて、日本的現代美術がアニメ
やその他日本のサブカルチャーとリンクし世界マーケットのメニューに遡上
してきたのである。
本来無名の作家の巨大作品など相手にもされなかったのが、日本で誰も相手
にしなかった村上、奈良というジャンルが逆輸入で繁殖し始めてきたことを
契機に関心が高まり始めたのである。
これは背反する状況ではなく、一つに合流する流れとなり、その後の現代美
術市場を形成していく端緒的時期と合致したのである。
ここで大事なのはやはり巨大な作品という結論である。日本のマーケットサイズ
ではない海外視野にたっての戦略性が伺えるのである。
これが優良なコレクターを惹き付けた。。
ここでとった戦術は、まず陽動作戦、そののちどんな戦術でも常套手段なのであるが
隘路に誘い込み戦隊の自由を封殺、その後、その期を逃さず四方八方から攻撃する。
そうすれば相手に対しては壊滅的な打撃を与えられるというようなものだと私なりに
解釈している。
この場合、巨大な作品を描き続ける日経二世がいるという存在の提示が陽動作戦
であり、そこにタイミングよく興味をもった集団を誘い込む。この場合の隘路
とはやはり巨大な作品を他には誰も描いていないという事が一番大きなポイント
となり選択の幅がないのである。これがまさしく隘路になる。そして絵の内容が
日本的でもなければ他の類似性もそう認められないとなれば非常にオリジナル性
が高まりいよいよ隘路となって集団が殺到する。そこでこれまで書き溜めてきた
ものを一気に放出すれば、想像を越える戦果を得られるのは当然である。
私はここまで劇画的ではないとは思うのであるが、しかしこれに近いものが
オスカールの日本における10年間には存在したと思うのである。これはタイミ
ングも良かったと思う。しかし運が良かっただけではないと思う。冷静に状況を
判断し敢行した戦略であることは間違いない。そこに運が乗ったのであり、縦横に
強かな戦略が張り巡らされたいたと思う。
間違ってはいけないが、当然リスクはある。
もっと言えば、戦略とか、設計とか緻密な精度の高い仕組みのよな事を今まで書いて
きたが、それは結果論であり、実際には、つまるところ単純ではあるが…
博打である。が、、博打とは確率のゲームである。
つづく
