January 14,2015
このブログ
思い返せば
2009年の4月から書き始めています。
かれこれ6年。。。
ブログ内容を説明するのに
私は、
シャイな中年ディレクターの飛耳長目の日々
と入力しました。
シャイな中年云々は置いておいて・・・・
この飛耳長目という言葉
実は、
松下村塾の塾生たちが様々な情報を纏めた
【飛耳長目帳】というものから来ています。
私のブログの中で、文言を含め一番登場するの
は吉田松陰を中心としたものであることは
間違いありません。
一言で好きなのです。
少し前のエントリーでも記しましたが
若い頃からこの人物の影響力は大きかった。
今回、、、ギャラリーを創り上げる
その大半を”DIY”で行ったのも

私の実情・現状からであることは間違い
ないのですが、、、それ以上に、、、
松門の影響も少なからずあります。
3畳一間で始まった松下村塾
人気を博し人が大勢来るようになり8畳に
しかし、それ以上に門弟が来てピーク時90名
まで膨れ上がる・・・・
こうなると8畳一間では到底無理・・・・
そこで建て増しとなるが
費用が無い・・・
塾生たちが考えた末だした結論は
自分たちで建てる!
しかし、反対意見も多い
"素人に出来るはずが無い”
しかし松門きっての俊才
久坂玄端の一言で皆が動く
【自分たちが使う家くらい建てられなくて、
どうして自分たちの国を立て直せようか】
この事例と私の現環境が同じだと言って
いる訳ではありません。
しかし、この気概がすきなのです。
ギャラリーがオープンする
スタジオがオープンする
共に新たなものができる
それは喜ばしい事です
しかし
大事なのは
そこで何を産み出すのか
つまり中身です。
その気概です。

先ずその中身を産み出す場所が必要で
ある事は間違いありません。しかし
それは道具です。そこからです。
その起点と成すために
極論ですが、中身の無いものは、、
ただの箱でしかない。

私はオープンを間近に控え
改めて自戒しています。
しかしながら
いよいよオープニング。
一つ前のエントリーにも記しましたが
今年の初めから
徐々に仕上げています。
8人のグループ展、、
スタイリッシュではなく
賑やかな面白い”ワクワク”感で纏めようと
考えています!
ここ数日でやっと
オープニングに展示する作品の全体を
展示空間との関係性で把握できました。
面白いと思います。
基本、8人の現在トップギアの作品を展示
しています。
来ていただいた方には必ず満足満腹に楽しんでもらう!
これが私の考えです。
話はまたまた逸れますが、、、、
今回の展示???というよりも
この環境を選択した当初から
一つのモデルが私の頭の中にはありました。
直島の家プロジェクトです。
---------------
香川県直島町・本村地区において古民家を改装し、
現代の芸術家が家の空間そのものを作品化
(インスタレーション)した7つの建築からなる
プロジェクト。

