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光琳へ 2
国宝を複製品として作る?


という事を聞けば、普通それは国の許可や
関係各位の調整や、第一民間企業がそんなものを
作っていいのか?という様々な疑問が生れても不思議はない。。


しかし、宗達の風神雷神図や光琳の紅白梅図はなんとなく
書籍類やおみやげ物的なグッズやその他意匠としてよく目に
する…


この場合、これには許可がいるのか?許可を取っているのか?
という疑問が上記疑問とあわせて生れない。。。


それはすでに商品化されているからであろうか?
それにしてはかなりの数と種類が存在する・・・
そうなると、案外簡単に権利を入手できるのか?


と、なる筈なのであるが、美術館に入っている作品という
事になると”そりゃ無理だろう!”となってしまう。。。


これは何からくるギャップなのだろうか??


この部分に深く関わるのが所謂“著作権”という概念なのだと
考える。


著作権、ライセンスという呼称自体は現在広く知られている。
しかしそれは何?となると一般での理解は極端に下がる。
先般中国で怪しげな遊園地に日本のドラえもんやキティーちゃん
といったキャラクターが許可無く使用されているということで
大きな問題になった。こういうことに関しては、それは盗作で
はないか?と誰もが敏感に反応できるのであるが



じゃ、どこまでを盗作と呼ぶのかという定義について考えた場合、
実は専門家においても正確に答えられるということは皆無に近い
のではないか?と思う。


実際、法的規範の解釈において厳正に判断できないものが多数
存在する。実例もある。



少し以前、村上隆が子供服メーカーの“なるみや”を訴えた。
それは自身の作品に使用するキャラクターに著しく類似している
キャラを“なるみや”が制作したということで、著作権の侵害だ
と告訴したわけだが、これは中国の遊園地であったまったく同一の
ものを盗用したというのとは違う。あくまで類似、近似という部分
で村上隆が訴えたのである。これは大変難しい問題ではある。


なるみや側からすれば、参考にしたかもしれないが、まったく
別物として制作したと言えば、ある意味オリジナルとなる。しかし
村上側からすれば自分がその雰囲気を持つキャラを最初に考案し
世の中に時間をかけて広めている。その余韻の中で貴方達は故意
にその利益を享受している。という考えとなる。どちらも間違い
とはいいきれない。


この場合、和解するとなれば、なるみやのキャラを村上が認め
るか、もしくはなるみやが現行キャラを捨てるかしかない。
こういう点から考えれば、著作権者というのはある意味非常に
強い立場に立てる。言葉は悪いが幾らでも“難癖”が付けられ
るという極論も成立しないでもない。


そしてもう一つ大きいのが、ここに莫大な金銭が絡むという
事である。キャラを村上が認めたとした場合、“村上が認めた
キャラ”となる。この時点で実は村上作品の一部となるのである。
そうなるとどうなるか?と言えば、その為に金銭を村上側に
払わなくてはいけないこととなる。何万枚制作する服なのか
分からないがその一点一点に“村上が認めた”という著作権を
支払う義務を負う訳である。また、キャラを捨てたとなれば、
これは盗作を認めたこととなり、和解を前提として考えれば、
その慰謝料を科せられることとなる。


しかし、村上が凄いのは、ただ単純にそういう争点で金銭部分
を争っているわけではない。


村上のDOBくんというキャラクターが存在する。
これをよく眺めてもらえばわかるのだが、これは


まさしく“ミッキーマウス”のパクリ以外の何ものでもない。
しかも、確信的に”パクって”いる。


じゃ村上はディズニーから訴えられたか?と言えば今もって
そういうニュースを耳にすることはない。


もう少し良く見ると・・・ミッキーのようではあるが、
ミッキーではないと、、これも明確さが微妙な作柄である。。


ある意味「一級の仕事」である。


ここが難しくも大変おかしい部分であり、村上が現代アーティスト
たる最大の所以として認識できる部分でもあるのだが、


ミッキーマウスはオリジナルとは別に“通念としてイメージ”が
公共の中にすでに広範に浸透しているのである。


どういう事か?と言えば、極端に言えば、●を三つミッキーの
ように配列すれば、一般的に“あっミッキー―”と一般に認識
出来てしまう。


これはオリジナルのミッキーではないが、一般の想像の中に
ミッキーの特徴が摺込まれているのである。この目に見えない
思考の部分から取り出したと言えば、オリジナルから盗用した
訳ではなくなるのである。


なるみやの場合、そこまで一般化していない村上の作品である
から、一般化した図象の通念からアレンジして・・という解釈
はできないのである。やはりあくまで村上の真似をしたとなっ
てしまう。


これは村上が意図して起したものかどうかは分からないが、
ある意味、現代美術の表現として、オリジナリティーの概念論争
としても大変興味深い出来事となった。


実はPOPアートの進化した概念として捉えることも出来る。
アンディーウォホルが描いたマリリンモンローもマリリン自体
ではない。通念としてのマリリンの状況を描いたわけである。
この時代ははこれで終わった訳である。


