July 12,2009
18歳だったか
19歳だったか
もう覚えていないのだが、確かその頃買った一冊の雑誌が
今も我が家の書棚にある。
美術雑誌なのだが
内容に惹かれて買ったわけではない、ただ表紙の絵が、
なんとなく気にかかり買ってしまった。
ジェームズ・アンソール。
仮面の画家。
今もって特別好きな画家という事ではない。絵もさほど好みでもない。
しかし、なんというのだろうか?ある一定の期間を置くと、不思議と
手にとる雑誌となっている。
このアンソール、正直、19世紀から20世紀にかけて活躍した他の画家に
比べ、日本ではあまり知られていないのではないだろうか?
しかし、不思議なことに、何年かに一度、僅かだが国内のメディアにフワッ
と姿を現しさしたるブームや注目を浴びることもなく、またシューと消えていく。。
少し前にもどこかのテレビで特集をしていたようだが、残念ながら見られなかった。
実は私、この2,3年前であるが、このアンソールのことが少し分かったような
気がしたのである。
なにが分かったか?
少し強引な論法ではあるが、この画家が描いた“仮面”や“骸骨”の絵は、
他の歴史の作家よりも21世紀、今の現代美術までに相当な太い線で繋が
っているのではないか?ということだ。
様々な表現形態の思考経過が現代まで繋がり、現時点の表現主流
(幾重にも別れてはいるが)が確立されているのだが、なんとなくこの画家
が示したものが、実は様々な各時代背景を色濃く反映したきた表現よりも
数段普遍的な人間の本質を示したのではないか?と私は思えたのである。
ある意味誰よりも核心的な表現だったのではないかと考えている。
仮面をメインモチーフにしているものが現在も評価が高いのであるが、この仮面、
洋の東西を問わず案外芸術にとっては重要な小物となっている。
日本での特徴としては“能”という独特の表現になるのだろうが、西洋にとって
も仮面はかなり歌劇などやその他の表現で使用されていると思うのである。
日本では、文学の世界で三島由紀夫が“仮面の告白”という小説を書いているが、
仮面という物質を媒介させることによって、人間の内と外、自分を取り巻く
環境と内なる自分という相反するものを象徴的表す役割を仮面に仮託し、その構造
を分かりやすく説明することに役立てたりしている。仮面というものを挟むこと
によって、その内外の関係性が如実に浮き彫りになるという仕組みである。
仮面がもつ意味は、時として表現者の想像を遥かに越えるくらいの威力を発揮す
る場合があるように思えるのである。あえて表情がない仮面をつけて演じたり表現
することにより、より内面から彷彿とする感情が燃え立ち、客観敵に見る側の人間
の想像を大きく増幅させる効果が得られたりする。
また仮面というものに肉体的に目視できる自分と見えない内なる自分との狭間を
仮託することにより、より客観的な視線を生み出すことができrのである。
個人の内と外、社会の内と外、社会と個人など仮面を差し挟むことで、仮面を
中心にマルチな関係性が多面的に生まれ、より多角度な考察から本質に辿りつ
くための導線が生まれるのと同時に様々な考え方を生み出させる効果も得られるので
ある。
その仮面をメインに使い描いたアンソールの絵は、様々な画家か試みた人間観察
よりもより普遍性があり、人間そのものを表現する上ではかなり核心的であるよう
に私は感じたのであった。
仮面をメインに使用するからアンソールは普遍的であり
現代美術に直結するのでは?というのではない。
この人間が描いた仮面の意味とは、本質的に我々が固定観念で堅持している
仮面の意味とは違うのではないか?ということに気が付き、そこから考えられる
部分が実は現代美術まで繋がる太い線なのではと感じたのである。
仮面とは通常、嘘の自分を示すものと我々は捉えていないだろうか?
そして仮面の内側にある自分が本当の自分であり、真の自分だというのが
大半がイメージするところではないのだろうか?
しかし、これは本当にそうなのだろうか?とアンソールの絵を見て
感じたのである・・
仮面こそが真の自分の姿ではないのか?という単純な逆説を考えた。
例えば、社会に出て活動している自分には何枚もの仮面がある。
サラリーマン、主婦、社長、等々色々あると思うのであるが、これを
考える時、実は自分はその仮面とは違うという常に違和感を持ち、
真の自分探しなんどという心地よい言葉に良く酔わないだろうか?
しかし、現実に自分を形どり、社会で客観的に浮き上がる自分とは
“仮面の自分”でしかないのではないか?と直視できないだろうか?
人が一生を終えたとき、他人がその人間を語る場合、
自分の付けていた仮面を語りはしないだろうか?
あの世から“俺は本当は違うんだ”という事を叫んだとしても、勝手に
一人歩きする自分とは“仮面の自分”なのではないかと思うのである。
ここが実に重要なのであるが、人間社会で生活を送る場合、仮面の自分
こそが実は、真の自分であり、間違いなく自分で作った自分なのである。
仮に真の自分という仮面の内側にある自分で生きた場合、どうなるので
あろうか?できるだろうか?
内なる自分を剥き出しにできるか?なぜしないのか?なによりも真の自分
と固執している部分がなにか?それを具体的に示すものはなにか?
