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このCOMBINEの仕事を立ち上げる前

2006年の初夏から2008年の年初までの約一年半

私は、面白い仕事、プロジェクトに関わった。

それは、“国宝”の複製品を制作販売するという内容であった。


その仕事は、一本の電話から始まった。


さる東京の通信販売会社の企画部から、過去の私の仕事の
コネを利用し、今まで誰もが手をつけなかった、というよりも
どこもが出来なかった制作企画をやってみませんか?という
問い合わせというよりも企画立案要請であった。


この前年、2005年位から私は美術品の通信販売に興味を持ち
都内各所の優良な美術通販会社に飛び込みや人づてのコネを活用し
何社か取引を開始していた。大手百貨店の通信販売事業部や有名な
通信販売会社等、それぞれ個性豊かな会社であり、数十万部のカタログ
配布、数十億の年商という規模で活動している会社たちであった。


以前から私も小規模な通信販売には企画を提出し、それなりの好成績
を残してきた。その自信というほどの事ではないが、なんとなく、
美術品ビジネスが成立する究極を俯瞰して考えた場合、単価の高い単品
を販売するか、ある程度の一般ユーザーが支出できる価格レンジで広域に
量販するか、このどちらかではないのか?とおぼろげながら考えていた。


それを具体化する手法で明確な形態とは通販なのでは?と考えた訳であった。
もちろん量販とは対面販売もあるのだが、マスマーケットの商品回転とい
う概念からすれば、対面販売という部分にはどうしても“ルート”
“販路”の整備というものが必要であり、恒常的に企画品が対面状況を生
み出すというのには時間と固定費がかさみ、少し壁が高いよう
な気がしたのである。短期のハイパフォーマンスという事から考えれば
その成否はかなり確率が下がる。しかし目線を変えれば、ヘッドオフィス
で企画立案し商品製作、それをデリバリーし各販売員が販売するという
形態も実はカタログか対面販売かという部分の違いしかない。ヘッド
オフィスという立ち位置から見れば基本は通販に近似した感覚が必要な
訳である。


今もって私は美術品の商売をしているのであるから、恒常的な対面販売
ルート部分が無い訳ではない。


ワザワザ通販会社を使わず、それを利用すれば?となるが・・


2000年を過ぎたあたりから、極単に対面による“マス”の拡大販売政策
が通用しなくなってきたのである。それは想像を越える趣味嗜好の拡散化
傾向とインターネットを中心とした情報氾濫が、“どこにでもある”という
従来のマスマーケットの根幹を崩し始めたのであった。これは、それまでの、
対面販売ネットワークの得手とした手法である、一つの商品という雛型から
掛け算式に拡大させる販売ではなくなくなり、選択の幅を広げるミニマム
販売へ大きく転換したのである。


1×100から1を100用意するという図式への変革であった。特に
美術品においてマス対応する商材とは“版画”と言われるものが、その
代表格であり、この商材の性質は価格レンジが広く、付加価値が取りやすい
(高名な作家のライセンス附加や美術館認証等)点が最大の利点だったので
ある。しかし、この商品の最大の欠点とは諸刃の刃で、均質な商材が複数存在
することであった。それまでの版画も現在の版画もこの性質は同じなのである
が、大きな違いは、情報がどこでもキャッチできるというインターネットの
出現がその性質を著しく変化させた。


これはどういう事を意味するかというと、ユーザーが現物を直接確認する
必要性が薄いということであり、ということは、ワザワザ店に足を
運ばなくてもインターネットで充分安心して購入できるということであった。


そしてもう一つ大きな変化はインターネットという簡便な売買装置
の出現は、現実の流通上の中間業者を飛び越えて、メーカー直販を
生み出す。これはそれまで中間に存在していた販売側の利益部分を
消滅させることであり、よって価格が劇的に安価になるという点の
創出でもあった。


