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ゲルニカ  3D
絵の仕事をしていて、たまにフッと思うことがある。


一枚の絵を見て複数人と喋ったりするが、果たして“同じように見えている”のだろうか?


人間の感覚は良く考えれば、他人と合一している、という感覚を確認しあえない。それは当然数値としても、他の目に見える形による比較も出来ないナァと・・


味、音、痛み、かゆみ、それらを表現するために文字や言葉が仲介として存在するのであるが、しかし絵や音は、それが自分の思惑通りに文字や言葉ほどには伝わらないような気がするのである。


音は良く分からないが音階みたいな制約範囲があり、音符による記号も存在する、しかし、これが絵になると制約がない。いやもっと限定的に考えれば音符のような記号に集中するものがない。。。。。。。


だから本当に同じように見えているのか?と言うこの疑問はそう可笑しなものではないような気がするのである。。。。


絵を見る人間の機能は“目”というものが担うのであるが、これが実は
あいまいなもので、見えているというのは実は“脳”という機能とかなりの
密度をもって連動しているとこをこの間知った。だから“錯視”という現象
があるのだが…・



この話は別の回にまわすとして。。



とにかく眼球という機能が捉えているものとは、眼球の機能が“撮影”して脳に伝えるという順番ではなく、脳がある程度指令をだしたものを眼球が確認するというシステムらしい。


だから人間は実は二次元と三次元が同一画像の中に存在する場合、まず三次元要素からだけ取り出せと指示を送るらしい。遠いものは小さく近いものは大きく。


これは固定観念ではなく脳にインプット(遺伝子伝達)されているデーターからの指示らしいのである。だからこそ、先程述べたような錯視という現象が生まれるらしい。そしてこれには当然に個人差がある。


と、、いうことを考えれば、個々の感覚に差異がある機能を使って、同じものを同じように見ているという前提で何の疑問もなく語り合えるのは、本来滑稽な風景なのかもしれない。本来見えていないのであるが、それでも会話が成立するのは、どこかで共通の感覚を整合させている・・


では、何によってお互い絵を語っているのだろうか?


眼球という機能の精度及び相互確認は取れないということを考えれば、脳+眼球+?が存在し、この?がお互いの交信をコントロールしあっているのだと思う。


一枚の絵を複数で見るときの会話とは、実はこの?を言葉に変換しているのかもしれない。。



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という所で今日紹介するのはとても面白い動画です。



ピカソのゲルニカを3Dで分解し立体的な画像として構成したものです。
我々は、今まで二次元でピカソのゲルニカを見てきたのですが、これを
見ると、、


なんとなぁ!と関心してしまう。


本来の脳の指令から従えば別段不思議な世界でもないはずなのですが、あえて、本来の指示とおり先に3Dから見てしまうと、、、そうかぁ!と答えにならない感覚が出てくる。


これが実に凡夫なのだ・・



そして、ひょっとして“芸術家”って、

いや!

絵描きさんって

眼球の機能を超えたこんな世界を
,,,,,

脳+?で作り出しているのか…・



と改めて尊敬してしまう。。。。。





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