November 3,2011
2012 Saari Residence (フィンランド・Koneen Säätiö )
のレジデンスプログラムに選抜された!
期待のカッティングエッジ
COMBINE・瀬戸内GOMBESSA
辻孝文 solo exhibition 【transition period】
11月2日(水)よりスタートいたしました!


baberu 112×145(㎝)
会期:11月2日(水)~11月22日(火)
場所:高松天満屋5階アートギャラリー
直通電話:087(812)7549 担当 青野
※最終日は午後4時閉場



【ステートメント】
僕は、大きなテーマとして『営み』があり、
そこから見えて来る出来事を作品として形
にしている。3.11以降僕は、連日流れてく
る悲惨な情報を前に以前の様に絵を描く事
が出来なくなった。
自然の猛威、自分達が作り上げた手に負え
ない産物によって僕達は今自分達の生活
(営み)を考え直さないといけない所に立
っているのではないか?
そんな思いが込み上げて来ると同時にもっと
社会にコミットした作品を描かなくてはなら
ないと言う気持ちが溢れ出て来る。
半分が崩れ落ち半分は、生きている。どちら
に転ぶか分からないその真ん中に僕らはいる
んじゃないか?
そんな転換期と呼べる場所に。(辻孝文)
---------------------
私はこの1,2年かなりの数の20代の若者と
接触して来ました。そのほとんどが芸術家を志す
若者なのですが、辻君とあった時の印象は他の若者
とは比較にならないほどの新鮮さを感じたのでした。
ほとんどの若者がある意味知識豊かに語る、、、、
しかし、その大半がバーチャルなしかも受け売りに
すぎない、キツイ言いかをすれば寡聞浅学に過ぎない
後味の悪い印象を残す中、、、、、、
彼は自らの足りない部分をあからさまに私の前に
ドンと提示してきたのでした!
「上山さん!コンセプトってなんですか?」
「コンセプトってどういう意味なんですか?
それはなんなんですか?」
「東京でもそういうことを言われたんですよ!」
大半の若者に
「君のコンセプトは?」と聞くと
滔々と、、、、、、、
幼稚な聞くに堪えないものを自慢げに語る・・・・
それから比べると、、この明け透けな態度には
正直、好感が持てた。
人との出会いなどはこいうもののような気がした。
その飾らない”素の”第一印象、これがどれほどの
ものか?という事に尽きると思う。
彼とは出逢ってから数カ月
たまに行く高松で語り合った。
一度呑みに行ったこともある。
素直ないい子だ。
26歳。
私がこの年齢のときには結婚し最初の子供がいた。
今から19年前。
1992年。
バブル崩壊という結論が顕著に出始めた頃でもある。
この前後の社会の空気は
バブル景気とペレストロイカの真っ只中にあった
1989年には、ベルリンの壁崩壊に代表される東欧
民主化革命が起こり、44年間続いてきた冷戦が終
結した。
そう私が彼の年齢に至るまでの社会・世界は東西対極
の冷戦時代であり、イデオロギーの闘いでもあった。
今では滑稽?かもしれないが
「鉄のカーテン」と呼ばれるモノが存在し
仮想敵としての東の世界はまったく分からなかった。。
かくいう私も大学では比較経済体制論などという
ものを専攻したのだが、、これなども簡単に言えば
資本主義は社会主義よりも優位にありそのベースを
もった国家は優れているというような事を論理的に
研究する・・・・という今からでは噴飯ものであり
もう今の現実的感覚で言えば当時の感覚の社会共産
主義などは雲散霧消と化した・・・・
国家体制は共産主義を標榜し実利の経済は資本主義
という今の中国などはとても当時想像できなかった。
テロとの戦いへの突入も想像だにしなかった。
具体的な仮想的が必ず存在し、それに対抗する
というのが原則であり、見えない敵に対して
武器を使うなどという狂気に近い感情は知らぬ間に
人間を追い越した?かのような怒涛の感覚である。
私が大学で専攻したものはなんだったのか?