1997年、直島でも古くから存在する集落のひとつ
である本村地区に現存していた古民家を改修・改造し、
現代美術作品に変えてしまおうという試みで、
ベネッセの福武總一郎の考案した直島プロジェクト
の一環として企画、立案、実行された。
本村地区にはおよそ300年ほど前から栄えていた
古い町並みが残り、焼杉板張りの黒ずんだ古民家
の立ち並ぶたたずまいが独自の風情をかもし出し
ていた。
そこに現代美術のネットワークを展開させたもの
である。
プロジェクトには安藤忠雄をはじめ、宮島達男、
内藤礼、杉本博司、ジェームズ・タレルなどが
参加した。
1986年、福武書店社長であった父の急逝に遭遇した
總一郎は、東京から岡山の本社へ戻ることになる。
大都市から地方都市岡山へ戻った總一郎は、当初こそ、
その環境の大きな落差に戸惑うが、数ヶ月もしないう
ちに東京にいないことの幸せを心底から感じるにいた
る。
總一郎の目には、歴史もなく自然も存在しない東京は
「人間」の欠けた都市と映り始めた。
岡山への帰郷は、その数年後に社名を「ベネッセ」
(「よく生きる」の意味)に変更するほどに、總一郎
に大きな影響をもたらせた。
先代が抱いていた夢のひとつに、瀬戸内海に浮かぶ
小さな島「直島」に子供たちのためのキャンプ場を
作りたい、という構想があった。
遺志を引き継いだ總一郎は、建築家・安藤忠雄に出会う。
東京の建築家には最初から依頼する意思はなかった。
初対面の居酒屋で意気投合した二人は、1989年、
直島国際キャンプ場をオープンさせる。
第2期工事の開始のころには、總一郎の構想はまとま
っていく。
それが「現代美術と自然と歴史」の融合であった。
1992年にはスィートルームを完備したホテルと美術館
を融合させたベネッセハウスのミュージアムが完成する。
これは世界でも例を見ない珍しい試みであったが、過疎
の島に現代美術を置くのも世界初の出来事であった。
アートが主張するのではなく、あくまでも人間が主役で
あり、アートが自然や歴史の持っている良さを引き出す
べきとの總一郎のテーゼは、やがて1997年のこの
「家プロジェクト」に結実する。
長い歴史があるにもかかわらず、歴史の痕跡の薄く、
経済が目的化している日本の文明史観に挑戦したいと
の總一郎の思いから始まった企画である。
直接のきっかけは直島町役場からの一本の電話である。
本島地区の民家の所有者が家屋を譲りたいが、どうかと
いうものであったが、廃屋利用の可能性のひとつとして
現代アートとの融合を考えた。
----------------
家プロジェクト全体のコンセプトも好きなのですが
約5年前にはじめて見た
とりわけ、、私は
角屋

宮島達男 「Sea of Time '98」

この作品には驚かされた・・・
というよりも一つのきっかけを
私に与えてくれた。
この空間性は今も純度高く
私の中にはある・・・・
と、、、話は戻りますが
大層な事も夢想しながら
しかしながら
現在は細々した作業中心に、、、
ここ最近は、ドンキホーテ、ニトリ、ホームセンターに
通い、気づいたものを足していっている。完璧ではない
が、せめて、、最低限、、と思いつつ、、、けど気づい
ていない事が多々あるはずです。。。
思い返せば
2009年の4月から書き始めています。
かれこれ6年。。。
ブログ内容を説明するのに
私は、
シャイな中年ディレクターの飛耳長目の日々
と入力しました。
シャイな中年云々は置いておいて・・・・
この飛耳長目という言葉
実は、
松下村塾の塾生たちが様々な情報を纏めた
【飛耳長目帳】というものから来ています。
私のブログの中で、文言を含め一番登場するの
は吉田松陰を中心としたものであることは
間違いありません。
一言で好きなのです。
少し前のエントリーでも記しましたが
若い頃からこの人物の影響力は大きかった。
今回、、、ギャラリーを創り上げる
その大半を”DIY”で行ったのも

私の実情・現状からであることは間違い
ないのですが、、、それ以上に、、、
松門の影響も少なからずあります。
3畳一間で始まった松下村塾
人気を博し人が大勢来るようになり8畳に
しかし、それ以上に門弟が来てピーク時90名
まで膨れ上がる・・・・
こうなると8畳一間では到底無理・・・・
そこで建て増しとなるが
費用が無い・・・
塾生たちが考えた末だした結論は
自分たちで建てる!
しかし、反対意見も多い
"素人に出来るはずが無い”
しかし松門きっての俊才
久坂玄端の一言で皆が動く
【自分たちが使う家くらい建てられなくて、
どうして自分たちの国を立て直せようか】
この事例と私の現環境が同じだと言って
いる訳ではありません。
しかし、この気概がすきなのです。
ギャラリーがオープンする
スタジオがオープンする
共に新たなものができる
それは喜ばしい事です
しかし
大事なのは
そこで何を産み出すのか
つまり中身です。
その気概です。

先ずその中身を産み出す場所が必要で
ある事は間違いありません。しかし
それは道具です。そこからです。
その起点と成すために
極論ですが、中身の無いものは、、
ただの箱でしかない。