しかし、村上はそれを具体的に“裁判”という機能を活用して
芸術のオリジナリティーはなにか?社会的通念の図象とはなに
かを浮き彫りにしたのではないか?と私などは考えるのであった。
この裁判自体が、人間が著作という創作部分における盗作という
境界に対して断罪を下す危うさをものの見事に表現しているのと
同時に、ビジネスと芸術という日本ではつねにパラレルに考えて
いるものを融合させたとも見えた。



商売という個々の売買に終始しているのであれば何も問題はない。
しかし公共の理にかなうという前提を踏まえるビジネスにアート・
芸術を昇華させようとすれば、この国の中には不整備なものが満載
であり、なによりもその概念も観念も皆無である。


これは私見であるが・・


村上は案外裁判を通じて、未だ芸術ビジネスに覚醒しない国家を
嘲笑的に試した?のか?と私などは考えてしまう。。



話を戻すが、、、


そういうことで著作権といっても、特に絵画を中心とする
芸術分野ではまだその基準となる“判例すら”ほとんどない状態
であり、実際にはアヤフヤなものが多い。。


そうなると、厳然と“国の宝”などと認定しているものを
複製にするというのは…と尻込みしてもおかしくはないだろう・・



が、これは逆なのである。


明確な世界標準は無いのであるが、、著作権というものの権利
を行使できるのはオリジナル作家死後50年という線が存在する
のである。当然作家が死んで以降誰がそれを持つのかといえば
遺族であったり、関係者となり、その方々が著作権者となる。
美空ひばりの養子がそれであると言えばわかり安いだろう。。


50年を過ぎれば許可無く使用できる?


そうなのである使用できるのである。
これは国宝であろうが重要文化財であろうが個人蔵であろうが
すべて同じである。



あまり知られていないが、横山大観も上村松園ももう切れてい
るのである。。



じゃ、今新たに流通している複製品なるものは?となるが、
遺族が承認しているものや鑑蔵美術館が監修しているものそれ
以外も存在するが、こういう部分の付加価値がついたものと、
まったく何もないものが流通している筈である。



遺族や美術館の監修認証というのは厳密に言えば作品に対して
の著作権ではない。遺族という立場である個人及び美術館とい
うプレステージのライセンスとなる。



平たく言えば、“こんな近親者やえらーい人が”この商品は


““まぁ、ええんちゃう””


ということのお墨付きを出しているだけでしかない。。。



そうなると宗達も光琳もへっちゃらで作れる!と軽々と飛び
越えられるのである。その産物が前述のおみやげもの的グッズ
という事になる。


じゃ、なにも大層にここで長々と語ることもなく簡単に
作ればいいじゃない!となるであろうが・・


果たして、、そんなどこにでもある“おみやげ物”の延長線
上のものを高い金額を出して買うだろうか?また逆になんで
そんなに高い?と不信感を生んでしまうのではないだろうか?
当然屏風を作るとなるとそれなりのコストがかかり小売価格を
設定すれば、一人前の美術品的価格となる。


ここに美術品のマジックがあるのである。


希少性!


これを作り出さなければ、購買モチベーションを上げることは
出来ない。前のブログに書いた誰もが知らないものの価値もし
くは誰もが手にすることの出来ない価値をコレクションしたい
という欲求とは、偏にこの希少性という感覚が生み出すのである。


インフレスパイラルと呼べるのかも知れない。


いくら金をつんでも、どんどん値が上がる。


この場合人は、金の価値が低減するとはあまり考えない
対象の“物の価値”が上がっていると考える。


それほど高価なのか?とても手が出ない…となる。


実はこれは市場原理である需給ギャップから生れた稀少性ではなく
わざとギャップを作り出して生ましているのである。


ライセンスが附加され他とは価値が違う、よって数に限りがある
また、ライセンスに適うスペック(内容)を有していて、他では
出来ない技術を駆使している等の稀少性をフンダンに盛り込めば
価値が増すという仕組みであり、普通のものを買うモチベーショ
ンからテンションが一段も二段もステップアップするという仕組
みでもある。


ましてや史上初となればそのボルテージがいやが上にも上がるこ
とは間違いない。。ここに広告宣伝の効果をフルに発揮すれば申
し分ない。。


誰も知らないところで“史上初”と騒いでも


原野で一人叫んでいるのと変わりない。。。


という訳で


光琳の複製屏風は誰にでも“作り売る”ことは出来るのであるが


美術複製品として売るには、そういった希少性というものの創出
というハードルが存在するのである。



このハードル、、、ライセンスを附加してもらって作るという事、
これが、過去例がないのであった。。


チャレンジしたものは数多存在するのに…・
例が無い。。。


それには理由がある筈であった。


ターゲットとしては申し分ない内容をもったものであるのは誰に
でも容易に理解できるのであるが、、、過去例がないというのは、
私なりに理解できる部分があった。。。。。。。



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ちなみに

なるみやとのその後はこちらを参照ください。


http://www.kaikaikiki.co.jp/news/list/murakamis_lawsuit/




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つづく。。

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