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力さん
先日久しぶりに京都駅から歩いた。


そして少し遠回りをした。


実は一箇所以前から立ち寄ろうと思っていた
場所があったのだが、、、


なかなか行けず・・


と言っても、、ギャラリーから僅か4,5分なの
だが、、、



場所は画像の路地だ。





何かの石碑や案内板があるわけではない。


七条大宮通り一本西側の路地、花屋町通りをホンの僅か
下がった場所。


本当に狭い路地で、おそらく幕末からこの道幅は
そのままだと思う。


この画像の場所に、


新選組隊士(二番組伍長)、守衛新選組隊長
島田魁が新政府軍との函館戦争に敗れ京都に
戻ってから棲んでいたらしい・・・





島田魁は


新撰組ファンなら誰もが知る快男児。


副長の土方歳三の徹底した隊規の取締りによる
隊士の粛清等所謂、裏の土方の「汚れ役」も
担っている。


ある小説の情景描写、、おそらく新政府軍
との戦いの最中だが、二人の関係を上手く
現している・・・


「何をしやあがる。離せ」


「離しません」


島田魁は、歳三の手をとって自分の肩にかけ、
うむを言わさずに背負った。


「よせ、みっともねえ」


「みっともなくても、副長に死なれては困るんです。
東照大権現の旗の下に集まった者が皆、困るんです」


島田魁は最後の最後まで土方歳三に付き従った
戊辰戦争を函館五稜郭、五稜郭戦争まで戦い抜き、
明治二年(西暦1869年)5月、土方歳三が戦死し
新撰組が降伏するまで抗戦した剛の人である。

その咎で同年11月まで謹慎処分に処された。
函館で戦死した土方歳三に最後まで随伴した新撰組の幹部
でもある。

そして箱館で戦死した土方歳三の戒名を書いた布を常に懐に
携えていたという。





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歳進院 誠山 義豊 大居士
「誠の山は義(ただしく)豊かに歳とともに進む」

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新政府から釈放された後は京都に戻り、レモネード屋や
雑貨屋、剣術道場などを開いたが、あまり流行らず困窮し、
新政府への出仕の話や榎本武揚が、、、


「旧交を温めたいので宿舎まで来て欲しい」と面会し
たいと伝えたのに対し、


「会いたいという奴の方から出向くのが筋だろう」
と断ったという。


榎本は知っての通り函館で共に戦った同志だが、、
その後その能力を高く評価され新政府の人材として
活躍するが、、、



島田魁は別の感情を持っていたのだろう。。。


おそらく新政府への出仕という話も一度や二度では
無かったと思う。



「おれがさような途を選んだならば、若くして賊徒の
汚名のもとに死に、地下に眠っている友人たちはどう
するのだ。死すべきところを生きながらえただけでも
相済まぬことなのに、おれが、この島田魁がかつての
敵になど仕えられるか!」



明治19年を境に道場はすっかりさびれ、昼は竹刀をとり、
夜は西本願寺の夜警をして家計を支えた。。。



明治十九年(西暦1886年)にはかつて新撰組の駐屯所が
あった西本願寺の夜間警備員に雇用され、


薄給(月給九円。当時の巡査の初任給であったという)
の中に赤貧を貫いて明治三十三年(西暦1900年)、

持病の喘息が悪化したのを伴って退職
(西本願寺の好意で実際には休職扱いに)。


その一ヶ月後の3月20日、自発的な巡回中に喘息の
発作を起こし、実直な性格を物語るかのように
そのまま倒れその場で逝去する。



”赤貧を貫いて”



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土方への追悼歌

鉾とりて月みるごとにおもふかな 
あすはかばね(屍)の上に照かと


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私のギャラリーの傍に


今から約130年前


こんな男が棲んでいた


先日


なんとなく


島田魁に会いたくて


ほんの少し遠回りをした。。。。

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