私はオープンを間近に控え
改めて自戒しています。
しかしながら
いよいよオープニング。
一つ前のエントリーにも記しましたが
今年の初めから
徐々に仕上げています。
8人のグループ展、、
スタイリッシュではなく
賑やかな面白い”ワクワク”感で纏めようと
考えています!
ここ数日でやっと
オープニングに展示する作品の全体を
展示空間との関係性で把握できました。
面白いと思います。
基本、8人の現在トップギアの作品を展示
しています。
来ていただいた方には必ず満足満腹に楽しんでもらう!
これが私の考えです。
話はまたまた逸れますが、、、、
今回の展示???というよりも
この環境を選択した当初から
一つのモデルが私の頭の中にはありました。
直島の家プロジェクトです。
---------------
香川県直島町・本村地区において古民家を改装し、
現代の芸術家が家の空間そのものを作品化
(インスタレーション)した7つの建築からなる
プロジェクト。

1997年、直島でも古くから存在する集落のひとつ
である本村地区に現存していた古民家を改修・改造し、
現代美術作品に変えてしまおうという試みで、
ベネッセの福武總一郎の考案した直島プロジェクト
の一環として企画、立案、実行された。
本村地区にはおよそ300年ほど前から栄えていた
古い町並みが残り、焼杉板張りの黒ずんだ古民家
の立ち並ぶたたずまいが独自の風情をかもし出し
ていた。
そこに現代美術のネットワークを展開させたもの
である。
プロジェクトには安藤忠雄をはじめ、宮島達男、
内藤礼、杉本博司、ジェームズ・タレルなどが
参加した。
1986年、福武書店社長であった父の急逝に遭遇した
總一郎は、東京から岡山の本社へ戻ることになる。
大都市から地方都市岡山へ戻った總一郎は、当初こそ、
その環境の大きな落差に戸惑うが、数ヶ月もしないう
ちに東京にいないことの幸せを心底から感じるにいた
る。
總一郎の目には、歴史もなく自然も存在しない東京は
「人間」の欠けた都市と映り始めた。
岡山への帰郷は、その数年後に社名を「ベネッセ」
(「よく生きる」の意味)に変更するほどに、總一郎
に大きな影響をもたらせた。
先代が抱いていた夢のひとつに、瀬戸内海に浮かぶ
小さな島「直島」に子供たちのためのキャンプ場を
作りたい、という構想があった。
遺志を引き継いだ總一郎は、建築家・安藤忠雄に出会う。
東京の建築家には最初から依頼する意思はなかった。
初対面の居酒屋で意気投合した二人は、1989年、
直島国際キャンプ場をオープンさせる。
第2期工事の開始のころには、總一郎の構想はまとま
っていく。
それが「現代美術と自然と歴史」の融合であった。
1992年にはスィートルームを完備したホテルと美術館
を融合させたベネッセハウスのミュージアムが完成する。
これは世界でも例を見ない珍しい試みであったが、過疎
の島に現代美術を置くのも世界初の出来事であった。
アートが主張するのではなく、あくまでも人間が主役で
あり、アートが自然や歴史の持っている良さを引き出す
べきとの總一郎のテーゼは、やがて1997年のこの
「家プロジェクト」に結実する。
長い歴史があるにもかかわらず、歴史の痕跡の薄く、
経済が目的化している日本の文明史観に挑戦したいと
の總一郎の思いから始まった企画である。
直接のきっかけは直島町役場からの一本の電話である。
本島地区の民家の所有者が家屋を譲りたいが、どうかと
いうものであったが、廃屋利用の可能性のひとつとして
現代アートとの融合を考えた。
----------------
家プロジェクト全体のコンセプトも好きなのですが
約5年前にはじめて見た
とりわけ、、私は
角屋

宮島達男 「Sea of Time '98」

この作品には驚かされた・・・
というよりも一つのきっかけを
私に与えてくれた。
この空間性は今も純度高く
私の中にはある・・・・
と、、、話は戻りますが
大層な事も夢想しながら
しかしながら
現在は細々した作業中心に、、、
ここ最近は、ドンキホーテ、ニトリ、ホームセンターに
通い、気づいたものを足していっている。完璧ではない
が、せめて、、最低限、、と思いつつ、、、けど気づい
ていない事が多々あるはずです。。。