と未だに良く分からないのであるが、、
しかし、まったく無意味に見えるもの
でも、歴史の一つの現実的過程に接した
という実感は多少なりとも感じているの
と同時に、間違いなく当時はそういった
ある意味単純な構造のもと厭世的な雰囲
気からの脱出への闘争があったような
気がする。
彼、辻君と喋っていて
そうかぁ~と感心させられる部分がある。
私たちは良いか悪いかは別にして
分かりやすい対立構造が常に社会の中にあった。
しかし、今の若者は?と考えれば、、、、、
そういう単純な社会構造ではない、、、し
なによりも問題は、、、、、
これまでの経緯や文脈を若者の大半はまったく知らない。
これは驚くほどである。大半の若者において
近現代史の知識はない。。。。。
ましてや思想的背景などは皆無である。
必要としない、、、今の社会は何を積み重ねて
今なのか?という限りなく素朴なものへの興味が
まったくない・・・・
あるのはwebに代表される
人類共有の情報倉庫、電脳世界。
ここにいつでも同期すれば自らの感情をベースに
したものなどとても追いつかないほどの情報とあ
りとあらゆる解釈を引っ張りだせる。
なにも個人の思想を頼りに社会を見る
必要がないのだろう。ましてや仲間のなかで
擦れ、傷つく、諍い
そんな事で自分を形づける必要を感じない
し求めないだろう・・・
しかし、2011.3.11
全ては変革しはじめた。
否、覚醒せざるお得なくなる・・・
安穏たる拝金主義をベースに繁栄してきた
国家の国家たる根本の喪失箇所の現実的露見。
その国家の現実的苦境、、、、
国家観。
人間観。
それらを肌で感じた時、一人一人はどう考え
選択していくのか?
なぜ?
と
どうするのか?
これは今までの
あんな風なこんな風な、、、、
という感覚では決して解決できない
欺瞞は許されない、、、、
先延ばししてきたことへ
必ず決定を求められる。
そういう、、、、
追いつめらる形となった。
彼、辻君が今回の展覧につけたテーマは
【transition period】、転換期。
そのステートメントとして彼は
”半分が崩れ落ち半分は、生きている。どちら
に転ぶか分からないその真ん中に僕らはいる
んじゃないか?”、、、、、、、、、と語る。
そこには、、、
形・状況は違えど
我々が感じてきた二項対立に近い
何か?
社会に横たわる不条理を、、、
これまでのような虚脱感で
眺めるのではなく、しっかりと
見据えようとしているのか?
彼ら若者は新しい形で感じ始める、
そういう胎動・・・・・
具体的ななにかを求めているのか?
とある種の期待と興味を持って
私は、彼、辻君の絵を眺めている。。。
のレジデンスプログラムに選抜された!
期待のカッティングエッジ
COMBINE・瀬戸内GOMBESSA
辻孝文 solo exhibition 【transition period】
11月2日(水)よりスタートいたしました!


baberu 112×145(㎝)
会期:11月2日(水)~11月22日(火)
場所:高松天満屋5階アートギャラリー
直通電話:087(812)7549 担当 青野
※最終日は午後4時閉場



【ステートメント】
僕は、大きなテーマとして『営み』があり、
そこから見えて来る出来事を作品として形
にしている。3.11以降僕は、連日流れてく
る悲惨な情報を前に以前の様に絵を描く事
が出来なくなった。
自然の猛威、自分達が作り上げた手に負え
ない産物によって僕達は今自分達の生活
(営み)を考え直さないといけない所に立
っているのではないか?
そんな思いが込み上げて来ると同時にもっと
社会にコミットした作品を描かなくてはなら
ないと言う気持ちが溢れ出て来る。
半分が崩れ落ち半分は、生きている。どちら
に転ぶか分からないその真ん中に僕らはいる
んじゃないか?
そんな転換期と呼べる場所に。(辻孝文)
---------------------
私はこの1,2年かなりの数の20代の若者と
接触して来ました。そのほとんどが芸術家を志す
若者なのですが、辻君とあった時の印象は他の若者
とは比較にならないほどの新鮮さを感じたのでした。
ほとんどの若者がある意味知識豊かに語る、、、、
しかし、その大半がバーチャルなしかも受け売りに
すぎない、キツイ言いかをすれば寡聞浅学に過ぎない
後味の悪い印象を残す中、、、、、、
彼は自らの足りない部分をあからさまに私の前に
ドンと提示してきたのでした!
「上山さん!コンセプトってなんですか?」
「コンセプトってどういう意味なんですか?