誤解があるといけないので付け加えるが、中間に存在する業者が
暴利を貪っていたわけではない。美術品という販売物の性格を一般
ユーザーの生活情報という観点から考えれば、かなりマイナーな
商品であり、販売促進上の経費も費用対効果の観点から考えてもその
市場規模は微々たるものでしかない。そういった事情を考慮すれば、
当然かなりの流通路を駆使しなければなかなかユーザーへは到達で
きない性格が存在する。基本は多数の業者を介して薄利にて多種
多様な販売網へリリースという事になる。


これを通常“卸”と呼んでいる。。


また要因としてオークションというものもあると思う。閉鎖的な
セカンダリーマーケットに一般ユーザーが容易に参画できる時代
が訪れ、流通価格以下で同様のバリューのものを手に入れることが
出来るようになった。正確には自分の考える値段で購入できる
可能性が生れたのである。これは版画、タブローの別なくである。


毎日売れるものではないのであるから、そのビジネス上のマーケット
規模は業態として統計に表れないほどの極少さであり、インターネット
出現前での情報流布とはやはり対面販売が中心であり、その状況を創出
するためには煩雑な流通路を駆使しなくてはいけなかったのである。
そうしなければユーザーの面前に商材が出る機会が稀少化してしまう。


根本的な商売構造で考えれば、仲介は会社もしくは会社に近い業態の
個人であるが、生産者側(アーティスト)は本当の個人な訳であるから、
その数のギャップは想像を絶する。。購入者と生産者の数がこれほど
大きく開いた商売はないのではないだろうか?また生産者にはまった
くの資格も必要でないし誰もがなり得るのである。狭小な購買対象に
対し膨大な生産者、これが絵画ビジネスの本質であり、その価値形成
が一般にはよくわからない、


なんか胡散臭い世界と言われる所以である。


よく考えてもらいたい、何百万何千万円もするもので購入者が
登録義務もしくは記録が明確に存在しないという資産など、そうはない。
家・家屋・土地・株券・・

(まぁこれが政治的な裏社会の資金洗浄には好都合なのであるが・・)

宝石もそうなのであるが、絶対的信用度かどうかは疑問であるが、
物質としての客観的な鑑定書というものが存在し、南アフリカ等の
シンジケートによる産出量からくる相場などの、ある意味需給マー
ケットも存在する。これは仕入れ原価が明確に存在するということ
であり、客観的な価格構造が存在するということだ。有体に言えば、
そうは”むちゃ”できないという事である。しかし、絵画の原価
という根本は?これはキャンバス、和紙、絵の具等のものでしかない。


アーティストの人生!


などといっても経済原則から考えればあまりにも抽象的すぎるし、
売買という現実的な金銭授受の伴わないモノである。。所詮は、
物品としての価値形成の原価に相当する端緒は“言い値”である。


しかし、再度言えば、こういった煩雑な流通路や一般に踏み込めな
い商慣習や観念、一般には分かりにくい流通規範がインターネット
という平易な売買装置が出現したとたん、ユーザーへダイレクトで
情報が到達する仕組みが出来上がったのであった。


そうなると、前述の対面販売においては、版画は商品揃えのライ
ンナップから外れていくことになる。故に版画を除く対面販売に
おけるマスマーケット企画には、ある意味相当な難しさが出現し
たこととなり、全体に大きくユーザーをカバーできる商材が年々
少なくなりつつある。これら状況を商売の金高でカバーするには?
やはり安直に単価のアップしかないのであるが、果たして多様化
する趣味嗜好に対し網目のデカイもので正確に掬い取ることがで
きるのであろうか?