ここが本質なのではないか、いつも主観的に勝手な解釈を施すが
客観的、そう、社会という全体から自分を見つめた場合、仮面の自分以外
に見えるものはない!
と、、思うのである。仮に自分を剥き出しにした場合、社会は受け入れ
てくれるだろうか?仮面の自分を作りだせない人間は社会から虐められないか?
蔑まれたりしないか?仮面に逃げ込むという考え方もあるが、実はそれ
こそが人間そのものの本質的行動であり、実は真の自分なのではないだろうか?
仮面の内側の自分が真実などと考えるのは妄想でしかなく、見えない自分
とは実は“嘘の自分”に他ならないのではないか?という事である。
悲しいかな、人間はあくまで仮面をかぶった真の自分で生きていくしかなく、
内側にある“嘘の自分”と語り続けなくてはいけない存在なのではないのだろうか?
私はアンソールの絵を見たときそのような感覚が押し寄せてきたのである。
私はそう言う意味で、奈良美智は“仮面の画家”だと思うのである。
可愛い子供の顔につりあがった憎悪を滲ませた視線。
嘘の子供に目を描いているのか?
違うと思う。
真実の目を描いている、真実の子供の表情であり仮面なのだと思う。
違和感を感じるのであるならばそれは大人が勝手に想像している子供
の内側に対しての虚像である。
実はそれは“嘘の子供”であり、真実は鋭い視線を持ったものこそ
大人を常に冷静に見つめている
子供の真の表情であり仮面なのだ。
ここにアンソール的な仮面の告白があるような気がするのである。
仮面の人物像とは真の自分という表現では少し分かりにくくなるだろうから
あえて現実の自分という解釈にすれば分かりやすいのかもしれない。
19世紀にこの人間の固定観念に対する逆説的内面を説明したのが私は
アンソールだったと思うのである。
であるから、まさしくこの普遍的な問題定義は現代美術まで直結し
今尚、表現の中心的な役割を果たしつづけている。
アンソールが仮面の群像の中で自画像をかいている名作があるが
この絵の最大の特徴は
仮面と自画像たる自分が
同質に描かれているということであり
そこから仮面に仮託した無表情な人間社会と客観的に
捉えている内側の自分とが、境界すれすれという緊迫状態
を生み出している。この緊張感から見えるものとは
自分の周りにある種種雑多な仮面こそが
自分であると
強く
訴えかけくるのである。
その絵を前にすると
改めて
今を生きている
自分自身というものに
厳然と向き合おうと私は感じるのである。
19歳だったか
もう覚えていないのだが、確かその頃買った一冊の雑誌が
今も我が家の書棚にある。
美術雑誌なのだが
内容に惹かれて買ったわけではない、ただ表紙の絵が、
なんとなく気にかかり買ってしまった。
ジェームズ・アンソール。
仮面の画家。
今もって特別好きな画家という事ではない。絵もさほど好みでもない。
しかし、なんというのだろうか?ある一定の期間を置くと、不思議と
手にとる雑誌となっている。
このアンソール、正直、19世紀から20世紀にかけて活躍した他の画家に
比べ、日本ではあまり知られていないのではないだろうか?
しかし、不思議なことに、何年かに一度、僅かだが国内のメディアにフワッ
と姿を現しさしたるブームや注目を浴びることもなく、またシューと消えていく。。
少し前にもどこかのテレビで特集をしていたようだが、残念ながら見られなかった。
実は私、この2,3年前であるが、このアンソールのことが少し分かったような
気がしたのである。
なにが分かったか?
少し強引な論法ではあるが、この画家が描いた“仮面”や“骸骨”の絵は、
他の歴史の作家よりも21世紀、今の現代美術までに相当な太い線で繋が
っているのではないか?ということだ。
様々な表現形態の思考経過が現代まで繋がり、現時点の表現主流
(幾重にも別れてはいるが)が確立されているのだが、なんとなくこの画家
が示したものが、実は様々な各時代背景を色濃く反映したきた表現よりも
数段普遍的な人間の本質を示したのではないか?と私は思えたのである。
ある意味誰よりも核心的な表現だったのではないかと考えている。
仮面をメインモチーフにしているものが現在も評価が高いのであるが、この仮面、
洋の東西を問わず案外芸術にとっては重要な小物となっている。
日本での特徴としては“能”という独特の表現になるのだろうが、西洋にとって
も仮面はかなり歌劇などやその他の表現で使用されていると思うのである。
日本では、文学の世界で三島由紀夫が“仮面の告白”という小説を書いているが、
仮面という物質を媒介させることによって、人間の内と外、自分を取り巻く
環境と内なる自分という相反するものを象徴的表す役割を仮面に仮託し、その構造
を分かりやすく説明することに役立てたりしている。仮面というものを挟むこと
によって、その内外の関係性が如実に浮き彫りになるという仕組みである。
仮面がもつ意味は、時として表現者の想像を遥かに越えるくらいの威力を発揮す
る場合があるように思えるのである。あえて表情がない仮面をつけて演じたり表現
することにより、より内面から彷彿とする感情が燃え立ち、客観敵に見る側の人間
の想像を大きく増幅させる効果が得られたりする。
また仮面というものに肉体的に目視できる自分と見えない内なる自分との狭間を
仮託することにより、より客観的な視線を生み出すことができrのである。
個人の内と外、社会の内と外、社会と個人など仮面を差し挟むことで、仮面を
中心にマルチな関係性が多面的に生まれ、より多角度な考察から本質に辿りつ
くための導線が生まれるのと同時に様々な考え方を生み出させる効果も得られるので
ある。
その仮面をメインに使い描いたアンソールの絵は、様々な画家か試みた人間観察
よりもより普遍性があり、人間そのものを表現する上ではかなり核心的であるよう
に私は感じたのであった。
仮面をメインに使用するからアンソールは普遍的であり
現代美術に直結するのでは?というのではない。
この人間が描いた仮面の意味とは、本質的に我々が固定観念で堅持している
仮面の意味とは違うのではないか?ということに気が付き、そこから考えられる
部分が実は現代美術まで繋がる太い線なのではと感じたのである。
仮面とは通常、嘘の自分を示すものと我々は捉えていないだろうか?