それはなんなんですか?」
「東京でもそういうことを言われたんですよ!」
大半の若者に
「君のコンセプトは?」と聞くと
滔々と、、、、、、、
幼稚な聞くに堪えないものを自慢げに語る・・・・
それから比べると、、この明け透けな態度には
正直、好感が持てた。
人との出会いなどはこいうもののような気がした。
その飾らない”素の”第一印象、これがどれほどの
ものか?という事に尽きると思う。
彼とは出逢ってから数カ月
たまに行く高松で語り合った。
一度呑みに行ったこともある。
素直ないい子だ。
26歳。
私がこの年齢のときには結婚し最初の子供がいた。
今から19年前。
1992年。
バブル崩壊という結論が顕著に出始めた頃でもある。
この前後の社会の空気は
バブル景気とペレストロイカの真っ只中にあった
1989年には、ベルリンの壁崩壊に代表される東欧
民主化革命が起こり、44年間続いてきた冷戦が終
結した。
そう私が彼の年齢に至るまでの社会・世界は東西対極
の冷戦時代であり、イデオロギーの闘いでもあった。
今では滑稽?かもしれないが
「鉄のカーテン」と呼ばれるモノが存在し
仮想敵としての東の世界はまったく分からなかった。。
かくいう私も大学では比較経済体制論などという
ものを専攻したのだが、、これなども簡単に言えば
資本主義は社会主義よりも優位にありそのベースを
もった国家は優れているというような事を論理的に
研究する・・・・という今からでは噴飯ものであり
もう今の現実的感覚で言えば当時の感覚の社会共産
主義などは雲散霧消と化した・・・・
国家体制は共産主義を標榜し実利の経済は資本主義
という今の中国などはとても当時想像できなかった。
テロとの戦いへの突入も想像だにしなかった。
具体的な仮想的が必ず存在し、それに対抗する
というのが原則であり、見えない敵に対して
武器を使うなどという狂気に近い感情は知らぬ間に
人間を追い越した?かのような怒涛の感覚である。
私が大学で専攻したものはなんだったのか?
と未だに良く分からないのであるが、、
しかし、まったく無意味に見えるもの
でも、歴史の一つの現実的過程に接した
という実感は多少なりとも感じているの
と同時に、間違いなく当時はそういった
ある意味単純な構造のもと厭世的な雰囲
気からの脱出への闘争があったような
気がする。
彼、辻君と喋っていて
そうかぁ~と感心させられる部分がある。
私たちは良いか悪いかは別にして
分かりやすい対立構造が常に社会の中にあった。
しかし、今の若者は?と考えれば、、、、、
そういう単純な社会構造ではない、、、し
なによりも問題は、、、、、
これまでの経緯や文脈を若者の大半はまったく知らない。
これは驚くほどである。大半の若者において
近現代史の知識はない。。。。。
ましてや思想的背景などは皆無である。
必要としない、、、今の社会は何を積み重ねて
今なのか?という限りなく素朴なものへの興味が
まったくない・・・・
あるのはwebに代表される
人類共有の情報倉庫、電脳世界。
ここにいつでも同期すれば自らの感情をベースに
したものなどとても追いつかないほどの情報とあ
りとあらゆる解釈を引っ張りだせる。
なにも個人の思想を頼りに社会を見る
必要がないのだろう。ましてや仲間のなかで
擦れ、傷つく、諍い
そんな事で自分を形づける必要を感じない
し求めないだろう・・・
しかし、2011.3.11
全ては変革しはじめた。
否、覚醒せざるお得なくなる・・・
安穏たる拝金主義をベースに繁栄してきた
国家の国家たる根本の喪失箇所の現実的露見。
その国家の現実的苦境、、、、
国家観。
人間観。
それらを肌で感じた時、一人一人はどう考え
選択していくのか?
なぜ?
と
どうするのか?
これは今までの
あんな風なこんな風な、、、、
という感覚では決して解決できない
欺瞞は許されない、、、、
先延ばししてきたことへ
必ず決定を求められる。
そういう、、、、
追いつめらる形となった。
彼、辻君が今回の展覧につけたテーマは
【transition period】、転換期。
そのステートメントとして彼は
”半分が崩れ落ち半分は、生きている。どちら
に転ぶか分からないその真ん中に僕らはいる
んじゃないか?”、、、、、、、、、と語る。
そこには、、、
形・状況は違えど
我々が感じてきた二項対立に近い
何か?
社会に横たわる不条理を、、、
これまでのような虚脱感で
眺めるのではなく、しっかりと
見据えようとしているのか?
彼ら若者は新しい形で感じ始める、
そういう胎動・・・・・
具体的ななにかを求めているのか?
とある種の期待と興味を持って
私は、彼、辻君の絵を眺めている。。。
