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ひかりを求めて
真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由









確かに古今これほどの男はいないと私は思う。
実はこの半年かなりの回数彼の事跡を何度も
読んでいる。



特に嫌なこと、信義に悖るような事があれば・・・・・



真田幸村の”もののふ”としての最大のハイライト
は敗色濃厚となった大阪夏の陣・天王寺の戦いで
あろう。



徳川家康本陣へ寡兵で3度突撃し、屈強で鳴らす
家康旗本勢を蹴散らし、その凄まじさを持って
家康に自害を二度も覚悟させた事にある。



しかし、私が一番魅かれるのは、、


関ヶ原で西軍に与し敗北し本来死罪である所を
九度山に配流になり昌幸・幸村親子が失意の中
過ごした14年の幽閉生活にある。



敗北し天下の趨勢が決まりつつある中、父子共に
耐えに耐え再起にかけた。



幽閉中の逸話がある、実に情けないが、、
人間味溢れる・・・・・



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昌幸は三男に宛ててこんな手紙を書いている--



「借金が重なって大変苦しい。至急20両を届けて
欲しい。無理なら10枚、せめて5枚でも」。



幸村も「焼酎を2壷送って欲しい。そして途中
でこぼれないようシッカリと2重に蓋をして欲しい」
と書くなど、配流生活は実に侘しい日々だった。



「こちらの冬は不自由にて、いっそう寂しく思う。
私のうらぶれた様子を使者が話すだろう。もはや
お目にかかることはない。とにかく歳を取って残念
である。」


「急に歳をとり、病身となって、歯も抜けた。
髭なども黒いところは無い」




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苦境の中再起の瞬間が訪れる。

知人に送った最後の手紙




【様子御使可申候。当年中も静かに御座候者、何とぞ
仕、以面申承度存候。御床敷事山々にて候。さだめ
なき浮世に候へ者、一日さきは不知事候。我々事な
どは、浮世にあるものとおぼしめし候まじく候。
恐々勤言 真左衛門佐信繁】




もう、この世に居ると思わないで欲しい・・・




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1615年(慶長20年)5月7日 正午


大坂夏の陣 天王寺の戦い


真田幸村の乾坤一擲の突撃!




その日はどんな日だったのだろうか?
どんな陽射しが差していたのだろうか?



多分、今日と何も変わらない陽射しが
降りそそいでいたと思う・・・・・




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