そして仮面の内側にある自分が本当の自分であり、真の自分だというのが
大半がイメージするところではないのだろうか?
しかし、これは本当にそうなのだろうか?とアンソールの絵を見て
感じたのである・・
仮面こそが真の自分の姿ではないのか?という単純な逆説を考えた。
例えば、社会に出て活動している自分には何枚もの仮面がある。
サラリーマン、主婦、社長、等々色々あると思うのであるが、これを
考える時、実は自分はその仮面とは違うという常に違和感を持ち、
真の自分探しなんどという心地よい言葉に良く酔わないだろうか?
しかし、現実に自分を形どり、社会で客観的に浮き上がる自分とは
“仮面の自分”でしかないのではないか?と直視できないだろうか?
人が一生を終えたとき、他人がその人間を語る場合、
自分の付けていた仮面を語りはしないだろうか?
あの世から“俺は本当は違うんだ”という事を叫んだとしても、勝手に
一人歩きする自分とは“仮面の自分”なのではないかと思うのである。
ここが実に重要なのであるが、人間社会で生活を送る場合、仮面の自分
こそが実は、真の自分であり、間違いなく自分で作った自分なのである。
仮に真の自分という仮面の内側にある自分で生きた場合、どうなるので
あろうか?できるだろうか?
内なる自分を剥き出しにできるか?なぜしないのか?なによりも真の自分
と固執している部分がなにか?それを具体的に示すものはなにか?
ここが本質なのではないか、いつも主観的に勝手な解釈を施すが
客観的、そう、社会という全体から自分を見つめた場合、仮面の自分以外
に見えるものはない!
と、、思うのである。仮に自分を剥き出しにした場合、社会は受け入れ
てくれるだろうか?仮面の自分を作りだせない人間は社会から虐められないか?
蔑まれたりしないか?仮面に逃げ込むという考え方もあるが、実はそれ
こそが人間そのものの本質的行動であり、実は真の自分なのではないだろうか?
仮面の内側の自分が真実などと考えるのは妄想でしかなく、見えない自分
とは実は“嘘の自分”に他ならないのではないか?という事である。
悲しいかな、人間はあくまで仮面をかぶった真の自分で生きていくしかなく、
内側にある“嘘の自分”と語り続けなくてはいけない存在なのではないのだろうか?
私はアンソールの絵を見たときそのような感覚が押し寄せてきたのである。
私はそう言う意味で、奈良美智は“仮面の画家”だと思うのである。
可愛い子供の顔につりあがった憎悪を滲ませた視線。
嘘の子供に目を描いているのか?
違うと思う。
真実の目を描いている、真実の子供の表情であり仮面なのだと思う。
違和感を感じるのであるならばそれは大人が勝手に想像している子供
の内側に対しての虚像である。
実はそれは“嘘の子供”であり、真実は鋭い視線を持ったものこそ
大人を常に冷静に見つめている
子供の真の表情であり仮面なのだ。
ここにアンソール的な仮面の告白があるような気がするのである。
仮面の人物像とは真の自分という表現では少し分かりにくくなるだろうから
あえて現実の自分という解釈にすれば分かりやすいのかもしれない。
19世紀にこの人間の固定観念に対する逆説的内面を説明したのが私は
アンソールだったと思うのである。
であるから、まさしくこの普遍的な問題定義は現代美術まで直結し
今尚、表現の中心的な役割を果たしつづけている。
アンソールが仮面の群像の中で自画像をかいている名作があるが
この絵の最大の特徴は
仮面と自画像たる自分が
同質に描かれているということであり
そこから仮面に仮託した無表情な人間社会と客観的に
捉えている内側の自分とが、境界すれすれという緊迫状態
を生み出している。この緊張感から見えるものとは
自分の周りにある種種雑多な仮面こそが
自分であると
強く
訴えかけくるのである。
その絵を前にすると
改めて
今を生きている
自分自身というものに
厳然と向き合おうと私は感じるのである。