やはり特化したマーケットを自ら創出しそこに誘引するしか
確率を高める手段はない。。。


結論的に、これはインターネットという利器の出現がこれまでの
商売の一つの仕組みを破壊したということではない。ユーザーの
趣味嗜好、購買モチベーションに合致したという事のほうが正しい
本質だと思う。それほど多様化していくということと、既存の
価値の提案ではなく、これがこの時代の本質なのであるが、誰も
気づかなかった価値というものへの憧憬が膨らんでいるのだと考
えられる。当然誰かが持っているというものとまったく同じもの
というのは忌避されるものになってしまったのである。それまでは
誰もがもっているから、私も持ちたいというモチベーションの
支配が圧倒的であったがそれらのシェアーが劇的に変化したので
あろう。その一翼を担っているのが情報の平準化でありインター
ネットという世界だと思う。高いとか安いとか、それ以外でも、
それまで二元化して比較していた価値基準が相当に細分化され、
独自入手する大量な情報によるものから、自身の傾向を具体的に
把握でき、それに相応する具体物を探すという購入モチベーション
が勃興したのであろう。こうなると、絵画という趣味嗜好品にお
いて予めの準備(在庫として)として、それらを整合し統一化す
るなどということは不可能に近い。。。


なにを求めてくるかわからない・・


その現状でも、より安価な物品へ価格をシフトすれば、それだけ
対象マーケットは広がる訳であるから今でもマスマーケットは
完遂できなくはない。


しかし、それらにどれほどの商品寿命があるのか?それらに満足
がいくほどの販売実績を連発させられるか?そして現状のマーケ
ットはそれを可能にするほど単純であるか?仮に出来たとして、
食材や衣料品ほどの回転が望めるのか?また、そういったものと
は、万人が手にするという事を前提に制作されるわけであるから、
誰にも受け入れられるという絶対条件が必要となる。そうなると、
現在の多様化するユーザーの趣味嗜好と商品制作はマーケッティ
ングとして成立するのかという疑問が生れる。


誰もが持っているというものが果たして美術品としてこれから
存立するのか?という疑問である。利便性や多品種少ロットと
いう制作形態を取れる衣料品とは違い所詮、そこまでの回転性、
購買衝動の喚起は望めないのが現実である。唯一そういう現象
が生じる可能性があるとするならば、ボリュームを持った流行
(これも2000年を境に消滅したが・・)現世利益を謳う、所謂
霊感商法(訳の分からない占い師がテレビで根拠無く放言した等)
に近いもの位である。


今、昔と違い、歌謡曲も皆が口ずさむなどというものがない。


昔は各時代に代表的な曲が存在し、だれもが知っていた。
アイドルもそうである。よく考えれば私が中学時分“たのきんトリオ”
などというものが存在したが、全国の中学生女子がファンに近かった。

たった3人の青年男子に全国の中学生が熱い視線を送っていたのである。

こんな事は現在ではありえない。


そんな全国からの注目を集める現象は、現在よほど極悪な“犯罪者”くら
いのものである。。。


そういう状況を迎えた時、私が通信販売に興味を持ったということの
最大は、美術品という個人の趣味嗜好を“マーケティングリサーチ”し、
そのデーターを中心に販売計画立案と巧妙な媒体販売促進策を駆使し、、
それにもとづく計画生産を考察し、如何にロスなく販売につなげるかと
いう部分に特化した形態と、緻密な顧客、地域特性データーにもとづく
ダイレクトマーケットへの販売という側面に強く惹かれたのであった。


もう一つは、ライセンスという著作権を管理しプロダクト化するビジネス
にも興味があった。


そういった興味をもち介入した業界ではあったが、
現実には、それほど精緻なものでないことだけは分かった。。


案外“エイヤ”の世界も多数存在する。。


ただ企画立案の肝と宣伝広告の手法、タイミング、制作管理や経費管理
利益構造、ライセンス管理、コンプライアンス等、学ぶべき部分は多数
存在した。。


そんな事を覚え始めた頃であった。


国宝企画をやらないか?と声をかけられたのは…


電話口から指示された国宝は…・


“尾形光琳 紅白梅図屏風”であった。。



「尾形光琳をやろうと思うが・・過去数回アタックしたが
 出来ない。他社もできたことがない。美術館認証の
尾形光琳の紅白梅図屏風の複製に許可が下りたことはない。」







そんなものが果たして出来るのであろうか???







つづく。。。




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