June 29,2009
最近、タイムラプスという動画の芸術要素に
妙に魅かれている。
所謂コマ落ちの動画で、防犯カメラなどはこの手法で毎日
動かしているものであり、そういう意味では誰しもが知っている
さして斬新な手法ではないのだが、これを別の角度、特に目的もなく
ただ撮影されたものを見ていると、なんとも言えない感情が芽生える。
ある特定風景をこの手法で撮影すると、一日が何分の一、単純に数分で一日
が集約される。
この部分、詳しく調べていないのでいい加減な見解になるかもしれないが
アンディーウォホルがエンパイヤーステートビルをずっと同アングルで撮影
していたものや、モネが延々と毎日続く睡蓮の姿を描き続けたのも、ある
意味同じ匂いがする。
例えばビルを一日固定カメラで撮影すると、太陽の光線が朝から夕刻までに
刻々と変化するさまや、その他ビルを中心とする変動要素の変化が如実に
捉えられる。
これは何か?
所謂、芸術とは目に見えない世界を見えるようにする直観的な技術であり
仕事であるという定義を根底に据えた場合、ここで見せてくれているもの
とは一体なにか?
それは、私は“時間”ではないか?と思うのである。
そして、人間とは地球という存在が自転しているなかで過ごしおり、
時間というモノとの関係性において、そこにはなんらの
主体性もないという現実風景が垣間見える。。
時間という目に見えない、ある意味概念として理解し、生活の中で抽象的な
観念で進行するモノを、可視化する効果があるのではないか?と感じるのである。
タイムラプスというコマ落ち画像の不完全な動画手法が、真実として存在し
たはずの時空を故意に削ることにより、より鮮明に時間というものの動き、
進行を可視化してくれているのであり、その動きが通常の動画との比較により
生まれた“差”が、見えない時間という観念を可視化させるのである。
ここでもう一つ私は感じる部分がある
例えば、現在デジタルビデオが普及し、どの家庭にも、いや個人的に、
時間を切り取り、時間という観念をある種デジタル記憶装置という物質
に取り込み保存(コレクション)することができる。
これはそれぞれの人生の一部分の時間を保存する行為なのであるが、
これを、このタイムラプスという手法で、一人の人間が生まれてから
死ぬまで、一人の人間をカメラが離れることなく撮影し、編集したら、
どのようなものになるのだろう?という強い興味がある。
タイムラプスはコマが落ちるという画像なのだが、もっと正確に捉える
ならば、通常の動画とは静止画像が何枚にもわたり記憶されることに
より動画としてスムーズに動き出す。これは誰しもが知っているアニメ
の原理と同様なのであるが、タイムラプスとはこの静止画像の枚数が
わざと削られたものによって構成される。ということは、通常必要な
コマを無くすことになる。
コマをある程度なくすことによって激的に生まれるものとは、先に述べ
たように、より本質的な時間経過、変化、そこから“時間”という
観念が可視化できる。
そうなれば、この方法論で、人間の一生をタイムラプス手法で撮影し、
時間の保存と記録を作ると仮定し、これを人生という時間の考察とする
ならば、この記録風景とは、より人の一生という風景がもつ時間が如実に、
手に取るように、見えるのだろうか?と考えてしまう。
これはなにか違うような気がする。
歴史というコマ送りの変化のポイントは明確に可視化できるのであるが
変化と変化の間に存在する、なぜ?という部分が謎のままで不可視となる・・
歴史は本来、年代と年代の間にその姿が存在し、それをつなげる力が
時間という不可視な存在なのでは?と改めて気づく。
なんとなく、落ちたコマが凝縮したもの、消えて記録されていない部分が
人生の“時間”、、、生きている、
と感じるような気がするのであった・・・
妙に魅かれている。
所謂コマ落ちの動画で、防犯カメラなどはこの手法で毎日
動かしているものであり、そういう意味では誰しもが知っている
さして斬新な手法ではないのだが、これを別の角度、特に目的もなく
ただ撮影されたものを見ていると、なんとも言えない感情が芽生える。
ある特定風景をこの手法で撮影すると、一日が何分の一、単純に数分で一日
が集約される。
この部分、詳しく調べていないのでいい加減な見解になるかもしれないが
アンディーウォホルがエンパイヤーステートビルをずっと同アングルで撮影
していたものや、モネが延々と毎日続く睡蓮の姿を描き続けたのも、ある
意味同じ匂いがする。
例えばビルを一日固定カメラで撮影すると、太陽の光線が朝から夕刻までに
刻々と変化するさまや、その他ビルを中心とする変動要素の変化が如実に
捉えられる。
これは何か?
所謂、芸術とは目に見えない世界を見えるようにする直観的な技術であり
仕事であるという定義を根底に据えた場合、ここで見せてくれているもの
とは一体なにか?
それは、私は“時間”ではないか?と思うのである。
そして、人間とは地球という存在が自転しているなかで過ごしおり、
時間というモノとの関係性において、そこにはなんらの
主体性もないという現実風景が垣間見える。。
時間という目に見えない、ある意味概念として理解し、生活の中で抽象的な
観念で進行するモノを、可視化する効果があるのではないか?と感じるのである。
タイムラプスというコマ落ち画像の不完全な動画手法が、真実として存在し
たはずの時空を故意に削ることにより、より鮮明に時間というものの動き、
進行を可視化してくれているのであり、その動きが通常の動画との比較により
生まれた“差”が、見えない時間という観念を可視化させるのである。
ここでもう一つ私は感じる部分がある
例えば、現在デジタルビデオが普及し、どの家庭にも、いや個人的に、
時間を切り取り、時間という観念をある種デジタル記憶装置という物質
に取り込み保存(コレクション)することができる。
これはそれぞれの人生の一部分の時間を保存する行為なのであるが、
これを、このタイムラプスという手法で、一人の人間が生まれてから
死ぬまで、一人の人間をカメラが離れることなく撮影し、編集したら、
どのようなものになるのだろう?という強い興味がある。
タイムラプスはコマが落ちるという画像なのだが、もっと正確に捉える
ならば、通常の動画とは静止画像が何枚にもわたり記憶されることに
より動画としてスムーズに動き出す。これは誰しもが知っているアニメ
の原理と同様なのであるが、タイムラプスとはこの静止画像の枚数が
わざと削られたものによって構成される。ということは、通常必要な
コマを無くすことになる。
コマをある程度なくすことによって激的に生まれるものとは、先に述べ
たように、より本質的な時間経過、変化、そこから“時間”という
観念が可視化できる。
そうなれば、この方法論で、人間の一生をタイムラプス手法で撮影し、
時間の保存と記録を作ると仮定し、これを人生という時間の考察とする
ならば、この記録風景とは、より人の一生という風景がもつ時間が如実に、
手に取るように、見えるのだろうか?と考えてしまう。
これはなにか違うような気がする。
歴史というコマ送りの変化のポイントは明確に可視化できるのであるが
変化と変化の間に存在する、なぜ?という部分が謎のままで不可視となる・・
歴史は本来、年代と年代の間にその姿が存在し、それをつなげる力が
時間という不可視な存在なのでは?と改めて気づく。
なんとなく、落ちたコマが凝縮したもの、消えて記録されていない部分が
人生の“時間”、、、生きている、
と感じるような気がするのであった・・・